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Date: 6月 6th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

昨晩、喫茶茶会記に行ったら、
グッドマンのスピーカーシステムが一本だけ置いてあった。
店主の福地さんによると、戻ってきたモノ、とのこと。

以前audio wednesdayで鳴らしたグッドマンとは、別のグッドマンのスピーカーシステムである。
一本だけである。
モノーラル再生しかできないけれど、見ていて、それもいいかなぁ、と思えてきた。

私と同世代、近い世代の人にとって、ラジカセは音楽を聴く道具の出発点であったと思う。
その前に、ラジオがあっただろうけれど、ラジオは好きな時に好きな音楽を聴けるわけではない。

カセットテープに録音しておけば、聴きたい時に聴ける──、
そういう意味での出発点である。

喫茶茶会記には、ソニーのカセットデッキがある。
マッキントッシュのMA7900はモノーラルスイッチがついている。
ならばモノーラル出力にして、グッドマンのスピーカーを一本だけ鳴らす。

もちろんソースはカセットテープである。
ミュージックテープでもいいし、自分で録音したテープでもいい。

なんらかの音楽が録音をされたカセットテープを持ち寄っての音出しを、
7月のaudio wednesdayでやろう、と考えている。

7月のaudio wednesdayは、3日。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その11)

昨晩のaudio wednesdayは、三ヵ月ぶりの標準システムだけによる音出しであった。
4月はメリディアンのULTRA DAC、5月はメリディアンの218を迎えての音出しであった。

マッキントッシュのMCD350、MA7900、それにアルテックを中心としたスピーカー。
今回三ヵ月前と違うのは、電源コードだけである。

しかもMA7900の電源コードは5月にすでに聴いてもらっている。
MCD350の電源コードだけ、3月に聴いてもらったのを長くして、
壁のコンセントから直接とれるようにしただけである。

音の変化は小さくなかった。
私にとってはそうしている範囲でのことであっても、
昨晩来られた方には、かなり大きな変化だったようだ。

ある人から、「変えたの電源コードだけですか」と訊ねられた。
「電源コードは変えたけれど、いちばんの大きな変化は、私の人間的成長です」、
そう返した。

私の答を、また冗談言っている、と受け止められたと思うが、
けっこう本気で言ったことだ。

「音は人なりと昔からいうでしょう」ともつけ加えた。

オーディオで音を変えるのは、特に難しいことではない。
何かを変えれば、音は変化する。
いい方向にも悪い方向にも、音は変化する。

何かを、以前のモノよりもずっと高価なモノに買い替えれば、
音の変化は、決して小さくないはず。

そういう音の変化を楽しむのも、オーディオの楽しみではある。
それでも「音は人なり」である。

結局、音を大きく変化させるのは、鳴らし手の人間的成長である。

Date: 6月 5th, 2019
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(Made in Japan・その4)

製品開発と製造は違う国で行うことは、いまや珍しいことではない。
各国の、いろんなメーカーがすでに行っていることである。

オーディオも以前からそうなっていた。
特にローコストの製品はそうだった。

高級品(高額品)もそうなりつつある、というところなのか。
製品の品質に問題がなければ、特に取り上げるようなことではない。

なのにここで書いているのは、電子機器ではなく、
スピーカーシステムにおいて、このやり方を続けていく──、
どうなるのかという懸念がないわけではない。

スピーカーシステムのエンクロージュアが木工でなければ、あまり問題にはならないが、
金属エンクロージュアも登場してきたとはいえ、
やはりエンクロージュアの多くは木である。

井上先生がよく言われていたことがある。
エンクロージュアづくりの難しさである。
木工の難しさである。

いまはどうなのか知らないが、
当時のオーディオメーカーは、腕利きの木工職人を抱えていた、ときく。

スピーカーシステムの開発には、なくてはならない存在である。
ベテランの職人であっても、
まったく同じといえる二本のエンクロージュアをつくるのは、
ほぼ無理だ、と井上先生はいわれていた。

木工のデリケートさを強調されていた。
接着剤の量、接着まで終えるまで、各部にかける圧の調整、
湿度や温度、とにかくいろんな要素によって、エンクロージュアの音は違ってくる──、
そういうものである。

