Date: 4月 16th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その3)

松村夫人のことは、瀬川先生も、
ステレオサウンド 7号掲載「音は人なり」の中で触れられている。
     *
「音は人なり」という名言があるが、こと再生装置にかぎらず、精巧な機械になるほど、その持主の心を、あるいはそ置かれる環境を、素直に写し出すもののようである。
 この名言とともに、何かつけて思い出されるのは、福岡にお住まいのM夫人のクレデンザーの音である。
 夫人は、彼を「久礼夫さん」と呼んでおられた。この一事からも、並ならぬ可愛がりかたであったと想像頂けよう。金色のサウンドボックスも、HMV製のあの独特の白い竹針も、最上のコンディションで保存されていた。静かにハンドルをまわし、ピカピカのHMV盤に針を乗せる夫人のうしろ姿は凛として気品があった。それは恰かも、名器に向かう名演奏家の姿であった。
 こういう形で器機に接することのできる人は、女性にはまれなこと、と言ったら失礼な言い方になるかもしれないが、男にだってそうザラに居るわけではない。最初の一音を聴いただけで、クレデンザーが機械蓄音器の最高の名品といわれた所以に合点がいった。
 バイオリンでも、名人が奏きこむに従ってだんだんに音が良くなるそうだ。逆に、せっかく良く鳴っていた楽器でも、素人の手に渡ると一週間で鳴りが悪くなってくるという。M夫人の元で、ティボォ、コルトオ、ランドフスカの、しかも手入れのよいHMV本盤で鳴らしこまれたクレデンザーが、なみの器械の及ばない音で鳴っていたとしても不思議ではない。
 たとえ世界最高といわれた器械でも、たかが手捲蓄音器何ほどのことあるらんと、三極管パラPPのアンプに3ウェイのSPをひっさげて出かけた、十二年前のわたくしの高慢心は、クレデンザーの一音で砕け散った。単に音量感だけとっても、クレデンザーの方が格段に上だった。機械蓄音器から、ああいうたっぷりした音量が流れ出るものであることを、不覚にもそのとき初めて思い知らされた。しかしその後いくつかのクレデンザーを聴いたが、あの音量感、あの音質は別のクレデンザーには無いものだった。やはり奏き手も名人だったのである。今になってわたくしは確信する。あれは紛れもなくM夫人の音だったのだと。
     *
M夫人が、松村夫人である。
《クレデンザーの一音で砕け散った》とある。
この時、瀬川先生が松村夫人の元に持ち込まれたのが、
ラジオ技術 1957年10月号に発表されている
「30年来のレコード愛好家のために、バリスロープ・イコライザつき6F6パラPP・LP再生装置をつくる」
という記事に登場する装置である。

この記事は、こういう書き出しで始まっている。
     *
 本誌のレコード評に毎月健筆をふるっておられる西条卓夫氏から、氏の旧い盤友である松村夫人のために、LP装置を作るようにとのご依頼を受けたのは、まだ北風の残っている季節でした。お話を聴いて、私は少々ためらいました。夫人は遠く福岡にお住いですが、その感覚の鋭さ、耳の良さには、〝盤鬼〟をもって自他ともに許す西条氏でさえ、一目おいておられるのだそうで、LPの貧弱な演奏に耐えきれず未だに戦前のHMVの名盤を、クレデンザーで愛聴しておられるというのです。〝懐古趣味〟と笑ってはいけません。同じレコードを愛する私には、そのお気持が良く判るのでした。
 とにかく、限られた予算と、短かい期日の中で、全力を尽してみようと思いました。
     *
瀬川先生は、松村夫人のクレデンザを聴かれている。
西条卓夫氏はランドフスカの項では、瀬川先生のことも触れられている。
     *
 だが、録音されたランドフスカのクラヴサンの音は、SPの方がより良い味を持っている。最高級のアクースティック蓄音機でイギリス・プレスのSPを聴く際のあえかな美しさは、とても筆舌に尽くし難い。戦後派の選ばれたオーディオとレコード・ファンのM・KやI・Oの両君も、その法外な魅力には脱帽している。
     *
I・Oとは、大村一郎の頭文字で、瀬川先生の本名である。

