毎日書くということ(続・エリカ・ケートの言葉)
イタリア語を「歌に向く言葉」、
フランス語を「愛を語る言葉」、
ドイツ語を「詩を作る言葉」、
日本語は「人を敬う言葉です」だとエリカ・ケートが浅利慶太氏に語っている。
「敬う」の対義語は「蔑む、侮る」である。
「人を敬う言葉」である日本語で、人を蔑み、侮る人が増えつつある。
イタリア語を「歌に向く言葉」、
フランス語を「愛を語る言葉」、
ドイツ語を「詩を作る言葉」、
日本語は「人を敬う言葉です」だとエリカ・ケートが浅利慶太氏に語っている。
「敬う」の対義語は「蔑む、侮る」である。
「人を敬う言葉」である日本語で、人を蔑み、侮る人が増えつつある。
オーディオの想像力の欠如した耳は、人間のこころの機能を無視しがちだ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、時代の忘れ物に気づくことはない。
区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。
倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。
曖昧な区別のまま、すべてのオーディオ評論家を先生と呼ぶのだろうか。
川崎先生が「もう一度、とっても会いたい菅野沖彦先生」を公開されている。
川崎先生も、菅野先生と呼ばれる。
《私は好き嫌いがはっきりとしています。
たくさんの評論家の中でも特に先生に傾倒していました。》
と書かれている。
ここでの川崎先生の、はっきりとした好き嫌いは、はっきりとした区別である。
《今では、この程度で?と、
残念なオーディオでありビジュアルの評論家が多いのです。》
とも書かれている。
この人たちのことは、先生とつけて呼んだりはしない。
区別を曖昧にしてきたことで、疎かにしてきたことで、
多くの人たちは区別することができなくなりつつあるのかもしれない。
区別に求められることが何なのかも、わからなくなりつつあるのかもしれない。
結果、差別を生んできているのではないのか。
M君が「東大に行くんだ」と語ってくれたとき、私はそんな具体的な夢は持っていなかった。
現実味のない妄想はよくしていたし、それ以上に喘息の発作から解放されたい、
このことがいちばんの夢のようなものだった。
喘息といえば治療のため、小学生のころは、
毎週一回、学校を早退してバスに一時間ほどのり、熊本大学病院に通っていた。
そんなふうに早退した次の日、教室の後方の壁には、鱒の絵が貼られていた。
前日午後の音楽の授業で、
シューベルトの「鱒」を聴いて、心に浮んだことを描くという内容だったようだ。
早退してよかった、と思った。
なんてバカらしい授業なんだ、と思った。
そのころの私は、音楽の授業が嫌いだった。
まして「鱒」を聴いて、鱒の絵を描く。
シューベルトも、そんな授業が行われるようになるとは夢にも思っていなかっただろう。
音楽の授業が、さらに嫌いになった。
音楽も嫌いになっていた。
小学生だった私は、そんなだった。
「五味オーディオ教室」と出逢う数年前の話だ。
T君が視力回復センターに通っていることを知ったときも、
まだ「五味オーディオ教室」に出逢ってない。
中学生にもなると、喘息の発作はかなり治まっていた。
それでも夏、蚊取り線香の煙で発作がおきたことがあった。
その時はT君も一緒で、彼も喘息の発作をおこしていた。
T君とは喘息という共通のことがあった仲でもある。
もう一人はT君だ。
T君は、義務教育の九年で、六年は同じクラスだった。
よく互いの家に遊びに行く仲だった。
T君は、中学のころ、視力回復センターに通うようになった。
理由をきくと、航空自衛隊に、戦闘機のパイロットになりたいから、ということだった。
T君の飛行機好きなのは、小学校のころから知っていた。
飛行機に詳しかったし、プラモデルもよく作っていた。
戦闘機のパイロットになるには、裸眼視力がT君の場合、足りなかった。
視力だけではなく、身長も少し足りなかったようだ。
別に小柄というわけではなかった。
私より少し背が低いだけだったけれど、規定の身長には足りなかった。
T君は、だから中学の部活動はバスケットを選んだ。
特にバスケットが好きなわけではなかった。
それでも身長が少しでも伸びる可能性があるのならば、という理由でのバスケットだった。
T君のことを笑う人もいるかもしれない。
そんなことで視力が回復したり、身長が伸びたりするわけないのに、と。
香ばしい青春だこと、と揶揄することだろう。
そうかもしれない。
けれど、T君は夢に向って真剣だった。
T君は賢かった。
