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Date: 6月 2nd, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その11)

こういうふうに鳴ってくれるのであれば、アルテックで聴く日本語の歌はいい──、
そう思いながらも、欲深いのか、これがヴァイタヴォックスならば……、と思ってしまう。

日本語の歌といっても、
私の場合、グラシェラ・スサーナによる日本語の歌といいかえてもいいくらいに、
他の歌手による日本語の歌のディスクはそれほど持っていない。
しかも男性歌手よりも女性歌手の方が多く、
いうまでもなくグラシェラ・スサーナも女性である。

だから、ヴァイタヴォックスならば……、と思ってしまうわけだ。
久しく聴いていない、英国のアルテック的スピーカーともいえるヴァイタヴォックスのことをおもう。

ヴァイタヴォックスならば、もっとしんみりと鳴ってくれるのではないか、
ヴァイタヴォックスならば、もっと気品ある声で鳴ってくれそうである、とか、
ヴァイタヴォックスならば……、そんなことをつい思ってしまう。

ヴァイタヴォックスの音は、何度か聴く機会があった。
いいスピーカーである。
でも、一度も日本語の歌をヴァイタヴォックスで聴きたいと思ったことはなかった。
それは、どこかアルテックで聴きたいと思わなかったことと近いのかもしれない。

それが、いま無性にヴァイタヴォックスでグラシェラ・スサーナの歌を聴いてみたい、と思っている。
アルテックで聴いたからである。

Date: 6月 2nd, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その10)

もうひとつ思い出していたことがある。
美空ひばりとアルテックについて、である。

ナロウレンジ考(その16)」と(その15)に書いていることである。

瀬川先生が、銀座の日本楽器でアルテックのA4から突如として鳴ってきた美空ひばりの歌、
その音について書かれているのが(その16)、
美空ひばり自身が、アルテックのA7から鳴ってきた自身の歌をきいて、
「このスピーカーから私の声がしている」がいったというエピソード。

美空ひばりを演歌歌手という人もいるのには少々驚くが、
歌謡曲といってしまうのも少々抵抗感があるし、
そういうことに拘らずに、日本語の歌をうたってきた歌手という認識でいいとおもう。

美空ひばりの日本語の歌は、多くのJ-POPでうたわれる日本語の歌とは違う。
昔からの日本語の歌をきかせてくれる。

その美空ひばりをアルテックが、うまく鳴らすという事実。
ずっと以前から、その事実はある。

たった二例をもってして、事実と言い切るのか、と問われれば、
そうだ、と答えたくなるほど、
アルテックで聴くグラシェラ・スサーナの日本語の歌はよかった。

この時のシステムのセッティングにかけた時間は30分ほどであるから、
まだまだこまかな不備は感じられたけれど、大事なところはきちんと鳴っていた。
おそらく日本のスピーカーで聴くよりも、
ずっと日本人の気持を歌にのせて聴き手に伝えてくれる音であった。

このことをオーディオ的にとらえれば、
ヤマハNS5000の試作機が日本語の歌をまったく鳴らせられなかったことの裏返しでもあろう。

Date: 6月 1st, 2017
Cate: ロマン

THE DIALOGUEと38W(対話における信号伝達)

誰かになにかを伝えたい時、ずっと以前は電話をするか、
直接会って話すかくらいだった。

現在は大きく変化してきている。
ちょっとしたことを伝えたいだけなら、電話でなく、メールをするようになった。
スマートフォンとSNSが一般的になってくると、
メールではなくSNSのメッセージ機能を利用することが増えてきた。

メールにしてもSNSのメッセージ、どちらも文字によって情報を相手に伝える。
手書きの文字ではなく、活字といっていい文字による伝達であり、
ここにおいては、信号伝達である。

信号伝達であり、送信側にも受信側には同じ情報が残る。
スマートフォンがあれば、いつでもどこでもその情報を確認できる意味でも、
信号伝達である。

電話、直接会っての対話は、信号伝達でもあるが、
それ以上にエネルギー伝達といえるのではないか。

声という、その人固有のエネルギーによってやりとりをする。
録音でもしないかぎり、そこでのやりとりはどちらにも残らない。
その意味でも、信号伝達ではなくエネルギー伝達である。

