Date: 11月 17th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その7)

TIDALがあるおかげなのかもしれないが、
今年は「クラシックを聴き続けてよかった」と実感している。

四十数年聴いてきて、いままでそんなふうに思ったことはなかっただけに、
齢をとったのかも……、と思いながらも、
そんなことはどうでもいいわけで、ほんとうに聴き続けてよかった。

私はクラシックを主に聴き続けてきたからそう思うわけで、
クラッシクでなければならないわけではない。

ジャズでもいい、ロック・ポップスでもいいし、歌謡曲でもいい。
好きな音楽を永い時間、聴き続けていることが大切なのであって、
そのことをいつの日か、実感できるようになる、というだけのことだ。

Date: 11月 17th, 2021
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その15)

このことはどこに書こうか、少し考えたけれど、結局、ここに書くことにした。

最近、ソーシャルメディアを眺めていると、爆音という表現がけっこう出てくる。
爆音と表現された、その音を私は聴いているわけではないから、
そこで鳴っていた音が、ほんとうに爆音なのかどうかはなんともいえないが、
ただ私が思っている爆音と、ソーシャルメディアに爆音と書き込んでいる人たちの爆音とは、
どうも違うような気がしてならない。

鼓膜を圧するほどの大音量が、爆音なのではない。
いうまでもなく爆音とは、辞書には、
飛行機・オートバイなどのエンジンの発する大きな音、
火薬などが爆発する音、とある。

私にとっての爆音とは、菅野先生が表現された岩崎先生の音のことだ。
その2)で、そのことについて書いている。

「よくマンガであるだろう、頭を殴られて目から火花や星が飛び出す、というのが。」
こんな出だしで、菅野先生が話してくださったのは岩崎先生の音について訊ねたときのことである。

「岩崎さんの音をはじめて聴いた時、ほんとうに目から火花が出たんだ。まるでマンガのようにね」と続けられた。
そのくらいの衝撃が、岩崎先生の音にはあったということだ。

大音量で知られる岩崎先生。
ただ大きなだけではない。
菅野先生が表現されているような音だからこその爆音だ。

岩崎先生が求められていた爆音とは、これも(その2)で書いているが、
こういうことだと思っている。
     *
アドリブを重視するジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
爆音という表現を使っている人たちで、
こういう音を聴いている(出している)人がどれだけいるのだろうか。

Date: 11月 17th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その6)

一年前の11月17日からTIDALを使い始めた。
丸一年、ほぼ毎日、TIDALで音楽を聴いてきた。

ソニー、クラシカル、ソニー・ミュージックの音源のMQA配信が、
今夏から行われるように、TIDALで聴く時間は増える一方。

グレン・グールドがMQA Studioを聴けるようになったのは、
今年一番嬉しかったことであり、これ以上の喜びは、これから先もそうそうないように思う。

グールドのハイドン、モーツァルト、バッハをMQA Studioで聴ける。
ありきたりの表現になっしまうが、まさに至福の一時であるし、
スリリングな時間でもある。

MQAの音を、秘伝のタレをかけた音、と酷評する人が、オーディオ業界には数人いる。
この人たちは、どういうシステムで、
どういう聴き方をしての「秘伝のタレ」という表現なのだろうか。

グールドをMQAで聴きたければいまのところTIDALしか手はない。
だから来年もTIDALで音楽を聴く時間は増えることはあっても、減ることはない。

Date: 11月 16th, 2021
Cate: 「オーディオ」考
1 msg

「オーディオの対岸にあるもの」について(その4)

その3)で、「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのは、
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか──、と書いた。

では、なぜ誤解されたくない、という気持はどこから生れてくるのか。
一つには、人に音を聴かせるからだろう、と思っている。

インターネットの普及によって、
それまで接点のなかったオーディオマニアのあいだにつながりが生れ、
互いの音を聴く、ということがあたりまえのように行われようになったし、
そのことを個人サイトやブログ、ソーシャルメディアで、どうだったのかを公開する。