Date: 6月 4th, 2019
Cate: きく

トマティスメソッド

ステレオサウンド 211号で目を引いたのは299ページである。
ここに、アルフレッド・トマティスの名前があったからだ。

1990年ごろ、マガジンハウスが出版していた雑誌(休刊)に、
このトマティスメソッドのことが載っていた。

そこには各言語の周波数グラフがいくつか載っていた。
フランス語のそれもあった。

スピーカーのメーカーの国による音の違いがよく論じられていたころのフランスのスピーカー、
その特徴的な音色をあらわしているかのようなグラフのカーヴだった。

他にもドイツ語、英語、日本語があったように記憶している。
トマティスメソッドがある、ということもその時知った。

ずっと気にはなっていた。
耳のトレーニングには最適のように思えたからだ。

インターネットを使うようになって数年したころ、
トマティスメソッドで検索したことがある。

いまもトマティスメソッドはある。
前回もそうだったけれど、料金を見て行くのをやめた。

いまは無料体験コースもあるようだ。
行く価値はあるように、いまも思っている。

Date: 6月 4th, 2019
Cate: ディスク/ブック

FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その2)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDを、
昨年5月のaudio wednesdayで鳴らした。

びっくりするほど、ひどかった。
その二年前(2016年)に鳴らしたことは、(その1)で書いている。

ウーファーとエンクロージュアは同じでも、
上の帯域は、私物のJBLの2441+2397だった。
アンプも違っていた。

この時はCDだったけれど、聴いていた人の一人が、拍手をしてくれた。
そのくらいうまく鳴ってくれた。

2018年5月の音は、ギターの音色の違いが判然としない。
観客のざわめきも、さほどリアルに感じられない。
なにより聴いていて昂奮してこない。

聴いていると、気になる点ばかりが耳につく。
まったく同じ音になるわけがないのはわかっていたし、
それでも、そこそこ鳴ってくれるという期待はあった。

その数ヵ月後にも一度鳴らしているが、それでも、私が求める鳴り方からはほど遠かった。

明日(6月5日)のaudio wednesdayで、SACDで鳴らそうと思っている。
SACDでの三度目の正直となるか。

Date: 6月 4th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その3)

今日(6月4日)は、ステレオサウンド 211号の発売日。
発売日に書店に行き手にする──、
ここ数年、そんなことすらしなくなっているけれど、今回はさきほど購入してきた。

黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その2」を読みたかったからである。
タイトルは、その2ではなく、後編に変更になっている。

先週公開されたステレオサウンド 211号の告知をみて、
今回も黛健司氏が書かれるんだ、とまず思った。

先月末の日曜日、友人のAさんと会っていた。
私と同じ1963年生まれのAさんも、
「ステレオサウンドの前号(210号)でおもしろかったのは、
黛さんの記事だけだった」といっていた。

「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」を読みながら、
Aさんが20代のころ読んでいたステレオサウンドを思い出しながら読んでいた、とのこと。

そのときも、「その2は誰が書くんだろうね、黛さんなのかな、他の人なのかな」と話していた。
その数日後に、黛さんが書かれることがわかった。

読み終えた。
そしておもうことがある──、
ほんとうのことをいえば、黛さんが書くということがわかったときからおもっていることが、
ひとつあった。

Date: 6月 3rd, 2019
Cate: ラック, 広告

LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その13)

長岡鉄男氏は、さらにこんなことを書かれている。
     *
 たとえばある辺境の販売店では店主がその地域のオーディオ・マニアを牛耳っていた。マニアには店主推奨の海外製品を押しつける。他の製品を買いたいというと、ウチへはくるなと追い出される。そんな店でメーカー後援のセミナーを開くことになった。講師は国産品第一主義の僕である。だから店内に一歩入るといような雰囲気である。店主は敵愾心むき出し、恐ろしく挑戦的である。プレーヤー、アンプは国産メーカー品でもいいが、スピーカーは店主推奨の海外製品を使えという。うまく鳴ったらおなぐさみ、お手並みを拝見しましょうという。集まった客も店主の息のかかった超偏向マニアばかりだから普通ではない。敵意というほどではないにしても目付きは冷たい。いやなところへきたなと思ったがなんとか音は出した。僕の持っていったソフト(もちろんAD)が優秀だったのでお客さんもびっくり、最終的には勝利の実感が持てた。それにしてもこんなくだらない仕事は早くやめるべきだと痛感、17年ぐらい前にセミナー拒否宣言を出して、以後は純メーカー主催、デパート主催、出版社主催、新聞社主催のセミナーを時々引き受けるだけにしている。
     *
「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」は、1993年に出ているから、
17年前は1976年ごろとなる。

《ある辺境の販売店》とは、いわゆるオーディオ専門店なのだろう。
オーディオ専門店すべてが、こういう店だ、とはいわないし思っていない。
けれど、こういう店が意外にも少なくないことも、いろいろと聞いている。

