オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その12)
「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。
「宿題の一枚」については、別項で書いている。
「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。
「宿題の一枚」については、別項で書いている。
《オーディオでしか伝えられない》ことをしっかりと持っていてこその、
圧倒的であれ、のはずだ。
エリック・サティの新譜が頻繁にレコード会社から出た時期があった。
いつごろだったろうか。
私が20代のころだったか。
サティの音楽に深い関心がなくても、
どこかで聴く機会が何度かあった。
それでも、自分でサティのディスクを買おう、という気にはならなかった。
嫌いなわけではない。
でも積極的に聴きたい、とは思うことなく、ずっと過ごしてきた。
オリヴィア・ベッリ(Olivia Belli)という作曲家、ピアニストがいる。
何かで知って、TIDALで聴くようになった。
昨晩、オリヴィア・ベッリがサティを弾いているディスクがあるのに気づいた。
たまにはサティの曲もいいかも、という軽い気持で聴きはじめた。
トータルで21分の短い収録だが、以前なら、
そして別のピアニストの演奏なら、それでも最後まで聴かなかったはずだ。
でもオリヴィア・ベッリのサティはよかった。
マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、というふうに聴き手に気づかせるスピーカーがある。
どんなに細かなところまで明瞭に再現しても、
そんなふうにまったく感じさせないスピーカーも、またある。
ある人にとってマリア・カラスの自画像と感じさせたスピーカーであっても、
鳴らす人が違えば、そう感じなくなることもある。
同じ音を聴いても、ある人は自画像だ、と感じ、
別の人は、そんなことまったく感じない。
自画像と感じさせることが、音の良し悪しと直接的に関係しているわけでもない。
さまざまなスピーカーが世の中に存在し、
さまざまな聴き手(鳴らし手)もまた世の中に存在している。
自画像なんて、そんなことは純粋な音楽鑑賞には不要なのかもしれない。
そんなことも考えながらも、マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いて、
そういったことをまったく感じない(感じさせない)スピーカーは、
聴き手と対話しないスピーカーなのかもしれない。
(その5)を書いたあとで思い出した記事がある。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
瀬川先生がタンノイのリビングストンにインタヴューされている。
リビングストンが、ガイ・R・ファウンテン氏のことを語っている。
*
彼は家ではほんとうに音楽を愛した人で、クラシック、ライトミュージック、ライトオペラが好きだったようです。ロックにはあまり興味がなかったように思います。システムユニットとしてはイートンが二つ、ニッコーのレシーバー、それにティアックのカセットです。
*
瀬川先生も含めて誰もが、
ファウンテン氏はオートグラフを使われていたと思っていたのではないだろうか。
私もそう思っていた。けれど違っていた。
イートンだった、25cm口径の同軸型ユニットをおさめたブックシェルフだったのだ。
リビングストンへのインタヴューは続く。
*
これ(オートグラフではなくイートン)はファウンテン氏の人柄を示すよい例だと思うのですが、彼はステータスシンボル的なものはけっして愛さなかったんですね。そのかわり、自分が好きだと思ったものはとことん愛したわけで、そのためにある時には非常に豪華なヨットを手に入れたり、またある時はタンノイの最小のスピーカーをつかったりしました。つまり、気に入ったかどうかが問題なのであって、けっして高価なもの、上等そうにみえるものということは問題にしなかったようです。
*
非常に豪華なヨットを手にいれるだけの財力をもち、
オートグラフをうみだした男が、自宅ではイートンで好きな音楽を聴いている。
気に入ったモノを自分のものとするだけであって、
高価だから、とか、周りに持っている人がいない、とか、そういった理由ではない。
ステイタスシンボルだからといって愛す男ではなかった。
非常に高価なハイエンドスピーカーをつくっているブランドのトップは、
やはり自社のフラッグシップモデル(いちばん高価なモデル)を使っているのか、
それとも違うのだろうか。
カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」については、
ステレオサウンド 49号、岡先生の「クラシック・ベスト・レコード」のなかで、
すこし詳しく書かれている。
少し長くなるが、引用しておこう。
*
《ローマの松》はカラヤンにとって二度目の録音だが、《泉》は初めてである。その《泉》の出だしの弱音のなかに、朝日にきらめく水のしぶきを描写したようなイメージを、喚起せずにはおかないさまざまな楽器の点描の美しさはたとえようもない。空気の透明さと音彩の純度のたかさが素晴らしい。その精妙なピアニシモがあればこそ、フォルティシモのあざやかさが生きてくるのである。
