Date: 7月 4th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その3)

セレッションのトゥイーター、
個人的には名トゥイーターといいたくなるHF1300。

いまBBCモニターのLS3/5Aの復刻モデルが、各社から出ている。
LS3/5Aに搭載されていたKEFのユニットは製造中止になって久しいから、
オリジナルの復刻にはユニットの復刻から、始めることになる。

そうやった復刻されたユニットを見ると、なかなかの仕上がりだ。
BBCモニターの復刻はLS3/5Aだけではない。

グラハムオーディオからはLS5/8とLS5/9も出ている。
LS5/1Aまでは期待しないものの、LS5/5は復刻されないものか。

LS5/5の復刻にはHF1300(正確には改良型HF1400)が不可欠だと、思っている。
ここが他のトゥイーター、どんなにそれが優秀であってもLS5/5の復刻とは呼べないはずだ。

ようするにどこかHF1300を復刻してくれないか、と思っているわけだ。
HF1300を単体のトゥイーターとして使ってみた(鳴らしてみた)ことはない。

自分でそうやって使う(鳴らす)ことで、確かめたいことがある。
それはHF1300独自の音色について、である。

ここでのタイトルは、
好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた、としている。
そうである。

そうなのは確かだが、HF1300は各社のスピーカーシステムに使われている。
組み合わされるウーファーもさまざまだ。

そこにおいて音色のつながりに不自然さを感じさせるスピーカーシステムはなかった。
ということは、HF1300はそれほど主張の強い音色をもっていないのではないか。
そう解釈することもできるからだ。

ステレオサウンド 35号「’75ベストバイ・コンポーネント」で、
井上先生は、
《英国系のスピーカーシステムに、もっとも多く採用されている定評のあるユニットだ。滑らかで、緻密な音質は、大変に素晴らしく他社のウーファーとも幅広くマッチする。》、
瀬川先生は、
《イギリス製のスピーカーシステムに比較的多く採用されている実績のある、適応範囲の広いトゥイーター。BBCモニターの高域はこれの改良型。高域のレインジはそう広くない。》
と書かれている。

HF1300は適応範囲の広いトゥイーターだということが読みとれる。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その3)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節を引用するのは、これで四回目だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
この項で、引用の理由は書かなくていいだろう。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その2)

以前のCDボックスは10枚組くらいだったのが、
いつのころからか、全集の名の元に50枚くらいは当り前になってきて、
80枚、それ以上の枚数のボックスも珍しくなくなってきている。

価格もそう高くはない。
一枚当りの価格は、そうとうに安くなっている。

CDボックスの多くはいわゆる再発にあたるわけだから、
安くなるのはわかるし、買う側にしてもありがたいことである。

あまりにも安いと、なんだか申しわけなく感じたりもするが、
それでも安価なのを否定はしない。

だからCDボックスが溜ってくる。
好きな演奏家のCDボックスであっても、一気にすべてのCDを聴いてしまえる人は、
どのくらいいるのだろうか。

50枚組のCDボックスを購入したとして、一日一枚ずつ聴いても二ヵ月近くかかる。
その二ヵ月間に、他のCDを一枚も購入しないということは、まずない。
しかも、その間に、別のCDボックスを購入してたりもする。

クラシックの場合、そのくらいCDボックスが次々に登場してくる。
だから未聴のCDボックスが溜ってくる。

CDボックスを、そんなふうに次々と買ってしまうのは、
ある年代よりも上であろう。

40代ならば、平均寿命まで生きられるとしたら、まだまだ残り時間はある。
50代ならば、そう長くはない、といえよう。

安岡章太郎氏の「ビデオの時代」に書かれているように《余生を娯しむには十二分のものがある》。
そんなことはみなわかっている。
なのに、CDボックスが出ると、つい購入ボタンをクリックしてしまう──、
クラシック好きの多くはそうだろう、と思っている。

CDボックスはインターネットで購入、
届くのを待つだけの人が多いはずだ。

レコード店で購入し、重い思いをして持って帰れば、
購入も少し控えるのかもしれないが、いまの時代はそうではない。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その6)

