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Date: 6月 21st, 2018
Cate: 冗長性

redundancy in digital(その2)

火曜日、Aさんと吉祥寺で飲んでいた。
一軒目を出た後に、五日市街道沿いのハードオフに二人で行った。

中古オーディオを見ながらのオーディオ談義。
「D/Aコンバーターだけは新しいモノが常に優れている」という趣旨のことを、
Aさんが言われた。

基本的には私も同意見なのだが、
ここ二年ほど、やたらワディアの初期のD/Aコンバーターが気になって仕方がない。
Wadia 2000やX64.4のことが気になる。

基本性能の比較だけでは、数万円のD/Aコンバーターに劣る。
たとえばCHORDのMojo。
いま六万円前後で購入できる、この掌サイズのD/Aコンバーターの性能は、
Wadia 2000、X64.4が登場したころには想像もつかないレベルだ。

19年前のPowerBoook G3よりも、iPhoneは比較にならないほど性能は向上している。
しかも掌サイズまで凝縮されている。

D/Aコンバーターもデジタル機器である。
Wadia 2000、X64.4から30年ほど経っている。

同時代のMac、SE/30をいま現役で使っている人はいないだろう。
けれど音に関しては、どうなのか。
Wadia 2000、X64.4を、いま聴いたら、どう感じるのか。

音の精細さでは、Mojoに負けているかもしれない。
同一視はできないのはわかっているが、
カートリッジにおける軽針圧型と重針圧型の音の違いに近いものが、
D/Aコンバーターの新旧にもあてはまるところはあるのではないか。
その疑問がある。

Date: 6月 21st, 2018
Cate: 冗長性

redundancy in digital(その1)

1998年にPowerBook 2400cを買うまでは、
SE/30を使い続けていた。

アクセラレーターを載せ、ビデオカードも取り付け、
メモリー増設も二回、ハードディスクも交換して使っていた。

愛着はあった。
けれど1998年時点でも処理速度は遅かった。
それでも使い続けていたのは、新しいMacを買うだけの余裕がなかったからだった。

PowerBook 2400cは、速かった。
同じ金額ならば、もっと速いMacもあったけれど、これを選んだ。
PowerBook 2400cの処理速度でも、速かった。

翌年にはPowerBook G3にした。もっと速かった。
デジタルの信号処理能力は、新しいほど速い。
パソコンの進歩も、実に速い。

それと比較すると、デジタルオーディオ機器の進歩は遅く感じがちだ。
それでもD/Aコンバーターの基本性能は、確実に向上している。

20年前、30年前のD/Aコンバーターは大きかった。重かった。
そして高かった。

いまは掌にのるサイズのD/Aコンバーターがある。
基本性能を比較すると、掌サイズのD/Aコンバーターが優れている。

こんなに小さくて、低価格だからとあなどれない。
DSDも11.2MHzまで対応しているモノも当り前になっている。

現在のモデルでも、むしろ高価格帯のD/Aコンバーターのほうが、
11.2MHzへの対応は遅かったもする。

音の良さは、基本性能の高さだけで決るわけではないが、
それにしても基本性能の向上は、なかなかすごい。
ワクワクもする。

Date: 6月 21st, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その6)

オーディオ雑誌に対しても、読み手がどんなことを求めているのかは、
さまざまなんだろうな、ともう思うしかない。

わかりやすい答を求めている人もがいる。
どれがイチバンなのか、それだけを欲している人が、少なくない。
ベストバイや賞関係の記事は、そんな人には好評のようだ。

そこまでではなくとも、雑誌に答が載っている、と思い込んでいる人も少なくない。
オーディオ雑誌に答が載っていたら、どんなに素晴らしいか──、
そんなことは思ったことがない。

載っていないからこそ、オーディオ雑誌は面白くなるはずなのだが……。
それから自分が使っているオーディオ機器を褒めてほしい、と思っている人もいる。

そういう人は、その人が使っている機種に対して、
少しでもネガティヴな評価が載ると、不愉快になったり怒ったりする。

そんな時、こいつら(試聴記を書いた人)、
このオーディオ機器の真価がわかっていないな、ぐらいに思って読めばいいのに、
どうもそうではないようだ。

これは間接的な承認欲求が満たされないから、そういう感情になってしまうのか。
そのへんのはっきりとしたことはわからない。

読み手側には、とにかくさまざまな人による求めていることが、人の数だけあるのだろうか。
ゆえにオーディオ雑誌もひとつだけあれば足りるのではなく、
いくつものオーディオ雑誌がある、といえる。