この二、三年のカラヤンの録音は、ピアニシモをベースにしたダイナミックスの効果を、ひじょうに意識していることは明らかである。コンサートにおけるダイナミックスをそのままレコードにもりこむことは不可能であることはいうまでもないが、カラヤンは心理的にそのピアニシモをピアニシモまで拡大できるようなレコーディング効果を計算しているようにおもえる。たとえば《松》における、〝ジャニコロの松〟から〝アッピア街道の松〟への推移する部分である。ナイチンゲールの啼声の録音をつかうように指定されている〝ジャニコロ〟の最後の十四小節は、クラリネットのppのフレーズに弱音器をつけた弦が重ねられる。コントラバスを除く弦は十部に分奏される。ことに、ヴァイオリンは五部になっていて、pppからppppのトレモロが、順序を追って重ねられてゆく。その微妙な音の重なりかたによる効果が、きくものに幻想的なイメージを喚起して、アッピア街道を行進してくるローマ軍団の歩調がとおくから響いてくる終曲のムードをひきだすわけだが、その漸層的にたかまってゆく行進曲歩調のなかに、うすくつけられた弦が、リズムの和音のなかにめりこまず、絶妙な色彩的効果を添えるのである。
こういうバランスは、多分、コンサートホールできくにはよほど条件のよい席でなければ感じとれないにちがいない。また再生装置のグレードがちがってすも、ニュアンスの相違が出るだろう。こういう音の細密表現がうまく再生されると、きき手は本当に〝息をのんで〟ききほれてしまうにちがいない。カラヤンはマイクをとおしての最良のバランスを、オーケストラにもとめているにちがいないコントロールを行っているのである。
*
カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによる「ローマの噴水」と「ローマの松」は、
1977年12月、1978年1月、2月の録音である。
「ローマの噴水」は、瀬川先生の文章にも登場してくる。
56号掲載のトーレンスのリファレンスのところに、である。
*
たとえば、カラヤン/ベルリン・フィルの「ローマの泉」の第二曲(朝のトリトンの噴水)の噴水の吹き上がる部分。リファレンスの音は、ほんとうに水しぶきが上がってどこまでも吹き上げる。水のしぶきに、ローマの太陽が燦然ときらめき映える。このレコードの音は、ずいぶんきわどく録音されているが、しかしやかましいという感じにならない。残念ながら、私が目下愛用しているマイクロ二連ドライブ+AC4000MC、それにMC30では、どうしても少々上ずる傾向になりがちだ。エクスクルーシヴとEMT930stでは、しぶきが十分な高さに吹き上がらない。そういう迫真力で格段の差を聴かせておきながら、少々傷んだレコードをかけてみても、他のプレーヤーよりその傷みからくる音の荒れが耳につきにくいというのは、何ともふしぎである。
*
TIDALとe-onkyo、どちらもMQA(96kHz)である。
TIDALでは「ローマの噴水」はMQAなのだが、「ローマの松」はMQA Studioと表示される。
別項「Jacqueline du Pré」で書いているように、
6月に2022年リマスターCDボックスが発売されて、
TIDALで、かなりのアルバムが新しいリマスターで、
しかもMQA Studio(196kHz)で聴けるようになった。
“Her Early BBC Recordings”もMQA Studio(196kHz)で聴ける。
このアルバムには、バッハの無伴奏チェロ組曲が入っている。
残念ながら全曲ではないけれど、それでも一番と二番を聴くことができる。
聴けないものと思っていただけに、当時、このCDが出た時はほんとうに嬉しかった。
このアルバムが、いまはMQA Studio(196kHz)で聴ける。
こういうアルバムは買っておこう、と思いながら、e-onkyoのサイトをみると、
もちろんラインナップされているのだが、なぜかflacのみ、しかも96kHzである。
今回リマスターされたデュ=プレのアルバムは、
TIDALはMQA Studio(196kHz)に対し、e-onkyoはflac(96kHz)のみである。
理由は、いまのところわからない。
今回のデュ=プレ以外のアルバムではMQAも用意されているので、
e-onkyoがMQAを扱わなくなったわけではない。
このことはQobuzを運営しているフランスの会社、
Xandrieへ譲渡されたことと関係しているのだろうか。
(その17)で、
《読者は雑誌に「私を気持ちよくさせて」ということを求めはじめたのではないのか》
と書いている。
(その17)は四年ほど前だが、いまもそう思っている。
ステレオサウンドもそういう編集方針なのかも──、とも思う。
今回のステレオサウンドの特集「オーディオの殿堂」は、まさしくそういう企画である。
自分が愛用しているオーディオ機器が、「オーディオの殿堂」入りをしたのであれば、
よほど捻くれた人でないかぎり、やはりうれしいはずだ。
苦労して手に入れたモノであれば、よけいにうれしいだろう。
私が以前愛用していたオーディオ機器のいくつかも、
「オーディオの殿堂」入りをしているようだ。
223号を買った友人が、
こんな機種が選ばれているよ、と教えてくれたなかに、
以前使っていた機種がいくつかあった。
サンスイのプリメインアンプ、AU-D907 Limitedも入っている(らしい)。
入っているのか、と思った。