Date: 4月 16th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その2)

グレン・グールドの二度目のゴールドベルグ変奏曲が出た時、
ラジオ技術の連載で、西条卓夫氏はそれほど高く評価はされてなかった──、
と記憶している。

ゴールドベルグ変奏曲はワンダ・ランドフスカの演奏にかぎる──、
的なことも書かれてあってと記憶している。

西条卓夫氏はランドフスカに熱をあげられていたことは、よく知られていた。

名曲この一枚」にも、ランドフスカのレコードは登場する。

ゴールドベルグ変奏曲のところで、こう書かれている。
     *
その一つにこの「ゴルトベルク」のSPがある。何しろ、ランドフスカが入れた大もののしかも稀代の名曲の初登場というので、知る限りの同好の士を招き、息づまるような雰囲気の中で聴いた。果然、そこには私たちのバッハ、本当の音楽が見出された。エネスコのバッハと同じく、最も好ましい。
 盤友のH・M氏夫人などは、これを聴いて命拾いまでしている。そのあらましはこうだ。
 三十年近くも前のこと、彼女は外科手術の予後が悪く、敗血症をひき起こした。早速Q大病院に入って加療に努めたが、とうとう危篤状態に陥ってしまった。特効薬のペニシリンやズルフォン剤がなかった当時のこととて、万やむを得ない成り行きだったといえよう。
 彼女は、主治医から「翌朝までは持つまい」といわれた当夜、日ごろ最も愛聴していたこのSPを、今生の思い出に病室でかけてもらった。開曲の「ありあ」が静かに流れ出すと、彼女の瞳は和やかな色を見せ、唇には微笑みさえ浮かべられた。そして、「第十一変奏曲」に入るころ、安らかな眠りに落ちて行った。枕許の人たちは、そとの清らかな臨終の姿に、思わず涙を新しくしたという。
 だが、一夜明けると、不思議にも病状は急反転して快方に向かい、間もなく本復してしまった。病院をあげて、これには全く唖然とするほかなかった。
 ランドフスカも、戦後私からの知らせで、非常に感動していた。バッハとランドフスカが生んだ現代の奇蹟として、特筆に値しよう。
     *
ここに出てくるQ大病院とは九大病院のことであり、
H・M氏夫人とは、松村夫人のことである。

ステレオサウンド 62号、「音を描く詩人の死」の中に松村夫人のことが触れられている。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: 世代

世代とオーディオ(実際の購入・続々ヤフオク!)

facebookに、
“SAE Scientific Audio Electronics Fans & Collectors Group”というグループがある。

SAEのファン・グループである。
私も参加している。
日本のオーディオのグループには参加していない私も、
海外のオーディオのグループのいくつかには参加している。

このSAEのファン・グループの参加者の一人で、
SAEの製品のメインテナンスを積極的にやっている人がいる。

けっこうな写真とともに、今回は、この製品をメインテナンスした、
という投稿がある。

この人は徹底的にメインテナンスをやる人だ。
この人だったら、安心してまかせられる。
日本からの依頼もあった、という投稿がつい最近あった。

そうだろうな、と思う。
私は自分でやることも楽しみとして、
昨年SAEのMark 2500を落札した。今年はGASのTHAEDRAを落札している。

ふところに余裕があれば、私もこの人にまかせたい、と思っている。
そして、この人と同じレベルでメインテナンスされているのであれば、
メインテナンス済み、オーバーホール済みと堂々と謳っていい。

ヤフオク!に限らないのだが、
中古を取り扱うオーディオ店も含めて、
完全メインテナンス済みとあったりする。

実際に、そういっているだけであって、確かめようはない。

私はMark 2500、THAEDRAの落札金額を、ここに書いているのは、
ほんとうの意味(レベル)でメインテナンスされていない数十年前のオーディオ機器は、
手に入れてから時間もお金もかかるし、
メインテナンス済みということがあやしい中古品の相場が高いと感じているからだ。

SAEのファン・グループの人と同じレベルのメインテナンスか施されたモノであれば、
それそうとうの価格がついていても当然なのだが、
くり返すがどうにもあやしいメインテナンス済みが少なくないように感じている。

