「オーディオの対岸にあるもの」について(その4)
(その3)で、「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのは、
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか──、と書いた。
では、なぜ誤解されたくない、という気持はどこから生れてくるのか。
一つには、人に音を聴かせるからだろう、と思っている。
インターネットの普及によって、
それまで接点のなかったオーディオマニアのあいだにつながりが生れ、
互いの音を聴く、ということがあたりまえのように行われようになったし、
そのことを個人サイトやブログ、ソーシャルメディアで、どうだったのかを公開する。
インターネット普及以前は、初対面の人の音を聴きにいくということは、
そうそうなかった。
共通の知人がいれば、そういうこともあったけれど、いまは違う。
そのことが悪いこととは思っていないけれど、
そのことが誤解されたくない、という気持を生む下地になってきているのではないだろうか。
人に聴かせなければいい。
私はそう考える人間だ。
誰にも聴かせなければ誤解も生じない。
もっとも誰にも聴かせなければ、褒めてもらうこともなくなるわけだが。
いい音ですね、素晴らしい音ですね、と認めてもらいたい、褒めてもらいたい気持と、
絶対に誤解されたくないという気持。
それを両立させるのが、オーディオのあり方なのだろうか。
REPLY))
いつも楽しく拝見しています。誤解されたくないという気持ちが原因という話、大変共感いたしました。興味深い観測です。
誤解されたくないと思う人が増える背景に、不安感を煽るようなインターネットにおけるバッシング文化の影響も、今いう原因のひとつとして潜んでいるように思いました。
SNSが隆盛するまでは、BBS全盛期といえる時代がありました。わが国ですと「2ちゃんねる掲示板」や「学校裏サイト」などが有名だったと思います。インターネットの普及によって、活字の時代には文字にもされなかった底辺層の稚拙な声が、これらの場所で可視化されるようになりました。また、それによって彼らが影響力を持つようになりました。また、インターネットのメインがBBSからSNSへ変わる中で、人々は承認欲求を満たすことに躍起になっていったと思います。「いいね」やフォロワーの数値を競うあまり、コンテンツはマス化が進み、そのことによってエリートが弱体化しやすい状況が生まれているように思います。このような影響は、音楽をはじめとする芸術文化にも波及しているのではないでしょうか。
エリート不在の中で、ポピュラリティーばかりが重視され、理を知ることの重要さなどが忘れられた今―。趣味とはなにか、生活とは何か―、という追求もまた、ポピュラリティーへの追求へとすり替わっていったものと思われます。
オーディオには劇場の音響システムのようにプロフェッショナルなものと、いわゆる家庭用のステレオ・コンポーネントという、アマチュアイズムを追及するものとがあると思います。前者はパブリックなもので、後者はプライベートなものだと考えることができるでしょう。
普通、我々がオーディオとかステレオと呼んでいるものは、後者の家庭内におけるプライベートなステレオを指すと思います。私は、オーディオとは正解のない芸術的な趣味だと思っています。そして、オーディオとは世界の構築であり、庭や盆栽とも通ずる奥深い趣味だと思います。これは録音にも同じことが言えます。
趣味という観点から見ると、盆栽のように品評会をやる世界もあるでしょうし、料理のように振舞って楽しむものもありますから、つながりを持つこと自体は悪いことばかりでもないようです。しかしながら、マス化とポピュラリティが進んだ21世紀のこの世界で、音や音楽について深く話を交わせる相手を探すとなると、それは簡単ではないようです。
ネット書店の書評覧では「理解できない、だからつまらない」という幼稚な発言をたびたび目にします。自分の音を構築する上で、そのような声に耳を傾け受け入れれば、構築する音はむやみにマジョリティー化しくでしょうし、人の個性や自由は失われていくものと思います。これは録音側にも再生側にも言えることでしょう。元来、芸術とは個性を表すものであり、個性とは真に自由な発想と真に自由な精神の元に生まれるものだと思います。そして、真にオリジナリティの溢れたものは、いつの時代も誤解を受けてきたように思います。
身勝手さと自由を履き違え、荒唐無稽な刺激を求めたものを芸術だとは思えません。しかし、他者からの承認を欲するあまり、毒にも薬にもならぬを作るもまた芸術としては物足りなく感ずるものです。