Date: 6月 17th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
Tags:

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その12)

この項を書くにあたってステレオサウンド 207号を買ったのは、
柳沢功力氏の試聴記をきちんと読むためよりも、
小野寺弘滋氏の試聴記と読み比べるためであった。

読み比べて、柳沢氏と小野寺氏は「同じ音」を聴いていることを確認できた。
同じ試聴室で、一緒に試聴しているのだから、同じ音を聴いていて当然だろう、
何をバカなことを……、と思われる人もいようが、
一緒に音を聴いたとしても、「同じ音」を聴いているとは思えない人がいる。

どちらかの聴き方のレベルがそうとうに低い場合に、そうなることがある。
少なくとも207号での試聴では、そんなことはなく、
柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ「同じ音」を聴いている。
そのうえでの、それぞれの解釈が、それぞれの試聴記である。

ほぼ「同じ音」を聴いても解釈が違うからこそ、
複数の試聴記が載るおもしろさがある。

聴き方も解釈も同じであったら、試聴記はひとつでいい。

それに活字では、音をどこまで読者に伝えられるのか。
昔から難問である。
完全に伝えられるわけがない。

ならば十分に伝えられるのか。
それもまたあやしい。
ここにも試聴記がひとつでなく、複数の意味がある。

私が熱心に読んでいた時代のステレオサウンドは、
ほぼ同じ世代の人たちが中心だった。

菅野先生、山中先生、長島先生は1932年生れだし、
井上先生は1931年、瀬川先生は1935年、岩崎先生は1928年である。

いまはかなりの歳の差がある。
柳沢功力氏と小野寺弘滋氏は、親子に近いぐらいの歳の差のはずだ。

これを私はおもしろい要素として捉えるが、
ネガティヴな要素として捉える人もいるようだ。
これも読み手側の解釈である。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]