他の機種は選ばれて当然のモノだったから、
AU-D907 Limitedが選ばれているのは意外だったし、それだけにうれしいな、と思ってしまった。
一方で、なぜ、このモデルが選ばれていない、と思う人も当然いるわけだ。
そういう人の気分は害している企画ともいえる。
とにかく殿堂入りした機種を使っている読者の気持をよくさせているのは、
そうであろう。でも、理解を深めようとは考えていないように感じている。
別項「40年目の4343(オーディオの殿堂)」で、
三浦孝仁氏の4343の文章について触れた。
三浦孝仁氏の、この文章は4343についての理解を深めることはまったくなかったし、
4343をいまも鳴らしている人、昔愛用していた人の気持をよくしただろうか。
この項だけでなく、他の項もここまで書いてきてはっきりしたのは、
私はオーディオの雑誌ではなく、オーディオ評論の本が読みたい、ということだ。
別項で書いているように、
ステレオサウンドはオーディオの評論の本だった時期が確かにある。
いまはもうそうではなくて、オーディオの雑誌である。
オーディオの雑誌を求める人は、それでいいじゃないか、となる。
それでいい、と私も思う。
でも読みたいのは、オーディオ評論の本なのだ。
この欲求を、もうステレオサウンドは満たしくれないし、
これから先も望めそうにない。
それでも可能性として月刊ステレオサウンドがほんとうに登場してくれれば、
オーディオ評論の本となってくれるかもしれない。
(その1)を書いたのは2014年8月。
八年前のことで、TIDALはまだ立ち上げられていなかった。
TIDALの設立は2014年10月である。
MQAも登場していなかった。
インターネット配信で音楽を聴くようになるだろう、とは思っていたけれど、
それでもまだディスク中心がもう少しばかり続くものだ、となんの根拠もなしに思っていた。
MQAの音を2019年に聴いていなかったら、
いまもディスク中心だったであろう。
メリディアンのULTRA DACでのMQAの音を聴いて、
メリディアンの218を導入してからというもの、
MQAで聴きたいという気持は強くなるばかりで、
e-onkyoをまず使うようになったし、TIDALも使うようになった。
もともと私は音楽も音も所有できない──、と考えているわけだから、
存在してくれればいい、それを聴く権利を使えるようになればいい──、
と八年前よりも強くおもうようになってきている。
そんな私だってある時期までは、自分の部屋にLPやCDの枚数が、
少しずつ増えていくのが喜びでもあった。
同時に火事になったらどうしよう……、と真剣に考えるようにもなっていた。
留守にしていたときに火事になったら、どうすることもできない。
その時、部屋にいたら火の勢いによるが持ち出すことはできる。
けれど、すべては無理で、ではどれを諦めて、どれを持って逃げるのか。
そんなことを真剣に悩むこともあった。
そんなこと悩んだことがない──、
ある程度以上の枚数のディスクを所有している人ならば、
少なくとも一度や二度は考えたり悩んだりしたのではないのか。
一流レストランや料亭での食事ばかりを毎日している人だって、
世の中にはいるかもしれない。
夕食だけでなく、朝食も昼食も、豪華な食事を毎日している人は、
私が知らないだけでいないとはいいきれない。
そういう食生活が日常であれば、私が思い描く家庭料理とはまったく別世界のことなのだろう。
音もそうなのだろうか、と考える。
一流レストランや料亭で出される豪華な料理のような音で、毎日音楽を聴く。
もちろん、それはいい音である。
けれど、それは愉しいだろうが、毎日続けられること、
つまり日常となっていくことなのだろうか。
オーディオの場合は、鳴らす音楽によって、
そういう音であっても毎日聴けるものなのかもしれない。
毎日、ベートーヴェンの後期の作品ばかりを聴くわけではないし、
軽めの音楽を聴くことだってあるのだから、
家庭料理とは無縁と思える音であっても、いいのかもしれない。
それでも思うのは、卵かけご飯のような存在の音もあっていいのではないか。
ステレオサウンドは十年ほど前の特集で「いい音を身近に」をやっている。
この企画は、
十年前よりもずっとハイエンドオーディオ機器の高額化が進んでいるいま、
もう一度練り直してやれば、面白い特集になるように思っている。
「いい音を身近に」か「身近ないい音」か。
いまでは億を超えるオーディオ機器が登場してきている。
そういうオーディオ機器を持てる人であっても、
卵かけご飯のようなシステムで日常的には音楽を聴く、ということを、
求めたりしないのだろうか。
五味先生は、
《プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった》
と書かれている。
この文章が載っている「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオなのだが、
私自身、プロ用機器を喜んで使っていた。
EMTのアナログプレーヤーに憧れていたのだから、
930stのトーレンス・ヴァージョンの101 Limitedが登場したときは、
後先考えずに「買う」と言ってしまった。
そして930stの上級機である927Dstも手にいれた。
つまり《しょせんは田舎者》であったわけだ。
五味先生も930stを使われていたし、スチューダーのC37も手に入れられている。
