老いとオーディオ(若さとは・その9)
シモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」を、
心に近い音とは、いったいどういう音なのか、を考えるときに思い出す。
汚れをじっとみつめる力を身につけていなければ、
心に近い音を出すことも、気づくこともできないような気がする。
シモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」を、
心に近い音とは、いったいどういう音なのか、を考えるときに思い出す。
汚れをじっとみつめる力を身につけていなければ、
心に近い音を出すことも、気づくこともできないような気がする。
パチモン的新製品を否定することばかり書いている。
けれど、それらパチモン的新製品の音は、どれも聴いていない。
音が、とても良かった、としよう。
ならば、パチモン的新製品を欲しい、と思うだろうか。
思う人もいるし、思わない人もいる。
どのくらいの割合になるのかは、まったくわからないが、
パチモン的新製品で、どんなスピーカーを鳴らすのだろうか、と考えてみた。
さきほど「4350の組合せ(その13)」を書いて公開したのは、
パチモン的新製品で、たとえば4350を鳴らす人はいるだろうか、
と想像してみたからでもある。
私の感覚では、絶対に鳴らさない。
どんなにいい音がえられようと、パチモン的新製品で4350を鳴らしたいとは思わないし、
考えもしない。
パチモン的新製品で鳴らすのもいいや──、
そんなふうに思うのは、パチモン的新製品のスピーカーである。
パチモン的新製品のスピーカーシステムを、
パチモン的新製品のアンプで鳴らす。
CDプレーヤーも、ついでにパチモン的新製品である。
こうなってしまう怖れが、いまのところないとはいえない。
可能性として、十分ある、と思っている。
JBLの4350は、いい貌をしているスピーカーシステムだ、といまでもおもう。
4350の改良型として登場した4355。
基本的には同じスピーカーといえる。
4343が4344になったときのユニット配置の変更、
それにともなうデザインの変更と比較すれば、
4350から4355への変更は、ずっとうまく仕上げられている、というか、
4350のイメージを保っていた。
けれどむしろ保っていたから、4350との比較をどうしてもしてしまいがちになる。
そんなことやらなければいいのに……、と自分でも思う。
でも、やってしまっている。
4355は知人が鳴らしていた。
何度も、その音を聴いている。
うまく鳴っている4355の音は、やはりいい。
いいと感じるから、よけいに4355のアピアランスが気になる。
違いはわずかだ。
バスレフポートの数が減ったこと、
レベルコントロールの違いぐらいである。
大きいのはバスレフポートのほうだ。
4350では、フロントバッフル左右に立てに三つずつあったのが、
一つずつになっている。
搭載ユニットも変更になっているから、
比較試聴したからといって、バスレフポートの数が、どれだけ低音再生に関係しているのか、
4350と4355の違いになっているのかを判断するのは難しい。
それでもおそらく4355のバスレフポートの方がいいのだろう。
そうでなければ、JBLがそうするわけがない。
それでも……、である。
カッコいいと感じるのは、4350なのだ。
たかがバスレフポートの数の違いだけ──、と思えないほどの印象の違いが、
4350と4355にはあって、凄みを感じさせるのは、私にとっては4350なのだ。
先日、メリディアンの218に手を加える機会があった。
私が使っているのは2019年製である。
今回、手を加えたのは2021年製である。
型番は218のままで、外観も変化ない。
内部も基本的には同じといっていい。
218の内部を見たことがある、という人でも、気がつかないかもしれない、
そのくらいの変更が2021年製にはあった。
これまで計六台の218に手を加えているから、
2019年製の218と見較べることなく、どこが変更されたのかはすぐに気づく。
2020年製の218にも手を加えているから、変更は2021年製からなのだろう。
変更箇所は二つ。
一つはその通りに変更できるが、もう一箇所はかなり難しい。
この変更箇所によって、どれだけ音が変化しているのか。
じっくり比較試聴してみようか、と思ったけれど、
2021年製が良かったりしたら、マネできない変更があるだけに、
止めとくことにした。
それに、これらの変更箇所がなくとも、
二年以上使っている218と新品の218とでは、本質的な音はかわりなくても、
音の違いはあるものだ。
「好きだから……」と「好きなのに……」。
この二つの狭間で揺れ動いたことがなければ、
好きという感情の表現はできないのかもしれない。
(その6)で、時間軸領域の特性こそ重要だ、
と主張する人が増えてきていると書いたし、
岩崎先生の文章を引用もしている。
岩崎先生の文章を引用したのは、
感覚的に時間軸の重要性を感じとっていた人がいる、ということを言いたかったからだ。
岩崎先生は、こんなことも書かれている。
*
アドリブを重視するジャズにおいて、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
*
これが意味するところを、どう捉えるか。