十年以上前になるが、菅野先生がいわれたことがある。
「日本のオーディオがひどくなった原因の一つは、オーディオ店にある」と。

菅野先生はステレオサウンドのベストオーディオファイル訪問の取材で、
全国をまわられているし、オーディオ店にも寄られている。

ベストオーディオファイルに登場する人は、
オーディオ店からの紹介ということもあったからだ。
それに、オーディオ店主催のセミナー、イベントにも行かれている。

そういう経験から、いわれたことである。

Date: 6月 3rd, 2019
Cate: 広告

ホーン今昔物語(It’s JBL・その5)

その1)を書くきっかけとなった人から、
今日、別のムックのことで,どう思うか、と訊かれた。

いま書店に並んでいる「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」のことである。

CDジャーナルのムックであり、ファイナル・ブランドのイヤフォンE1000が附録でついてくる。
ムックといっても、ページ数は30ページちょっとで、
半分はE1000の記事(といちおういっておく)。

ようするにメインはE1000であり、本の部分こそ附録ともいえる。
E1000の価格は二千数百円である。
「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」は税抜きで1,944円だから、
E1000が欲しい人にとっては、数百円ではあるが、最も安く買えることになる。

この「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」は、何なのか。
E1000が附録としてついてくるムックということになっているが、
実質は、E1000についての読み物がついたE1000そのものである。

オーディオ店や量販店などで購入するよりも、安く買える。
読み応えはないとはいえ、30ページほどの本がおまけでついてくる。

コスト的に考えれば、この「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」が、
E1000単体よりもかかっていることになる。
ムックの制作費は、ファイナル側も負担しているのかもしれない。

こんなパッケージで売る理由は、こうすることで書店で売れるからだろう、と思う。
いま書店の数が減ってきている、といわているが、
それでもオーディオ店や量販店よりも書店のほうが多いはずだ。

私がいま住んでいるところで、E1000を取り扱っている店は、
「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」を売っている書店ということになる。

そう見ていくと、
このムック(E1000を含めて)、ファイナルというブランドの広告そのものといえよう。

Date: 6月 2nd, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、SACDのこと

SACDの登場は1999年5月。
20年が経ったわけで、ステレオサウンド 211号は6月発売だから、
特集はSACDなのかな、とは予想していた。

実際、211号の特集は「深化するSACD」とある。

進化ではなく、深化である。
そう、進化とは書けない。

20年経っていても、進化しているわけではない。
けれど、深化なのだろうか、とも思う。

「化」がつくのにも関らず……、と皮肉めいたことをいいたくなる。
ならば進歩ならぬ「深歩」か。

でも「深歩するSACD」では……、と感じる。

特集「深化するSACD」には、
「私のSACD名盤ベスト10」と「SACDプレーヤー開発陣が語るリファレンスディスク」の項目がある。

211号は6月4日の発売だから、まだ見ていない。
なので、ここでどんなSACDが取り上げられているのかはまったく知らない。

でも、ここで、ステレオサウンドが売っているSACDが、
何枚も登場してたりするのだろうか──、と思っている。

だとしたら、それをどう受け止めるかは読者次第である。

SACDは20年経っても進化しなかった。
進歩ではなく進化を期待する方が無理というものだ。
それはよくわかっている。

なのにこんなことを書いているのは、
「進化するCD」ということを考えるからだ。

MQAが出てきて、MQA-CDが誕生した。
MQA-CDは、はっきりとCDである。
MQA-CDは、CDの進化である。

Date: 6月 2nd, 2019
Cate: Digital Integration

Digital Integration(デジタル/アナログ変換・その3)

その2)は少し脱線しているが、(その1)の続きに戻れば、
dCSのトランスポートからのデジタル信号を、
コントロールアンプのライン入力を接続しても、ほとんど問題なくD/A変換がなされている──、
そう思える音がしていた。

当時、dCSの輸入元のタイムロードだった。
タイムロードの技術担当者の説明によれば、
DSD信号のD/A変換には、フィルターがあればできる、ということだった。

ではなぜD/A変換用の回路を搭載しているかといえば、
主にジッター対策である、ということだった。

ここでのフィルターとはハイカットフィルターのことである。
ハイカットフィルターは、ケーブルをライン入力に接続することでも形成される。

ケーブルのもつ静電容量が存在し、送り出し側の出力インピーダンスがあるからだ。
つまりハイカットフィルターは、オーディオの伝送系のいたるところにあるわけだ。

アナログディスクのカッターヘッドにも、ハイカットフィルターは存在することになる。
カッティング針、駆動コイルなど質量をもつ部分があり、
駆動するアンプに関しても高域の限界があるわけだし、
DSD信号を直接カッティングマシンに接続するケーブルでもハイカットフィルターは形成される。