新宿珈琲屋のKさんの髪も長かった。

私は五味先生の「日本のベートーヴェン」に出てくる髪の美しい少女を、
髪の長い少女と手前勝手に想像しているのは、
私自身が少年だったころ、想いを寄せていた少女の姿からだけではなく、
実のところKさんのイメージもそこに重なってくるからだ。

新宿珈琲屋はカウンターだけの店だから、
《メニューを持って近寄って来る》こともないし、
《紺のスカートで去って行くうしろ姿》はない。

大きな店ではないから、
座っているところからすぐのところにKさんは立っていて仕事をしている。
頻繁に通っていたから顔は覚えられていた。
店に入ると、会釈を返してくれる。

とはいえKさんと話すことはほとんどなかった。
Kさんが淹れてくれるコーヒーを飲み、
後で鳴っているESLから流れてくるバロック音楽に耳を傾けて、
ただそれだけで店を出る。

あのころの私にとって新宿珈琲屋は、理想に近い居場所だった。
ずっと、あの場所にあるものだ、と信じ切っていた。

けれどあっけなく消失してしまった。
1983年12月だった、はずだ。
火事で無くなってしまった。

放火だといわれていた。
たしかにあの場所に木造長屋では、家賃収入も期待できない。
ビルに建て替えれば……、そんなウワサを聞いている。
地上げということをよく聞くようになっていたころだった。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その2)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

願望に基づく理解しかできない人がアマチュアであり、
願望と切り離したところで理解できるのがプロフェッショナルであるのは、
オーディオの世界でもいえるはずだ。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その5)

déjà vuを公開していたMさんは、私よりも10ほど若かったはずだ。
一方、スピーカーのネットワークで議論(のような)をやっていた二人は、
私よりも10ほど上であるから、Mさんよりも20ほど上なわけだ。

そんな人たちに向って、掲示板上とはいえ、諌めることは難しかった、と思う。
遠慮もあっただろうし、どうしたらいいのかわからないこともあったと思う。

同様のことで、録音で揉めていた二人もいた。
こちらは互いに面識もない人たちのようで、
かなりひどいやりとりになっていった、と記憶している。

録音の、それもマイクロフォンのセッティングについては、Mさんはほとんど知らなかったはずだ。
そこでの口出しは、さらに難しかったであろう。
このやりとりはどちらも感情的になっていった。

掲示板の運営・管理は、この例だけでも大変だな、と思う。
荒れるにまかせきった掲示板なら、それはそれでいいだろうが、
個人サイトの、しかもある思い入れをもって公開されているサイトでの掲示板は、
そういうわけにはいかない。

しかも皮肉なことに、掲示板がそういう意味で多少荒れた方が人が集まってくる傾向もあるようだ。
ここでも自由と勝手が勘違いされている。

掲示板とは、見知らぬ者同士の情報交換の場でもあるはずだ。
ここにも一週間ほどの
黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」で引用した黒田先生のいわんとされていることが関係してくる。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その4)

インターネットの掲示板とは、見知らぬ人と、それも複数の人と、
それぞれを隔てる距離、時間など関係なしに結びつけて話し合える場ではないのか。

議論もできる場であり、議論を深めていける場もある。
なのに残念なことは、それまではそんな雰囲気のあった掲示板が、
知名度が急に広まって多くの人がどっと押し寄せるようになると、
それぞれの自己主張の場と変っていくように感じている。

しかもいい大人が……、といわれる年代の人たちに、そういう人がどうも多いようだ。
その3)でふれたdéjà vuの掲示板もそうだったように記憶しいてる。

相手の意見に耳を傾ける、ということが、この人たちはできないのか。
そう思いたくなる(言いたくなる)ほど、一方的な書き込みをする人が現れる。

私が記憶している範囲では、こんなこともあった。
スピーカーのネットワークの次数とユニットの極性についてのことだった。
意見を戦わせていたのは、おもに二人。
どちらもハンドルネームだったが、当時ステレオサウンドに執筆していた人たちである。
そのことは常連のあいだでは知れ渡っていたはずだ。

