Archive for 7月, 2022

Date: 7月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック
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シフのベートーヴェン(その12)

五味先生はポリーニの旧録音に激怒されていた。
     *
ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
     *
激怒することはなかったけれど、
ひどいベートーヴェンだ、と感じた演奏はある。
決して少なくはない。

それでも激怒することがなかったのは、
あらかじめ、そうなりそうな演奏を聴かなかったから、でもある。

アンドラーシュ・シフのベートーヴェンは、素晴らしい、とは思っている。
けれど、これまで書いてきたように、私にはなくてはならない演奏だとまでは感じていない。

シフのECMへのベートーヴェンの録音を絶賛する人がいるのは知っている。
そのことにケチをつけたいわけではない。
なのに、こうやって書いているのは、自分に問い続けていたいからである。

1980年代、デッカに録音していたころのシフの演奏にも惹かれるものがあった。
だからくり返し聴いていた時期がある。
けれど、ある時からパタッと聴きたいと思わなくなった。
つまり聴かなくなっていた。

(その2)で書いたけれど、
シフをふたたび聴きはじめたのは、ECMでのゴールドベルグ変奏曲のCDを、
「気に入ると思って」という言葉とともに、ある人からもらったことからだった。

その人のことば通りに気に入って、くり返し聴いた。
シフのECMの録音を聴くようになっていった。

それでも、今回もまたパタッと聴かなくなってしまった。
先日、TIDALでシフのゴールドベルグ変奏曲(MQA Studio、44.1kHz)で聴いていた。
最後まで聴けなかった。
途中で、おなかいっぱい、という感じがしてしまったからだ。

あらためて、なぜなんだろう……、とおもう。
だから問い続けていくことになる。

Date: 7月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門

二日後の7月19日、
音楽之友社からステレオ・ムックとして「岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門」が出る。

岩田由記夫氏のtwitterアカウントはフォローしているので、
このムックが出ることは少し前から知っていたし、期待もしている。

リンク先の音楽之友社のサイトには、主要目次が公開になっている。
私が注目しているのは、Outside of Gateの章である。
岩田由記夫 × 土方久明「ココがヘンだよ!? オーディオ評論」とある。

どういう対談になっているのだろうか。

Date: 7月 16th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その3)

グレン・グールドは、音楽のキット化を提唱していたことがある。
音楽のキット化は、クラシック音楽におけることであって、
ベートーヴェンの第九のことを思い浮べたことがある。
     *
 戦後のLP時代に入って、〝第九〟でもっとも印象にのこるのはトスカニーニ盤だろうか。
 はじめてこれを聴いたとき、そのテンポの速いのに驚いた。これはベートーヴェンを冒涜するものだとそれから腹を立てた。ワインガルトナーしかそれまで知らなかったのだからこの怒りは当然だったと今でもおもう。もともと、ヴェルディの〝レクイエム〟やオペラを指揮した場合を除いて、彼のチャップリン的風貌とともにトスカニーニをあまり私は好きではなかった。戦前の世評の高い、〝第五〟を聴いたときからそうである。のちに、トスカニーニがアメリカへ招聘されるにあたって、〝トリスタンとイゾルデ〟を指揮することを条件に出した話を、マーラー夫人の回想記で読み、トスカニーニにワグナーが振れてたまるかとマーラーと同様、いきどおりをおぼえたが、いずれにせよ、イタ公トスカニーニにベートーヴェンは不向きと私はさめていた。だからその〝第九〟をはじめて聴いたとき、先ずテンポの速さにあきれ、何とアメリカナイズされたベートーヴェンかと心で舌打ちしたのである。
 それが、幾度か、くりかえして聴くうちに速さが気にならなくなったから《馴れる》というのはこわいものだ。むしろその第三楽章アダージォなど、他に比肩するもののない名演と今では思っている。
「何と美しいアダージォだ……」
 トスカニーニー自身が、プレイバックでこの楽章を聴きながら涙を流した話を、後年、彼の秘書をつとめた人の回想録〝ザ・マエストロ〟で読んだときも、だからさもありなんと思ったくらいで、いかなフルトヴェングラーの〝第九〟——第二次大戦後のバイロイト音楽祭復活に際し、そのオープニングに演奏されたもの。ちなみに、フルトヴェングラーは生前この〝第九〟のレコードプレスを許さなかった——でさえ、アダージォはトスカニーニにくらべやや冗長で、緻密な美しさにおとる印象を私はうけた。フルトヴェングラーがこれをプレスさせなかったのも当然とおもえた。それくらい、第三楽章のトスカニーニは完ぺきだった。ベートーヴェンの〝第九〟では古くはビーチャム卿、ピエール・モントゥ、ワルター、カラヤン、クリュイタンス、ベームと聴いてきたが、ついに決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコードを私は知らない。
     *
五味先生の「《第九交響曲》からの引用だ。
グレン・グールドのいう音楽のキット化は、こういうことである。

