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Date: 3月 11th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その21)

先日、ある人と話をしていた。
瀬川先生の話が出た。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」と実感のこもった感じでいわれた。
私より六つ上の人で、
西新宿にあった山水のショールームで定期的に行われていた「チャレンジオーディオ」、
行かれたことがある,という。

けれど、当時はオーディオはまだまだブームだった。
瀬川先生の「チャレンジオーディオ」は盛況だったときいている。
実際、すごい人の多さだったらしい。

その人は、その人のあまりの多さにめげてしまって、
そのまま帰ってしまったそうだ。
定期的に行われていたから、また行ける、という気持があってのことだろう。

その機会が訪れることはなかった。
だからこその「瀬川先生に会いたかったなぁ」という後悔である。

瀬川先生が亡くなられて今年の11月で38年が経つ。
それほどの月日が経ってもなお「瀬川先生に会いたかったなぁ」という気持が、
強くその人の心には残っている。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」ということばを聞いた日に、
私はステレオサウンド 210号を読んだ。

黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」を読んだ日である。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」と話してくれた人は、
ショールームの奥の端っこでいいから、その場に残っておくべきだった──、
という後悔が残る──、
そのことを強く実感していた。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その11)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号に書かれていることを、
ここで思い出す。
     *
 しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
 まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
     *
52号の特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」からの引用である。
ここではアンプのことだけを書かれているが、
《入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず》、
録音の現場で鳴っていた音を、そのまま再生の現場(家庭)で鳴らさせるようになったら、
《もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう》わけだ。

それに使いこなしなどということも、ここでは無関係になってしまう。
誰が鳴らしても、同じ音がする──、
録音の現場での音がそのまま鳴ってくれる──、
いわゆに原音再生の理想が100%実現されたとして、
瀬川先生と同じように《索漠とした味気ない世界》と感じるか、
素晴らしい世界と感じるか──、
私ははっきりと前者である。

けれど、世のすべてのオーディオマニアがそうだとは思っていない。
後者の人も少なくない(というか多い)のではないのだろうか。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その10)

七年前から「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」というテーマを書いている。
一年ちょっと、このテーマで30本以上書いてきた。

どんなものであろうと、非可逆圧縮を絶対に認めない、というオーディオマニアは、
原音→げんおん→減音という発想はしないだろうし、
こんな発想はおかしい、ということになるだろう。

ここで使っている減音という言葉の意味あいとは違うが、
録音、再生どちらにも、情報欠落が生じる箇所が、それこそ無数にある。

マイクロフォンが音の疎密波を電気信号に変換する時点で、
情報の欠落はすでに生じている。
それを増幅してミキシングコンソールへ伝送する時点でも、情報の欠落は生じる。

ケーブル一本を信号が通るだけで、まったく情報の欠落が生じないといえるだろうか。
接点でも同じだ。

こんなことを一つひとつ挙げていくようなことはしない。
延々と書きつづけなければならなくなるからだ。

情報の欠落と同時に、欠落する箇所では、何かが元々の信号に加わる。
ノイズが加わったり、歪だったり、
測定できる要素として、このくらいであっても、
機械的な共振、電気的な共振などによっても何かが加わる。

これらの情報の欠落と、何かが加わることを極力排除していく方向が、
技術の向うべき途であるのはわかる。

あと十年後、二十年後……、どのくらい未来なのかはなんともいえないが、
そういう時代が来るのかもしれない。

そんな時代が来たとして、オーディオマニアにとって理想といえる時代なのか。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: ディスク/ブック

知識人とは何か(その2)

エドワード・W・サイードの「知識人とは何か」を読み終えたわけではない。

第三章の「専門家とアマチュア」は読み終えている。
この章に、こうある。
     *
 では、知識人にかかる圧力は、今日、どのようなかたちで存在しているのだろうか。そしてそれは、わたしが専門主義(プロフェッショナリズム)と呼んだものとどのようにかかわるのだろうか。ここで論じてみたいのは、知識人の独創性と意志とを脅かすかに思われる四つの圧力である。これら四つの圧力のうち、どれひとつとして特定の社会にしかみられないというものはない。どれも、あらゆる社会に蔓延しているのだが、その蔓延ぶりにもかかわらず、そうした圧力にゆさぶりをかけることはできる。そのようなゆさぶりをかけるもの、それをわたしはアマチュア主義(アマチュアリズム)と呼ぼう。アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。
     *
エドワード・W・サイードのいう四つの圧力については、ここでは引用しない。
ぜひ「知識人とは何か」を手にとってほしい。