一人は1970年ごろまでのスピーカーの教科書的書籍を元に書き込む。
もう一人は聞きかじりの知識のみで書き込む。

どちらかが全面的に正しくて、片方が全面的に間違っていたのであれば、
話は簡単に決着するのだが、両者とも部分的に正しくて、部分的に間違っている。

スピーカーの基礎知識があったうえで、
最新のスピーカーシステムがどうなっているのかを知っている人ならば、
この二人の議論が噛みあわないのはすぐにわかったはずだし、
それぞれの間違っているところを指摘することもできるのだが、
誰もそんな人はいなかったし、私も面倒でやらなかった。

二人とも知人ではあったし、一人はわりと頻繁に連絡をしていたので、
やんわりとそのことは伝えていた。

議論は尻すぼみになった記憶がある。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その1)

この二、三年、聴きたいのは平面バッフルの音だ。
理想をいえば2m×2mの大きさの平面バッフルを鳴らしたい、ところだが、
実際にそれだけの大型のバッフルをおさめられるだけの空間を持っていないし、
これだけの大型となると視覚的な問題も生じよう。

自分の身長よりも高い平面バッフル(に限らず通常のスピーカーであってもそうだ)は、
威圧感を無視できなくなる。
このへんの感じ方は人によって違ってくるだろうから、
どんなに高くても平気という人もいれば、
1.9m×1mの平面バッフルを使っていた経験からいえば、
実用的なサイズとしては1.2m×1.2mくらいだと感じている。

現実的にサブロク板を半分に切っての0.9m×0.9mが経済的ともいえよう。
けれど、このくらいのサイズとなると、低音のレスポンスの問題がある。
そこをどうするかも、あれこれ考えている。

そんなふうに考えているのは、
つねに心のどこかに平面バッフルの音を聴きたい気持があるからなのだが、
最近は少し違ってきている。

平面バッフルの音を聴かせたい、に変ってきている。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: audio wednesday

第90回audio wednesdayのお知らせ(AXIOM 401+Aleph 3+LNP 2)

明日(4日)のaudio wednesdayでは、グッドマンのAXIOM 401を鳴らす。
コントロールアンプにマークレビンソンのLNP2をもってくる。

LNP2はライン入力でもモジュール(増幅回路)を二段経由する。
アンプを経由すれば、音の鮮度や純度は、わずかとはいえ影響を受ける。

LNP2の使いこなしといって、TAPE OUT端子からパワーアンプへ接ぐ人がいる。
そうすればトーンコントロール回路を経由しない。
セレクターもメインボリュウムもパスできる。

音量調整は左右独立のインプットレベル調整のツマミでできる。
そうすれば音の鮮度、純度も通常の使い方よりも改善される──、
とそういう人は、そんなことを自慢気に言う。

そんなことはLNP2を使っている人、
LNP2に憧れてきた者ならばわかっていることだ。

それでもそんな使い方はしないのは、
別項で書いている「冗長と情調」に関係してくることを感じているからだ。

明日、どんな音が鳴ってくるのか、想像がつかないところもある。
それでも私にとっては、「冗長と情調」についてのヒントを得られる音が聴けるのではないか、
そんな期待を持っているし、そんなふうに鳴らしてみたい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その11)

導入記は、すでにあるオーディオ機器を購入してのものだから、
購入後ではあるけれど、購入時的な導入記もある、ということだ。

何かを、それまでのシステムに導入する。
いったいどれぐらい経ったら、購入時から購入後といえるようになるかは、
はっきりといえることではないし、人によって大きく違ってこよう。

わずか数ヵ月で購入後といえる視点をもつ人もいれば、
半年、一年、もくしはそれ以上の期間を必要とする人いるであろう。

購入時と購入後の視点をはっきりとわけるものは、
小沢コージ氏の文章中にある無意識インプレッションだと思っている。

ステレオサウンド 207号掲載の二本の導入記のうち、
原本薫子氏のそれは、力が入っているのがわかる。
それを腐すつもりは毛頭ない。

力がそうとうに入っているだけに、原本薫子氏の文章はまさに導入記といえる。
いえる、と書いてしまうのがまずければ、私にはそう感じる、といいかえよう。

つまり小沢コージ氏の文章にある
《クルマのハンドリングに関する真の評価は、そのドライバーが無意識的に走っている時にこそ行われるべきで、自分で「走るぞ!」と思っている時のステアリングの手応えや操縦安定性の評価など、あてにならないというのだ》
このことだ。

