「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その12)
この項を書くにあたってステレオサウンド 207号を買ったのは、
柳沢功力氏の試聴記をきちんと読むためよりも、
小野寺弘滋氏の試聴記と読み比べるためであった。
読み比べて、柳沢氏と小野寺氏は「同じ音」を聴いていることを確認できた。
同じ試聴室で、一緒に試聴しているのだから、同じ音を聴いていて当然だろう、
何をバカなことを……、と思われる人もいようが、
一緒に音を聴いたとしても、「同じ音」を聴いているとは思えない人がいる。
どちらかの聴き方のレベルがそうとうに低い場合に、そうなることがある。
少なくとも207号での試聴では、そんなことはなく、
柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ「同じ音」を聴いている。
そのうえでの、それぞれの解釈が、それぞれの試聴記である。
ほぼ「同じ音」を聴いても解釈が違うからこそ、
複数の試聴記が載るおもしろさがある。
聴き方も解釈も同じであったら、試聴記はひとつでいい。
それに活字では、音をどこまで読者に伝えられるのか。
昔から難問である。
完全に伝えられるわけがない。
ならば十分に伝えられるのか。
それもまたあやしい。
ここにも試聴記がひとつでなく、複数の意味がある。
私が熱心に読んでいた時代のステレオサウンドは、
ほぼ同じ世代の人たちが中心だった。
菅野先生、山中先生、長島先生は1932年生れだし、
井上先生は1931年、瀬川先生は1935年、岩崎先生は1928年である。
いまはかなりの歳の差がある。
柳沢功力氏と小野寺弘滋氏は、親子に近いぐらいの歳の差のはずだ。
これを私はおもしろい要素として捉えるが、
ネガティヴな要素として捉える人もいるようだ。
これも読み手側の解釈である。