そのT君が、わずかな可能性に賭けていた。
本人が、ほんのわずかしか可能性がないことはよくわかっていたのかもしれない。
T君は、中学卒業のころには諦めていたようだった。
高校ではバスケットはやらなかったし、視力回復センターにも通わなくなっていた。
M君とT君のふたりのことを、
この項を書き始めたころから、どこかで書こうと思い始めていた。
どこで書こうか、もそうだが、ここで書くようなことだろうか、とも思っていた。
(その1)を書いてしばらくして、小学校時代同じクラスだった二人のことを、
なぜだか思い出していた。
一人はM君という。
小学校三、四年のとき、同じクラスだった。
家が近くだったこともあって、帰りは一緒だったこともあるし、M君の家に遊びに行ったこともある。
とはいえ、特に仲がよかった、というほどではない。
おそらくM君は私のことなど憶えていないだろう。
そんなM君が、ある日、「ラサールを中学受験して東大に行くんだ」と話してきた。
M君が、そういうことを話してきたきっかけがなんだったか憶えていないし、
こちらとしても、ラサール中学・高校が有名な進学校というぐらいは知っていたけれど、
まさか同じ学校に通っている同級生が、中学受験をするなんて、驚き以外のなにものでもなかった。
当時の私の感覚としては、
同級生はみな小学校のすぐ近くにある中学校に進学するものだと思い込んでいた。
中学までは義務教育だから、わざわざ私立の学校に受験して入学するなんて、
東京とか大阪の都会の話だという認識しかなかった。
M君は、たしかに成績は良かった。
でも同級生にはNさんという、学年一の優秀な女の子がいた。
同じクラスになったことはないけれど、それでもNさんの優秀さは伝わってきていたことも、
驚きにつながっていた。
M君は宣言通り、ラサールに入学した。
中学、高校と首席かそれに近い成績だというウワサが聞こえてきた。
模試でも東大合格間違いなし、という成績だった、らしい。
けれどM君は東大受験に失敗した。
一浪して再び受験した。けれどダメだった、らしい。
本番に弱かったのだろうか。
M君は、有名私大に入学した。
ここまではウワサで聞いて知っていた。
いまになってM君のことを思い出して、そういえば、M君の夢はなんだったのか、と考える。
東大に合格することが夢だったのか。
それとも東大に合格して東大で学び卒業して、そこから先がM君の夢だったのか。
小学四年だった私は、M君に「夢は東大に合格すること?」と訊くことはなかった。
そんなこと考えもしなかったからだ。
M君の夢はなんだったのか、
東大には入れなかったけれど、夢は実現しているのかもしれない。
むせかえるような濃密な芳香。
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いた同時に感じたのが、
これだった。
濃密なだけではなかった。
むせかえるような、とつけたくなるほどな芳香の強さだった。
もちろんイヤな芳香だったわけではない。
でも、なせか、私はそういう芳香に、怖れをなすところがあるというだけだ。
聴いていて、ラルキブデッリのブラームスを、もし20代のころ聴いていたら、
さらには10代のころだったら……、そんなことを想像もしていた。
もしかすると、むせかえるような濃密な芳香とは感じなかったかもしれない。
香りたつ、そのぐらいの感じ方だったかもしれない。
少なくとも、怖れをなす──、そんなふうには感じなかったはずだ。
それだけではなかった、感じたことは。
これまでをふり返って、こういう時代が私にはあっただろうか……、
そんなことすらおもっていた。
むせかえるような濃密な芳香といえる時期。
それを、青春と呼ぶのかもしれない。
でも、そうは呼びたくない、という気持も聴いていて感じていた。
菅野先生はよく「若さはバカさ」といわれていた。
「若さはバカさ」といえることは、誰にでもあろう。
思い出して、恥ずかしさでいっぱいになって、音楽を聴いていてひとり赤面するような。
それもラルキブデッリのブラームスを聴いていて、あったことだ。
オーディオショウに行けば、それぞれのブースで、出展社のスタッフが、
オーディオ評論家を○○先生と呼んでいるのが、あちこちで聞ける。
誰が、どの人を先生と呼ぶのか呼ばないのか。
それはその人の勝手だ。
菅野先生が亡くなられたいま、私が先生と呼ぶ人は、オーディオ界にはもういない。
それでも、インターナショナルオーディオショウでは、
あちこちで「先生」がきこえてきた。
その「先生」がきこえてくる度に思うことがある。
ほんとうに、この人たちは、心から「先生」と呼んでいるのか、と。
そう呼んでおけば差し障りがない──、
