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Date: 11月 10th, 2019
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その6)

人はどうやって音を聴いているのか。
特にオーディオマニアは、どうやって音を聴いているのか、
そしてどうして音が比較できるのか。

そんなことを考えて思いついたのが、憶音である。
別項「50年(その9)」で書いたことが、憶音の発想のきっかけである。

根拠は特にない。
ただ、これまでさまざまな機会で音を聴いてきて、
その時々で感じたなぜ? に答を見出そうとして思いついたことである。

なので妄想じみた考えなのは自覚している。
それでも思うのは、人はその場で鳴っている音を聴いているのではなく、
実のところ、いったん脳に記憶にされた音を聴いているのではないだろうか。

ようするに3ヘッドのテープデッキのような仕組みである。
録音ヘッドがテープに記録した磁気変化を、すぐ隣りにある再生ヘッドが読み取り電気信号へと変換する。
テープが脳にあたる。

耳から入ってきた音(信号)を、脳が記憶する。
この記憶の仕方・性能は、人によって違ってくるだろうし、
同じ人であっても、その日の体調やその他によって左右されるのかもしれない。

そうやって記憶した音(信号)をなんらかの方法で再生して、
その音(信号)を聴いている。

しかもテープのトラック数は一つとは限らない。
これも人によって違ってくるように感じている。

それにトラックによって、記憶の性能にバラツキもあるのかもしれない。
ただひとつ違うのは、テープには「記録」されるのであって、脳には「記憶」されることだ。

少なくとも音楽に関しては、
そして、これもなぜなのかはまったくわからないが、
オーディオを介して鳴ってくる音楽に関しては、少なくともそうなのではないのか。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その9)

音を聴いて、あるオーディオ機器を評価する。
オーディオマニアならば、みな行っている。
けれど、そこでの評価の仕方は、人によって違うこともある。

評価の結果が違う、というよりも、
どこを聴いているのか、という意味での評価の仕方である。

オーディオ機器の開発に携わっている人ならば、
プロトタイプを聴く機会はあたりまえのようにあるわけだが、
オーディオマニアが聴くのは、ほとんど製品化されたオーディオ機器である。

出てきた音がすべて、とよくいわれる。
確かにそうではある。
けれど、その出てきた音に何を聴くのか。

そのオーディオ機器の可能性を、出てきた音に聴くことだってある。
オーディオ機器の比較試聴をして、
どちらのオーディオ機器が優れているか、
自分の好みにあっているか、
そういう評価の仕方をすることもあれば、
常にオーディオ機器は商品でもあるから、
可能性の方を優先しての評価をすることだって、私の場合ある。

別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その11)」で、
アキュフェーズのDP70とスチューダーのA727を、
ステレオサウンドの試聴室でじっくりと比較試聴したことを書いている。

そして、私はA727を選んだ。
その理由も、そこに書いてるが、書いていない理由もある。
それが、可能性をどう評価しての選択の結果である。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その8)

喫茶茶会記で10月中旬から鳴っているメリディアンの218は、
実は私が少しばかりを手を加えている。

といってもハンダゴテを使っての作業ではない。
そういう作業は、ようするに部品交換であり、
部品を交換するということは、もう元には戻せない、ということである。

元々ついていた部品に戻せば……、
それで元の音に戻ることは絶対にない。

取り外した部品をまたプリント基板にハンダ付けする、ということは、
その部品にハンダゴテの熱を三回加えることである。

製造時に一回、
部品を交換する際にプリント基板から取り外すときに一回、
元に戻すため再びプリント基板にハンダ付けするときに一回、
計三回のハンダ付けするわけで、三回分の熱が部品に加わっている。

