この空間から……(その6)
空間にある「窓」。
左右ふたつのスピーカーの間に形成されるもの、ひとつめの「窓」といえよう。
空間にある「窓」。
左右ふたつのスピーカーの間に形成されるもの、ひとつめの「窓」といえよう。
トレースすることで「読む」ことが始まる本もまた、
トレースすることによってつくられている、といえる。
いまは手書き原稿の方が比率としては少なくなっているだろうけど、
パソコン、ワープロの登場・普及以前は、みな手書き原稿だった。
原稿がそのまま写植にまわされることはまずない。
まず担当編集者が目を通す。必要とあれば朱をいれる。
これもまた編集者の目によるトレースである。
そして写植にまわされる。
ここで写植の職人によるトレースがおこなわれ活字が並べられていく。
写植があがってきたら、校正というトレースが行われる。
いくつかのトレースを経て本は世に出て、
読み手によってトレースされていく。
なぜSMEの3009/SeriesIIIは、軽量級のカートリッジ用トーンアームとして認識されるようになったのは、
3009/SeriesIIIの後に登場したシュアーやオルトフォンなどのカートリッジの影響が大きいのではないだろうか。
3009/SeriesIIIはヘッドシェルはパイプと固定されていて、
3012、3009のようにヘッドシェルごとの交換はできない。
かわりにアームパイプの根元(基部)にソケットを設け、パイプごと交換する方法がとられている。
オルトフォンは一時期Concordeとよばれるシリーズを出していた。
いまでもConcordeシリーズは残っているけれど、
当時は軽針圧・軽量カートリッジであったのに対し、いまのConcordeは重めの針圧のDJ用となっている。
シェル一体型のConcordeには、
カートリッジ本体をそのまま3009/SeriesIIIのアームパイプと一体化し、
可動部分の実効質量の低減化をより徹底化したモノがあった。
シュアーからも同様のカートリッジが出ていたと記憶している。
この手のカートリッジの存在が3009/SeriesIIIに、
軽針圧・軽量カートリッジ専用のトーンアームという、
決して間違ってはいないものの、ある種の誤解を生じさせていった、といえよう。
私も自分で3009/SeriesIIIを使ってみるまでは、
なんなとく軽量カートリッジ用のトーンアームだと思い込んでいた。
ステレオサウンド 45号の山中先生の発言を読んでいたにも関わらず。
SMEの3009/SeriesIIIがステレオサウンドに初めて登場したのは、45号の新製品紹介であった。
このころの新製品の紹介のページは、いまと違って、山中先生と井上先生のふたりだけで担当されていて、
スピーカー、アンプ、プレーヤー関係と、大きく3つにわけて、
その号での注目製品、および全体の傾向についての対談がまずあって、
書き原稿では山中先生が海外製品を、井上先生が国内製品を担当されていた。
3009/SeriesIIIが45号でとりあげられた新製品の中でも話題のモノであり、
対談の中でも取り上げられている。
そこには、こうある。
*
山中 SMEの社長のエイクマンという人は、自身が大変なオーディオマニアということでも有名なんですが、それもあってSMEのアームはこの人のカートリッジに対する考え方の影響をかなり色濃く受けているわけです。最近エイクマン氏はMC型カートリッジを愛用し始めているということで、そうなると単なる軽量アームではいい結果が得られない。その結果このアームが生まれたということだと思うのです。
*
1976年あたりから海外でもMC型カートリッジが見直されてきた、という話はきいている。
日本製のMC型カートリッジがその火付けとなっていた、ともきいている。
同時に半導体の進歩、アンプの回路技術の進歩もあって、
ヘッドアンプの性能、音質ともに優秀なモノも登場してきている。
3012がオルトフォンのSPU、3009/SeriesII ImprovedがシュアーのV15、
となると3009/SeriesIIIは、どのメーカーのどのカートリッジなのだろうか。
おそらくオルトフォンのMC20なのではないかと思う。
MC20は1976年に登場している。
3009/SeriesIIIの登場よりも1年以上前のことである。
MC20の自重は7.0g、適正針圧は1.7gで、針圧範囲は1.5〜2.0g、
3009/SeriesIIIで使うにはちょうどいい。
オーディオが「介在」する人間関係なんて……、