ここで考えていきたいのは、サイードのいうところのアマチュア主義についてである。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その4)

四時間における変化要素はいくつもある。
アンプやCDプレーヤーのウォーミングアップのこともあるし、
スピーカーに関しても、少々意味あいが違うが、やはりウォーミングアップといえることはある。

特に喫茶茶会記のスピーカーのように、
私を含めて、複数の人が鳴らしているスピーカーでは、
前に鳴らしていた人の癖のようなものを払拭するという意味でも、
ある一定の時間は必要となる。

たいてい18時ごろから音を鳴らしはじめる。
三時間後、21時すぎあたりからの音が、鳴りはじめてきたな、と感じられる音である。

だから最初にかけていたディスクは、21時すぎにもう一度かけるようにしている。
「Cinema Songs」も、もう22時近かったけれど、もう一度鳴らした。

「Cinema Songs」には、
ボーナストラックとして12曲目に「セーラー服と機関銃 Anniversary Version」が収められている。
1981年の、この歌を、当時はそれほどいい歌とは感じてなかった。
ヒットした曲だから、一番の歌詞は記憶していた。

二番、三番の歌詞はそのころはほとんど知らなかった。
二番、三番の歌詞まで、つまり「セーラー服と機関銃」という歌を最後まで聴いたのは、
それほど昔のことではない。

20年ほど前に、薬師丸ひろ子の歌が無性に聴きたくなった。
新品で買ったもの、中古で買ったもの、
薬師丸ひろ子のCDを揃えた。
そのとき初めて「セーラー服と機関銃」を最後まで聴いた。

三番の歌詞、
 スーツケース いっぱいにつめこんだ
 希望という名の重い荷物を
 君は軽々と きっと持ちあげて
 笑顔見せるだろう

ここまで聴いて、いい歌だなぁ、と思った。
三番の、ここのところは聴くだけでなく口ずさむこともある。

重い荷物を、実際の重たさ以上に重たそうにもつ人が少なくない。
そういう人が少なくないように、昨今は特に感じる。

そういう人は笑顔を見せない、しんどそうな顔をする。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: High Resolution

High Resolution to Higher Resolution(複雑化?・その1)

「MQAのこと、リファレンスのこと」に、facebookでコメントに、
プログラムソースの多様性はいいけれど、現実にはお金がかかる、というのがあった。

確かにそう感じるところはある。
それに複雑化といっていいのか、少し迷うところもあるが、
そうなりつつあるとも思う。

MQAの登場を、メリディアンのULTRA DACでその音を聴いて私は歓迎しているけれど、
新たなフォーマットが一つ増えたことは確かだし、
しかも世の中に登場したCDプレーヤーで、すべてのディスクフォーマットが再生できる機種は、
一つもない(はずだ)。

通常のCD、SACD、DVD-Audio、Blu-Ray Audio、MQA-CD、
これらすべてを再生できる機種は、私の知る限りない。

オーディオマニアからすれば、そんなことは当り前のように受けとってしまいがちだが、
オーディオにあまり関心のない人たちからすれば、不思議なことのようにうつるのではないだろうか。

CDプレーヤー単体で、高価なものならば500万円を超えている。
でも、この非常に高価なCDプレーヤーは、すべてのディスクフォーマットを再生できない。

別に、できないことを批判しているのではない。
それが現実であり、すべてのディスクフォーマットを満足のいく音で聴こうとしたら、
数台のCDプレーヤー(CDプレーヤーという呼称は便宜的に使っている)が必要となる。

