オーディオの想像力の欠如が生むもの(その59)
オーディオの想像力の欠如した耳に、
《陽の照った表側よりも、その裏の翳りを鳴らすことで音楽を形造ってゆくタイプの音》は、
どうきこえるのだろうか。
オーディオの想像力の欠如した耳に、
《陽の照った表側よりも、その裏の翳りを鳴らすことで音楽を形造ってゆくタイプの音》は、
どうきこえるのだろうか。
これが9385本目で、10000本まであと少し。
間違いなく、今年中に1000本目を書くことになるけれど、
ここまできても特に達成感のようなものはない。
毎日書いていて、達成感はない、ということは以前書いいるとおり。
それでも、ここに来て、達成感ではないけれど、違うものを少し感じ始めてきた。
突破できたかな、という感覚である。
この感覚は、うまく書けたから得られるものではなく、
あくまでも私一人、感じていることでしかない。
突破できたかな、とか、突破できた、と私が感じているのは、
どれなのかは書かないし、
書いたところで、えっ、これが? と思われることだろう。
うまく書けたかどうかではないから、
読まれている方には理解しにくいことのはずだ。
それでも、この突破という感覚は、
それが小さいものであっても、大事にしたい。
真空管アンプを自作する、
そこでの塩加減はなんのか。
こじつけなのかもしれないが、ハンダ付けにおけるハンダの量のような気がする。
二十数年前に、知人に頼まれて抵抗とコンデンサーだけの、
いわゆるパッシヴ型のデヴァイダーを作ったことがある。
4ウェイ用で、モノーラル仕様。
シャーシー加工が終り、依頼してきた知人が一台、私が一台を作ることになった。
当然だが、使用部品は同じ。
内部の配線もプリント基板を使わずにラグ端子を使って行った。
配線材は左右チャンネルで同じになるように、線材の長さだけでなく向きも揃えた。
そうやって二台のパッシヴ型のデヴァイダーが出来上った。
ステレオで聴いた後に、スピーカーを一本にしてモノーラルでも聴いてみた。
知人が作ったモノと私が作ったモノとの比較試聴である。
部品が同じだから、基本的には同じ音といえるけれど、
まったく同じ音でもなかった。
ここでの音の違いは、ハンダ付けの違いに起因するとしか思えない。
もちろん同じハンダ(キースター)を使っている。
けれど一箇所あたりのハンダの量は、知人と私とでは違いがあった。
知人のほうが一箇所あたりのハンダ使用量は多かった。
多かったといっても、二倍も違うわけではない。
ハンダの量の違いは、作っている途中で、知人も気付いていた。
ハンダの量は多すぎても少なすぎてもダメであり、
塩加減と同じで、ハンダ付けも一発勝負である。
パッシヴ型のデヴァイダーだから、いくら4ウェイ用とはいえ、
使用部品点数は少ないし、ハンダ付けの箇所も多いわけではない。
真空管アンプに比べれば、ずっと少ない。
それでもハンダ付けでのハンダの量は、
少なからぬ違いとして、音としてあらわれることは事実である。
塩加減ということで、さらに脱線していけば、
瀬川先生がステレオサウンド 56号で、
JBLのParagonについて書かれた文章から、次のことを引用したくなる。
*
おもしろいことに、パラゴンのトゥイーター・レベルの最適ポイントは、決して1箇所だけではない。指定(12時の)位置より、少し上げたあたり、うんと(最大近くまで)上げたあたり、少なくとも2箇所にそれぞれ、いずれともきめかねるポイントがある。そして、その位置は、おそろしくデリケート、かつクリティカルだ。つまみを指で静かに廻してみると、巻線抵抗の線の一本一本を、スライダーが摺動してゆくのが、手ごたえでわかる。最適ポイント近くでは、その一本を越えたのではもうやりすぎで、巻線と巻線の中間にスライダーが跨ったところが良かったりする。まあ、体験してみなくては信じられない話かもしれないが。