Date: 4月 15th, 2022
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その14)

(その13)に、facebookにコメントがあった。

そこに妄想アクセラレーターとあった。
十年ほど前に、何度か使っている。

今回のセレッションのDitton 15のユニットたちは、
まさにこの妄想アクセラレーターをONにした。

妄想アクセラレーターは、ちょっとしたきっかけがあれば、
わりと簡単にONになってしまう。
場合によっては、そのままON状態がずーっと維持されることもあるけれど、
妄想をどこまでも細かくあれこれ考えていると、それで落ち着くことがある。

今回はDitton 15のネットワークの写真が、
妄想アクセラレーターをONにした、といえる。

そのDitton 15のスピーカーユニット群は、誰かが落札していた。
私は入札しなかったので、惜しいとか、そういう感情はわいてこない。

あれこれ妄想するだけで何が楽しいのか、と思われるかもしれないが、
実際にDitton 15のスピーカーユニットを手に入れたとして、
どうやってスピーカーシステムとしてまとめて仕上げるのか。

そのことを自分の製作の力量の範囲内でどうやるのか、
予算はどの程度にするのか、
自分の力量、予算も無視するとしたら、どこまでやれるのか、
そんなふうにいくつものパターンで妄想していく。

実際の工程ももちろん細かなことまで妄想していく。
そうすることで勉強になることは、意外に多い。

いまはiPhoneがあれば、あれこれ、いろんなことをすぐに検索していける。
エンクロージュアの作り方にしてもそうだ。
実際の木工をどうやるのか。

そのことに関しても、インターネットの検索結果が妄想をさらにふくらましていく。
それで数時間。充分におなかいっぱいになる。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その4)

4月になってからTIDALで集中的に聴いているのは、
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手である。

手あたり次第とまではいかないものの、それに近い感じで、
とにかくどこかで名前を目にした歌手を検索しては聴いているところだ。

前々から気になっていたことなのだが、
最近では大手のレコード会社からレコード(録音物)を出しているからといって、
必ずしも実力が伴っているとはいい難い。

ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手でも、そう感じた、というよりも、
ピアニスト、ヴァイオリニストなどもよりも、より強くそう感じた。

なぜ、この歌手が大手のレコード会社からデヴューできているのに、
この歌手はそうでないのか──、そう感じる。

大手のレコード会社から華々しく登場した歌手のほうが、
あきらかに実力不足の感が否めなかったりする。

勘ぐった見方をすれば、その歌手の出身国で売りたいからなのだろう。
そういう売り方(レコードの制作)を否定はしない。

クラシックにおいて、売れるモノがあるからこそ、
売行きは見込めないけれど──、という企画が実現できたりするからだ。

そういった歌手が誰なのかは、はっきりと書かないけれど、
最近のドイツ・グラモフォンは、ややあからさまのように感じている。

今回、集中的に聴いてあらためて、その歌のうまさに凄さを感じるのは、
サビーヌ・ドゥヴィエルだ。

カテリーナ(カタリーナ)・ペルジケ (Katharina Persicke)もいい。
TIDALでは二枚のアルバムしか聴けないが、
どちらを聴いても、どこにも無理を感じさせない歌唱は将来が楽しみである。

他にも何人か注目したい歌手が見つかった。
その人たちについて書きたいのではなく、
ここでのタイトルである、
マリア・カラスは「古典」になってしまったのか、についてである。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その11)

黒田先生は、「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
GASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところでも、
その10)で引用したことと関係する発言をされている。
     *
黒田 ぼくは非常にほしくなったアンプです。まず、瀬川さんはこのアンプの音を男性的とおっしゃったけれども、それに関連したことから申し上げます。これはぼくだけの偏見かもしれないけれど、音楽というのは男のものだという感じがするんです。少しでもナヨッとされることをぼくは許せない。そういう意味では、このシャキッとした、確かに立派な音といわれた表現がピッタリの音で、音楽を聴かせてもらったことにぼくは満足しました。
     *
今の時代、誤解される発言となるかもしれない。
今の時代の風潮に敏感であろうとすることだけに汲々としている編集者ならば、
24号に書かれたこと、
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言、
どちらにも訂正をいれてくるだろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言だけでは、
そうなるかもしれないが、24号での文章もあわせて読んでほしい。