Date: 6月 1st, 2017
Cate: ロマン

THE DIALOGUEと38W(感覚論としてのエネルギー伝送と信号伝送)

これまでに何度か書いているように、
個人的な感覚論にしかすぎないことなのだが、
私にとってアナログディスクはエネルギー伝送、CDは信号伝送、というイメージへとつながっている。

「THE DIALOGUE」はLPで聴いてきた。
もちろん33 1/3回転盤である。
「THE DIALOGUE」は、オーディオラボのLPでもそうとうに売れたのだろう。
しばらくしてUHQR盤による78回転盤も登場した。

手離してしまって、もう手元にはないが、
片面に一曲ずつカッティングされていた、と記憶している。

「THE DIALOGUE」の78回転盤を聴けば、
アナログディスクはエネルギー伝送メディアだと実感する。
ここまでいかなくとも、45回転盤でも同じように感じる。

信号伝送という点からだけみれば、大口径ウーファーよりも小口径ウーファーとなろう。
小口径ウーファーよりもヘッドフォン、さらにはイヤフォンへといこう。

けれどエネルギー伝送メディアと、
感覚的にとらえられるアナログディスクからオーディオに入ってきた者にとって、
信号伝送よりもエネルギー伝送系としてのシステムの構築は,皮膚感覚として排除できない。

私はLPからだったが、SPの時代からオーディオにのめりこんできた人にとっては、
私以上にアナログディスクをエネルギー伝送メディアととらえていても不思議ではない。

もちろん最初に書いているように、あくまでも感覚論である。
アナログディスクを信号伝送メディアととらえても、間違いではない。

それでもオーディオショウなどで、ハイレゾリューション再生を聴いていると、
デジタルにおいて、ハイサンプリング、ハイビットとなることで記録できる情報量は増えるし、
その精度も向上しても、エネルギー量(感覚的には、ではある)が増しているようには、
いまのところ感じることはできていない。

実のところ、自分のシステムでハイレゾリューション再生には取り組んでいないので、
あくまでもオーディオショウやオーディオ店で聴いたかぎりの感想にすぎない。

このへんは自分でやることによって印象は変化してくるであろうが、
それでもエネルギー伝送メディアとしてのアナログディスクの優位性のようなものは、
おそらく私のなかでは変らないかもしれない。

そんな私にとって38Wは、エネルギー伝送系の最後を担うわけだ。
78回転の「THE DIALOGUE」を聴いている私には、
このふたつを切り離して考えられないところがある。

Date: 5月 31st, 2017
Cate: ロマン

THE DIALOGUEと38W(体感する)

38Wとは,38cm口径のダブルウーファーのことである。
スイングジャーナルが使いはじめたように記憶している。

別項「ダブルウーファーはロマンといえるのか」でも、38Wについて書いている。
30cm口径ならば30W、25cm口径ならば25W、20cmならば20W……となるわけだが、
38Wは、他とははっきりと違う何かがあると感じてしまうのは、
そういう世代のオーディオマニアなんだよ、つまりは古いんだよ……、
そんなことをいってしまう人たちがいるのは知っているけれど、
ほんとうにそんなことなのだろうか。

以前、別項「サイズ考(その29)」に、
「本気で取り組むのなら、38cm口径ウーファーを片チャンネル当り2本、
30cm口径だったら4本ぐらい、用意するくらいじゃないと、ね」
という井上先生の言葉を書いた。
ステレオサウンドにも同じことを書かれていた。

このくらいになると、低音再生は別次元の音を聴かせるし、
次元の違う世界を展開してくれる、といわれた。
音の躍動感、音の表情の豊かさにおいて、38W(もしくは30cm四発)は、
独自の魅力(オーディオならではの不思議な魅力といってもいいだろう)を持っている、と。

大口径ウーファーを忌諱する人は、いまでは少なくないようである。
大口径ウーファーの魅力を、それもダブルウーファーの魅力を語るのは、
遅れた人たちのように蔑む人たちがいて、
自分たちこそ、オーディオの本質を理解していていて、最先端にいるんだ、と。