で、そういう微妙な調整を加えてピントが合ってくると、パラゴンの音には、おそろしく生き生きと、血が通いはじめる。歌手の口が、ほんとうに反射パネルのところにあるかのような、超現実的ともいえるリアリティが、ふぉっと浮かび上がる。くりかえすが、そういうポイントが、トゥイーターのレベルの、ほんの一触れで、出たり出なかったりする。M氏の場合には、6本の脚のうち、背面の高さ調整のできる4本をやや低めにして、ほんのわずか仰角気味に、トゥイーターの軸が、聴き手の耳に向くような調整をしている。そうして、ときとして薄気味悪いくらいの生々しい声がきこえてくるのだ。
*
Paragonのトゥイーター(075)のレベル調整こそ、
まさに塩加減ではないか、とおもう。
料理の塩加減は、一発勝負でやり直しはきかないが、
スピーカーのレベル調整は、必ずしも一発勝負ではない。
ただし、この領域になると、
いいところに決った、と思って、そこでやめることができればいいのだが、
欲深く、さらに……、とあと少しだけ動かしてみたら、だめということがままある。
それで元に戻したら……、とはなかなかならない。
巻線抵抗のアッテネーターは、けっこうヤクザな造りである。
もとに戻したはずなのに、そうはならないのが巻線抵抗である。
とはいえ根気よくやれば、最適ポイントを探しだせる。
塩加減で思い出すことが、もう一つある。
1980年代に、文春文庫から「B級グルメ」シリーズが出ていた。
そこに四川飯店の陳健民氏(だったと記憶している)が、
自宅でつくるラーメンが、とても美味しい、という記事が載っていた。
どんなスープを使っているのか、とよくきかれるそうだ。
でも使っているのは、醤油と塩だけ、とのこと。
その他の調味料は使っていない。
麺はインスタントラーメンの乾麺を使う、とのこと(記憶違いでなければそうだったはず)。
たったそれだけのラーメンなのに、美味しい。
このときは、自炊もほとんとしていなかったから、理解していたわけではなかった。
でも、自炊を重ねて、ワンポイントしかないといえる絶妙な塩加減のことを体験すると、
陳健民氏のつくるラーメンも、塩加減がほんとうに絶妙だからこその美味しさだったのでは……、
とおもうようになった。
陳健民氏は料理のプロフェッショナルだし、料理の天才なのかもしれないから、
いつでも絶妙な塩加減を再現できるのだろう。
中途半端な記憶なのだが、イタリアでは、
オリーブオイルは金持ちにかけさせろ、
塩は天才にかけさせろ、といわれているらしい。
オリーブオイルはケチケチせずに、
塩は絶妙の塩加減は、天才の領域なのだろう。
ほんとうに、イタリアでそんなことがいわれているのかもあやしいが、
納得できることだ。
この塩加減、
アンプの自作では、何に相当するのか。
別項「LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その7)」で書いている知人。
彼も、自身をオーディオマニアという。
けれど、私から見れば、
知人はオーディオ機器を頻繁に買い替えるのが趣味の人である。
オーディオに関心も理解もない人からすれば、
知人も立派なオーディオマニアとして映っていることだろう。
むしろ、それだけ頻繁に買い替える、
つまりそれだけお金を、人よりも多くかけているわけだから、
そうとうなオーディオマニアということになろう。
いやいや、彼は買い替えるのが趣味の人だから……、と、
そんなことを私がいったところで、「それでもオーディオマニアでしょ」と返ってくるか、
もしかすると「それこそがオーディオマニアでしょ」といわれるかもしれない。
そんな彼でも、オーディオにそれだけのお金をかけているわけだから、
オーディオが好きなことに違いない、とは思う。
でも、その「好き」と、
私がおもっている「好き」とでは、オーディオに限っても大きく違っている。
「好き」に関しても、人それぞれと(その4)に書いたばかりだから、
知人の「好き」にも理解を示さなくてはならないだろうが、
やはり、どこかで知人の「好き」に関しても、
女性のオーディオマニアの「好き」に関しても、
疑ってしまうところが、私にはある。