アンプを自作したり、部品を実際に交換したことのない人には、
ハンダ付けの熱ごときで──、と思ってしまうようだが、
ハンダ付けの熱を軽く考えてはいけない。

確実に、ハンダ付けに必要な熱を加えれば部品は劣化し、
元々ついていた部品に戻しても、音は元には戻らない。

絶対に元に戻す必要はない──、
そんな絶対の自信のもとに手を加えるのは、その人の勝手であるが、
私は、自分のオーディオ機器ならばまだしも、
誰かが使うオーディオ機器には、そういう手の加え方はしない。

元に戻す、とは見た目だけ戻すことではない。
元の音に戻せてこそ、である。

喫茶茶会記にある218には、そういう手の加え方を施している。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その5)

「ステレオサウンドが一人勝ちすると、オーディオ界にとってはよくないことだ」、
井上先生から何度かきいている。

井上先生は2000年12月に亡くなられているから、
ステレオサウンドという固有名詞のことろは、別の固有名詞に置き換えられたかもしれない。

井上先生の、このことばを聞いたときは、
確かにステレオサウンドの一人勝ちも、ありえないことではなかった。

でも、現状はずいぶん変ってきた。
オーディオ雑誌の書店での取り扱いが冷たくあしらわれるようになってきて、
少しずつ、けれど確実にオーディオ雑誌が淘汰されるようになってくると、
最後にのこるのは、ステレオサウンドとはいえなくなってきている。

だからといって、このオーディオ雑誌が残る、とはいえない状況でもある。
淘汰の末に、どれか一誌が残ったとしても、
それは一人勝ちといえるのか、という疑問はあるが、
すべてのオーディオ雑誌が書店から消えてしまうことはない、はずだ。

そうなったときに、どうなるのか。
仮にステレオサウンドが生き残ったとしよう。

それを喜ぶ人もいよう。
やっぱりステレオサウンドが、No.1のオーディオ雑誌だ、と信じ込める人は、
そうであろう。

けれど考えてみてほしい。
そうなった時に、ステレオサウンドの編集方針は大きく変化していくはずだ──、
というよりも、変化せざるをえない。

オーディオ雑誌には役目があり、
それぞれのオーディオ雑誌には役割があるからだ。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その4)

無線と実験を取り扱わなくなった近所の書店は、
無線と実験だけが書棚から消えたわけではない。

「スピーカー技術の100年」が出たとき、この本を扱っていた。
発売後すぐにではなかったが、しばらくして背表紙だけが見える扱いではあったが、
書棚に並ぶようになった。

こういう書店でも扱われるようになったということは、
そこそこ売れているんだな、と思えたし、
売れていたからこそ「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」が今年出たわけだ。

けれど無線と実験扱わなくなった近所の書店の書棚には、
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」はもう並んでいない。

「お前が住んでいるところの書店がたまたまそうなだけだろう」といわれるかもしれないが、
果してそうだろうか。

先月10日、近所の書店から無線と実験が消えてから、
個人経営と思われる書店の前をとおると、ちょっと寄ってみて、
無線と実験があるのかどうか確かめていた。

数日経っていたりしたから、売れてしまってなかったのかもしれないが、
無線と実験をみかけない書店のほうが多かった。

それに「スピーカー技術の100年」は、近所の書店だけでなく、
ここでも扱っている、といくつかの書店の書棚を見て思っていたが、
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」は、
やっぱり扱っているところが減っているように感じる。

無線と実験のことばかり書いているが、
書店のオーディオ雑誌の扱いは、冷たくなりつつあるのを感じている人は、
私だけではないはずだ。

先日話した人も、そう感じていた。

オーディオ雑誌はずいぶん淘汰されてきた。
けれど、また淘汰されつつあるのが現状である。

Date: 11月 9th, 2019
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(オーディオとは?)