そこには、こう書いてある。
《もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう》
ここはほんとうに大事なことである。

そして《その裸形の提示》においての鮮度ということが、再生音にはある。

Date: 4月 15th, 2022
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その13)

昨晩、ヤフオク!を眺めていたら、
セレッションのDitton 15が出品されていた。

Ditton 15は割と出品されている。
今回のは、エンクロージュアなしである。
ユニットとネットワーク、銘板だけである。

欲しくなった。
Ditton 15は、20cm口径のウーファー、同口径のパッシヴラジエーター、
それにHF1300(トゥイーター)である。

Ditton 15はこれまでも何度か落札しようかな、と思った。
けれど、これ以上スピーカーを増やすほど、スペースの余裕がない。
なので見送ってきている。

そこに今回のユニット中心の出品である。
これならば、とりあえず手に入れて──、そんなことを考えてしまった。

ヤフオク!の写真には、ネットワークも写っている。
コイルが二個、コンデンサーが一個だけである。

ウーファーが6dB/oct.、トゥイーターが12dB/oct.なのだろう。
トゥイーターにアッテネーターはない。

ここから妄想が始まった。
ネットワークを直列式にして、ウーファー、トゥイーターともに6dB/oct.にする。

自分で鳴らすスピーカーなのだから、音量に気をつけていれば、
トゥイーターも6dB/oct.で特に問題はないはず。

これだけでも、かなり面白い結果が得られるのではないだろうか。
さらにスーパートゥイーターをつけてみたい。
候補はすでに考えている。

HF1300をトゥイーターにして、ウーファーは20cm口径、
そこにスーパートゥイーターという構成は、そのままスペンドールのBCIIである。

BCIIにはパッシヴラジエーターはついていないけれど、
このパッシヴラジエーターをどう取り扱うか。
エンクロージュアの形状は──。

内部配線材、吸音材、その他、こまかなところを含めて、
かなり具体的に、昨晩、数時間妄想して過ごしていた。

ならば落札するのか、となると、たぶんしない。
エンクロージュアがないから、置いておくスペースはある。
けれど、その前にやりたいことがたまっているからだ。

とはいえ、昨晩の数時間は楽しい時間だった。

Date: 4月 14th, 2022
Cate: バランス
3 msgs

Xというオーディオの本質(その7)

両天秤の片方が急に重くなったとしたら、どうやってバランスをとるのか。
反対側を重たくすればバランスがとれるし、
重くなった方を軽くすれば、それでもバランスは元に戻るわけだが、
どちらもできなかったら、支点が重たい方にスライドしていくことになる。

支点という中点が移動する。

世の中は、つねに変化している。
急激に変化することがある。

現実に、いまがそうである。
2月24日に、ああいうことが起ったし、いまも続いている。

ここでも中立ということが問われているわけだが、
中立とは常に同じ位置にいることではないはずだ。

現実の変化に即して、正しく中立を維持できてこその中立のはずだ。
中庸もそうである。

音に関しても、中庸の音がいつの世も変わらぬわけではない。
中庸の音がいつの時代もずっと変わらぬと思えるのであれば、
それは聴き手の精神が凝り固まっているせいなのではないのか。

Date: 4月 13th, 2022
Cate:

いい音、よい音(その8)

2020年12月、「Erinnerung:思い出〜マーラー歌曲集」が出ている。
クリスティアーネ・カルクのアルバムである。

ピアノはマルコム・マティヌーが、19曲中17曲を受け持っている。
のこりの2曲は、グスタフ・マーラーである。

自動ピアノ(ヴェルテピアノ)との協演で、
クリスティアーネ・カルクは、マーラーの曲をマーラーの伴奏で歌っている。

18曲目では、「若き日の歌」より「私は緑の森を楽しく歩いた」を、
19曲目では、交響曲第四番の「天上の光」を歌っている。

クリスティアーネ・カルクは、
ヤニック・ネゼ=セガン指揮ベルリン・フィルハーモニーによる四番でも、
「天上の光」を歌っている。

オーケストラ伴奏と自動ピアノ伴奏、
クリスティアーネ・カルクの二つの「天上の光」を聴き比べできるし、
マルコム・マティヌーの伴奏とグスタフ・マーラーの伴奏とも比較できる。