何も購入時の導入記があてにならない、といおうとしているのではなく、
いわゆる試聴テストではなく、こういう内容の記事であるからこそ、
「走るぞ!」(「聴くぞ!」)という、いわゆる蜜月をすぎたといえるようになってからの、
ようするに無意識インプレッションが、購入後の視点だと考える。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号。
巻末に「マッキントッシュ対マランツ」という特別テストが載っている。

副題として、〈タイムトンネル〉もし20年前に「ステレオサウンド」誌があったら……、
とついている。

1976年から20年ほど遡って、
当時のマッキントッシュのアンプとマランツのアンプの比較試聴である。

マッキントッシュはC8S+MC30、
マランツはModel 1+Model 6+Model 2である。

この記事を懐古趣味と一蹴するのは、簡単だ。
1976年はすでに40年前、そこからさらに20年なのだから、60年前のアンプについての記事を、
ここで取り上げるのは、ここでの試聴結果が、今回の謝罪の件にも関係してくるからだ。

機会があれば、ぜひ読んでほしい。
ここでは、菅野先生の発言のひとつだけを取り上げる。
     *
菅野 ほんと、そういう感じですよね。この二つは全く違うアンプって感じですな。コルトーのミスタッチは気にならないが、ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。
     *
岡先生は《うまい例えだな。これ、ひっくり返したら全然だめだからね》と返されている。
ほんとうにそうである。

クラシックをまったく聴かない人にはわからない例えだろうが、
言い得て妙とは、まさにこのことだ。

コルトーのところは、他のピアニストに変えることはできない。
ワイセンベルグは、ワイセンベルグに限らない。
この記事が1976年ということもあってのワイセンベルグである。

ここでコルトー的なアンプはマッキントッシュであり、
ワイセンベルグ的なのはマランツである。

そして、この例えをマッキントッシュ、マランツのアンプではなく、スピーカーに置き換えてみる。
ワイセンベルグ的(マランツ)をYGアコースティクスのHailey 1.2に、
コルトー的(マッキントッシュ)を、ステレオサウンド 207号で柳沢功氏が高く評価しているモノ、
フランコ・セルブリンのKtêmaにしてみよう。

私が染谷一編集長の立場だったら、avcat氏への説明に、この例えを使うかもしれない。
avcat氏がクラシックを聴かない人だったら、この例えは役に立たないが……。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その1)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その20)」でも引用している。
映画「イノセンス」序盤での荒巻大輔のセリフである。

今回の件は、ほんとうにそうだな、と実感しているところだ。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その10)

ステレオサウンド 207号に購入後の視点的な記事が二本載っている。
和田博巳氏の「ファンダメンタルMA10導入記」、
原本薫子氏の「マッキントッシュMCD550導入記」である。
どちらも四ページ構成の記事だ。

文字数を数えていないが、
amazonのレヴュー投稿よりは、ずっと文字数は多い。
それにどちらも四点の写真もある。

この記事について、購入後という視点で書く予定でいたところに、
友人から、あるサイトのURLがメッセージで届いた。

webCGに六年前に公開された一本の記事へのリンクだった。
第452回:これじゃメルセデスには追いつけないぜ! “無意識インプレッション”のススメ」、
小沢コージという方が書かれている。