それでも、ひとつのオーディオ雑誌に求めていることも違う。
ステレオサウンドに何を求めるか、人によってほんとうに違うことを知っている。

オーディオショウについても、同じことがいえる。
答をひたすら求めている来場者もいる、ということだ。

Date: 6月 21st, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その5)

その4)へのコメントに、
《そんな程度の低いユーザーを作ったのは業界じゃありませんか?》とある。

そうともいえるし、そうではないともいえる。
ゆるく製品を作って利益をあげたいことばかりを考えている会社からすれば、
ユーザー(オーディオマニア)は賢くない方がいい。
その方が商売がやりやすいからだ。
言葉は悪いが、だましやすい。

もちろん、そういうメーカーばかりがあるわけではない。
これは、オーディオ業界だけではないのではないか。
どの業界でも、前者のようなメーカーはあるはずだ。

それからオーディオ雑誌を出している出版社。
読者(オーディオマニア)のレベルを上げていくことも、
オーディオ雑誌の、ひじょうに重要な役割のはずである。

けれどそれを実効するには、作り手側である編集者のレベルも、
それ以上に高めていかなければ、そういう本作りはできない。

やりたくてもできないオーディオ雑誌があるともいえるし、
オーディオ雑誌のレベルが高くなっても、読者がついてこなければ……、
という問題も生じることになる。

結局、それっぽいことをやっているような誌面をつくれれば、
それがなんとなく少なからぬ人が満足できるのかもしれない。
作っている側も満足できよう。

こんなことを書いていても仕方ないことで、
本来ならば、そういうメーカー、出版社の思惑に関係なく、
オーディオマニアが自身でレベルを高くしていけば、それでいいわけだ。

だから《そんな程度の低いユーザーを作ったのは業界じゃありませんか?》に対しては、
そうともいえるし、そうではないともいえる、と私は思っている。

そさ以前別項で書いているが、とにかく答だけを求めようとする人は、
今も昔もいる。
そういう人は歳をとったからといって、変りはしない。

そういう人に、答の前に、もっと大事な前提を話そうとしても、
それを遮り答だけを欲する。
しかも何度も同じことを訊ね同じ答を欲する。

そういう人に向い合っても、何ができるというのか。
なのでくり返す。
《そんな程度の低いユーザーを作ったのは業界じゃありませんか?》は、
そうともいえるし、そうではないともいえる。

Date: 6月 20th, 2018
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その3)

(その1)に書いているように、
ここで書こうとしていることは、2011年6月に思ったことだ。

なのに2014年3月に(その1)、4月に(その2)を書いたままだった。

書こうとしていたことをストレートに書いてしまえば、
ステレオサウンドの編集長の染谷一氏に対して、かなりキツイことを書くことになる。
それは気が引けるし、そのままにしていた。

それでもいつか書かなければ……、と思い続けてきた。
なにも、こんな時に書き始めるのか、といわれそうだが、
別項で書いているステレオサウンド 207号に関する件は、
やはり書かなければならないのか──、そう思わせる。

(その4)以降を書きたいわけではない。
けれど、書くことになるのか。

Date: 6月 20th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その15)

今回は柳沢功力氏だっただけだ。
今回と同じことが起らない、といえる人はいないだろう。

むしろ今回の件を、avcat氏がツイートしてくれたおかげで、
少なからぬ人が知り、そのうちの一人の方のおかげで、私も知ることが出来た。

私がこうやって、ほぼ毎日、この件について書いていっていることで、
今回の件を知った、という人もいるわけだ。

その人たちが、また仲間内に拡げていく。
電話やメールやSNSで拡散していく。

avcat氏のツイートがなかったなら、
今回の、ステレオサウンドの染谷編集長の謝罪を知る人は、
avcat氏と染谷編集長だけ、であった。

avcat氏にとって、染谷編集長は、とても「物分かりのいい人」であろう。
ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスの試聴記に不愉快になり、
そのことについての自身の意見をツイートした。