つまり「好き」という感情が、こちらに伝わってこないからだ。
この伝え方も、人それぞれであり、
うまく伝えられる人、そうでない人もいるし、
初対面の人に対して、そうそううまく伝えられる人のほうが少ないであろう。
そんなことはわかっている。
けれど、(その1)で紹介した魯珈のカレー、
(その2)のAさんの話からは、この「好き」という感情が、
ストレートにこちらに伝わってくる。
しかも、そのストレートぶりは、女性だからこそできることなのかもしれない、
そんなふうにもおもえるからこそ、この項を書いている。
女性のオーディオマニアが登場したスイングジャーナルは、もちろん読んでいる。
スイングジャーナルの記事として、いつもの内容だった、と記憶している。
ひどい記事だな、と感じたら、それなりに記憶しているものだから、
決してひどくはなかったはずだ。
それでも、その女性のオーディオマニアは、気にくわなかったようだ。
つまり彼女が話したことを、うまく編集部がまとめられなかった、ということだろう。
話したことをそのまま文字に起して、細部を手直ししたくらいで、
雑誌にのせられる内容になることは、まずない。
菅野先生ぐらいである。
菅野先生が一人で話されたことは、テープ起しして、
少しだけ細部を手直しすれば、全体の構成といい、問題なく掲載できる内容に仕上がる。
けれど、私がいたころ、このレベルの人は菅野先生だけだった。
たいてい構成も変えて、かなり言葉も追加して、という作業が必要になる。
スイングジャーナルに、女性のオーディオマニアが話されたことを、
直接聞いたわけではないし、どの程度のことが活字になったのはなんともいえないが、
少なくとも、彼女が、彼女自身が思っているほどにはきちんと話せていなかったのではないだろうか。
彼女のなかでは、こんなふうに話したつもりであっても、
それはあくまでもつもりであって、未熟なものだった気もする。
なにも、このことは、この女性のオーディオマニアの話のレベルが……、ということではない。
たいていの人がそうなのだ、ということをいいたいだけである。
これはセルフイメージと現実とのズレであり、
彼女自身、自分が話したことを冷静に聞き直して、
できればテープ起ししてそれを読んでみれば、
スイングジャーナルの記事に対して、少しは好意的になれた──、とはおもう。
東京のジャズ喫茶やバーに焦点をあてた写真展『Tokyo Jazz Joints』が、
ドイツ・ベルリンで6月7日から29日にかけて開催される──
というニュースを土曜日に知った。
(参照サイト:『ドイツ・ベルリンで「東京のジャズ喫茶」をテーマにした写真展』)
写真展の会場となるのは、
日本のジャズ喫茶から着想をえたというベルリン市内のジャズ喫茶、とのこと。
ドイツにも、日本のジャズ喫茶があるわけだ。
これもジャズ喫茶が生んだものだ。
(その4)にfacebookでコメントがあった。
そこには、セルフイメージのコントロールに関して、
その時代では、女性の方が意識的であった、ということなのかも……と。
セルフイメージのコントロールという表現は考えていなかったけれど、
似たようなことは、この項を書いていて感じていた。
2014年11月の「うつ・し、うつ・す(その4)」で、
小林悟朗さんがいわれたことを取り上げている。
女性は毎日鏡を見る。その時間も男性よりもずっと長い。
つまり小林悟朗さんは、オーディオから鳴ってくる音を鏡として捉えられていて、
オーディオマニアにとって音を良くしていく行為は、
鏡を見て化粧することで、女性が自分自身を美しくしていく行為に近いのではないか──、
という考えを話してくれた。
だとしたら、毎日長い時間鏡の前にいる女性には、もうひとつの鏡であるオーディオは必要としないのではないか。
女性のオーディオマニアが極端に少なく理由についての、
小林悟朗さんの考察を、この項を書いていて思い出していた。
そのことに触れるつもりはなかった。
書き始めると、またテーマから逸れてしまうことになるからだ。
