Archive for 4月, 2022

Date: 4月 15th, 2022
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その13)

昨晩、ヤフオク!を眺めていたら、
セレッションのDitton 15が出品されていた。

Ditton 15は割と出品されている。
今回のは、エンクロージュアなしである。
ユニットとネットワーク、銘板だけである。

欲しくなった。
Ditton 15は、20cm口径のウーファー、同口径のパッシヴラジエーター、
それにHF1300(トゥイーター)である。

Ditton 15はこれまでも何度か落札しようかな、と思った。
けれど、これ以上スピーカーを増やすほど、スペースの余裕がない。
なので見送ってきている。

そこに今回のユニット中心の出品である。
これならば、とりあえず手に入れて──、そんなことを考えてしまった。

ヤフオク!の写真には、ネットワークも写っている。
コイルが二個、コンデンサーが一個だけである。

ウーファーが6dB/oct.、トゥイーターが12dB/oct.なのだろう。
トゥイーターにアッテネーターはない。

ここから妄想が始まった。
ネットワークを直列式にして、ウーファー、トゥイーターともに6dB/oct.にする。

自分で鳴らすスピーカーなのだから、音量に気をつけていれば、
トゥイーターも6dB/oct.で特に問題はないはず。

これだけでも、かなり面白い結果が得られるのではないだろうか。
さらにスーパートゥイーターをつけてみたい。
候補はすでに考えている。

HF1300をトゥイーターにして、ウーファーは20cm口径、
そこにスーパートゥイーターという構成は、そのままスペンドールのBCIIである。

BCIIにはパッシヴラジエーターはついていないけれど、
このパッシヴラジエーターをどう取り扱うか。
エンクロージュアの形状は──。

内部配線材、吸音材、その他、こまかなところを含めて、
かなり具体的に、昨晩、数時間妄想して過ごしていた。

ならば落札するのか、となると、たぶんしない。
エンクロージュアがないから、置いておくスペースはある。
けれど、その前にやりたいことがたまっているからだ。

とはいえ、昨晩の数時間は楽しい時間だった。

Date: 4月 14th, 2022
Cate: バランス
3 msgs

Xというオーディオの本質(その7)

両天秤の片方が急に重くなったとしたら、どうやってバランスをとるのか。
反対側を重たくすればバランスがとれるし、
重くなった方を軽くすれば、それでもバランスは元に戻るわけだが、
どちらもできなかったら、支点が重たい方にスライドしていくことになる。

支点という中点が移動する。

世の中は、つねに変化している。
急激に変化することがある。

現実に、いまがそうである。
2月24日に、ああいうことが起ったし、いまも続いている。

ここでも中立ということが問われているわけだが、
中立とは常に同じ位置にいることではないはずだ。

現実の変化に即して、正しく中立を維持できてこその中立のはずだ。
中庸もそうである。

音に関しても、中庸の音がいつの世も変わらぬわけではない。
中庸の音がいつの時代もずっと変わらぬと思えるのであれば、
それは聴き手の精神が凝り固まっているせいなのではないのか。

Date: 4月 13th, 2022
Cate:

いい音、よい音(その8)

2020年12月、「Erinnerung:思い出〜マーラー歌曲集」が出ている。
クリスティアーネ・カルクのアルバムである。

ピアノはマルコム・マティヌーが、19曲中17曲を受け持っている。
のこりの2曲は、グスタフ・マーラーである。

自動ピアノ(ヴェルテピアノ)との協演で、
クリスティアーネ・カルクは、マーラーの曲をマーラーの伴奏で歌っている。

18曲目では、「若き日の歌」より「私は緑の森を楽しく歩いた」を、
19曲目では、交響曲第四番の「天上の光」を歌っている。

クリスティアーネ・カルクは、
ヤニック・ネゼ=セガン指揮ベルリン・フィルハーモニーによる四番でも、
「天上の光」を歌っている。

オーケストラ伴奏と自動ピアノ伴奏、
クリスティアーネ・カルクの二つの「天上の光」を聴き比べできるし、
マルコム・マティヌーの伴奏とグスタフ・マーラーの伴奏とも比較できる。