おそらく、うまく鳴った38Wの音を聴いていない人たちなのだろう。
聴いていない、ともいえるし、体感していない、ともいえる。

「THE DIALOGUE」こそ38Wで聴きたい一枚である。
いまはまだ無理だが、audio wednesdayで一度38Wを鳴らしてみたい。
もちろん「THE DIALOGUE」を。

Date: 5月 31st, 2017
Cate: audio wednesday

第77回audio wednesdayのお知らせ(THE DIALOGUE)

別項「THE DIALOGUE」で書いているように、
菅野録音の、このディスクのドラムスの音は、
JBLのスタジオモニター、4343、4350Aとともにあった。

菅野先生はオーディオラボでのモニターにはアルテックの605Bを使われていた。
そのことと理由はステレオサウンド 46号にも書かれている。

だからといってアルテックの605Bで聴くのが、
「THE DIALOGUE」の本当の音ということでないのは、
46号の「レコーディング・ミキサー側からみたモニタースピーカー」を読めばわかることだ。

どのスピーカーで聴くのが……、ということはいえないわけだが、
それでも私にとって「THE DIALOGUE」のドラムスの音の、
ひとつのリファレンスとして4343、4350Aの音がはっきりと残っている。

喫茶茶会記のスピーカーはアルテックである。
ウーファーは416-8C。
4343、4350A搭載の2231Aとは性格の違うウーファーである。

エンクロージュアも4343とは違う。
中高域のユニットも違う。

この喫茶茶会記のスピーカーが、「THE DIALOGUE」をどう鳴らすのか。
ある程度の予想はつくけれど、
その予想の範囲内で鳴らしていてはつまらない。

どんな音で鳴らすのかは、事前に決めているわけではない。
鳴ってきた音に反応して、どう鳴らすかを決めていくつもりだ。

6月7日のaudio wednesdayは、「THE DIALOGUE」だけに的をしぼって音出しである。。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 30th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その19)

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その1)」で、
「3月のライオン」からのセリフを引用した。

3月のライオン」の単行本、第九巻の166から169ページまでの四ページ。
そこに出てくるセリフだ。
     *
「これでどーだ!!」──ってくらい研究したのに
きわっきわまで行ったら
そこにまた見たコトのないドアがいっぱい出て来ちゃったんだ
     *
「見たコトのないドア」もまた門である。
「見たコトのないドア」が目の前にあらわれて、そのドアを開けて中に入る。
入門である。

オーディオの世界は広い・深い。
同じ浅さのところにもいくつものドアがある。
ドアをいくつも開けて、深く深く入っていく。
そこにも「見たコトのないドア」がある。

深く入っていくことでしか入門できないことがある。
つねに入門なのだと思うようになってきた。

Date: 5月 30th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その18)

いまははっきりと違うと言い切れるが、
ある時期のステレオサウンドは、オーディオの入門書ともいえた。

もちろん、ここでいうオーディオの入門書とは褒め言葉である。
それぞれの書き手の知性によって、広い・深いオーディオの世界を覗きこむことができたからだ。

五味康祐がいた。
それだけではない、岩崎千明、岡俊雄、瀬川冬樹、菅野沖彦、井上卓也、
長島達夫、山中敬三、上杉佳郎といった人たちの知性を介して、
オーディオの世界を覗きみていた。

ずっと前から、ステレオサウンドは、そういう意味でのオーディオの入門書ではなくなってしまった。
これから先もそうであろう。

Date: 5月 29th, 2017
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その3)

その2)に書いたスピーカーの自作マニアの人について考える。
(その1)で書いたJBLのハーツフィールドの外観だけをコピーし、
中身は別モノをつくろうと考えていた知人と比較しながら考えてみる。

往年の名器と呼ばれるハーツフィールドやパラゴンをコピーし自作する人が昔はいた。
いまもインターネットで検索してみると、同じことをやっている人がいる。
昔はそういう人がオーディオ雑誌に取り上げられていた。
いまはそうではないから気がつかないだけなのかもしれない。