そんなことで先生と呼んでいるわけではないだろうが、
釈然としないものが、残る。
オーディオマニアのなかには、
オーディオ評論家ごときを先生と呼ぶこと自体おかしい、と主張する人がいる。
そう思っている人はそれでいい。
その人たちを説得する気は私にはまったくないし、
私自身は、先生と呼ぶ人と呼ばない人を、はっきりと区別してきた。
先生と心から呼べる人たちが、かつてオーディオ界にはいた。
その時代を私は知っているし、そこにいて、その人たちと仕事をすることができた。
そういう時代があったことすら知らない世代が、今後、オーディオ業界で増えていく。
そういう世代の人たちは、上の世代、先輩社員が、先生と呼んでいるから、
それに倣っておこう、ぐらいの軽い気持で先生と呼ぶようになるのかもしれない。
仕事だから──、と割り切って先生と呼ぶ。
そうなれば、そこに区別はなくなる。
「アリータ: バトル・エンジェル」のことを書こうと思うと、
予告編について書いておきたい。
映画館では、必ずといっていいほど本編の前に予告編がある。
本編を観に来ているのだから、予告編など見せるな、という客がいることは知っている。
でも私は本編だけでなく、予告編も映画館で映画を観る楽しみだと捉えている。
1998年ごろからだったか、インターネットでも映画の予告編が見られるようになった。
といってもアメリカの映画の予告編だから、音声は英語、字幕もなし。
それでも新しい予告編が公開されるのを、楽しみにしていた。
そのころ56kbpsのアナログモデムを使ってインターネットに接続していた。
予告編をストリーミングで見ることは、ほぼできなかった。
ダウンロードして見るしかなかった。
そのころの予告編は、ちいさなサイズだった。
横幅480ピクセルだったはずだ。
予告編の容量は20数MB程度だった。
それでもダウンロードするのに二時間程度かかっていた。
しかも20%くらいでダウンロードが終るという時に、接続が切れることもあった。
そういう時は最初からダウンロードし直しだ。
STAR WARS episode Iの予告編もそうやってダウンロードした。
映画が上映されるのは数ヵ月以上先だった。
何度も、ダウンロードした予告編を見ていたし、
友人、知人にも何人かに見せていた。
そのころはPowebook 2400cを使っていた。
小さな液晶サイズだし、予告編はさらに小さなウィンドウで再生される。
フルスクリーンにはできなかったはずだ。
それでもみな「スゴい」といって見ていた。
別項「正しい聴き方と自由自在な聴き方(self reliance)」で、自由について書いた。
自由を好き勝手というふうに捉えていては、時代の軽量化を感じることはないのかもしれない。
仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいた。
正しく鍛えられていれば、自由の英訳としてself relianceを選ぶのではないだろうか。
正しく鍛えられていれば、それまでやってきたさまざまなことが結ばれていく、つながっていく。
そうすることで、解答へと近づいていく。
ただ鍛えられているだけでは、自由の英訳としてfreedomを選ぶのではないだろうか。
ただ鍛えられているだけでは、それまでやってきたさまざまなことが結びつくとは限らない。
それでは回答へと近づけても、解答には近づけない。
瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」に書かれていることが、
そのままメリディアンのULTRA DACにもあてはまる。
*
さて、カートリッジに望む第二条件は、そうしてあらゆる音楽(レコード)をきちんと鳴らしてくれるばかりでなく、そこに、そのカートリッジでなくては聴けない音の魅力がなくてはならない。そうでなくて、どうして、そのカートリッジをあえて選ぶ理由があるのだろう。
この音の魅力というのを、カートリッジの音のクセと混同して頂きたくない。あらゆる音楽に、その音楽固有の音色の魅力がある。それぞれに異なる音楽の魅力をうまく抽き出しながら、しかもつい聴き惚れてしまうほどの美しい音楽的なバランスの良さが必要だ。どことなく無機的な、いわゆる蒸留水のような音は私は最も嫌う。だいいち、もとの音楽には演奏家の心をこめた気迫もあれば、色や艶もあり、そこにかもし出されるえもいわれぬ深い味わいがある。そういう音楽の魅力を、まるで鳴らしてくれないカートリッジがある。低音から高音までフラットでバランスが良い。ひずみもきわめて少なく、トレースは全く安定していて、どんなレコードも心配なく鳴らしてくれるのに、その音に味わいも艶も余韻の微妙な美しさもなくて、ただ白痴のような美しさだけ聴かせる。そんなカートリッジはどこか間違っていると私は思う。いや、正しいか間違いかなどはこの際問題ではない。そういうカートリッジではレコードの世界の深さを聴き手に伝えてくれないから、思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせてくれない。結構な音でございます、では音楽の魅力は伝わってこない。だが、そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている。