《決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコード》が、
第九にはなかったと感じたらどうするか。

第三楽章はトスカニーニで聴いて、
第一楽章、第二楽章、第四楽章は、
《他に比肩するもののない名演》と感じている指揮者の演奏をそれぞれ選択する。

それをひとつにまとめて聴く、という行為が音楽のキット化だった。
グールドの音楽のキット化を読んだ時、
おもしろいと感じながらも、実際の問題点としてあれこれ思ったものだ。

けれど、今回のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイクは、
まさにグールドが提唱した音楽のキット化のための理想的な素材ととらえることができる。

そして、一つおもうことがある。
アレクシス・ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲のことである。

Date: 7月 15th, 2022
Cate: オーディオの「美」

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える(その3)

その1)で、「花」を「月」におきかえてみた。
「月」の美しさといふ様なのがあるならば、
月に降りたったとき、月の表面を見ても美しいと思わなければならない──、
そんなふうに考えてみたわけだ。

(その1)では、「花」を「音」におきかえてみると、
わかったようなわからないような……、とも書いている。

では「音楽」におきかえてみたらどうだろうか。
「音」にしても「音楽」にしても、対象が漠然としすぎている。
「音楽」ならば、どれか特定の曲におきかえてみたらどうだろうか。

そう考えた時に、私の場合、真っ先に浮んだのはマーラーの「大地の歌」だった。
1980年代に、レコード芸術の名曲名盤で書かれていたことがずっと残っているからだ。

黒田先生は、「大地の歌」をきけば、いつでも感動する。
十全でない演奏で「大地の歌」をきいても感動する──、
そういったことを書かれていた。

美しい「大地の歌」がある、「大地の歌」の美しさといふ様なものはない。
そう言い切れるだろうか。

「大地の歌」は名曲といわれている。
だからこそレコード芸術の名曲名盤にも毎回取り上げられる。

「大地の歌」は交響曲だから、指揮者とオーケストラによって、演奏の出来は変ってくる。
十全な演奏もあれば,まったく十全とはいえない(思えない)演奏もある。
その十全でない「大地の歌」でも、黒田先生はきけば感動する、と書かれているのを、
どう解釈したらいいのだろうか。

美しい「大地の歌」とは、名演と評される「大地の歌」であり、
十全な演奏の「大地の歌」であるわけだ。

けれど十全でない「大地の歌」は、美しい「大地の歌」ではない。
それでも感動するということは、
十全でない「大地の歌」に、「大地の歌」の美しさを感じとっておられたからではないのか。
「大地の歌」には「大地の歌」の美しさがあるからこそなのではないのか。

Date: 7月 14th, 2022
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(オーディオショウにて・その4)