それを読んだ染谷編集長が、
6月9日と10日開催のアナログオーディオフェアの会場で、
avcat氏をみかけて自発的に謝罪。
その際に《これからこのようなことがないように対策します》といっている。

avcat氏にとって、染谷編集長は、ほんとうにわかってくれている人なんだろう。
謝罪された、というツイートのあとの投稿を読めば、そのことは伝わってくる。

avcat氏には染谷編集長を陥れる意図はまったくなかった、と思う。
むしろ逆だったのだろう。

けれど、今回の謝罪の件と、
染谷編集長が《これからこのようなことがないように対策します》といったことが、
拡散されていくことで、ステレオサウンドというオーディオ雑誌が浮ける痛手を、
avcat氏はまったく考えなかったのか。

《これからこのようなことがないように対策します》、
これは、ステレオサウンドに書いていて生計をたてている人たちに対して、
間接的な恫喝といえるものである。

それに、《これからこのようなことがないように対策します》を、
メーカーや輸入元の人たちは、どう受けとるか。

avcat氏と同じように連続ツイートしていけば、
染谷編集長が自発的に謝罪に来てくれて、
《これからこのようなことがないように対策します》と約束してくれるのか──、
そう捉えることだってできるわけだ。

メーカーや輸入元のスタッフがツイートしても無視されるのであれば、
自社製品のユーザー(できれば染谷編集長と面識のある人)にツイートしてもらえばいい──、
そんなふうに考えるメーカー、輸入元がない、と言い切れるか。

Date: 6月 20th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その3)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んだ人だから、こう書けるのだろう。

Date: 6月 19th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(実感していること)

このテーマに関してはまだまだ書いていく予定だが、
今日は友人のAさんと飲んでいたので、この時間でもまだアルコールが残っている。

こういうとき、このテーマで書いていくと、
指が暴走してしまうだろうから、少し横路にそれたところで書こう。

現在のステレオサウンド編集長の染谷一氏がいくつなのかも、私は知らない。
それでも世代が違うんだな、と感じているのは、
染谷一氏は、瀬川先生の書かれたものを読んでいないんだな、ということ。

まったく読んでいない、という意味で書いているのではない。
五年前に瀬川冬樹著作集「良い音は 良いスピーカーとは?」がステレオサウンドから出ている。
少なくとも、この著作集には目を通しているはず。

でも、それを「読んでいる」とは私は思わない。
私と同じレベルで読んでいる人とは到底思えない。
そういう人ゆえに、今回の謝罪なはずだ。

瀬川先生が生きておられたら、今回の件に激怒されていたはずだ。

Date: 6月 18th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その14)

今回の件で、私がいちばんの問題と考えるのは、
ステレオサウンドの染谷編集長が《これからこのようなことがないように対策します》と、
謝罪したことだ。

「対策」という言葉を、染谷編集長はほんとうに使ったのか。
ほんとうに「対策」といったのであれば、
染谷編集長はステレオサウンドというオーディオ雑誌を、
とりかえしのつかない状況に追い込もうとしているのか。

avcat氏のツイートには、確かに「対策」とあるし、
染谷編集長がavcat氏のツイートに対して、なんらかのアクションをしているわけでもない。
ということは、確かに「対策」なのだろう。

染谷編集長は、どう対策するのか。
今回と同じことが、もう一度あったとしよう。

柳沢功力氏が、ナイーヴな読み手にとってはネガティヴな意見と捉えそうなことを、
原稿に書かれていた。

その時、染谷編集長は、柳沢功力氏に、この部分を書き直してください、と突き返すのか。
柳沢功力氏が「そうだね」といって書き直してくれるとは限らない。

私はむしろ、反対ではないか、と思う。
そうなったら、染谷編集長の判断で無断で書き直すのか。

「対策」とはそういうことを指すのか。
それとも抜本的な対策として、柳沢功力氏に依頼しない、という手もある。

染谷編集長は、そんなつもりで「対策」といったわけではない──、
そういうかもしれない。
けれど「対策」とは、そういうことである。

そしてこれは柳沢功力氏だけの問題ではなく、
他の筆者にとっても、非常に大きな問題だということに気づいているのか。

Date: 6月 18th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その13)