私はメリディアンのULTRA DACにぞっこんだが、
ULTRA DACでSACDを聴こうとしたら、リッピングしたファイルを再生するか、
ダウンロードで購入できるのであれば、そういう方法しかない。

以前別項「オーディオがオーディオでなくなるとき(その5)」で、
ハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない、と書いた。

DSDも2.8MHzから始まって、5.6MHz、11.2MHzとなり、
このあたりで落ち着くのかなぁ、と思っていたら、22.4MHzも出てきた。

PCMも同じである。
どこまで周波数は高くなるのだろうか。
ビット数も同じだ。

まさしくハイアーレゾ(Higher Resolution)になっている。
それでもハイエストレゾ(Highest Resolution)とはいえないのが現状なのだろう。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その1)

別項「MQAのこと、ステレオサウンドのこと」で、
第一特集は小野寺弘滋/傅 信幸/三浦孝仁/柳沢功力/和田博巳と五十音順なのに、
第二特集は山之内正/土方久明/逆木 一と五十音順ではないことを指摘した。

210号を手にして、既視感もあった。
どこかで見た記憶がある、と。

なので書店に行き、音元出版のNet Audio Vol.33をパラパラめくった。
山之内正、土方久明、逆木 一の三氏は、私のなかでは音元出版の筆者というイメージがあるからだ。
特に山之内正氏は、音元出版の編集者だったことも強く関係している。

Net Audio Vol.33には、ライターズセレクションという記事がある。
山之内 正、土方久明、逆木 一、鈴木 裕、岩井 喬、角田郁雄の六氏が登場されている。
この名前順にである。

そう、最初の三人の登場順とステレオサウンド 210号の第二特集の登場順は一致している。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その2)

七年前に「情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情)」を書いている。

ステレオサウンド 210号の「オーディオファイル訪問記」を読んでいたら、
そこに「音情」とあった(212ページに載っている)。

それを見て、そういえば以前書いていたなぁ、と思い出した。
自分で書いておきながら、もう七年前なのか……、と思っていた。

210号の「オーディオファイル訪問記」に登場されている桑原光孝氏は、
おそらく私と同世代の方だろう。
あと数年で定年とあるし、
大学に入って初めて買ったステレオサウンドが63号ともあるからだ。

そして歌謡曲をよく聴かれる、とある。
そうかそうか、と思う。

私が先に「音情」を使ったと主張したいわけではなく、
瀬川先生の文章を読み感銘し、歌謡曲をよく聴いて、という人だから、
音情が思い浮ぶのだろう、と思ったからだ。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その3)

黒田先生は、
《薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶり》
と以前、ステレオサウンド 80号にそう書かれていた。

先日のaudio wednesdayで最初に鳴ってきた音は、
とうてい楚々とした声とはいい難かった。

こういう時は、きちんとセッティングをやっていき、
そのあいだ「Cinema Songs」を鳴らしつづけていた。

18時くらいに鳴らしはじめ、
なんとか19時くらいには、薬師丸ひろ子らしい特徴が聴きとれる程度にはなっていた。

今回は「Cinema Songs」だった。
毎回、そういうわけではない。
前回はクルレンツィスのマーラーの交響曲第六番だったり、
「THE DIALOGUE」だったりする。

そんなわけでCDプレーヤーのなかに「Cinema Songs」が入っていたから、
19時からの開始にも、そのまま鳴らしつづけた。

毎回こんなことをやっているけれど、その度に思っているのは、
18時から19時までの音の変化は、けっして小さくない。
この一時間の音の変化を聴いていれば──、ということだ。

仕事の関係で19時すぎにならないと来れない人は仕方ないけれど、
早く来られるのであれば、この時間帯の音の変化を聴かないのはもったいない。

鳴り始めの音は、それほどいいわけではない。
そんな音は聴きたくない──、のであれば、仕方ない。
それはそれでいい。

けれど、私がaudio wednesdayで聴き取ってほしい、と思っているのは、
約四時間のなかでの音の変化である。

19時以前に、すべてのセッティングをすませておくことはできる。
けれど毎回、いくつかを残して、四時間のうちに何度か音を変えていっている。
それは音の変化を聴き取ってほしいからである。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その2)