オーディオを説明する。
誰かに説明する。オーディオに関心のない人に対して説明する場合、
どんなふうにオーディオを説明するのか。

録音から再生までを説明し、トータルの系をオーディオとするのか。
録音された音楽を聴くシステムとして、オーディオを説明するのか。
そのためのさまざまな機器の集合体としてのオーディオとするのか。

説明する人によっても、説明をきく人がどういう人によっても、
そこでのオーディオについての説明は、おおまかなところでもこまかなところでも違ってこよう。

オーディオとは、いったいなんなのか。

私のちいさな結論としてのオーディオは、エネルギーである。
オーディオそのものが、
そしてオーディオにとりまくすべてをひっくるめて、ひとつのエネルギー体のように感じる。

だからオーディオマニアとは、そのエネルギーの一部になるということでもある。

Date: 11月 9th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その16)

「音は人なり」の容赦なさに耐えられる人もいれば、そうでない人もいる。
耐えられない人は、どうするか。

愛聴盤ではないディスクはうまく鳴ってくれるのに、
肝心の愛聴盤が寒々しくしか鳴ってくれない原因を、どこに求めるのか。

システムのせいにしたくなる。
けれど、愛聴盤が寒々としか鳴らないのであれば、
それは自分の裡に求めるしかない。

逃げようがない状況なのだ。
ただただ、そのことを受け止めるしかない。

にも関らず、逃げ出したくなるのが人の常なのかもしれない。
そこで、ついどこかをいじってしまう。
いじりたくなる。
なんとかしたくなる衝動が、オーディオマニアならば沸き起こってこよう。

でも、そういう時はシステム側に、なんらかの答を求めようとしても無駄である。
無駄ということを、ここまでオーディオをやってきた、そう実感している。

愛聴盤以外のディスクはうまく鳴る。
愛聴盤がうまく鳴らない。

これは何度でも書くが、自分の裡に答を求めていくしかない。
無為に耐えるしかない。

Date: 11月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その10)

A君は、エホバの証人の信者だったことはすでに書いた。
彼の家族もそうだった。

つまりA君は、一世信者ではなく、二世信者ということになる。
一世信者は、自ら信ずる宗教の道を選んだことになる。

けれど一世信者の子供たちは、どうなのか。
熱心な一世信者の親の元で生れ育ってきた彼らは、どうなのか。

エホバの証人について、あれこれ書きたいわけではなく、
二世信者(つまりA君)に、宗教選択の自由はあったのだろうか。

そんなことを考えると、自由とはなんだろうか、についてもおもう。
一世信者には自由があった。

自由があったからこそ、信ずる宗教の道に進んだわけである。
そのことで、不自由な生活を送ることになろうとも、
選択の自由ははっきりとあった。

二世信者であるA君は、不幸せか、というと、少なくとも私の目にはそうとは映らなかった。
その7)でも書いているが、
親が決めた、もしくはエホバの証人が決めた道を歩んでいるA君の口から、
愚痴めいたことはいままで聞いたことがないし、A君は幸せそうである。

不幸せだと感じている人が、A君のような穏やかな表情ができるだろうか。

M君もT君も、自らの将来を自分で決める自由は持っていた。
その道へ、二人とも進んだ。
けれど、結果として二人とも諦めなければならなかった。

Date: 11月 8th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(余談)

facebookで、audio sharingというグループをやっていることは、
これまで何度か書いている。

参加している人は350人ほど。
うち五人の方が、すでに218を購入され鳴らされている。

先日のaudio wednesdayに参加された方も、
218の購入を決心されている。
近日中に購入されるであろうから、六人になる。

6/350。
この数が多いのか少ないのか。
どうでもいいかな、ぐらいにしか考えていない。

周りの人が、218の良さを感じとってくれて、
「218、買いました」とある日、言ってくれる。

このことが、単純に嬉しい。

Date: 11月 8th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その7)

メリディアンの218の音を聴いて、
シャーシーを見た人のなかには、
いまどきのオーディオ機器のように、
アルミニュウム製のがっしりとしていて、重量のある立派な造りに変更したら……、
そんなことを考えたかもしれない。

218の重量は1kgもない。
ほんとうに軽い。

内部を見るとわかるが、
この軽さだから、大型の電源トランスや大容量のコンデンサーによる電源部があるわけではない。
指先ほどの大きさのスイッチング電源モジュールがあるだけだ。