よほどひどい曲解をしないかぎり、わかってもらえるはずだ。
岩崎先生だけではない。
長島先生も、よくいわれていた。
「音楽はパルスの集合体だ」と。
私は何度も長島先生から、このことを直接聞いている。
私以外にも聞いている人は少なくないはずだ。
少なからぬ人たちが、(私が知るかぎり)1970年代ごろには、
感覚的に、そうだ、と感じとっていたわけだ。
「リバーエンド・カフェ」の、あのシーンで思い出したことは、まだある。
井上先生が書かれていたことだ。
ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
各筆者による「私とJBL」が載っている。
井上先生は、こんなことを書かれている。
*
奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオに近い当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームである。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚嘆したのである。
*
こんなことを思い出すのは、マンガの読み方として邪道なのかもしれない。
それでも、やはり思い出してしまうし、
思い出すからこそ、気づくことがあるものだ。
「オーディオのロマン(ふとおもったこと)」は、2018年4月に書いている。
そこに、こんなことを書いている。
JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、と。
もちろんJBLで聴いている人すべてがそうだとはいわないし、
現在のJBLのラインナップのすべてを、ここに含める気もさらさらないが、
私がJBLときいてイメージするスピーカーシステムで聴いている人は、
やはりロマンティストだ。
このことを思い出していた。
こんなことを書くと、4343もそうなのか、という声があるはずだ。
マンガ「リバーエンド・カフェ」に登場するのは、実質的にJBLの4343である。
スタジオモニターとしての4343、
つまり検聴用である4343。
その音に、なぜロマンがあるのか、もしくは感じるのか。
録音という仕事用につくられたスピーカーシステムだろ、
その音にロマンがあるはずがない。
そういわれれば、そうである。
私も、そう思わないわけではない。
それでも、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストであるというし、
そういうスピーカーだからこそ、
「リバーエンド・カフェ」のあのシーンには、4343がよく似合う。
メーカー(ブランド)の論理とオーディオマニアの論理は同じではないわけだが、
そもそも、この二つの論理は違うものなのか、
両者のあいだに溝があるのか、もしくはズレているだけなのか。
ケース・バイ・ケースなのだろう。
とにかく同じであることは稀なのだろう、というか、
同じであることはないのだろう。
それはそれでいい、と思っている。
この両者の論理のあいだを埋めていく、
もしくは橋をかけていくのが、オーディオ評論家の仕事のはずだ。
それができてこそオーディオ評論家(職能家)だと思っている。
マークレビンソンのML50、マッキントッシュのいくつかのモデル。
これらに共通するパチモン的新製品について考えていると、
こんなことを思うとともに、これらのパチモン的新製品が登場してくるのは、
上書きしかできない人が増えて来つつあるのかもしれない、
上書きしかできない人が開発に携わっているからかも、とも思えてくる。
別項「2021年をふりかえって(その19)」で、
ゲスな人に共通しているのは、上書きしかできないことなのだろう、と書いている。
そうなのかどうかはいまのところなんともいえないが、
ふとそんな気がした。
同時に上書きだけしかできない人が作る新製品も、
上書きだけの製品にしかすぎず、それは新製品とは呼べない何かともいいたくなる。
心に近い音について、あれこれ書いているところだ。
耳に近い音より心に近い音──、
私が嫌う老成ぶる若いオーディオマニアのなかには、
心に近い音を求めています、という人がきっといるように思えてならない。
若いうちから、心に近い音がほんとうにわかるものだろうか。
私は、この三年ほどぐらいから、心に近い音をなんとなく考えるようになってきて、
すこしばかり自信をもって心に近い音と書けるようになってきた。
若いオーディオマニアにいいたいのは、
若いうちから心に近い音を求めることはやらないほうがいい。
耳に近い音を求めてもいいのだ。
むしろ積極的に求めていってもらいたいぐらいだ。
その耳に近い音にしても、さまざまな音を求めて、そして出してきてこそ、
ようやくわかることのはずなのだ。
無理に、自分自身を小さな枠にはめ込もうとしない方がいい。
小さな壺のなかにこもってしまい、孤高の境地を味わうのが老成ぶることなのかもしれないが、
そんなことを若いうちにやっていて、何になるというのだ。
若いうちはお金もあまりなかったりする。
そのため、あえてそういうところに身をおいて、自分を誤魔化し続けているのが、
ラクといえば楽なのだろう。
それでしたり顔ができるのならば、その人的には満足なのかもしれない。
でも、それはオーディオでなくてもいいはずだ。
