オーディオがオーディオでなくなるとき(その11)
瀬川先生が、ステレオサウンド 52号に書かれていることを、
ここで思い出す。
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しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
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52号の特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」からの引用である。
ここではアンプのことだけを書かれているが、
《入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず》、
録音の現場で鳴っていた音を、そのまま再生の現場(家庭)で鳴らさせるようになったら、
《もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう》わけだ。
それに使いこなしなどということも、ここでは無関係になってしまう。
誰が鳴らしても、同じ音がする──、
録音の現場での音がそのまま鳴ってくれる──、
いわゆに原音再生の理想が100%実現されたとして、
瀬川先生と同じように《索漠とした味気ない世界》と感じるか、
素晴らしい世界と感じるか──、
私ははっきりと前者である。
けれど、世のすべてのオーディオマニアがそうだとは思っていない。
後者の人も少なくない(というか多い)のではないのだろうか。