昔のオーディオ雑誌に登場していた自作マニアの人たちは、
パラゴンやハーツフィールドが欲しくて──、ということだけが自作の理由なのだろうか。
1970年代にはハーツフィールドはすでに製造中止になっていたが、
パラゴンは現役のスピーカーシステムだった。

1975年ごろ、パラゴンは1,690,000円だった。
パラゴンに搭載されていたユニット、
ウーファーのLE15Aは、67,200円(一本、以下ユニットの価格はすべて一本)。
ドライバーの375は125,900、ホーンH5038Pは当時単体ではカタログに載っていない。
トゥイーターの075は38,600円、ネットワークのLX5とN7000が、41,500円と16,500円。
ユニットの合計はホーンを抜きにして289,700円、これの二倍は579,400円になる。

ホーンを含めばユニットの合計は60万円をこえるとなると、
パラゴンのシステムとの差額は約100万円。

この100万円をできるだけ安く仕上げたいがための自作とは思えない。

パラゴンを自作するためには、まず図面の入手が必要である。
同じ図面を手に入れても、自作する人によって板取は違ってくる。
つまり材料の入手、板取、加工、仕上げなどをひとりで黙々とこなしていくことになる。

数時間程度で完成するものではない。
仕事が終り帰宅してから、もしくは休日に集中して作業しても、
完成までにはかなりの期間を要する。

アンプの自作とは違い、スピーカーの自作には、
特にパラゴンのような大型のシステムであれば作業スペースの確保もたいへんだ。

パラゴンの自作にともなうもろもろのことを金銭に換算したら、
100万円と同じくらいか、ときとしてそれをこえてしまうのではないだろうか。

思うに、あの時代、パラゴンやハーツフィールドを自作していた人たちは、
安く仕上げたい、手に入れたい、ということよりも、
むしろ挑戦という気持が強かったのではないか。

つまりパラゴン、ハーツフィールドに挑発されての挑戦である。

Date: 5月 28th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その9)

アルテックがまだ健在だった時代、
JBLのライバルでもあった時代、
いいかげんに鳴らした場合、JBLはじゃじゃ馬的になることが多々あったのに比べ、
そんな鳴らし方でもアルテックのスピーカーは、聴き手を困惑させるような音を出すことはなかった。

でも、そういう性格のためか、
たまたま私の周りがそうだっただけなのか、
アルテックを真剣に鳴らしている人(ところ)の音には縁がなかった。

不思議と縁はなかった。
けれど喫茶茶会記で音を出すようになってからは、
アルテック(トゥイーターはグッドマンのドーム型の3ウェイ)を、
毎月第一水曜日に鳴らしている。

そうしていれば、アルテックに対する、こちらの意識も少しずつ変化してきたようだ。
5月のaudio wednesdayへ行く前に、タワーレコードに寄った。
最近あまり寄らなくなったフロアー(J-POP、歌謡曲)を見ていた。

グラシェラ・スサーナの新譜が出ているわけではないが、ふと見たら、
ベスト盤が期間限定で通常の約半額で並んでいた。

LP時代のアルバムをそのままCDにしてほしいと思っていても、
発売されるのはベスト盤がほとんどで、そうなると収録曲の大半はダブってくる。

半額になっていたベスト盤は、そんな理由でもっていなかった。
ほんの数曲、初CD化なのだけれど手を出しはしなかった。
でも半額なら……、と買ってしまった。

audio wednesdayでも鳴らすつもりはなかった。
でも、なんとなく、その日はグラシェラ・スサーナがうまく鳴ってくれそうな気がした。
これまでにも日本語の歌の女性ヴォーカルは鳴らしてきている。

松田聖子、荒井由実、竹内まりや、宇多田ヒカルなどは鳴らしていた。
そこでの鳴り方を聴いても、グラシェラ・スサーナを鳴らしたい、
つまりは聴きたいとは思わなかったのに、この日は違った。