マルコム・マティヌーのピアノの音と、
自動ピアノでのマーラーのピアノの音は、ずいぶん違う。

マルコム・マティヌーは、そこにいたわけだ。
クリスティアーネ・カルクと同じ場所に、同じ時間にいたからこそ、
「Erinnerung:思い出〜マーラー歌曲集」の録音が生れた。

演奏の場に、二人の人間がいた。

マーラーの伴奏は、となると、やや不思議な感じを受けた。
ピアノの音ががらっと変ってしまったからではなく、
そこには一人(クリスティアーネ・カルク)しかいないのに──、
ということからの印象なのかもしれない。

なんといったらいいのだろうか。
こじつけのようにも受け止められるだろうが、
マーラー伴奏の二曲では、一人の息づかいしか感じられない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その55)

マークレビンソンというオーディオ・ブランドは東海岸なのだが、
このブランドの創立者であるマーク・レヴィンソンは、
カリフォルニア州オークランド生れ、とステレオサウンド 52号に書いてある。

安原顕氏の「わがジャズ・レコード評」の冒頭にある。
     *
 周知の通り、マーク・レヴィンソン(1946年12月11日、カリフォルニア州オークランド生れ)といえば、われわれオーディオ・ファンにとって垂涎の的であるプリアンプ等の製作者だが、彼は一方ではバークリー音楽院出身のジャズ・ベース奏者でもあり、その演奏は例えばポール・ブレイの《ランブリン》(BYG 66年7月ローマで録音)などで聴くことが出来る。
     *
1946年12月11日生れなのは確認できている。
けれど検索してみても、どこで生れたのかはわからなかった。

カリフォルニア州オークランド生れならば、いつコネチカットに住むようになったのだろうか。

そんなことはどうでもいいことのように思われるかもしれないが、
LNP2、JC2、ML2、ML6に憧れてきた、当時10代の私には、
マーク・レヴィンソンは、いわば目標でもあった。

それだから気になる、というよりも、
LNP2、JC2、ML2、ML6に共通する音と、
ML3、ML7以降の音、
それからマークレビンソンを離れてからのCelloの音、
そして忘れてはならないのがHQDシステムの存在と、
Cello時代のスピーカーシステムの関係性である。

これらの音を俯瞰すると、
マーク・レヴィンソンにとっての西海岸、東海岸の音、
アンプの回路設計者のジェン・カールとトム・コランジェロ、
これらの要素を、少なくとも私は無視できない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その54)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
「私の推奨するセパレートアンプ」での特選三機種は、
マークレビンソンのLNP2とSAEのMark 2500の組合せ、
それとQUADの405である。

LNP2+Mark 2500について、こう書かれている。
     *
 マーク・レビンソンはコネチカット、SAEはカリフォルニア、東海岸と西海岸の互いに全く関係のないメーカーなのに、LNP2とMARK2500に関するかぎり、互いがその音を生かし合うすばらしく相性のいい組合せだと思う。LNP2の音はおそろしくデリケートで、かつてJBL SG520が聴かせた音を現代の最高水準に磨きあげたようだ。一聴すると細い音なのに、よく聴くと中〜低域がしっかりと全体を支えてバランスが素晴らしく、繊細でしかもダイナミックな音を聴かせる。JC2はもっと解像力が良いが、音楽的な表現力ではLNPの方が一段上だ。そしてこの音が、SAE♯2500の音をよく生かす。あるいは♯2500がLNPの音をよく生かす。
 SAE♯2500は、非常に深みのある音質で、第一印象はLNP2と逆に音像が太いように感じられるが聴き込んでゆくにつれて、幅広く奥行きの深い豊かな音の中に実にキメの細やかな音を再現することに驚かされる。
     *
いまでは、あまり国による音の違いは、語られなくなってきている。
でも、LNP2、Mark 2500のころ(1970年代後半)は違っていた。

