Date: 3月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論
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ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その6)

区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。

倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。
曖昧な区別のまま、すべてのオーディオ評論家を先生と呼ぶのだろうか。

川崎先生が「もう一度、とっても会いたい菅野沖彦先生」を公開されている。

川崎先生も、菅野先生と呼ばれる。
《私は好き嫌いがはっきりとしています。
たくさんの評論家の中でも特に先生に傾倒していました。》
と書かれている。

ここでの川崎先生の、はっきりとした好き嫌いは、はっきりとした区別である。

《今では、この程度で?と、
残念なオーディオでありビジュアルの評論家が多いのです。》
とも書かれている。

この人たちのことは、先生とつけて呼んだりはしない。

区別を曖昧にしてきたことで、疎かにしてきたことで、
多くの人たちは区別することができなくなりつつあるのかもしれない。
区別に求められることが何なのかも、わからなくなりつつあるのかもしれない。

結果、差別を生んできているのではないのか。

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