ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その10)
A君は、エホバの証人の信者だったことはすでに書いた。
彼の家族もそうだった。
つまりA君は、一世信者ではなく、二世信者ということになる。
一世信者は、自ら信ずる宗教の道を選んだことになる。
けれど一世信者の子供たちは、どうなのか。
熱心な一世信者の親の元で生れ育ってきた彼らは、どうなのか。
エホバの証人について、あれこれ書きたいわけではなく、
二世信者(つまりA君)に、宗教選択の自由はあったのだろうか。
そんなことを考えると、自由とはなんだろうか、についてもおもう。
一世信者には自由があった。
自由があったからこそ、信ずる宗教の道に進んだわけである。
そのことで、不自由な生活を送ることになろうとも、
選択の自由ははっきりとあった。
二世信者であるA君は、不幸せか、というと、少なくとも私の目にはそうとは映らなかった。
(その7)でも書いているが、
親が決めた、もしくはエホバの証人が決めた道を歩んでいるA君の口から、
愚痴めいたことはいままで聞いたことがないし、A君は幸せそうである。
不幸せだと感じている人が、A君のような穏やかな表情ができるだろうか。
M君もT君も、自らの将来を自分で決める自由は持っていた。
その道へ、二人とも進んだ。
けれど、結果として二人とも諦めなければならなかった。