と、なにかいびつな人間関係なのではないか、もろいのも当り前じゃないか、
そう思うのが、ごく自然なことなのかもしれない。
はたして、そうとばかりいえるのだろうか。
オーディオが「介在」していたから、長いつきあいだった、といえなくもないところがある。
オーディオがなかったら、もともと知り合うことすらなかったであろうし、
長いつきあいで、一度も不愉快な感情を抱かないことがあるとも思えない。
いやなところ、みにくいところ、そういったところを感じたことは何度となくあった。
ということは知人にもあった、とみるべきだろう。
それでも、けっこう長い時間をつきあってこれたのは、オーディオがやはり「介在」してきたおかげである。
そうおもうと、オーディオが「介在」していからこそ、
音楽と、これだけ長い時間をつきあってこれたし、これからもつきあっていくのだろう。
オーディオの「介在」は、多くの人には邪魔なことでしかない。
音楽との間に介在するものが少なければ少ないほどいいのだとしたら、
大型で複雑なシステムを揃えるよりも、
iPodとヘッドフォン(イヤフォン)の組合せの方が、ずっと介在するものとしては小さい、といえる。
また少ない、ともいえよう。
もっとも、これもオーディオが音楽と聴き手のあいだに「介在」するという考え方である。
オーディオは邪魔モノなのか。
そう感じたことも、以前はあった。
けれど、いまは違う。
SMEの3009/SeriesII Improvedはスタティックバランス型だから、
ゼロバランスをくずせば1.5g以上の針圧をカートリッジにかけられるわけだが、
あくまでも3009/SeriesII Improvedはシュアーのカートリッジ(V15)に対して、
最良点をさぐり出す(合せこむ)ためのトーンアームとして設計されている。
日本には正規輸入されたのかは知らないが、
3009/SeriesII Improvedにはヘッドシェル一体型のタイプも存在する。
トーンアームの先端部に、交換用のコネクターがあればその分だけ重量が増し、
実効質量も増え、軽針圧カートリッジ用のトーンアームとしては感度の低下を生じさせることにつながる。
最大針圧を1.5gにするくらい思いきった3009/SeriesII Improvedだから、
交換用のコネクターを排するくらい当然のことといえよう。
ただ興味深いと思うのは、
3009/SeriesII Improvedのあとに登場した、
さらに軽針圧カートリッジへターゲットを絞ったトーンアームと思われる3009/SeriesIIIは、
最大針圧2.5gとなっていることである。
トーンアームパイプにチタニウムを採用し、
当然のヘッドシェルとパイプの一体化と、
3009/SeriesII Improved以上に徹底した軽針圧カートリッジ対応と思える設計──、
オーディオ雑誌にも軽針圧専用トーンアームといった紹介がなされていた。
けれど、実のところ、3009/SeriesIIIに導入された諸々のことは、
軽針圧カートリッジ専用ということよりも、
高感度トーンアームの実現のためなのではなかろうか。
このころのアイクマンがカートリッジに関して、
あいかわらずシュアーだったのか、それとも他のカートリッジへと移っていたのか、
もしくは他のカートリッジも使うようになっていたのか。
いまのところ、そのことに関する情報は何も持っていないけれど、
もしかすると2g前後の針圧のMC型カートリッジを使っていたのではないか、
3009/SeriesIIIは、
その種のカートリッジを含めて使えるように開発・設計されたトーンアームのような気がする。
私がもしそういう状態・状況におかれたら、どうするだろうか。
いまは正直想像できない。
想像はできないけれど、本を「読む」という行為がどういうことなのかについては考えられる。
本を「読む」ことは、書かれていることを自らトレースすることなのだ、とおもう。
本に書かれている内容を知るだけなら、誰かに、もしくはコンピューターに読み上げてもらえばいい。
けれど、それは自分でトレースしているわけではない。
目でトレースする。
目がだめになれば指でトレースする。
指もだめになれば舌でトレースする。
トレースすることから「読む」は始まるのではないのだろうか。
人は「本を読む」、
人は「レコードを聴く」、
ここでの「読む」と「聴く」の違いについて、
舌読を知ったのだから、あらためて考えてみたい。
考えなければならない、とおもった。