それも特別で、高性能なスイッチング電源ではない。
汎用のモジュールをそのまま採用している。

ここをCHORDのMojoのように、バッテリーに置き換えたら……、
そう考えた一人のなかに私も含まれる。

そんなことをいつかは実行してみたい、とは思ってはいるが、
現実に、218の可能性を抽き出すには、どうするのか、となれば、
(その6)で書いたことも、ここで書いたこともやらない。

218の可能性を抽き出す──、
ここでの「可能性」をどう捉えるかによって、どうするのかは人によってさまざまなのだろう。

11月のaudio wednesdayは、218の可能性をそうとう抽き出せた。
そうとうに良くなっているはず、という予想はしていたが、
実際の音は、予想を超えていたところもあった。

なかば冗談で、ULTRA DACには届かなくても、SUPER DACと呼べるレベルには達した──、
そんなことをつい言ってしまったのだが、
半分は本気でもあった。

Date: 11月 8th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その6)

メリディアンの218は125,000円(税抜き)のD/Aコンバーターである。
ULTRA DACは、大きいと前もって聞いていても実機を前にすると、
おもわず「大きい」と声に出してしまった。

218は、というと、外形寸法/重量、どちらもあらかじめ知っていたけれど、
こちらは「小さい」し、「軽い」。
価格も造りも、メリディアンの二つのD/Aコンバーターは対照的でありながらも、
音は、というと、そういうわけではない。

218とULTRA DACを直接比較試聴したわけではないが、
違いは、それでもはっきりとわかる。

わかるからこそ──、というおもいが、こちらには芽ばえてきた。
218は、可能性のあるオーディオ機器だ、と感じたからである。

218の可能性を発揮させるには、どうするか。
人によって、手法は違うだろう。

電源コードに凝る人もいるだろう。
125,000円の218に、同じくらいの電源コード、
もしくはそれ以上の価格の電源コードをあてがう。

ラインケーブルに凝る人ならば、
やはり218と同じくらいのケーブル、それ以上のケーブルをおごる。

置き台となるラックに凝る人がいても不思議ではない。
ここでも218よりも、高価なラックを用意することだろう。

これらすべてをやったうえで、クリーン電源まで手を伸ばす人もいよう。
これらすべてをやれば、218の十倍くらいの費用はかかることだろう。
凝れば凝るほど、もっとかかることもある。

オーディオマニア的には、こういうことに興味はある。
私も一度くらいは試してみたい、という気持を持っている。

それでも、それらによる218の音の変化を聴いて、
218の可能性を抽き出した、と私自身は思うだろうか……、と考える。

Date: 11月 8th, 2019
Cate: 映画

JUDY(その1)

6月のaudio wednesdayは、“Over The Rainbow”のCDを持ち寄って、だった。
映画「JUDY」の予告編をみたのが理由だった。

カナダで9月、アメリカは10月に公開されていた。
日本では? と思い出しては検索していたけれど、来春公開とあるだけだった。

昨日やっと日本での公開日が発表になった。
2020年3月6日からである。

邦題は「ジュディ 虹の彼方に」である。
ジュディ・ガーランドを演ずるのはレネー・ゼルウィガーである。

「JUDY」のサウンドトラック盤はすでに発売になっている。
レネー・ゼルウィガーの歌唱で、“Over The Rainbow”が聴ける。

映画の公開日が待ち遠しいとともに、
“Over The Rainbow”のCDの持ち寄りを、
もう一度audio wednesdayでやろうかな、とも考えている。

Date: 11月 7th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その5)

昨晩の218の音を聴いて、
(その5)で書く予定だったことを変更することにした。

ここではメリディアンの2,500,000円と125,000円の、
二つのD/Aコンバーターについて書いている。
それにベストバイということについても書いている。

私の結論としては、現時点では ULTRA DACでしか聴けない領域の音があるのだから、
ULTRA DACこそベストバイと位置づけられる。

けれど昨晩のaudio wednesdayでの218の音は、唸ってしまうほどだったから、
ベストバイとは? ということについて考えを改める必要がある、と思うようになった。