薬師丸ひろ子の「Cinema Songs」を、6日のaudio wednesdayでもかけた。

愛聴盤かととわれれば、言葉をちょっと濁すけれど、
薬師丸ひろ子の声を歌を、無性に聴きたくなる時期が私には、これまでにも何度かある。

いまも、聴きたい時期かも、と思っている。

先日のaudio wednesdayでは、「Cinema Songs」から始めた。

喫茶茶会記のアルテックを中心としたシステムを、
私が鳴らすのは毎月第一水曜日の約四時間だけである。

あとは店主の福地さん、
それからイベントで鳴らす(使う)人たちである。

けっこういろんな鳴らされ方をされている、ようだ。
それから音を鳴らすイベントばかりでなく、スピーカーをジャマモノとする人たちもいるから、
毎回、スピーカーの状態は違っている。

ひどい鳴らされ方をされたなぁ、と感じることもある。
結線をして音を出した瞬間に、なんなとなくそれはわかるものだ。

今回は、結線が終ってからの最初の一枚を「Cinema Songs」にした。
特に理由があってのことではなく、なんとなく手が伸びたくらいが理由である。

鳴ってきた薬師丸ひろ子の歌を聴いて、今回もかぁ……、と思っていた。
このときはまだセッティングの作業が残っているから、
椅子に座って聴いているわけではない。

それにアンプもCDプレーヤーも電源を入れたばかりだから、
鳴らしながらセッティングをきちんとしていく。

スピーカーの位置も、それにあわせて少しずつ変えている。
大きく動かすわけではないが、実のところ、毎回スピーカーの置き場所は数cmずつ変えている。

Date: 3月 8th, 2019
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

THE DREAMING(その1)

ケイト・ブッシュのアルバムで、強い印象をうけたのは、
やはりデビューアルバムの“THE KICK INSIDE”、
そして“THE DREAMING”である。

“THE KICK INSIDE”を初めて聴いたのは、FMだった。
衝撃だった。

背中に電気が走った、という表現があるが、
“THE KICK INSIDE”を聴いたときが、まさしくそうだった。

ケイト・ブッシュの四枚目の“THE DREAMING”が出た時、東京で暮していた。
同じころ、バルバラの“Seule”で出ていた。

“THE DREAMING”は、“THE KICK INSIDE”以上に、
“THE KICK INSIDE”とは違った衝撃を受けた。

バルバラの“Seule”とケイト・ブッシュの“THE DREAMING”。
どちらも重く、聴き手のこちらにのしかかってくるような感じも受けた。

ひたひたと何かが迫ってくる、とも感じた。
この二枚が、これから先、愛聴盤になっていくのだろうか、とも思っていた。

東京では独り暮しの始まりでもあった。
そのことも、そう感じたことと無関係ではない、といまでは思う。

“THE DREAMING”は、72トラック録音だといわれた。
36トラックのマルチトラックレコーダーを二台シンクロさせての録音である。
当時としては最大数のトラックだったはずだ。
厳密には同期用にトラックが使われているので、
72トラックすべてに録音されているわけではない。

にしても、すごい録音だと感じた。
“THE DREAMING”が発売になって、どのくらい経っただろうか、
ケイト・ブッシュが精神病院に通っている(入院している)というウワサが出た。

そもありなん、と思える録音であった。
事実は、セラピーに通っていた、ということだった。

これだけの録音を仕上げるのは、そうとうにしんどい作業であったはずだ。
“THE DREAMING”はアナログ録音である。

トラックダウン作業の実際を知りたい、とそのころ思っていた。
“THE DREAMING”は、すごく凝った録音なのは聴けばすぐにわかる。

けれど、これだけのものを作り上げるために、どれだけの作業工程が必要だったのか。
“THE DREAMING”は、どう鳴らしてもスタティックな印象がついてまわる。

もっと躍動的に鳴らないのか──、そう感じてもいた。

Date: 3月 8th, 2019
Cate: ディスク/ブック

知識人とは何か(その1)