ナチュラルな音、自然な音という表現は、
たいていの場合、褒め言葉である。

あなたの音は実に自然な音ですね──、
そう誰かにいわれて気分を害する人はいないはずだ。

けれど、私は昔ほど、このナチュラルな音、自然な音という表現を、
ストレートに受け止めることができなくなっている。

ナチュラルな音、自然な音は、客観的な評価のように思われる。
そう思っている人は多いように思う。

けれど、ここ十年くらい感じているのは、
オーディオにおいてナチュラルな音、自然な音はきわめて主観的である場合が、
かなり多い、ということだ。

もちろんすべての場合において主観的とまではいわないが、
それでもかなりの場合、主観的なナチュラルな音、主観的な自然な音だったりする。

ナチュラルな音ですね、自然な音ですね、という人は、
そんなふうには思っていないだろう。
客観的な意味でのナチュラルな音、自然な音と言葉にしているはずだ。

Date: 7月 14th, 2022
Cate: ディスク/ブック

エヴリーヌ・クロシェのフォーレ

五味先生の「いい音いい音楽」のなかに「一枚のレコード」という文章がある。
ここにエブリーヌ・クローシェの名が出てくる。

《演奏しているエブリーヌ・クローシェは、パリ音楽院を出た女流ピアニストとしか私は知らない》
としか書かれていない。

「いい音いい音楽」を読んだころの私は、まだ高校生で田舎暮らしだった。
エブリーヌ・クローシェについて、それ以上なにも知ることができなかった。

ステレオサウンドで働くようになって数年が経ってから、
ふと思い出してレコードを探してみたけれど、運と縁がなかったのか、
出合えなかった。

そしてエブリーヌ・クローシェのことも忘れかけてしまっていた。
なのに、ふと思い出したのは、TIDALで音楽を聴くようになってから、
落穂拾い的なことをやっているからだ。

なにか忘れているような気がして、「いい音いい音楽」を開く。
そうだそうだ、エブリーヌ・クローシェのことを忘れてしまっていた、と気づく。

とはいえエブリーヌ・クローシェで検索しても、
私が求める結果は出てこなかった。
エブリーヌ・クローシェのスペルがわかればさらに検索のしようがあるけれど、
それもはっきりとはわからない。

「一枚のレコード」には、ボックス盤(SVBX5424)とある。
vox svbx5424で検索して、わかった。

いまではエヴリーヌ・クロシェという表記のようだし、
Evelyne Crochetである。
ここまでわかるとTIDALで検索できる。

フォーレのアルバムが見つかった。
それだけでなくバッハの平均律クラヴァーア曲集もあった。

「一枚のレコード」を読んで四十二年。
いまになって聴くことができた。

Date: 7月 13th, 2022
Cate: オーディオ観念論

抽象×抽象=(その3)

抽象×抽象=象徴。
そうおもえることがある。

象徴が、抽象×抽象の解だとは信じ込めていないのだが、
抽象×抽象=象徴がオーディオを面白くしている面もあるし、
ダメにしているともいえる面もあるようには感じている。

Date: 7月 13th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その2)

グレン・グールドの生誕90年で、没後40年の今年、
ソニー・クラシカルは、なにを出してくるのだろうか──、
といったことを(その1)で書いた。

数日前に、やっと判明した。
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
全アルバムのSACDでの発売はなかったけれど、
これはこれでなかなかに嬉しい企画である。

もちろんすぐに予約した。
予約した、予約するつもり、という人はけっこういると思う。
ものすごい数が売れるとは思わないけれど、
とりあえず買っておこう、という人は少なくないと思うからだ。

けれどだけれど、いったい買った人の何割がきちんと聴きとおすだろうか。
買い逃したくない、仕事をリタイアしたら、その時じっくりと聴く──、
そんなことを思っている人もまた少なくないだろうが、
はたして、ほんとうにじっくりと今回のこのCDボックスのすべてを聴きとおすか──、
そう問われれば、私はたぶんやらないだろう、と答える。

三十ある変奏曲のいくつかに関しては、じっくりと聴き比べだろうが、
すべてをそうすることはない、と思っている。

Date: 7月 13th, 2022
Cate: 新製品

新製品(マッキントッシュ MC3500・その7)

その1)を書いたのが2021年11月。
12月発売のステレオサウンド 221号には間に合わないだろうが、
3月発売の222号では紹介記事が載るだろうと思っていたら、
6月発売の223号の扱いである。

カラー三ページの扱いで、柳沢功力氏が担当されている。
223号で柳沢功力氏は、
《この桁外れの大型機は、当時の日本には紹介されることすらなく、その後、わずか3年ほどの短命に終る》
と書かれている。

1976年春発売のステレオサウンド 38号掲載の山中先生のリスニングルームには、
MC3500が鎮座している。
それに私が初めて手にしたオーディオの「本」、
「五味オーディオ教室」にもMC3500のことは登場している。

(その1)でも引用しているが、ここでもう一度引用しておく。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ──優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
MC3500の実機は見たことはある。
その3)に書いているように赤坂のナイトクラブのステージで使われていた。
音を聴く機会はなかった。