確かに理屈からいってもDSD信号そのままでカッティングは可能である。
タイムロードの技術担当者の説明を信じれば、
ジッターが発生しなければ、DSD直接でも問題は発生しない、ということになる。

いまデジタル録音であっても、LPで発売されるようになってきている。
DSD録音であれば、直接のカッティングが、
PCM録音ならばDSDに変換してのカッティングができる。

そう考えると、PCMからのDSD変換も、ある種のD/A変換といえるのだろうか。

Date: 6月 1st, 2019
Cate: audio wednesday

第101回audio wednesdayのお知らせ(Over The Rainbow)

今月のaudio wednesdayは、5日。
テーマの一つは、“Over The Rainbow”を聴く、である。

今年秋公開の映画「JUDY」の予告編を見てのテーマである。

“Over The Rainbow”には、実に多くのカバーがある。
私が持っていくのは、“JUDY AT CARNEGIE HALL”であり、
常連のTさんは、江利チエミによるカバーを持ってくる、とのこと。

どれだけの“Over The Rainbow”が集まるのかはわからない。
意外に少ないかもしれないし、多いかもしれない。

それから、今回からCDプレーヤーのMCD350の電源コードを自作のモノに交換する予定でいる。
3月に持っていった電源コードの長さが違うだけである。

これまでMCD350の電源はテーブルタップを介して、だった。
できれば壁のコンセントから直接取りたいけれど、
喫茶茶会記の場合、コンセントの数が少なく、しかも受けが一口しかないところもあって、
MCD350の電源は隣の部屋からとることになり、
一般的な長さの電源コードだと短すぎるからだ。

3月の電源コードの評価は良かったから、今回は三倍ほどに長くして、
壁のコンセントから取れるようにする。

これだけの変更だが、小さくない音の変化があるはずだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 6月 1st, 2019
Cate: 境界線

感動における境界線(その1)

「MQAのこと、MQA-CDのこと(その3)」に、
facebookでコメントがあった。

そこには、人が録音したものに感動するのに、何になのか……、とあった。

感動する、なのか、
感動できる、なのか。

ここも、どちらなのか、はっきりといえないところがある。

感動する曲もあればそうでもない曲もある。
感動する曲であっても、いつ聴いても感動するとは限らないし、
常に同じ感動があるとも限らない。

感動の正体がわからずに、感動している。
そして、それをなんとか言葉で表現しようとする。

フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」と語っている。

おそらく、これは真理なのだろう。
とすれば、人と人。
片方の人は、聴き手である私である。

これは、もうはっきりしすぎている。
では、もう片方の人は、いったい誰なのか。

演奏者を誰もが思い浮べる。
けれど、録音物を介して音楽を聴く聴き手にとっては、
演奏者だけが、もう片方の人ではない。

ここで、音楽の送り手側と受け手側という考え方をしていけば、
感動がある人と人のあいだは、
音楽の送り手側と受け手側のあいだ、ということになる。

こう考えると、複雑になっていく。
送り手側には、いったいどれだけの人が関っているのか。
受け手側にしてもそうだ。

単に受け手とは、聴き手の私一人だけではない。
送り手側と受け手側のあいだのどこに境界線を引くのかによって、
受け手側は、再生するオーディオ機器を含めてのことになってくる。

Date: 5月 31st, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQA-CDのこと(その3)

中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてある。
     *
 つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
 レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
     *
ジャクリーヌ・デュ=プレの演奏を聴くにあたって、
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のことは無関係で聴くのが、
音楽の聴き方として、正しいのかもしれない。

けれど、私がジャクリーヌ・デュ=プレを知ったときすでに、
ジャクリーヌ・デュ=プレは多発性硬化症に冒されて引退していた。

だからといって、
初めてジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を聴いたとき、
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のことなど頭にはまったくなかった。