違っていたのは聴き手のこちら側の気持ちだけではなく、
アルテックの鳴り方違っていたようだ。

軽い気持だった、うまく鳴らなかったら、途中で鳴らすのをやめようくらいでいたにも関わらず、
鳴ってきた音は、グラシェラ・スサーナの声(「色」)だった。
違和感はまったくなかっただけでなく、
こんなに雰囲気よく日本語の歌を鳴らしてくれるのか、という驚きもあった。

不思議な気持ちになった。
瀬川先生がステレオサウンド 56号に書かれていることを頭のなかで反芻していた。

Date: 5月 27th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その8)

ヤマハNS5000の試作機が、日本語の歌をてんでうまく鳴らせなかった原因については、
私なりの仮説がある。
その分野に関して、まだまだ知識がたりないので断言はできないが、
最終的には日本語の「色」に関係してくることでもある。

つまりは日本語の「色」について考えた上での仮説である。
少なくとも私にとって試作機のNS5000は、
日本語の歌を聴きたいとは思わせない「色」のスピーカーだったし、
正式モデルになってからのNS5000は、特に聴きたいとは思えなくなってしまったスピーカーだ。

美しい日本語の歌を、日本のスピーカーはうまく鳴らしてくれないのか、と思う。
ダイヤトーンの2S350はうまく鳴らしてくれそうだが、
その後に登場した数多くのスピーカーのどれだけが日本語の歌を、
私が聴きたい音(「色」)で鳴らしてくれるであろうか。

私が聴きたいのはJ-POPと呼ばれる日本語の歌ではない。
歌謡曲といわれる日本語の歌を聴きたい。

もっといえば、もっと狭めていえば、
グラシェラ・スサーナによる日本語の歌を聴きたい。

ステレオサウンドにいたころ、数多くの日本製のスピーカーを聴いてきた。
一度として、グラシェラ・スサーナを、このスピーカーで! と思ったことはなかった。

そのころは、そのことに関して疑問も抱かなかったし、
深く考えることもしていなかった。

アルテックのスピーカーは、別の意味で日本語の歌を積極的に聴きたいとは思っていなかった。
604ならば、瀬川先生がエリカ・ケートについて書かれているのを読んでいるだけに、
いつの日か……とは思っているけれど、
A5、A7といった劇場用のスピーカーは、
しんみりと独りで聴きたいという雰囲気から遠く離れているふうに感じていたからだ。

それにいくつか聴いてきた、A7、A5と同じユニットによる自作スピーカーの音が、
いっそうそう思わせていたからだ。

Date: 5月 26th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その4)

心にかなった遊びのことを、勝遊ということを、
漢詩にうとい私はさきごろ知った。

名前に勝の字がつく私は、
オーディオはまさしく勝遊だと思ったし、
オーディオはまさしく男の趣味であることを、この勝遊があらわしているともおもった。

Date: 5月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か、を書き進める前に)

このテーマで、製品か商品かを書き進める前に書いておきたいことがある。

ここでは商品批評、製品批評とは書いているが、
商品評論、製品評論とは書いていない。

例えば試聴記。
ステレオサウンドでやる総テストにおける試聴記は、批評である。
商品批評なのか製品批評なのかを、ここでは書いていこうとしている。

オーディオ評論家による試聴記は、評論ではないのか。
私がオーディオ評論家と認めている人の書いている試聴記であっても、
それは批評である、と考えている。
だから商品批評なのか製品批評なのか、と考えている、ともいえる。

場合によっては、評論に近づいている試聴記もある。
評論と呼んでもよさそうな試聴記もある。
それでも、やはり批評だと感じている。

以前のステレオサウンドでは、総テストの特集の巻頭には、
それぞれの評論家による「テストを終えて」という試聴(テスト)後記があった。

このテスト後記は、評論でなければならない。
私が熱心に読んでいたころのステレオサウンドのテスト後記は、評論といえた。
いまはそうとはいえない。

試聴記という批評も、オーディオ評論家にとっては評論活動のひとつであっても、
それでも批評と評論がごっちゃにされることはなかった、と感じている。

もうひとつ例を挙げれば、ベストバイ・コンポーネントにおける各評論家のコメント。
決して長くはない、というよりも短い文章ではある。
私がいちばん面白かったと感じた43号のベストバイでも、試聴記よりも短い文章である。