買っただけで、ロクに読んでいない本がある。
そんな一冊がエドワード・W・サイードの「知識人とは何か」だ。

「知識人とは何か」を思い出したように読み出した。
理由は、最近のインターネット上でのMQAをめぐる論争(とはいえないけれど)である。

facebookにあった、MQAをほぼ全否定している人がいる、という投稿、
この投稿にはいくつかコメントがついていた。

そのなかに、ある人のコメントがあった。
その人の名前と写真を見た瞬間、またこの人か、と少々うんざりした。
きっと荒れるな、コメント欄が……、そうも思った。

その人とは面識はないし、facebookでもつながっていない。
けれどオーディオの、特にデジタル関係のことが話題になっていると、
この人が登場(私にいわせれば出しゃばってくる)する率が高くなる。

この人がコメントに登場すると、その場で読むのをやめることも少なくない。
今回はMQAのことが話題だったから、最後まで読んだ。

読んでいて、いつものパターンのくり返しだ、と思っていた。
どういう人なのか、詳しく書くのは控えたい。
書けば書くほど、こちらがイヤな気持になるからだ。

それでも、こんなことを書いているのは、
この人は専門家なのか、という疑問が、いつも湧くからだ。

本人はオーディオの、さらにはデジタルの専門家だと自負しているように感じる。
そんな自負が、この人のコメントの端々にあらわれているし、
この人特有の言い方になっている。

私には、逆木 一氏のMQAのほぼ全否定の文章よりも、
この人のコメントのありようのほうが、より根深いものを感じてしまった。

しかも、この人に同調・同意する人も少なくない(この人もMQAほぼ全否定側の人だ)。
もちろん、さまざまな意見があってしかるべきであるのはわかっている。

それでも、この人たちは、自分たちだけは真実がわかっている──、
そう思い込んでいるところが節々に感じられる。

だからこそ、この人とその周辺の人たちは、
論争・議論に勝ち負けを持ち込む。

この人も、逆木 一氏も、専門家なのか、と思う。
そう思うとともに、そういえばと思い出したのが、
サイードの「知識人とは何か」に「専門家とアマチュア」という章があったことだ。

Date: 3月 7th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQAをめぐるインターネット上のこと

逆木 一氏が、MQAをほぼ全否定されていることを知ったのもfacebookならば、
LINNが、MQA批判をしていることを知ったのも、facebook(コメント)によってだった。

オーディオ関係のサイト、ブログは、ここ数年ほとんど見なくなっている。
以前は定期的に見ていた個人ブログも、いまはまったく見なくなっている。
つまらないから、とかが理由ではなく、なんとなく遠のいてしまって、そのままになっている。

なのでLINNがMQAを批判していることすら知らなかった。
「LINN MQA」でGoogleで検索すると、読みたいものが表示された。
確かに批判している。

その関連で見つけた個人ブログがある。
Float A Flow」である。

そこに「MQA技術解説についての私的メモ・ロスレスかロッシーか?」という記事がある。
さらに「MQAコーデックをなぜ選ぶのか?」もある。

LINNのMQA批判についての「LINNのMQA批判について」もある。
他にもMQAについて書かれている。

「Float A Flow」を公開されている方が、どういう人なのかまったくわからない。
けれど読んでいて、納得できる内容であり勉強になる。

ぜひ読んでほしい、と思いながらも、
できることならULTRA DACでのMQAの音を聴いた上で、とつけ加えたい。

Date: 3月 7th, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

昨晩はaudio wednesdayだった。
毎回のことだが、終了後、後片づけ(セッティングをすべてバラす)すると、
喫茶茶会記を出るのは午前0時近い。

それから電車で帰宅。
最寄り駅に着くのは1時近い。
たいてい夕食をとっていないから、そんな時間に食事となる。
といっても、駅近くの店はほぼ閉まっていて、
結局はコンビニエンスストアで、売れ残っている弁当かサンドイッチか。