SNSの普及とともに強く感じるようになってきたのは、
試聴記の読み方・捉え方が、昔と違ってきていることだ。

昔も、実のところ、いまと同じだったのかもしれないが、
少なくとも昔はインターネットなどなくて、SNSもなかった。
だから見えてこなかっただけなのかもしれない。

とにかく、読み手側の試聴記の受けとめ方、そして反応は変ってきた、と感じる。

自分で鳴らしているオーディオ機器、
憧れているオーディオ機器、
それらの試聴記で、少しばかりネガティヴな意見と受けとめられるようなことが書いてあっても、
昔は、そんなこと、誰も気にしなかったようだ。

読み手側がナイーヴになってきたのか、
そういう人が増えてきたのか、
少しでもネガティヴな意見と受けとめられそうなこと(必ずしもネガティヴとはいえないこと)に、
ことさら敏感に反応してしまう人がいる。

そういう人が、いまはSNSで声をあげる。
中には、自分こそが正しい、といわんばかりの人もいる。

でもオーディオはそんなに薄っぺらいものではないし、
オーディオ評論もそうで、薄っぺらいものではない。

薄っぺらい、中身のない、名ばかりのオーディオ評論ばかりになっていても、だ。

そのことを忘れてしまっている、
まったく気づいていない読み手が増えてきただけではない、
編集側もそうなってきているようだ。

Date: 6月 18th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(ふたつのEL34プッシュプル・その1)

EL34といえば、ポピュラーな出力管である。
EL34のプッシュプルといえば、
マランツの一連のパワーアンプを真っ先に思い出す人も多い。

私は、伊藤先生のEL34のプッシュプルアンプが、真っ先に浮ぶ。
それからマランツのModel 2、Model 9、Model 8という順番がずっと続いていたけれど、
ある時から、デッカ・デコラのアンプのことが気になりはじめていた。

きっかけは管球王国 Vol.41(2006年夏号)で、
是枝重治氏発表のEL34プッシュプルのKSM41の製作記事である。

KSM41は、デコラのアンプの再現である。
記事最後の音の印象に、
《あでやかで彫りが深く解像度が高い》とあった。

個人的に多極管の三極管接続は好まない。
デコラのパワーアンプはEL34の三極管接続である。
そのことは以前から知っていた。

それでも記事を読んでいて、
そのへんのところが少しだけ変った。

管球王国 Vol.41は買おう、と思ったが、
この記事のためだけに、この値段……、という気持が強くて、買わずにいた。

先日、友人のKさんが記事をコピーしてくれた。
管球王国 Vol.41の記事だけでなく、
その前にラジオ技術(2005年9月号)で発表された記事も一緒に、だった。

EF86が初段、ECC83のムラード型位相反転回路で電圧増幅段は構成されている。
あれっ? この構成、そういえば……と思い出したのが、
ウェストレックス・ロンドンの2192Fである。

サウンドボーイ(1981年8月号〜10月号)で伊藤先生が発表されたEL34のアンプの、
範となっているのが2192Fである。

このアンプもデコラのアンプと同じ構成である。
そればかりか、EF86、ECC83周りの抵抗とコンデンサーの値も同じである。
回路も同じだ。

出力段が2192FはUL接続、デコラは三極管接続という違いと、
電源の違いくらいである。
NFBの抵抗値も違うが、そのくらいの違いしかない。

設計者は同じなのか。

Date: 6月 18th, 2018
Cate: ショウ雑感
1 msg

2018年ショウ雑感(その4)

これは、どこのブースだったのかは書かない。
あるブースに入った。

スタッフの方が来場者と話をしている最中だった。
「CDは音を変えようと思ったら、(プレーヤーを)買い替えですからね」
「そうですよね」

そんな会話だった。
メーカーのスタッフが、こんなことを話していて、いいのだろうか。
なんという認識不足だろうか。

そういえば、こんなこともあった。
オーディオショウではないが、あるオーディオ関係のイベントで、
年輩のオーディオマニアが、
「CDには倍音が一切含まれていない、ということは今も禁句なんですか」
そんなことを発言されていた。

CDのサンプリング周波数は44.1 kHzだから、
約20kHz以上の音は急峻にカットされている。
けれど、倍音が一切含まれていない、ということはない。

このオーディオマニアは、20kHz以上の音を倍音だという認識なのだろうか。

この程度の認識のもとで、ハイレゾ、ハイレゾと騒がれているのか。

Date: 6月 17th, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その3)