JBLのコンシューマー用スピーカーシステムも、
L300の登場によって変化の兆しをみせた。
L200、L300はJBLのスタジオモニター、4320(4325)、4333のコンシューマー用モデルである。
L200、L300ともにフロンバッフルを傾斜させたエンクロージュアで、
袴をもつフロアー型システムである。
4320、4331、4333はフロアー型でアはあるものの、
スタジオでの実際使用条件を考慮したつくりなので、
ある程度の高さのあるスタンド、もしくは壁に埋めこんで、
やはりある程度の高さまで持ち上げることが求められる。
床に直置きして鳴らすことは考えられていないフロアー型スピーカーシステムである。
L200、L300はコンシューマー用だから、そのへんを考慮しているわけである。
L200は広告でもオーディオ雑誌の記事でもサランネットがついた状態で紹介されることが圧倒的に多かった。
L200のサランネットをはずした状態の姿をすぐに思い浮べられる人はそんなにいないと思う。
そのくらいサランネットをつけた状態の姿のいいスピーカーシステムである。
これがL300になると、サランネットをはずした状態の写真が多く見受けられた。
それでもL300はサランネットをつけた状態が、いいと思う。
4331がL200、4333がL300ならば、
4341のコンシューマー用にあたるL400。
これは誰もが想像したであろうモデルである。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」で、
岩崎先生はL400がもうじき出る、と発言されているし、
サウンド誌1976年の6号の
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(スピーカー編)」で、
L400について書かれている。
L400は想像・架空のモデルではない。
実際にJBLでは開発をすすめていた。
けれど登場することはなく、数年後、4ウェイのL250が登場した。
昨日、舌読ということばがあることを知った。
ハンセン病により視力を失い、
末梢神経麻痺により指先の感覚も失った人が、点字を舌で読むこと。
「舌読(ぜつどく」」ということばも知らなかったけれど、
想像したこともなかった。
舌読を知って、思い出したことがある。
手塚治虫の「ブラック・ジャック」のエピソードのひとつに、
そろばんの日本一を目差す少年の話がある。
ブラック・ジャックの手術により、少年は指でそろばんのこまをはじけるようになる。
けれど持久力が備わっていない腕では、決勝戦で戦えなくなってしまう。
そこで少年は、ブラック・ジャックによる手術を受ける前にやっていたこと、
舌でそろばんのこまをはじく。
点字を舌でなぞっていく、
そろばんのこまを舌ではじいていく、
想像を絶する、とはこういうことにつかう表現なのかもしない。
本に書かれていることを知るのであれば、
誰かに本を読んでもらえばいい。
いまではパソコンによる文章の読み上げもできる。
最新の読み上げのレベルが、どのくらいなのかしらないけれど、
ずいぶん進歩していることであろうし、これからも進歩していくものである。
活字がテキスト化(電子化)されていっている時代。
これから先もどんどんテキスト化されていく。
本が読めなくなっても、本の内容を知ることはできる時代になっていっている。
多くの本がそうなっていっている。
それでも舌読で、本を「読む」人はいる、とおもう。
JBLにはコンシューマー用とプロフェッショナル用の、ふたつのラインナップが用意されている。
コンシューマー用とプロフェッショナル用とでは、どこがどう違うのか。
こまかく見ていけばいくつか挙げられる。
けれど個人的な、もっとも大きな違いとしてまっさきにあげたいのは、
コンシューマー用のスピーカーシステムは、
スピーカーユニットを見ずに、その音を聴くモノであり、
プロフェッショナル用のスピーカーシステムは、
スピーカーユニットを見ながら、音を聴くモノである、という違いである。
JBLのコンシューマー用スピーカーシステム、
たとえばパラゴン、ハーツフィールド、オリンパスなどがある。
もちろんHarknessもそうである。
オーディオマニアであれば、
これらコンシューマー用スピーカーシステムがどういうユニット構成になっているのかは知っている。
私も知っている。
どういう配置でフロントバッフルに取り付けられているのかも知っている。