でもコメントを読んで、少しだけ書こう、という気になった。
化粧も、セルフイメージのコントロールといえよう。
確かに、女性はセルフイメージのコントロールに関しては、意識的であろう。
1985年当時は、男性で化粧する人は珍しかったけれど、
最近では、男性でもセルフイメージのコントロールに関しては、
そうとうに意識的な人が増えているんだろうなぁ、と思いつつも、
スイングジャーナルとステレオサウンドに登場した女性のオーディオマニアは、
どんなセルフイメージを抱いていたのだろうか、その当時は。
なんでもスイングジャーナルに掲載された内容に満足していないから、らしかった。
スイングジャーナルの記事は、その女性のオーディオマニアの書き原稿ではなく、
彼女が話したことを編集部がまとめてのものだった。
そのまとめが気にくわなかったか、
ステレオサウンドに対しても、そんなことにならないように事前にチェックしたい、と。
私のまとめに満足していただけたようで、問題ない、との返事だった。
スイングジャーナルの記事よりも、だから私にとって、
この女性のオーディオマニアの第一印象は、このことが大きく関係している。
彼女はその後、読者代表ということで、
井上先生の使いこなしの記事にも登場している。
この記事の担当も私である。
その数ヵ月後に、井上先生の記事に一緒に登場した、もう一人の読者代表の人と二人で、
彼女のリスニングルームに行き、音も聴いている。
何度か、それからも会っている。
このブログで、何度も、人それぞれだ、と書いてきている。
ほんとうに、人それぞれだと思っている。
オーディオマニアに限っても、人それぞれであり、
同世代、世代が近くても、人それぞれだなぁ、と深い溜息をつきたくなることもある。
いい意味でも悪い意味でも、人それぞれであることを、
歳を重ねされば重ねるほど実感してきているわけだから、
彼女一人を例に挙げて、女性のオーディオマニアは……、ということはいえないのは承知している。
それでも、この女性のオーディオマニアの「好き」という感情を、
どこかで疑ってしまいたくなる。
ほんとうに彼女はオーディオが好きなのか。
この「好き」に関しても人それぞれなのはわかっていても、そう感じてしまう。
女性のオーディオマニアは少ない。
音楽好きの女性は多いのに、
オーディオに凝っている人となると、極端に少なくなってしまうのはなぜか、
ということは、ずっと以前から語られ続けられていることだ。
その理由について、いろんな人がそれぞれに語っているけれど、
なぜだか極端に少ない、としかいいようがない。
そのせいか、女性のオーディオマニアは珍しがられる。
オーディオ雑誌に登場すれば、注目を集める。
1985年のスイングジャーナルに、一人の女性のオーディオマニアが登場した。
数ヵ月後、ステレオサウンドのベストオーディオファイルに、その女性が登場した。
菅野先生のベストオーディオファイルが始まったとき、
そのまとめは編集顧問のYさんだった。
その次が編集部のNさんだった、と記憶している。
1985年ごろは私がまとめをやっていた。
菅野先生と取材に行くのは、編集次長だった黛さんだった。
カセットテープに録音された菅野先生とオーディオマニアとの会話を文字起し、
規定の文字数にまとめる編集作業を、1985年ごろから辞めるまでは私がやっていた。
その女性のオーディオマニアの回も、私がまとめていた。
こんなことを書いているのは、その女性のオーディオマニアだけが、
掲載前に原稿をチェックしたい、と言ってきたからだ。
私がまとめをやっていた約四年間で、こんなことを言ってきたのは、
彼女が初めてだった。
それ以前にもいなかったし、それ以降もいない。
少なくとも1988年まではいなかった。
魯珈のことを書く気になったのは、
別項「会って話すと云うこと(その24)」でのことがきっかけになっている。
一次会のお終りまぎわに、オーディオという単語に反応した人がいた。
十一人の参加者中、女性は三人。