2017年ショウ雑感(その4)」で、
オーディオテクニカが、二週間前のヘッドフォン祭かのようなブースづくりだったことに、
がっかりしたことを書いた。

それをオーディオテクニカの人が読んでくれていたわけではないだろうが、
今年のOTOTENのオーディオテクニカのブースは、違っていた。

私がオーディオテクニカのブースに入ったのは、カートリッジの試聴(デモ)が始まる寸前だった。
技術者(と思う)の方によるVM型の簡単な説明から始まった。

ブースにいる人には、カートリッジのカタログが手渡されていた。
座っている人は、ほぼみな持っていた。
後から入ってきた立っている人にも、スタッフの方が手渡していた。

私も立っていた一人なのだが、私のとなりの人には渡していても、
私には声すらかけてくれなかった。

説明は、カタログを開いてのものでもあった。
ローコストのモデルから、同じVM型カートリッジであっても、針先が違う、
その説明から始まった。

このショウ雑感でヤマハのプレゼンテーションのソツのなさ、
進行の見事さを何度か書いている。
オーディオテクニカのプレゼンテーションは、そこまではいっていなかった。
けれどOTOTENでは、今回のようにカートリッジをメインにやってほしい。

晴海で開催されていたオーディオフェアの全盛時代からすると、
いまのオーディオショウの規模は小さくなっているが、
その分、ショウの数は増えている。

ヘッドフォン祭、アナログオーディオショウがあって、
OTOTEN、インターナショナルオーディオショウがある。

複数のショウに出展するところもある。
オーディオテクニカがそうだし、テクニクスもOTOTENとインターナショナルオーディオショウに出る。

来場者の都合もある。
どれかひとつのオーディオショウにしか来れない人もいる。
その都合を考慮すると、同じ内容で──、と出展社は考えるのかもしれない。
そこは出展社次第である。

私は、それぞれのショウの色に合った出展であってほしい、と思っている。

Date: 6月 17th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その12)

この項を書くにあたってステレオサウンド 207号を買ったのは、
柳沢功力氏の試聴記をきちんと読むためよりも、
小野寺弘滋氏の試聴記と読み比べるためであった。

読み比べて、柳沢氏と小野寺氏は「同じ音」を聴いていることを確認できた。
同じ試聴室で、一緒に試聴しているのだから、同じ音を聴いていて当然だろう、
何をバカなことを……、と思われる人もいようが、
一緒に音を聴いたとしても、「同じ音」を聴いているとは思えない人がいる。

どちらかの聴き方のレベルがそうとうに低い場合に、そうなることがある。
少なくとも207号での試聴では、そんなことはなく、
柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ「同じ音」を聴いている。
そのうえでの、それぞれの解釈が、それぞれの試聴記である。

ほぼ「同じ音」を聴いても解釈が違うからこそ、
複数の試聴記が載るおもしろさがある。

聴き方も解釈も同じであったら、試聴記はひとつでいい。

それに活字では、音をどこまで読者に伝えられるのか。
昔から難問である。
完全に伝えられるわけがない。

ならば十分に伝えられるのか。
それもまたあやしい。
ここにも試聴記がひとつでなく、複数の意味がある。

私が熱心に読んでいた時代のステレオサウンドは、
ほぼ同じ世代の人たちが中心だった。

菅野先生、山中先生、長島先生は1932年生れだし、
井上先生は1931年、瀬川先生は1935年、岩崎先生は1928年である。

いまはかなりの歳の差がある。
柳沢功力氏と小野寺弘滋氏は、親子に近いぐらいの歳の差のはずだ。

これを私はおもしろい要素として捉えるが、
ネガティヴな要素として捉える人もいるようだ。
これも読み手側の解釈である。

Date: 6月 17th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その6)

自分のことは案外わからないもの、といわれている。
そうだ、と思うし、では、他人(ひと)のことがわかるのかというと、
それだって甚だあやしいものだ。

変っていかない人は、誰ひとりとしていない。
みんな変っていく。

古い知人のことを、友人からきく。
変っていったなぁ、とも思うし、相変らずだなぁ、とも思う。

古い知人が進化していると思わない。
けれど、ある意味、純化していっているのかもしれない、とふと思う。