その冒頭に書いてあることこそ、購入後の視点ではないだろうか。
     *
「自分が言うのもなんですが、箱根で新車の試乗会やっても、あまり意味ないと思うんです。みなさんそのつもりで走ってるし、運転がうまい人ほど足りない分を自然に補っちゃうので……」いやはや、とある試乗会で、とあるテストドライバーから衝撃的なコメントを……というか、昔から漠然と抱いていた疑問に対する答えをもらってしまったぜ。いわばそれは、“無意識インプレッション”のススメだ。どういうことかというと、クルマのハンドリングに関する真の評価は、そのドライバーが無意識的に走っている時にこそ行われるべきで、自分で「走るぞ!」と思っている時のステアリングの手応えや操縦安定性の評価など、あてにならないというのだ。
いや、それも大切かもしれないけれど、最も重要なのは、ボーッと走っている時に「いかにドライバーの脳に適切な刺激やインフォメーションを与えられるか」「轍にタイヤを取られたりしないか」といったことであり、プロのテストドライバーは、運転中に意識的にその領域に踏み込んで評価できるという。
まさに達人の境地というか、スターウォーズの“フォース”みたいな話じゃないの(笑)。でも、ダメンズ小沢自身、本当にそうだと思った。というのも実際問題、箱根で走ってると、クルマの動的性能がよく分からない場合が多いのだ。もちろん、“速い”とか“フィールがいい”とか“ブレーキが効く”と感じる部分はあるし、それをなるべく自然体で分かりやすくリポートしようとはしているつもりだが……。
     *
無意識インプレッションである。

207号の二本の導入記を読んでいて感じていたのは、
購入後の視点といえる記事ではなく、あくまでも導入記としての記事ということだ。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その8)

秋葉原にあるテレオンが、まだテレビ音響だった時代なのか、
それともすでにテレオンになっていたのか、そのへんのところははっきりしないが、
テレオンが、いまのビルではなく、ラジオ会館がどこかのビルで営業していたころの話だ。

当然、そのころ私はまだオーディオマニアではなかったし、
東京に住んでもいなかった。
人から聞いた話だ。

彼も、もちろんオーディオマニアだ。
彼が学生のころに、テレオンのその店にカートリッジを買いに行った。
そのテレオンは、創業者の奥さんと思われる人が仕切っていた。
ショーケースの中には、市販されている大半のカートリッジが並んでいる。

シュアーのV15が欲しい、というと、まず訊かれる。
いまどのカートリッジを使っているのか、
システムの構成、それからどういう音楽を好むのか、聴く音量、
オーディオの知識、キャリアなどを見透かす質問をしてくるそうだ。

それに合格しなければ、希望のカートリッジを売ってくれなかったりする。
「あなたにはまだV15は早すぎる」、
そんなことを言って売ってくれないんだそうだ。

そしてシュアーの安価な、けれどしっかりしたカートリッジを薦めてくれる。
買いたいモノが買えるだけの余裕があって買いに行く。

なのに売ってくれない。
理不尽だ、と思う人もいるけれど、私はそうは思わない。
こういうオーディオ店が昔はあった。
トロフィー屋ではないオーディオ店があった。
いまのテレオンがそうなのかは知らないけれど、そうあってほしい。

ならば、他のオーディオ店に行けばいい、と思う人もいる。
けれど彼は、テレオンでカートリッジを買っている。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その31)

「音の美」と忠実性について、ここではこれ以上ふれない。
別項で書く。

avcat氏はオーディオのプロフェッショナルではない。
アマチュアである。
だから、ステレオサウンド掲載の試聴記をどう読もうと、avcat氏の自由(というより勝手)である。
それにその不満、不愉快になったことをツイートするのも自由(勝手)でいい。

問題にしているのは、そのことに対して、
ステレオサウンドの染谷一編集長がどうして謝罪したかということだ。

染谷一編集長とavcat氏の関係は知らないが、少なくとも顔見知りであることは間違いない。
親しい間柄なのかもしれない。
ならば、謝罪ではなく、説明をすべきだった、と私は考える。

説得できるかどうかはわからない。
それでもきちんと説明すべきだった。

ステレオサウンド 207号には、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」が載っている。
パオロ・テッツォン氏が、柳沢功力、小野寺弘滋、ベイシーの菅原正二、
三氏の音を聴いての印象を綴った記事だ。

この記事こそ、三氏のそれぞれの「音の美」について語っている。
染谷一編集長が、この記事の担当がどうかはわからない。

担当していたとしよう。
染谷一編集長は、こういう記事をつくる一方では、
「音の美」を否定するかのようにavcat氏に謝罪している。

それともこの記事の担当者は別で、
染谷一編集長は、この記事をどう思っているのか。
知りたいところである。