オーディオがオーディオでなくなるとき(その10)
七年前から「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」というテーマを書いている。
一年ちょっと、このテーマで30本以上書いてきた。
どんなものであろうと、非可逆圧縮を絶対に認めない、というオーディオマニアは、
原音→げんおん→減音という発想はしないだろうし、
こんな発想はおかしい、ということになるだろう。
ここで使っている減音という言葉の意味あいとは違うが、
録音、再生どちらにも、情報欠落が生じる箇所が、それこそ無数にある。
マイクロフォンが音の疎密波を電気信号に変換する時点で、
情報の欠落はすでに生じている。
それを増幅してミキシングコンソールへ伝送する時点でも、情報の欠落は生じる。
ケーブル一本を信号が通るだけで、まったく情報の欠落が生じないといえるだろうか。
接点でも同じだ。
こんなことを一つひとつ挙げていくようなことはしない。
延々と書きつづけなければならなくなるからだ。
情報の欠落と同時に、欠落する箇所では、何かが元々の信号に加わる。
ノイズが加わったり、歪だったり、
測定できる要素として、このくらいであっても、
機械的な共振、電気的な共振などによっても何かが加わる。
これらの情報の欠落と、何かが加わることを極力排除していく方向が、
技術の向うべき途であるのはわかる。
あと十年後、二十年後……、どのくらい未来なのかはなんともいえないが、
そういう時代が来るのかもしれない。
そんな時代が来たとして、オーディオマニアにとって理想といえる時代なのか。