インターネット普及以前は、初対面の人の音を聴きにいくということは、
そうそうなかった。
共通の知人がいれば、そういうこともあったけれど、いまは違う。

そのことが悪いこととは思っていないけれど、
そのことが誤解されたくない、という気持を生む下地になってきているのではないだろうか。

人に聴かせなければいい。
私はそう考える人間だ。

誰にも聴かせなければ誤解も生じない。
もっとも誰にも聴かせなければ、褒めてもらうこともなくなるわけだが。

いい音ですね、素晴らしい音ですね、と認めてもらいたい、褒めてもらいたい気持と、
絶対に誤解されたくないという気持。

それを両立させるのが、オーディオのあり方なのだろうか。

Date: 11月 16th, 2021
Cate: 新製品

新製品(マッキントッシュ MC3500・その4)

MC3500が業務用アンプであり、
今回のMC3500 Mk IIが家庭用アンプとして開発されたものであることは、
マッキントッシュのMC3500のサイトの写真からもはっきり伺える。

新旧二台のMC3500が並んで写っている。
MC3500は、当然古いわけだけど、ここでの写真では、
どこかで使っていたMC3500を持ってきてそのまま撮影している感じである。

冷却ファンをもつMC3500の内部はホコリがたまりがちである。
写真のMC3500は、まさにそのとおりであって、
写真撮影にあたって内部のクリーニングを行っていない。

そのとなりに新品のMC3500 Mk IIである。

この写真をみて、二台のMC3500は、
出力こそ、そしてアンプとしての規模こそ同じであっても、別物であることを、
マッキントッシュは提示している、と感じた。

だからこそ新型のMC3500は、
フロントパネルにもリアにも、型番の表記がMC3500 Mk IIではなく、MC3500なのだ。

MC3500 Mk IIとするのであれば、
業務用のMC3500の改良版でなければならない。

今回発表されたMC3500は家庭用アンプである。
いまのマッキントッシュは、MC3500を発表した時のマッキントッシュはとは違い、
業務用アンプメーカーではなく、家庭用アンプの専業メーカーである。

Date: 11月 16th, 2021
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その14)

その7)で,6月からAmazon Music HDも利用している、と書いている。
いまは、というと、10月にAmazon Music HDは契約解除した。

TIDALよりも日本語の歌に関しては揃っている。
Amazon Music HDで聴くのは、ほぼ日本語の歌だけになっていた。

それでも月々の支払い額は高いわけでもないから、
そのまま使っていてもいいと思ったけれど、
9月、10月になるとほとんど聴かなくなっていた。

また聴きたいと思うようになったら、その時また契約すればいいし、
それも簡単に行えるのだから、それでいい。

結局、私のシステムでは、Amazon Music HDはそれほどいい音とは思えなかった。
TIDALがMQAにさらに積極的になってくれたことも関係している。

TIDALで聴く時間がほんとうに長くなってきている。
楽しくて楽しくて、といった感じで聴いている。

この楽しいという感じが、Amazon Music HDには私の場合、感じられなかった。
まったくなかった、とはいわないが、薄いなぁ、と思っていた。

TIDALという書店とAmazon Music HDという書店。
どちらも規模は大きく、ラインナップもまったく違うというほどではない。

それでも楽しい、という点において、私はTIDALという書店をとる。
Amazon Music HDという書店は、思い出したようにふらっと入ればいい。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その18)

「トイレのピエタ」。
手塚治虫が死の前日、日記に書き残した作品のタイトルであり、
その構想が「トイレのピエタ」である。

インターネットで検索すれば、いくつかの記事がヒットする。

癌患者が入院先の病院のトイレの天井画を描き始める──。

映画「MINAMATA」の最後のシーン。
あの写真の撮影シーン。
あれもピエタである。

あの写真は、私だってずっと昔に見て知っている。
そのくらいよく知られている写真だ。

手塚治虫が知らなかったわけがない。

私には無関係とはとうていおもえない。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、グレン・グールドのこと(その5)