オーディオに反応した人は、女性(Aさん)だった。
「田口スピーカーを、知っています?」という反応だった。
反応があったことも意外だったけれど、
田口スピーカーを鳴らしている、ということも意外だった。
一次会では、その女性と私が坐っていた席は、けっこう離れていた。
音楽好きな人だということは、聞こえてくる会話でわかっていた。
それでも、音に強い関心があるとは、一次会ではわからなかった。
二次会では、たまたま隣の席だった。
Aさんは、iPhoneに収められている写真を見せてくれた。
「これなんですよ」と言いながら見せてくれた写真に写っていたのは、
私が勝手に想像していたスピーカーよりも、ずっと大型というか、
そうとうに大型のフロアー型だった。
しかも専用のリスニングルームといえる空間に、
写真だけ見せられれば、
そうとうなオーディオマニアの部屋だと思ってしまうほどの雰囲気であった。
隣に坐っているAさんは、私よりも二つ下。
小柄であり、そんなふうには見えなかっただけに驚いただけでなく、
Aさんは、写真をいくつか見せてくれながら、楽しそうに語ってくれる。
Aさんは、女性のオーディオマニアなわけではない。
音楽がとても好きで、何かのきっかけで田口スピーカーと出逢い、
衝動買いしてしまった、とのこと。
田口スピーカーのラインナップには、けっこう数がある。
比較的小型のスピーカーがあるのは知っていたから、てっきりそれだと思っていた。
写真にあったのは、オーダーメイドに近いモノのようだった。
菅野先生が、こんなことを書かれていた。
*
私は食べるのも好きだが、つくるほうにも興味があり、忙中閑ありで、しばしばキッチンに立つが、料理でもう一つ面白いのが味つけの妙である。例えば、塩加減など一発で決めないとうまい料理は絶対にできない。一回塩を入れて、濃かったらもう駄目だ。いくら薄めてもうまい味は出ない。逆に、薄いところに、後で追加しても思い通りの味には絶対ならない。これは書道における一筆描きの如きもので、かすれていようとなぞったら駄目なのと同じことであろう。また、これは私の体験から分ったことだが、よく料理の時間などで、三人前で塩小さじ一杯などというが、では、六人前なら二杯かというと、そうはいかないのだ。これも料理の実に面白いところだと思う。
(「うまい料理」より引用)
*
「うまい料理」(「音の素描」におさめられている)を最初に読んだ時は、
まだ自炊はしていなかった。
なので、塩加減について、そうものなのかぁ、ぐらいの受け止め方だった。
でも自炊を積極的にするようになってくると、菅野先生が書かれているとおりである。
《一回塩を入れて、濃かったらもう駄目だ》
そのとおりである。薄めてもうまくいかないし、
《薄いところに、後で追加しても思い通りの味には絶対ならない》のもそうである。
塩加減は、一発勝負である。
私の、たいしたものではない料理の腕でも、年に一回ほど、
見事な塩加減ができるときがある。
そういうときは、ほんとうに美味しい。
けれど、料理の素人である私は、その絶妙の塩加減を再現できるわけではない。
まぐれでうまくいくことが、年に一回ほどある、というだけである。
塩加減の、ほんとうにうまくいったといえる範囲というのは、
ワンポイントなのかもしれない、と思う。
ちょっとでも増えたら(減ったら)、もうその絶妙な塩加減から外れてしまう。
外れたからといって、美味しくならないわけではないが、
ぴたっと絶妙の塩加減におさまった味というのは、自炊を続けているから味わえるともいえる。
菅野先生は、上で引用した文章に続けて、こう書かれている。
《私は録音の時、マイクロフォンを〝念じておけ〟という言葉を使う》。
九年前、「音を表現するということ(その3)」で、
“RESOUNDING” ということばを、再生側の立場で、解きほぐしていいかえるならば、
“remodeling(リモデリング)”と”rerendering(リレンダリング)” になり、