なので、MC3500の音のイメージは、
私の場合は「五味オーディオ教室」の文章からつくられている。

223号のMC3500の記事を読むと、柳沢功力氏も聴かれていないようである。
だから、こう書かれている。
     *
 ところで普通、MkII機のサウンドは、まずオリジナル機との違いを探そうとするのだが、今回は無理。でも想像としては、あの時代の、それも音楽祭での使用を目的とした大出力機だから、まずエネルギー感にはじまるサウンドを想像したくなる。
     *
何によってオリジナルのMC3500の音を想像するのかによって、
ずいぶん違ってくるものだなぁ……、とおもうしかない。

Date: 7月 12th, 2022
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(レゼルボワールの腕時計)

レゼルボワールから、アンプのVUメーターをモチーフとした腕時計が発表された。
ソノマスタークロノグラフが、そうである。

どんな腕時計なのかは、リンク先を見てほしい。
VUメーターをモチーフという見出しを見た時には、
品のない仕上がりになっているのでは……、と思っていたけれど、
リンク先の写真をみると、おっ、と思ってしまう。

色調も、いかにもVUメーター的である。

Date: 7月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

シューベルト 交響曲第九番

二十代半ばごろ、シューベルトの交響曲第九番を、
ほぼ毎日、誰かの指揮で聴いていた時期があった。

けっこうな数のシューベルトの九番を聴いた。
そうやって聴いたなかに、ジュリーニ/シカゴ交響楽団の一枚も含まれていた。

1977年録音である。
ジュリーニは十六年後の1993年にふたたび録音している。

1977年はドイツ・グラモフォン、
1993年はソニー・クラシカルで、オーケストラもバイエルン放送交響楽団である。

ジュリーニ久しぶりのシューベルトということで期待して聴きはじめた。
けれど第一楽章から、あれっ? と感じていた。
シカゴ交響楽団との演奏とはずいぶん違う。

そのことは別にいい。
同じであることを期待していたわけでもない。
けれど、いまのジュリーニならば──、とこちらが勝手に期待していた出来とは、
なんとなく違う。
もっと素晴らしい演奏が聴けるのでは……、
そんなことを思いながら第二楽章も聴きおえた。

これが他の指揮者だったら、ここで聴くのをやめていたかもしれないが、
ジュリーニへの思い入れが、こちらにはあるものだから、聴き続ける。

それにしても第三楽章の美しさは、
第一楽章、第二楽章とやや退屈していたこちらの気持が見透かされていたのかも──、
そんなありえないことを一瞬おもってしまうほどに、美しい。
素敵といってもいい。

それまでかなりの数のシューベルトの九番を聴いてきたけれど、
第三楽章が、こんなにも美しいと感じたことはなかった。
涙が流れそうになるくらいの美しさがある。

今回、TIDALでMQA Studio(44.1kHZ)であらためて聴いた。
やはり第三楽章の美しさは色褪ていないどころか、
MQAのおかげなのか、そしてこちらが齢を重ねたこともあるのだろうか、
あの時以上に美しく響いてくれる。

Date: 7月 12th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(型番の表記)

別項「サイズ考(その6)」でも書いていることなのだが、
LS3/5Aの型番表記がいいかげんである。

最近の復刻モデルはLS3/5aと、型番末尾が小文字になっているモデルもある。
だからそれらのモデルはLS3/5aという表記でいいのだが、
ロジャースのLS3/5Aは、大文字である。

ロジャースのLS3/5Aだけではなく、同時期に各社から出たLS3/5Aも、
大文字表記である。
リアバッフルの銘板を見ればわかることだ。

十四年前に書いたことをまた持ち出しているのは、
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」を読んでいたら、
ロジャースのLS3/5A(136ページ)が、LS3/5aとなっていたからだ。

LS3/5Aは三浦孝仁氏が担当されている。
三浦孝仁氏の本文は、ちゃんとLS3/5Aとなっている。
なのに編集部は、LS3/5aとしてしまっている。

どうしてこんなことがやらかしてしまうのだろうか。
いまのステレオサウンド編集部には、
LS3/5Aに思い入れをもつ人はいないのだろう、おそらく……。

Date: 7月 11th, 2022
Cate: 新製品

JBL SA750(その23)

ステレオサウンド 222号を、いまKindle Unlimitedで読んでいるところなのだが、
新製品紹介の記事で、アーカムのSA30が取り上げられている。
高津 修氏が担当されている。