昨晩遅くに、グールドのハイドンを聴き始めた。

グールド初のデジタル録音であるハイドンは、最初LPで買って聴いていた。
それからCDを買って聴いていた。

今回MQA Studioで聴いていると、LPで聴いていたころを思い出す。
結局、最後まで聴いていた。

こうやって夜更かしの日が続いていくわけだ。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 四季

さくら餅(その6)

すやの栗きんとんのことを書いている。
ひとつだけ補足しておきたい。

私がよく買っていたころは、毎年9月2日に発売が開始されていた。
おそらくこれはいまも同じだろう。

以前の記憶では、11月になると味が落ちる。
9月、10月の栗きんとんの色と11月の栗きんとんの色は違う。
ほのかな感じの色が、そうでなくなってくる。

旬のものだから、その変化は仕方ないわけで、
早い時期に食べるのがおすすめである。

おそらく、このこともいまも変っていないはずだ。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その4)

EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップの、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
──もう何度も引用している。

引用するたびに思っていることは、
ここでの音楽とは、
孤独な人にむかって「僕がここにいる」といってくる音楽とは、
レコード(録音物)を再生しての音楽を指しているように感じることだ。

スミ・ラジ・グラップがレコード会社のプロデューサーだったから、
そう思うわけではない。

少し考えてみればわかることだ。
孤独に陥っている人が、コンサート会場に音楽を聴きに行くだろうか。
行く人もいよう。
それでも、ほんとうに孤独を強く感じている、まさにその時に、
都合よくコンサートが行われているなんて、稀なことだ。

それに聴きたい音楽、心が必要としている音楽が、
そのコンサートで演奏されるか──、これはもっと可能性が低くなる。

それでもゼロではないだろうが、
そこでの演奏が素晴らしいかどうかの保証もない。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
それはオーディオを介して聴く音楽である。

Date: 11月 14th, 2021
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーとデザイン(その6)

絢爛たる混淆。

四年前の(その5)の最後に、そう書いた。
オーディオ・アクセサリーは、そのころもいまも絢爛たる混淆のままと感じる。

賑やかと華やかは、ずいぶん違うものだ。

先日、すやの栗きんとんをひさしぶりに食べたことを、
別項「さくら餅(その5)」で書いた。
そこで、すやの栗きんとんは、これから先もずっと装飾されることはないはず、とも書いた。

それについてはいまも変らずそう思っているのだが、
もしすやの栗きんとんが饅頭ほどの大きさだったら、どうなっているだろうか。
そんなことを想像していた。

すやの栗きんとんは、栗とほぼ同じくらいか、ちょっと小さいかなというぐらいの大きさだ。
小粒である。

味もそうなのだが、大きさ的にも装飾を拒否している、ともいえる。
けれど世の中には、実にさまざまなことをやる人がいるものだ。

すやの栗きんとんを前にして、もっと美味しく食べる方法があるはずだ、と、
独りよがりな創意工夫をする人がいてもおかしくない。

それでも小粒なすやの栗きんとんを十粒ほどを一粒にまとめてしまい、
そこに装飾的なことをする人がいるかもしれない。
そして、ほら、こんなに豪華でしょう、と誇らしげに自慢するかもしれない。

Date: 11月 14th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その7)

マスターテープに記録されている音をそのまま再現できれば、
素晴らしい音が得られるし、音楽的感動も得られる──、
オーディオに興味をもった人ならば、少なくとも一度はそう考えたことがあるだろう。

私もそう考えていたことがある。

再生機器というか再生系において何の色づけもなされず、
そして何の欠落も生じずに、
さらにまったついじることなく、
マスターテープに記録された音そのままを再生(再現)できれば、
それははたして、ほんとうにいい音、
それだけでなく聴いて感動する音が得られるのか。