知ってはいても、例えばオリンパスときいて頭に浮ぶイメージは、
スピーカーユニットが露出していない状態のオリンパスである。
それは、他のJBLのコンシューマー用スピーカーシステムにおいても同じである。
とにかくユニットが見えていない状態のイメージが、
最初に浮ぶのが、私にとってのJBLのコンシューマー用スピーカーシステムである。
それにしても、facebookとはなんと便利なツールなんだろう。
もしfacebookというものが存在していなかったら、
片桐さんと西松さんへお願いするとしても、おふたりの連絡先から調べていかなければならない。
そうなるとすんなりわかる場合もあるし、そうでないことだってある。
ところがfacebookで「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」というページをつくっていたおかげで、
すんなりと連絡できる。
facebookのメッセージ機能は、相手のメールアドレスは知らなくてもブラウザーから送信できる。
インターネットがこれだけ普及して、SNSと呼ばれるものをいくつか登場し広く普及していることで、
人と会わずに済ませられることは増えてきた。
以前、黒田先生がいわれていた。
最近の編集者は電話で原稿を依頼してきて、書き終ったらファクシミリで送る。
編集者と一度会うことがないこともめずらしくなくなってきている、と。
これが1988年のころの話である。
いまはそれ以上に、こういう面に関しては便利になっている。
インターネットだけで原稿を依頼して原稿を受けとることは、もう当り前のことだろう。
インターネットにより人と会わなくなる。
たしかにそういう面はある。
けれど、今回のことのように、インターネットがあったからこそ、
私は西川さん、片桐さん、西松さんと連絡がとれ、6月5日に会うことができた。
スイングジャーナル 1979年1月号に新春特別座談会として、
「ジャズを撮る」というタイトルで、石岡瑛子氏、操上和美氏、内藤忠行氏、武市好古氏らが、
映像の世界から見た、ジャズという素材について語っている。
新春特別座談会といっているわりにはわずか4ページしかないのがもったいない気もする。
きっと座談会そのものは、かなり濃い内容だったように感じられる、たった4ページの記事である。
おもしろい記事である。
機会であれば、ぜひ読んでほしい、とおもえる記事である。
この座談会で石岡氏の言葉が、私の心に、特にひっかかってきた。
*
ジャズというものが総体的に、時代に対してオープン・マインドな姿勢を失っていることを残念だと思ったんです。レコード・ジャケットに表われている面が、その時代の音楽のエネルギーを示しているとすれば、ジャズにはそれが欠けている。ジャズのアートワークを見るとほとんど80%近くがミュージシャンの写真であるわけです。そこには冒険とか実験の精神が欠如している。姿勢がオーソドックスなんですね。
(中略)
ジャズのフィールドの中のファンはあるいは、それでいいかも知れないけれど、もっとワイドレンジなオーディエンスに対してハッとさせる、聴いてみたいと思わせるためにはその時代を的確に把握した上でビジュアルな面で意識をクロスオーバーしていかなければならない。
*
石岡氏は「オーディエンスに対してリアリティのある関係」という表現も使われている。
そしてスイングジャーナルの将来を予言されているかのような発言もある。
このとき(1978年の11月ごろか)は、石岡氏もスイングジャーナルがどうなっていくのかなんて、
まったく想像されていなかったのかもしれない。
けれど、このときの石岡氏の発言こそが、スイングジャーナルがもっとも耳を傾けておくべき、
そしてこころに深く刻み込んでおくべき言葉になっている。
*
スイングジャーナルは自身で発想の転換を時代の波の中でやっていかなければならない。ゴリゴリのジャズ・ファン以外にもアピールする魅力を持たなければ表現がいつか時代から離れていってしまうでしょう。ジャズというフィールドを10年も20年も前のジャズの概念できめつけているのね。今の若い人たちの間で、ビジュアルなものに対する嗅覚、視覚といったものがすごい勢いで発達している今日、そういう人にとって、今のジャズ雑誌はそれ程ラディカルなものではありません。スイングジャーナルという雑誌の中で映像表現者が果せる力って大きいと想うし、時代から言って必要なパワーなのですね。時代の波の中で、読者に先端的なものを示し、常に問題提起を続ける。それを読者が敏感に感じとってキャッチ・ボールを続けるうちに、誌面はもっとビビッドなものになり得るんじゃないですか。