聴き終ってからである。
ジャクリーヌ・デュ=プレの病気のこと、ジャクリーヌ・デュ=プレがどういう状況なのか、
そんなことをおもったのは。

中野英男氏が、ジャクリーヌ・デュ=プレの日本盤(LP)を、
二階の窓から庭に投げ捨てられた、その気持はわかる。

ジャクリーヌ・デュ=プレのチェロの音が、《荒寥たる乾き切った音》になってしまっては、
絶対に許せない。

中野英男氏が聴かれた《荒寥たる乾き切った音》とは、
また違う《荒寥たる乾き切った音》を聴いたことがある。

それでも、その音を鳴らしていた人は、
ジャクリーヌ・デュ=プレの演奏は素晴らしい、胸を打つ、という。

感動しているわけだ。
《荒寥たる乾き切った音》でも、その人は感動していた。
その人もオーディオマニアである。

私が求めているジャクリーヌ・デュ=プレと、
その人が出している(鳴らしている)ジャクリーヌ・デュ=プレは、
どちらもジャクリーヌ・デュ=プレなのか……。

それがオーディオだ、というしかないのだろう。

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を、
MQA-CDをメリディアンのULTRA DACで鳴らしたとしよう。

その人は、その音を聴いてなにをおもうのか。

Date: 5月 31st, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQA-CDのこと(その2)

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲は、
e-onkyoでも配信されている。

ただしジャクリーヌ・デュプレ、ジャクリーヌ・デュ・プレで検索しても、ヒットしない。
Jacqueline du Preでもダメで、
Jacqueline du Préで検索してようやくヒットする。

クラシックの演奏家は、カタカナで入力しても大丈夫なのに、
なぜかジャクリーヌ・デュ=プレは、正しく入力する必要がある。

ワーナーミュージックの音源として、
バレンボイムとのシューマンとサン=サーンスのチェロ協奏曲、
やはりバレンボイムとのドヴォルザークのチェロ協奏曲がある。
FLACとMQAがあり、どちらも96kHz/24ビットである。

エルガーのチェロ協奏曲は? といえば、ないわけではない。
ただ、SRT(Sound Recording Technology)レーベルからの発売である。
エルガーは、WAVとFLACのみで、MQAはない。

ジャクリーヌ・デュ=プレの、バルビローリとのエルガーのチェロ協奏曲は、
ずっと愛聴盤である。

いろんな盤を買っては聴いてきた。
私は、MQAで、ジャクリーヌ・デュ=プレを聴きたい。
となると、MQA-CDに頼るしかない(いまのところは)。

ワーナーミュージックのMQA-CDが発売になれば、
e-onkyoでも、ワーナーミュージックによるエルガーの配信が始まるのかもしれない。

でもいまのところ、告知はない。
ない以上、MQA-CDであり、
ひそかにMQA-CDは192kHz/24ビットなのかもしれない、とも期待している。

Date: 5月 30th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQA-CDのこと(その1)

二日前の28日に、ワーナーミュージック・ジャパンからも、
7月24日にMQA-CDの第一弾が発売になる、と発表された。

ワーナーミュージックは、e-onkyoのサイトでMQAでの配信を行っている。
けっこうな数のタイトルがMQAで聴けるようになっている。

なので、MQA-CDをそのうち出すであろうとは、多くの人が予想していたと思う。
私もそう思っていたし、今年中にMQA-CDを出す、というウワサもきいていた。

どのタイトルが発売になるのかは、ワーナーミュージック・ジャパンのサイトで確かめてほしい。
私が個人的に喜んでいるのは、ジャクリーヌ・デュ=プレがあることだ。

それにシャルル・ミュンシュのベルリオーズの「幻想」だけでなく、
ブラームスの交響曲第一番がある。

クラシックに関してはEMIの音源を所有しているワーナーミュージックだけに、
期待は大きい。
当然、マリア・カラスもMQA-CDで出てくるはずだし、
個人的にはアニー・フィッシャーもMQA-CDで出してほしい。

今回のタイトル数はさほど多くはない。
それでも、第二弾、第三弾と続いてほしいし、
続くことで、他のメジャーレーベルからもMQA-CDが登場することにつながってほしい。

意外とご存知ない方がいるようなので書いておくが、
MQAはボブ・スチュアートが開発している。
MQA-CDは日本が開発した技術である。

それにしても、今回のワーナーミュージック・ジャパンのMQA-CD発売のニュースに対して、
オーディオ業界の闇のようなものを感じた──、
SNSで、そんな発言をみかけた。

こんなことを投稿する人は、MQA否定派のようである。
それはそれでいい。

なぜか、こういう人は、自分がいいと思っていない技術を、
多くの会社が採用するのには、何かよからぬ理由があるはずだ、と考えるらしい。
そこに、オーディオ業界の闇を感じるのか(陰謀論とかが好きな人なのかも)。