いまだかつて、誰一人として、その音を聴いているわけではない。
それにマスターテープにどんな音が記録されているのか、
それを正しく把握している人がいるのだろうか。

菅野先生がよくいわれていた。
自分が録音したマスターテープであっても、どんな音が録音されているのか、
はっきりとはわからない、と。

さらにオーディオマニアはマスターテープの音が最上だと思っている人がいるけれど、
きちんとつくられたレコードならば、そっちのほうが音がいい、と。

録音した人ではない者が、マスターテープの音について語る。
それがオーディオの世界といってしまえば、それ以上いうことはないのだが、
オーディオ機器の開発に携わっている者が、大真面目に、
しかもまったく疑うことなく、そう主張しているのをみると、
一つだけ、その人に訊きたくなることがある。

マスターテープの音そのままの再生(再現)ならば、
音量はどうするのか、である。

音量調整をした時点で、音をいじったことになるわけなのだが、
こういう主張をする人にかぎって、そのことを無視している。
そのことに気づいているのか、気づいていないのか、
そこまでは私にはわからないけれど、音量調整は、
音をいじることではない、とでも思っているのだろうか。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その12)

十年前、「確信していること(その20)」で書いたことを、くり返す。

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは四つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている、といえる。

「コンポーネントステレオのすすめ」は、
オーディオがプレーヤー、アンプ、スピーカーをそれぞれ自由に選んで組み合わせることが当り前のことになって、
その世界の広さ、深さ、面白さを伝えてくれる。

組合せは、他のオーディオ評論家もやっているのでは? といわれそうだが、
組合せに関して、瀬川先生ほど積極的に取り組まれていた人はいなかった、と私は感じている。
それに瀬川先生の組合せは、興味深いものが多かった。
それは単に読み物として興味深いだけでなく、
実際に自分で自分にとっての組合せを考えていく上でのヒントにつながっていくものがちりばめられていた。

瀬川先生の組合せのセンスは、他の方々とはあきらかに違う。
この違いを感じているのかどうかは、読み手次第としかいいようがない。

「虚構世界の狩人」には説明は要らないだろう。

「オーディオABC」はタイトルからいえばオーディオの入門書ということになるが、
瀬川先生の平易な言葉で書かれた文章は、決して表面的な入門書にはとどまらず、
確か岡先生が書評に書かれていたように「オーディオXYZ」的な内容でもある。
オーディオを構成しているものについて学んでいくには最適の本のひとつである。

「オーディオの系譜」は、オーディオの歴史を実際の製品にそって語られている。

もちろんこの四つ以外に、オーディオ雑誌での製品評価、新製品紹介もあるのだが、
これはオーディオ評論家として誰もがやっている柱であるから、あえて加えない。

でも、オーディオ評論家と呼ばれている人が誰でもやっている柱、
とつい書いてしまったが、この一本の柱すら、まともにやれていない人もいる。

そういう人は、オーディオ評論家としての柱はない、ということになるのか。
それとも私には見えていない柱を持っているだろうか。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その21)

書き上がった原稿を最初に読む人は誰だろうか。
編集者の場合が多いように思うが、書く人によって、少し違ってくる。

家族が最初の読者だ、ということがある。
黒田先生は書き上げた原稿を、編集者に渡す前に奥さまに読んでもらう──、
黒田先生から、そう聞いている。

黒田先生だけではなく、他にもそういう方はいるとは思うけれど、
それでも編集者が最初の読者であることが多いのではないのか。

編集者が最初の読者。
このことを書き手はどれだけ意識しているのだろうか。

そのことを意識しすぎた原稿は、その原稿が掲載される雑誌の読み手からすれば、
つまんないと感じることが多いのではないだろうか。

ボツになった原稿に、原稿料は支払われないだろう。
ボツにならなくても、編集者に気に入られない原稿を書いていれば、
そのうち仕事の依頼が来なくなるかもしれない。

ここで問題となるのは、考えたいのは編集者が気に入る原稿とは、
どういう原稿なのか、である。