帰宅したらサッと食事をすませて入浴。
それでも寝るのは2時近くになる。

毎月第一水曜日はこんな感じだ。
慣れたといえばそうなのだが、
帰宅後にブログを書こうとは思わない。

翌日書けばいい、と思う。
けれど昨晩は、短いとはいえ、一本書いた。

4月のaudio wednesdayで、またメリディアンのULTRA DACが聴けるからだ。
夜中に更新したところで、そんな時間にブログにアクセスしている人はわずかだ。
それでも少しでも早く、読んでくださっている人たちに伝えたい、と思ってだ。

コメントがあるとは思っていなかった。
なのにコメントがあった。
森 孝光さんという方からだった。

北海道にお住まいで、4月のaudio wednesdayに来られる、とのこと。
森さんのULTRA DACへの興味が、そうさせるのだろう。

嬉しいことだ。
同時に、北海道ではULTRA DACを聴く機会がないのか……、とも思った。

そうなのかどうかはわからないが、
仮にそうだとして(そうでなければわざわざ東京まで来られないだろう)、
北海道だけのことではないはずだ、とも思う。

別項で書いているが、MQAをほぼ全否定する人がいるの知った。
その人一人だけでなく、MQAに非可逆圧縮が使われている──、
そのことだけでMQAを、音も聴かずに認めないという人たちがいることも知った。

残念なことに、そういう人たちの方が声が大きいし、多かったりする。
さも、自分たちは真実を知っている──、
そんなふるまいをする人たちだ。

そういう人たちはどうでもいい、と正直思っている。
でも、そういう人たちの声に惑わされてほしくない、と強く思う。

瀬川先生は辻説法をしたい、
「ぼくはいま辻説法をしたいような、なんかすごいそういう気持でいっぱいなんです。」
そう語られている。

瀬川先生の気持がわかる。
ULTRA DACを携えて辻説法したい、そういう気持が芽生えてきた。

実際には無理なことはわかっているだけに、
ULTRA DACを聴きに来られる方がいるということの嬉しさがある。

Date: 3月 7th, 2019
Cate: 広告

ホーン今昔物語(It’s JBL・その2)

ステレオサウンド 210号の第一特集は「いま心惹かれる10のスピーカーで、
小野寺弘滋氏は、JBLのDD6700を鳴らされている。

そこにこんなことを書かれている。
     *
 私はホーン型ユニットが好きである。(中略)
 だが、ホーン型ユニットは一部の、というより、多くの、いわゆるハイエンドスピーカーの設計者から時代遅れだとみなされている形式だ。その理由を詳述するスペースはないが、現在のオーディオ市場に、ホーン型ユニットを搭載したスピーカーシステムがほとんどないのが現状である。
     *
ここで、ちらっとハーマンインターナショナルのサイトで「It’s JBL」を書いていること、
そこでホーン型について書いていることを触れることくらいしてもよかったのでは──、と思う。

読んでほしいと思っている人たちに届かなければ、あまり意味はない。
少なくとも私はそう考える。

(その1)で、「It’s JBL」を読んでいる人たちは、
すでにJBL、ホーン型スピーカーを鳴らしている、もしくは関心のある人たちではないのか、と書いた。

そうでない人もいようが、おそらく少数だ。
ならば小野寺弘滋氏の文章を冊子にまとめてオーディオ販売店に置く、という手もあるが、
コストがかかるし、ここでもまた、その冊子を手にするのは、
すでにJBL、ホーン型スピーカーを鳴らしている、もしくは関心のある人たちが大半になるだろう。

オーディオがブームだったころは、そういうやり方も効果があっただろうが、いまはどうだろうか。

小野寺弘滋氏が、ステレオサウンドの特集の文章のなかで、「It’s JBL」のことを触れたとしよう。
そんなことはけしからん、という人はいる。
多いのか少ないのかはなんともいえないが。

でも、それでもいいではないか。
「It’s JBL」を書いている小野寺弘滋氏が、
「It’s JBL」をほんとうに多くの人、
特にJBL、ホーン型スピーカーに関心のない人たちにこそ読んでほしい、と思っているのなら、
ちょっとぐらいの批判は覚悟のうえで、「It’s JBL」について触れてもいいではないか。