オーディオマニアが、誰かの音を聴かせてもらう。
その時に「可能性を感じさせる音ですね」と鳴らし手にいうことがある。

「可能性を感じさせる音ですね」は、一般的には褒め言葉なのだろうが、
ここでは必ずしもそうてはない。

誰かの音を聴かせてもらう。
親しい友人関係であっても、正直にその音の感想を述べると、
それまでの関係が、たった一言で終ってしまうことは、決して珍しいことではない。

まして初対面の人の音を、正直に感じたままに言葉にしてしうまうことは、
その人との関係を続ける気がまったくないとしても、避けるべきかもしれない。

とはいっても、ベタ褒めする気にはなられない音の時がある。
そういう時に「可能性を感じさせる音ですね」がある、といってもいい。

オーディオにおける「可能性」、オーディオ機器の「可能性」、
これを抜きにしてオーディオのベストバイについて語ることは無理がある。

Date: 11月 7th, 2019
Cate: ディスク/ブック

FAIRYTALES(その5)

ラドカ・トネフの“FAIRYTALES”を、audio wednesdayでかけるのは何回目か。

最初はMCD350でかけてSACDとして聴いた。
次はメリディアンのULTRA DACでMQA-CDとして聴いた。

聴くたびに、デジタル初期の録音とは思えない、と感じる。
昨晩のaudio wednesdayでは、
メリディアンの218でMQA-CDとして聴いた。

218では、その前にも鳴らしている。
だから、昨晩のaudio wednesdayでどういうふうに鳴るのかは予想できたともいえるし、
実はあることをやっての音出しであったため、予想できないところもあった。

ULTRA DACと218の力量の違いは、どうしても存在する。
違いがあって当然ともいえるし、
一方でデジタル機器だからこそ、価格、それに投入された物量に関係なく、
D/Aコンバーターとしての基本スペックに変りはない。

だからこそ、デジタルならではのおもしろいところがある。
具体的に何をやったのかはまだ明かさないが、
昨晩の218でのラドカ・トネフの歌には聴き惚れていた。

私だけではないことは、聴いていても、その場で雰囲気で伝わってきていた。
来ていた人(聴いていた人)、みな聴き惚れていた(はずだ)。

昨晩のaudio wednesday開始後、一時間くらいでのことだ。
もう、この曲で終りにしてもいいくらいの鳴り方だった。

前回の218での鳴り方とは、大きく違っていた。

Date: 11月 7th, 2019
Cate: High Resolution
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MQAのこと、否定する人のこと(その1)

MQAを否定する人たちが少なからずいることは、わかっている。
私のように、積極的にMQAの音の良さをみとめる人もいれば、
あまり関心のない人、そしてどうしてもMQAの存在が許せない人たちがいる。

MQAについて、あれこれ理屈をこねまわして否定する人がいるのは、
理解できないことではない。

私が理解に苦しむのは、MQAの存在を絶対に許したくない人たちである。
MQAを認めないのは、個人の自由というか勝手だ。

MQAはいま広く確実に、その実力が認められつつある。
そのことがどうも許せないようだ。

MQAを否定するであれば、無視すればいいだけ、ではないのか。
口汚く罵ったり、存在そのものをなくそうとするのは、どうしてだろう。

私はMQAを認めているが、だからといって、
DSDを否定したりはしない。
ましてDSDが世の中からなくなればいいなんて、まったく思っていない。

多くの人が、そうなのだ、と思う。
なのに、ごく一部の人たちが、そうではない。

そうではない人たちは声が大きい。
目につく。
最近も、そういう人がいた。
へんてこな理屈をこねていた。

この人たちは、MQAの存在を世の中からなくしてしまうことが、正義だとでもおもっているのか。