Xというオーディオの本質(その7)
両天秤の片方が急に重くなったとしたら、どうやってバランスをとるのか。
反対側を重たくすればバランスがとれるし、
重くなった方を軽くすれば、それでもバランスは元に戻るわけだが、
どちらもできなかったら、支点が重たい方にスライドしていくことになる。
支点という中点が移動する。
世の中は、つねに変化している。
急激に変化することがある。
現実に、いまがそうである。
2月24日に、ああいうことが起ったし、いまも続いている。
ここでも中立ということが問われているわけだが、
中立とは常に同じ位置にいることではないはずだ。
現実の変化に即して、正しく中立を維持できてこその中立のはずだ。
中庸もそうである。
音に関しても、中庸の音がいつの世も変わらぬわけではない。
中庸の音がいつの時代もずっと変わらぬと思えるのであれば、
それは聴き手の精神が凝り固まっているせいなのではないのか。
REPLY))
さように中庸とはバランスであり、すなわち中庸とは中点ではありません。
無論、中庸なる音がいつの時代もずっと変わらぬということは当然であり、しかし、ただ臨機応変に時代にあと乗りする態度に至っては、まったく無様な醜態に違いなく、さらに中庸からはほど遠いものといえるでしょう。
中庸というからには、そこに心理があり、ある種の普遍性と幅がなくてはなりません。そして、それはどの範囲を眺めるかということによっても変わってきます。
例えばイチローが、とてつもなく細いバットを使ってあの偉業を達成したわけです。バット単体としてそれは中庸とは程遠い。しかし、彼は彼の体の資質を生かし、あのアンバランスなバットをつかってバッティングをバランスさせたわけですね。
つまり、物事は見方によってどうとでも変わるということです。そして、何を中庸とみるかによって尺度は変わるでしょう。今日の音楽はあまりにジャンルも多く、すべての知識を網羅することは不可能です。また、もし、できたとしても物知り博士の知識自慢と化すだけで、それそもそもが中庸の精神から外れます。
例えばジャズやクラシックなどの器楽曲は矩形波やのこぎり波のようなものは使われていません。テクノ・ミュージックを再生する用途があるならば、これらの波形をどのように再生するかということを考えざるを得ないのです。そして、波形の正確さからコンデンサー型のスピーカーを選ぶことが、果たして中庸な結果を生み出すのかということを考えなくてはならないのです。
私は、中庸を得るためにはある種の明確な理念が必要であると感じます。また、白黒つけて対立を生み出したり、物事をドラマチックに仕立てるのは中庸ではないと思います。したがって、中庸なる音とは諧調が豊かであるという共通した特徴があるように思います。
私がGASの3つのプリアンプの中でTHAEDRAが最も中庸ではないかと推察したのは、まさしくその諧調の部分にあたります。
ニーチェは説得力を持たせるためには物事をはっきり話した方がいい、しかし、それは真実ではないと言いました。多くの真実は白黒はっきりしたものではありません。中庸であるということは、幅を持つということなのです。幅を持ちながらも容易に流されない、ある一方での頑固さが必要なのだと思います。
バートランド・ラッセルは「中庸の徳はおもしろくない教えだが、実に多くの場合、真実の教訓の一つになる。中庸を守ることの必要性は、例えば、一方で努力し、他方で諦める、という相反する態度の均衡を保つという点にある。」(バートランド・ラッセル著「ラッセル幸福論」)と言いました。それは一つの真理だとおもいます。
REPLY))
脱字がありました。訂正いたします。
さように中庸とはバランスであり、すなわち中庸とは中点ではありません。
無論、中庸なる音がいつの時代もずっと変わらぬというはないということは当然であり、しかし、ただ臨機応変に時代にあと乗りする態度に至っては、まったく無様な醜態に違いなく、さらに中庸からはほど遠いものといえるでしょう。
中庸というからには、そこに心理があり、ある種の普遍性と幅がなくてはなりません。そして、それはどの範囲を眺めるかということによっても変わってきます。
例えばイチローが、とてつもなく細いバットを使ってあの偉業を達成したわけです。バット単体としてそれは中庸とは程遠い。しかし、彼は彼の体の資質を生かし、あのアンバランスなバットをつかってバッティングをバランスさせたわけですね。
つまり、物事は見方によってどうとでも変わるということです。そして、何を中庸とみるかによって尺度は変わるでしょう。今日の音楽はあまりにジャンルも多く、すべての知識を網羅することは不可能です。また、もし、できたとしても物知り博士の知識自慢と化すだけで、それそもそもが中庸の精神から外れます。
例えばジャズやクラシックなどの器楽曲は矩形波やのこぎり波のようなものは使われていません。テクノ・ミュージックを再生する用途があるならば、これらの波形をどのように再生するかということを考えざるを得ないのです。そして、波形の正確さからコンデンサー型のスピーカーを選ぶことが、果たして中庸な結果を生み出すのかということを考えなくてはならないのです。
私は、中庸を得るためにはある種の明確な理念が必要であると感じます。また、白黒つけて対立を生み出したり、物事をドラマチックに仕立てるのは中庸ではないと思います。したがって、中庸なる音とは諧調が豊かであるという共通した特徴があるように思います。
私がGASの3つのプリアンプの中でTHAEDRAが最も中庸ではないかと推察したのは、まさしくその諧調の部分にあたります。
ニーチェは説得力を持たせるためには物事をはっきり話した方がいい、しかし、それは真実ではないと言いました。多くの真実は白黒はっきりしたものではありません。中庸であるということは、幅を持つということなのです。幅を持ちながらも容易に流されない、ある一方での頑固さが必要なのだと思います。
バートランド・ラッセルは「中庸の徳はおもしろくない教えだが、実に多くの場合、真実の教訓の一つになる。中庸を守ることの必要性は、例えば、一方で努力し、他方で諦める、という相反する態度の均衡を保つという点にある。」(バートランド・ラッセル著「ラッセル幸福論」)と言いました。それは一つの真理だとおもいます。
REPLY))
ご無沙汰しております。audio wednesdayではお世話になりました。
こちらは、身体を壊して休職していた時期が終わり、新しい仕事になって半年が過ぎました。
久々にブログを拝読して、目の覚めるような感覚を覚えています。
Tadanoさんという方のコメントの中に、テクノ・ミュージックの波形をどのように再現するか、という話題が出ていました。
黛敏郎の電子音楽、波形とノイズの集合体が、ゆたかな表情を持って鳴る音楽として楽しめることに、魅力を感じています。
http://sound3.co.jp/denshi-ongaku/
『音の始源(はじまり)を求めて NHK電子音楽作品集』というCDです。