あえて、いまの時代にオーディオを趣味としているのであれば、
無茶無理をしてほしい。老成ぶるのだけはやめてほしい。
そんなオーディオをやっていては、どんなに齢を重ねても、
心に近い音は見つけられないようにおもえてならないからだ。
私には、マークレビンソンやマッキントッシュが、
自社製品のパチモン的新製品を出す理由が理解できない、というか、納得できない。
マッキントッシュは立て続けにパチモン的新製品を出してくる。
ということは、売れるからなのだろう。
売れるモノを作らなければならない──、
そのことはわかっている。
どんなにいいモノを作っても、売れなければ、それで終りである。
事業を継続するためにも売れるモノが必要となる。
それがパチモン的新製品だとしたら──。
これからもマッキントッシュからはパチモン的新製品が出てくる、と思っている。
マークレビンソンからも、ML50がすぐに完売でもしたら、
同じように続けて出してくる可能性もある。
ブランド(メーカー)の論理とオーディオマニアの論理は同じではない。
そのことはわかっていたつもりだった。
けれど、パチモン的新製品が続いていること、
拡がっていく気配があること、
そんな空気を感じとっているいまは、
それぞれの論理の違いをわかっていなかったと思い知らされている。
別項「PCM-D100の登場」で書いているように、録音も自作である。
ソフトウェアの自作である。
私ぐらいの世代だと、中学生、高校生のころ、
カセットテープに、好きな曲ばかりを集めた、
いわゆる自分だけのベスト盤(テープ)を作っていた人もけっこういるはずだ。
それから友達に渡すためのテープを、同じように作っていた人もいよう。
私は、FM放送で聴きたい曲を録音するくらいで、
LPの音をカセットテープに録音して、それで聴くというのはやらなかった。
カセットテープに録音すれば、その分だけ音が悪くなるし、
音が悪くなることに時間と手間をかけることが無意味に思えたからだった。
やっと買えたLPを傷つけないためにも、
カセットテープに録音して聴いていた──、という話はよくきく。
その気持はわかるけれど、アナログプレーヤーの調整をきちんとやっていれば、
そうそうレコードの盤面(溝)は傷むものではないし、
それに粗悪なカートリッジではなく、きちんとしたカートリッジでかけることを、
私は重視していた。
それからカセットテープを交換する相手もいなかった。
とはいえ、カセットテープにそうやって録音していく行為は、自作の一歩ではある。
CDをリッピングしたり、ストリーミングを利用している人が、
プレイリストを作る。
これもカセッテープに好きな曲を集めて録音(ダビング)していたのと同じ行為、
そんなふうに思えてくる。
TIDALもプレイリストを、当然作れる。
けれど、プレイリストをまったく作っていない。
カセッテープに好きな曲を集めて聴くのと、
TIDALでプレイリストを作って聴くのとでは、音質の劣化が生じないという違いがある。
どんな最新の注意を払って、最高の機種で録音したところで、
カセットテープへのダビングでは、音質が少なからず悪くなる。
けれどTIDALでどんなプレイリストをつくろうとも、
そのプレイリストのまま再生しても、プレイリストを使わない時の音と、
違いはない、といえる。
ならばプレイリストを作ったほうが、聴きたい曲をすぐに聴けるというのはわかっている。
それでもTIDALで頑なにプレイリストを作らないのは、
プレイリストを作ることで、聴く音楽の範囲が狭められるような感じがするからだ。
ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
私にとっての「オーディオ」はまさにこれであり、このことを問い続けていくしかない。
オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう。
上書きしかできない者は「心に近い」音を求めることは無理なのかもしれない。
マークレビンソンもマッキントッシュも、創業者の名前がつけられたブランドである。
この二社だけでなく、他にも創業者の名前がそのままブランドになった会社はいくつもある。
創業者はいつかは、そのブランドからいなくなる。
会社から去っていくこともあるし、この世から去っていくこともある。
創業者がいなくなれば、そのブランドも変っていく。
そういうものであり、その変化は嘆くことではない。
そうとわかっていても、今回のマークレビンソンのML50、
マッキントッシュのいくつかの製品を見ると、そういうこととは何か違うような気がしてならない。
創業者が去ったことだけによる変化なのだろうか──、と思ってしまう。
投資会社に買収されたことによる変化だけなのだろうか、とも思う。
陳腐なことをいうんだな、と笑われそうだが、
愛の不在だ、としか、いいようがない。
ルコントを再建したベイクウェルには、愛があった。
だからこそ、といえる。
いまマッキントッシュ、マークレビンソンに残っている人たちに、
同じ意味での愛はあるのだろうか。
愛ゆえのパチモン的新製品だとしたら、もうほんとうに終りでしかない。
同時に、ルコントは洋菓子のブランドである。
洋菓子は嗜好品である。
ではオーディオは?
そのあたりのことも考えているわけだが、
ここから先は、ここでのテーマとは大きく離れてきそうなので、割愛する。