927DstやC37は家庭用としては大きすぎる機器でもある。
それでもいいわけめくが、まだ家庭に持ち込めるぎりぎりのサイズではあったと思う。
いまのハイエンドオーディオ機器の一部の機器のように、
これらのスピーカーやアンプ、アナログプレーヤーは、
いったいどれだけの広さの部屋を要求するのだろうか──、
そういいたくなるほど大きすぎるし、重すぎるモノが登場してきている。
これらのオーディオ機器の音は聴いていないし、
聴いたからといって、その音について否定的なことを書きたいわけではなく、
これらのオーディオ機器をポンと買えて、苦もなく設置できる環境に住んでいる人は、
料亭の宴会に出す料理を家庭で食べたいと思っている人なのだろうか。
どれぐらい前のことだろうか、
ある記事で、一億円を超えるマンションは即金で買うものだ、とあった。
会社員で高給取りで、住宅ローンを組めば一億ほどマンションは買えるであろう人がいても、
良心的な業者はすすめない、ともあった。
十年先、二十年先はどうなっているのか、誰にもわからないのだから理由だった。
いまのハイエンドオーディオ機器も同じように思える。
長期の分割払いで買うモノなのか。
即金で買える人が買うモノのように思えるし、
そういう人は、毎日家庭で、料亭の宴会に出す料理を食べたいのだろうか。
「響きに谺けよ」は、(その1)で書いているように、
四十年ほど前のヤマハのスピーカーシステム、NS690IIIの広告のキャッチコピーだ。
さきほどふと、
“L’art est le plus beau des mensonges”
ドビュッシーのことばを思い出した。
「芸術とは最も美しい嘘のことである」という訳で、
いろんなところで引用されている。
「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社刊)では、
「芸術というものは、うそのうちで最も美しいうそです。」として載っている。
「響きに谺けよ」と“L’art est le plus beau des mensonges”。
どこかで結びついているような感じがしている。
以前、「瀬川冬樹氏のこと(その11)」で、
瀬川先生が地方への移動中、よくやられていたことを書いている。
地方のオーディオ店への旅の友は、ステレオサウンドから、
当時は年二回出ていたHI-FI STEREO GUIDEと電卓で、
組合せの予算やテーマ(鳴らしたいレコードや、どんな音を出したいか)などを自分で設定して、
ページをめくり、このスピーカーに、あのアンプ、カートリッジはこれかな、と想像していく。
楽しくて、いい時間つぶしになる、と話されていた。
私も同じことを学生のころ、よくやっていた。
私だけではないだろう、同じことをやっていた、という人はきっといる。
いまステレオサウンドからHI-FI STEREO GUIDEは出ていない。
かわりとなるムックもない。
ステレオサウンドのベストバイが、少しは役に立つかな、ぐらいでしかない。
それでもないよりは、ずっといいわけで、
ゴールデンウィーク中、221号を眺めながら、組合せをいくつか想像していた。
予算に制限がなければ、どういう組合せにするだろうか。
まずスピーカーシステムを決める。
誌面を眺めると、聴いたことのないモデルがけっこうある。
なので、誌面に写真が掲載されている機種からの選択にする。
こうやって組合せを考えて眺めることで、気づいた。
JBLのモデルがほんとうに少ない。
DD67000も、S9900もない。
ではタンノイは? と思ってみると、もっと驚く。
ないのだ。写真掲載という扱いではゼロである。
個人的に、いまのタンノイのモデルで鳴らしてみたい、と思うのは、
ほんのわずかである。
なので、その結果(扱い)に寂しさを感じたりはしないが、
それでもこんなに一年で様変りするのか、とは思って、
確認のために217号をながめてみると、今年とそう変らない状況だった。
フランコ・セルブリンのAccordoかKtêma、
それからファイン・オーディオのF1-12、これらを鳴らしてみたい。
アンプは、というと、パワーアンプだといくつかか選べる。
けれどコントロールアンプとなると、予算に制限がないとはいえ、
使いたい、と思う機種が、写真掲載のなかにはない。
カラヤンと精妙ということで思い出すのは、
ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生が「レコードからみたカラヤン」というテーマでの対談である。
*
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
岡 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
岡 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
*
実演での精妙と精緻ということではない。
録音での精妙と精緻ということでいえば、
カラヤンは精妙であるとはっきりいえるし、小澤征爾は精緻ということか。
岡先生は、さらにこうも語られている。
*
岡 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
*
単なる物理的な弱音ではなく《デリカシーにみちた弱音》、
心理的な意味でのピアニッシモを実現してこその精妙である。