だが、ベストバイの、それぞれのオーディオ機器についての文章は、
はっきりと評論でなければならない。
商品批評もしくは製品批評ではあってはならない。

それゆえにベストバイの文章は、書き手にとってひじょうに負担の大きいものである。
もともそういえるのは、ベストバイの文章が評論であると認識しているうえで、
そう書くようにつとめている人に限って、ではあるが。

瀬川先生はベストバイの原稿書きはしんどい、といわれていたそうだ。
そのはずだ。
評論でなければならないからだ。

Date: 5月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(余談・Matrix 800シリーズ)

もうながいつきあいのKさん。
彼もオーディオマニアで、録音関係の仕事もしている。
何年前だったか、B&Wのスピーカーのことが話題になった。

この項で書いていることに近いことを話していた。
Kさんがいうには「Matrixシリーズはいい」ということだった。

仕事(レコーディングのモニター)にも使えるだけでなく、
家庭用スピーカーとしても魅力的である、と。
その後も、ことあるごとにKさんはMatrixシリーズだけは違う、と力説する。

確かにレコーディングスタジオに、いまもまだMatrixシリーズが使われているところはある。
予算がないから最新モデルに買い替えられていのではなく、
あえてMatrixシリーズを使い続けているようである。

いま書店に無線と実験 6月号が並んでいる。
実はひさしぶりに無線と実験を買った。

6月号には「ソニー・ミュージックスタジオ アナログカッティングルーム完成」の記事がある。
3月にオーディオ関係のサイトでニュースになっていたから多くの方が知っているように、
ソニー・ミュージックがアナログディスクのカッティングシステムを導入している。

3月の時点では、ノイマンのカッティングシステムということはわかっても、
それらはどうやって調達したのかまではわからなかった。

ソニー・ミュージックが旧CBSソニー時代のカッティングシステムを、
どこかにしまっていたとは思えない。

無線と実験の記事には、そのあたりのことも載っている。
記事は2ページ。
10点の写真があって、その一枚にマスタリングシステムが写っている。
ここもモニタースピーカーは、B&WのMatrix 801S2である。

Date: 5月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その4)

スピーカーは、鳴らす人によって、時として別モノのように鳴る。
ずっとずっと昔からいわれ続けている。

このことを否定するオーディオ評論家はいない(はずだ)。
どのオーディオ評論家は、表現は違っても、同じ趣旨のことをいったり書いたりしている(はずだ)。

B&Wの800シリーズを高く評価しながらも、
決して自宅で鳴らそうとしないオーディオ評論家であっても、そのはずである。

B&Wの800シリーズを仕事(おもにステレオサウンドの試聴室)で聴いている。
ならばこそ、と私などは思う。
ほんとうにB&Wの800シリーズを優れたスピーカーだと高く評価して、
ステレオサウンドの誌面を通じて読者にもすすめているのであれば、
編集部が鳴らす試聴室の音よりも、
別モノのように800シリーズを自分のリスニングルームで鳴らせるはずである。

スピーカーシステムは同じでも部屋がまず違う。
アンプもCDプレーヤーなどのオーディオ機器が違う。
そしていちばんのファクターとしての鳴らし手の違いがある。

B&Wの800シリーズが優れたスピーカーであるならば、
ステレオサウンド試聴室での、いわば仕事モードでの音、
それから自分のリスニングルームでの、自分ひとりのための音、
そういう音も鳴らせるはずではないのか。

なのに「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」が、
現状であるのは、どうしてなのか。

(その2)を書いてから、理由をいくつか考えてみた。
最初に考えたのは、B&Wの800シリーズはウィントン・マルサリス的スピーカーなのか、だった。

私はウィントン・マルサリスの演奏についてあれこれいえるほど、
ウィントン・マルサリスのレコードを聴いているわけではない。
ただウィントン・マルサリスの名前を、
ジャズにあまり関心のなかった私でも耳にするようになったころ、
同じくらい耳にしていたのは、
「ウィントン・マルサリス、うまいけど、つまらないよね」的なことだった。