もちろんメーカー(ブランド)による音の違いがあるものの、
俯瞰してみれば(聴けば)、お国柄といえる共通する音が色濃くあったものだ。

こういうことを書くと、私よりも上の世代のオーディオマニアから、
そんなことはなかった──、と十年ほど前にいわれたことがある。

オーディオマニアが販売店や、個人のリスニングルームで聴いている範囲では、
そういう印象なのかもしれないが、オーディオ雑誌での、いわゆる総テストで、
スピーカーやらアンプを、集中して数十機種聴くという経験をしていれば、
イギリスにはイギリスの音、ドイツにはドイツの音、
アメリカにはアメリカの音(それも西海岸と東海岸の音)があることが感じられる。

瀬川先生の文章を読んでいると、
SAEが東海岸、マークレビンソンが西海岸のブランドのように思えてくる。

《かつてJBL SG520が聴かせた音を現代の最高水準に磨きあげたようだ》と、
瀬川先生も書かれている。
いうまでもなくJBLは西海岸のブランド(メーカー)である。

Date: 4月 12th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その31)

トロフィーオーディオとしてのスピーカーシステムの選択。
別にスピーカーに限らない。
トロフィーオーディオとして、アンプやその他の製品を選択していく。

そしてそれらすべてを揃えられれば、
トロフィーオーディオの主は、さぞや勝ち誇れるだろう。

勝ち誇ることで、本人が大満足しているのであればそれでいいのだが、
トロフィーオーディオとは無縁のオーディオをやっている私は、
ステレオサウンド 59号の瀬川先生の、パラゴンについての文章を思い出す。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
《目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい》
とある。
豊かな気分になれる──、このことはとても大切なことであり、
勝ち誇ることとは違うことでもある。

Date: 4月 12th, 2022
Cate: 世代

世代とオーディオ(実際の購入・続ヤフオク!)

さっきヤフオク!を眺めていたら、スレッショルドの800Aが出品されていた。
オーディオに興味を持ち始めたばかりのころ、
SAEのMark 2500以上に800Aは憧れのパワーアンプだった。

まだそのころはマークレビンソンのML2は登場しておらず、
価格的にも800AはMark 2500の約二倍。
しかもA級動作ということが、憧れの度合を増すことになっていた。

800Aは、それほど輸入されていないだろうに、
熊本のオーディオ店にあって、けっしていい環境とはいえないまでも聴いている。
その後も、ステレオサウンドで働くようになってから購入を考えてことがあり、
その時、二人の方のリスニングルームでも聴いている。

Mark 2500と直接比較試聴したわけではないが、
800AはMark 2500よりも清楚な印象を受けたものだ。

その800Aが出ている。
いまのところそれほど高くはなっていない。
前回出品されたときも、安価とはいえなかったものの、それほど高価で落札されたわけでもなかった。

いまだに欲しい、という気持はあるけれど、
800Aのメインテナンスは、私の手にはあまる。

出力トランジスターの数は、とにかく多い。
片チャンネル当り24石、両チャンネルで48石。

800Aの製造は短かった。
なので800Aは製造されてから、すでに四十年以上が経過している。

48石ある出力トランジスターが、すべて同じ状態で動作しているとはとうてい思えない。
そういうことも含めてチェックしてのメインテナンスとなると、かなりの労力を要する。

専門の業者にまかせるのがいいと、私だって思う。
もっとも引き受けてくれる業者がどれほどあるだろうか。

そんなことを考えると、800Aには手を出しにくいというよりも、
私は出す気はない。

誰か落札するのだろうが、どうされるのかに関心がある。

Date: 4月 11th, 2022
Cate: ディスク/ブック

内田光子のディアベリ変奏曲(その3)

2015年の内田光子の
《スポーツに例えるならば、心技体そろった今だからこそこの難曲に挑戦したい》は、
コンサートでの演奏が前提であるわけで、
ディアベリ変奏曲は一時間弱ほどかかる曲だ。

コンサートでは、ディアベリ変奏曲の途中で休憩を入れるわけにはいかない。
あたりまえすぎることなのだが、
最初から最後まで通しでのディアベリ変奏曲であり、
一時間ほどピアニストは、ディアベリ変奏曲は向きあうことになる。