CDプレーヤーのCDS50ととともに二ページ見開きでの扱いである。
高津 修氏の文章のどこにもJBLのSA750のベースモデルということは記述がない。

なので当然だが、SA750との音の比較についても、何も語られていない。
その22)で書いているようにHiVi 12月号には、
山本浩司氏がSA750とSA30の比較しての試聴記が載っている。

いうまでもなくステレオサウンドもHiViも、株式会社ステレオサウンドが出している。
一方ではSA30とSA750との関係性についてはまったく無視。
もう一方はきちんと比較試聴したうえでの記事を載せている。

ということは、このことは株式会社ステレオサウンドの方針というよりも、
ステレオサウンド編集部の方針とHiVi編集部の方針の違い、ということになる。

別項「B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その17)」でも書いているように、
読者が知りたいと思っているであろうことを、あえて避ける(無視する)。
それが、いまのステレオサウンド編集部なのだろう。

Date: 7月 11th, 2022
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その17)

いまごろステレオサウンド 222号の特集、
「現代最先端スピーカー B&W 801D4大研究」をKindle Unlimitedで読んだ。

小野寺弘滋、櫻井 卓、三浦孝仁、和田博巳の四氏による座談会を読んで、
というよりもまず眺めて思ったのは、なぜ、ここに傅 信幸氏がいないのか、である。

傅 信幸氏は、この座談会だけでなく、特集にはまったく参加されていない。
私だけでなく、多くの人がなぜ? と感じたことだろう。

ほんとうになぜ? である。
傅 信幸氏はB&WのNautilusを愛用されている。
だからこそ、傅 信幸氏に801D4をどう評価するのか、
もっといえば、Nautilusと801D4と比較して、本心はどう思っているのか。
多くの読者は、そこが知りたいのではないのか。

Nautilusは4ウェイのマルチアンプ駆動で、
801D4は内蔵ネットワークのおかげでマルチアンプにしなくてもよい。

この二つのスピーカーシステムを鳴らすシステムの規模は、
だから大きく違ってくるわけで、
どちらがどれだけいいとかそうでないのとか、
そういう直接比較をするものではない──、そういう意見は納得できる。

けれど、ステレオサウンドの読者の本音は、そこがいちばん知りたいところに近いのではないのか。
傅 信幸氏は、801D4を聴いて、心が揺らぐことはなかったのか。

そういったことを含めた傅 信幸氏の本音を、
座談会で語ってほしかった、とおもうわけだが、
ステレオサウンド編集部は、なぜ傅 信幸氏を特集から外したのだろうか。

Date: 7月 10th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その6)

TIDALを利用して音楽を聴くようになって、約一年半。
この一年半のあいだに何が変ってきたのか。

まず一つは、毎月の支払額が高くなっている。
TIDALの料金が上っているのではなく、円安ドル高の影響を受けて、である。

PayPalを利用してTIDALの料金を払っていることもあって、
先月は2,800円を超えていた。
高い、とは思っていないのだが、一年半前からすれば、けっこうな値上げでもある。

まだまだ円安が進めば、3,000円を超えるだろう。
それでもTIDALをやめることはまったく考えていない。

そのTIDALのおかげで、新しい演奏家の録音も、かなり積極的に聴いている。
いまに始まったことではないのだが、新しい演奏家の演奏テクニックは向上している。

私が、ここで書いている演奏家とはクラシックの演奏家のことなのだが、
このことはクラシックの世界だけではなく、ジャズでも、他の音楽の世界でもそのはずだ。

それにアイディアといっていいものだろうか、とちょっと迷うけれど、
アイディアも新しいところがあったりする。

なるほどすごいなぁ、と感心する。
けれども……、でもある。
そこから先が、あまりないように感じてしまうからだ。

そこから先の世界の拡がり、深まりが、
私が若いころ夢中になって聴いてきた、いわゆる往年の演奏家よりも、
狭く浅く感じてしまう。

なぜだろうか、とは思うし、その理由を考えてみたりもする。
世代の違いからくることなのか。
他にも、いくつか理由らしきものがあったりするのだが、
結局のところ、音楽、それも録音された音楽は、
その時代の音楽であるだけでなく、未来に放たれた矢でもある。