*
カートリッジをD/Aコンバーターに置き換えて読む。
《思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせて》くれるのが、
ULTRA DACである。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。
つきあいの長い音は、原風景へとなっていくのか。
別項「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その3)」で、
菅野先生が、オーディオのデザインについての連載を、
「ひどい記事だったね」といわれたことを書いている。
気づいてほしいのは、ひどい記事と思われながらも、
その連載をきちんと読まれていたことである。
私も、その連載は毎回読んでいた。
読んでいたから、菅野先生とふたりして「ひどい記事だったね」となったわけだ。
ひどい記事だと思っても、一度は目を通す。
そのことを思い出したから、今日、ステレオサウンド 210号を手にとっていた。
336〜337ページの、LINNの新製品、
Selekt DSMの記事でページをめくる手が止った。
違和感といったら大袈裟すぎだけど、
あれっ? と思うところがあってだ。
記事にはSelekt DSMの写真がある。
Selekt DSMのディスプレイには、
Shostakovich;
Symphony No.5 in…
96kHz/24bit FLAC
と表示されている。
これ自体におかしいところがあるわけではない。
ショスタコーヴィチの交響曲第五番を、
Selekt DSMを試聴した人は聴いたのだな、と写真を見て思う。
けれど試聴記にはショスタコーヴィチのことはまったくない。
試聴記になくても聴いたんだろうな、と思い、
新製品紹介の最後にある試聴ディスク一覧(399ページ)をみると、
確かに、ショスタコーヴィチ:交響曲第五番とある。
けれどショスタコーヴィチを試聴用に聴いているのは三浦孝仁氏である。
Selekt DSMを試聴しているのは山本浩司氏である。
試聴ディスク一覧は、試聴に使われたディスク(ファイル)のすべてではないことは、
必ず「他」と記されていることからもわかる。
そうであっても、試聴記に一切出てこないディスク(ファイル)を表示させるのか。
Selekt DSMのひとつ前のページでは、dCSのBartók DACを三浦孝仁氏が紹介している。
そこの試聴記にはショスタコーヴィチと出てくる。
日本民間放送連盟が総務省に、
ラジオのAM放送の廃止を求める方針を決めた、というニュースが二日前にあった。
すでにAM放送の一部はワイドFM対応のチューナーで受信できるようになっている。
ノイズがFM放送よりも多く、音質面でもAM放送は不利である。
しかもAM放送は1992年にステレオ放送となったが、
いろいろな事情から元のモノーラル放送に戻っている。
一方でインターネットのストリーミングを利用したradikoではステレオで聴ける。
そういう状況においてAM放送が廃止に向うのは仕方ないことなのかも、と思いながらも、
AM放送が終ってしまったら、鉱石ラジオも無用の長物と化してしまう。
電源を必要としない鉱石ラジオ(ゲルマニウムラジオ)。
いまでもキットが売られているようだから、
若い世代の人たちでも作ったことのある人は少なくないかもしれない。
もっともプリミティヴな受信機である。
ゆえにFM放送は受信できないものだと、二日前まで思い込んでいた。
一応確認のためと思い、検索してみると、
かなり技術的に難しい面もあるが、鉱石ラジオでのFM放送の受信もできないわけではない。
AM放送用の鉱石ラジオの手軽さは、ないといえる。
九年前に(その3)を書いている。
そこである方のツイート、
「ゲルマニウム(ラジオ)でなければ復調できない類の記憶」を引用している。
AM放送がほんとうに廃止されれば、ノイズに関する一つの記憶が、
そこから先の世代には存在しなくなる。