だからこその心技体そろってなのだろう。
録音では、その点は多少違ってくる。

今回の内田光子のディアベリ変奏曲がどのように録音されたのか詳細は知らない。
コンサートに近い形での演奏・録音だったのかもしれないが、
それでも途中で休憩をはさんでいないとは思えない。

コンサートでのディアベリ変奏曲よりも、録音でのディアベリ変奏曲は、
体力面に関してはいくらかは楽ではあろう。

そう思いながらも、内田光子のディアベリ変奏曲を聴いていると、
けっこう通しで録音したのではないか、という感じもしてくる。

ディアベリ変奏曲は、以前書いているように、あまり頻繁には聴かない。
前回聴いたのは、2020年秋である。

グルダのバッハの平均律クラヴィーア曲集とベートーヴェンのディアベリ変奏曲が、
SACDで登場した時である。
一年半ほどぶりのディアベリ変奏曲を、
内田光子の演奏で、すでに二回聴いているし、
クラウディオ・アラウの演奏も聴いた。

アラウと内田光子のディアベリ変奏曲を聴いて、
こんなにも音が違うのか、と少々驚いてしまった。

アラウは1985年、内田光子は2021年だから、二つの録音には三十六年の隔たりがある。
それだけでなくアラウの録音は44.1kHzで、
内田光子の録音は192kHzで、しかもMQAである。

そんなことは最初からわかっていたことなのだが、それでもこんなに違うのか、と思う。

Date: 4月 10th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その11)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
「私の推奨するセパレートアンプ」のところで、瀬川先生がこんなことを書かれている。
推薦機種としてのGASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところである。
     *
 耳当りはあくまでもソフトでありながら恐ろしいほどの底力を感じさせ、どっしりと腰の坐った音質が、聴くものをすっかり安心感にひたしてしまう。ただ、試聴記の方にくわしく載るように、私にはこの音が男性的な力強さに思われて、個人的にはLNP2とSAE♯2500の女性的な柔らかな色っぽい音質をとるが、そういう私にも立派な音だとわからせるほどの説得力を持っている。テァドラ/アンプジラをとるか、LNP2/2500をとるかに、その人のオーディオ観、音楽観のようなものが読みとれそうだ。もしもこれを現代のソリッドステートアンプの二つの極とすれば、その中間に置かれるのはLNP2+マランツの510Mあたりになるか……。
     *
瀬川先生のこの文章を、いま読んで思い出すことがある人もいれば、そうでない人もいる。
何かを思い出す人でも、何を思い出すのかは人によって違うだろうが、
記憶のよい方ならば、「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」であろう。

ステレオサウンド 62号、63号には、「音を描く詩人の死」が載っている。
瀬川先生に関する記事である。

この記事を執筆されたのは、編集顧問のYさん(Kさんでもある)だった。
そこに、こうある。
     *
 昨年の春、こういう書きだしではじまる先生のお原稿をいただいてきた。これはその6月に発刊された特別増刊号の巻頭にお願いしたものであった。実は、正直のところ、私たちは当惑した。編集部の意図は、最新の世界のセパレートアンプについての展望を書いていただこうというものであった。このことをよくご承知の先生が、あえて、ちがうトーンで、ご自身のオーディオ遍歴と、そのおりふしに出会われた感動について描かれたのだった。
     *
最新の世界のセパレートアンプについての展望というテーマということであれば、
編集部は「コンポーネントステレオの世界」の’79年版の巻頭、
「’78コンポーネント界の動向をふりかえって」、
’80年版の巻頭「80年代のスピーカー界展望」、どちらも瀬川先生が書かれているが、
こういう内容の原稿を期待しての、
最新の世界のセパレートアンプについての展望という依頼だったのだろう。

なのに「いま、いい音のアンプがほしい」の文章の中ほどまでは、
マッキントッシュのC22、MC275、マランツのModel 7、そしてJBLのSA600、SG520、SE400、
これらの、1981年の時点でもすでに製造中止になっていたアンプのことが占めている。
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 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような〝一見……〟ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば〝黄金の中庸精神〟で一貫していた。
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私は、ここのところと
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でのGASについての文章とがリンクしてしまう。