RESOUNDING = remodeling + rerendering というより、
RESOUNDING = remodeling × rerendering という感じだ、と書いた。
「音を表現するということ」という別項で、
音のモデリング、レンダリングについて書いた。
さらに「re:code」でも、このことについて触れている。
モデリング、レンダリングにreをつけての、リモデリング、リレンダリングである。
録音されたものをオーディオを介して鳴らすという行為は、
私はこう考えている。
もちろん違う考え方、真逆の考え方をする人もいるわけで、
そういう人たちが、絶対に認めなくないのがMQAなのだろうか。
「音を表現するということ(その5)」で書いたことをもう一度書いておこう。
CDよりも、DVD-Audio、SACDのデータ量は多い。
パッケージメディアから配信へと移行していくことは、パッケージメディアの規格から解放されることでもあり、
受けて側の処理能力が高ければ、データ量はますます増えていくはずだ。
だが、どんなにデータ量が、CDとは比較にならないほど大きなものになったとしても、
どこまでいっても、それは近似値、相似形のデータでしかない。
マイクロフォンが変換した信号を100%あますところなく完全に記録できたとしても、
マイクロフォンが100%の変換を行っているわけではないし、
マイクロフォンが振動板が捉えた音を100%電気信号に変換したとしても、
そこで奏でられている音楽を100%捉えているわけではない。
それぞれどこかに取零しが存在する。
なにか画期的な収録・録音方法が発明されないかぎり、
どんな形であれ、聴き手であるわれわれの元に届くのは、近似・相似形のデータだ。
だからこそ、その相似形・近似値のデータを元にしたリモデリング、リレンダリングが、
聴き手側に要求され、必要とされる。
今夏、コンビニエンスストアの雑誌コーナーから、エロ本の類がなくなる、とのこと。
コンビニエンスストアで、この手の本を買うのは、
インターネットをやっていない高齢者ぐらいだ、ともいわれている。
ほんとうにそうなのだろうか。
コンビニエンスストアに、この手の本が置かれるようになって、どのくらい経つのか。
いままで一度も、買っている人を見かけたことがなかった。
見かけたことがなかったからといって、売れていないわけではないはず。
在庫管理は徹底しているはずだから、売れないものは置かれないのがコンビニエンスストアのはずだ。
ずっと置かれている、ということは、そこそこ売れているのだろう。
それでも見かけたことがなかった。
なかった、と書いているのは、3月の終りごろだったか、
初めて買っている人を見た。
確かに年齢は高そうな感じの人が買っていた。
だからといって、その人がインターネットをやっていないのかどうかはなんともいえない。
電車に乗れば、ほとんどの人がスマートフォンを持っている時代である。
その人もスマートフォンも持っていて、自宅にはパソコンもあって、
インターネットで、無修正の、その手のものを見ているのかもしれない。
その上で、コンビニエンスストアで、その手を雑誌を買う。
それは無修整であるかどうか、でもなく、
タダなのか有料なのか、そういうことでもなく、
表紙を見て、買いたい、という衝動にかられたからなのかもしれない。
本人に訊ねたわけではない。
インターネットをやっていないのか、やっていてもなお、そのエロ本を買うのか。
後者だとしよう。
コンビニエンスストアのこの手の本は、中を見ることができないようになっている。
にも関らず買うということは、どういうことなのか。
しかもコンビニエンスストアで買うというのは、少々勇気のいること、とでもいうか、
恥ずかしいことでもあろう。
それでも買う。
こんなこと「It’s JBL」とは何の関係もないじゃないか、といわれそうだが、
こういう人がいなくなってしまうと、
インターネットで得られる情報だけで済ませてしまう人ばかりになってしまうような気もする。