*
この座談会のあとのスイングジャーナルが、何をやってきたのかは、ここで私が書くことではない。
BOSE博士が不満をもったヴァイオリンの再生が、
いったいオーケストラにおけるヴァイオリンなのか、弦楽四重奏におけるヴァイオリンなのか、
それともヴァイオリン・ソロなのか、
そのあたりははっきりとは、どこにも書いてない。
だから勝手な想像でしかないけれど、
私がこのエピソードを読んだ時に頭に浮んでいたのは、ヴァイオリン・ソロについてだった。
ヴァイオリンの再生は、たしかに難しい。
それはオーケストラにおけるヴァイオリンでも、ソロであってもそうなのだが、
ソロのほうが気になるとこがいくつもありすぎて、
ヴァイオリン・ソロの再生は、いまでも難しいと感じている。
ヴァイオリン・ソロも、モノーラル録音よりもステレオ録音になって、
難しさはある面で難しくなってきたのではなかろうか。
ヴァイオリンは、その音の放射パターンが音域によってかなり変化する。
これも含めてヴァイオリンの音色は形成されていることはわかっているけれど、
このことがステレオによる再生面で難しさにもなっている。
BOSE・2201は半径が22インチの1/8球体。
専用イコライザーとパワーアンプも内蔵しているわけだから、
それほどサイズとしては大型とはいえない、と思う反面、
見慣れぬ形状のスピーカーゆえに、実際に部屋に置いたときに、
どういう印象を抱くのかは、正直想像しにくいところがある。
形状的にもコーナーに設置することになるだろうから、
スペースファクターは悪くはない、といえる。
エンクロージュアの製作は大変だろうな、と思う。
とにかく2201は60セット程度しか売れなかった、らしい。
901はBOSE博士が二週間こもりっきりで考え出したアイディアを基に開発されたスピーカーシステムで、
2201の22本のフルレンジユニットは半分以下の9本に減り、
サイズも、そして見た目も、2201よりもずっと家庭に受け入れやすいモノとして仕上っている。
2201のコンセプトと901のコンセプトは完全に同じものとはいえないにしても、
まったくの別物のスピーカーシステムというわけではない。
その意味で、901は2201のコンパクト化に挑んだがゆえに誕生した形態ともいえるのかもしれない。
BOSEはボストンにある。
ボストンといえば、ブックシェルフ型スピーカーの元祖であるアコースティック・リサーチ(AR)もそうである。
そのことが901が、あのサイズにまとめられたのにどこかでつながっていくのかもしれない。
901は成功した。
BOSE博士が学生のころに、ヴァイオリンの再生がひどく悪かったことから始まったともいえるBOSE。
ふり返ってみると、901の音はたびたび聴いている。
にも関わらずヴァイオリン・ソロを聴いたことがないのに気づいた。
BOSE・901は1967年に発表され、翌68年から発売されている。
これだけ長い間、いまも現役のスピーカーシステムは他に何があるだろうか。
もう40年以上、小改良を何度か受けているというものの、
基本的な形・構造にほとんど変化なく、いまもBOSEのトップモデルである。
901に続くロングセラーのスピーカーシステムとなると、
タンノイのウェストミンスターだけだろう。
そういうスピーカーシステムなのに、いま日本には正式に輸入されていないということを、
日本のオーディオマニアとして、どう受けとめるべきなのだろうか。
901はBOSEを代表するスピーカーシステムではあるが、
BOSEの最初のスピーカーシステムではない。
これはBOSEの広告にも使われていたのでご存知の方も多いだろう、
1/8球体のエンクロージュアに22本のフルレンジユニットを取り付け、
疑似呼吸体を目指したスピーカーシステムである。
1966年に世に登場している。
このスピーカーシステム、2201の開発時のエピソードも、
オーディオ雑誌に何度か記事になっている。
BOSE博士がまだ大学生だったころ、
オーディオを購入し、ヴァイオリンのレコードをかけたところ、あまりにもひどかった。
それで疑問を抱き、音響に関する勉強を始めたことがきっかけとなっている。
これが1956年のこと。価格はペアで2000ドル。
いい音がしていた、ときいている。
けれど商業的には成功とはいえず、1967年ごろのBOSEは経営に行き詰まる。
そして登場したのが、901である。