マルコム・マティヌーのピアノの音と、
自動ピアノでのマーラーのピアノの音は、ずいぶん違う。

マルコム・マティヌーは、そこにいたわけだ。
クリスティアーネ・カルクと同じ場所に、同じ時間にいたからこそ、
「Erinnerung:思い出〜マーラー歌曲集」の録音が生れた。

演奏の場に、二人の人間がいた。

マーラーの伴奏は、となると、やや不思議な感じを受けた。
ピアノの音ががらっと変ってしまったからではなく、
そこには一人(クリスティアーネ・カルク)しかいないのに──、
ということからの印象なのかもしれない。

なんといったらいいのだろうか。
こじつけのようにも受け止められるだろうが、
マーラー伴奏の二曲では、一人の息づかいしか感じられない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その55)

マークレビンソンというオーディオ・ブランドは東海岸なのだが、
このブランドの創立者であるマーク・レヴィンソンは、
カリフォルニア州オークランド生れ、とステレオサウンド 52号に書いてある。

安原顕氏の「わがジャズ・レコード評」の冒頭にある。
     *
 周知の通り、マーク・レヴィンソン(1946年12月11日、カリフォルニア州オークランド生れ)といえば、われわれオーディオ・ファンにとって垂涎の的であるプリアンプ等の製作者だが、彼は一方ではバークリー音楽院出身のジャズ・ベース奏者でもあり、その演奏は例えばポール・ブレイの《ランブリン》(BYG 66年7月ローマで録音)などで聴くことが出来る。
     *
1946年12月11日生れなのは確認できている。
けれど検索してみても、どこで生れたのかはわからなかった。

カリフォルニア州オークランド生れならば、いつコネチカットに住むようになったのだろうか。

そんなことはどうでもいいことのように思われるかもしれないが、
LNP2、JC2、ML2、ML6に憧れてきた、当時10代の私には、
マーク・レヴィンソンは、いわば目標でもあった。

それだから気になる、というよりも、
LNP2、JC2、ML2、ML6に共通する音と、
ML3、ML7以降の音、
それからマークレビンソンを離れてからのCelloの音、
そして忘れてはならないのがHQDシステムの存在と、
Cello時代のスピーカーシステムの関係性である。

これらの音を俯瞰すると、
マーク・レヴィンソンにとっての西海岸、東海岸の音、
アンプの回路設計者のジェン・カールとトム・コランジェロ、
これらの要素を、少なくとも私は無視できない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その54)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
「私の推奨するセパレートアンプ」での特選三機種は、
マークレビンソンのLNP2とSAEのMark 2500の組合せ、
それとQUADの405である。

LNP2+Mark 2500について、こう書かれている。
     *
 マーク・レビンソンはコネチカット、SAEはカリフォルニア、東海岸と西海岸の互いに全く関係のないメーカーなのに、LNP2とMARK2500に関するかぎり、互いがその音を生かし合うすばらしく相性のいい組合せだと思う。LNP2の音はおそろしくデリケートで、かつてJBL SG520が聴かせた音を現代の最高水準に磨きあげたようだ。一聴すると細い音なのに、よく聴くと中〜低域がしっかりと全体を支えてバランスが素晴らしく、繊細でしかもダイナミックな音を聴かせる。JC2はもっと解像力が良いが、音楽的な表現力ではLNPの方が一段上だ。そしてこの音が、SAE♯2500の音をよく生かす。あるいは♯2500がLNPの音をよく生かす。
 SAE♯2500は、非常に深みのある音質で、第一印象はLNP2と逆に音像が太いように感じられるが聴き込んでゆくにつれて、幅広く奥行きの深い豊かな音の中に実にキメの細やかな音を再現することに驚かされる。
     *
いまでは、あまり国による音の違いは、語られなくなってきている。
でも、LNP2、Mark 2500のころ(1970年代後半)は違っていた。

もちろんメーカー(ブランド)による音の違いがあるものの、
俯瞰してみれば(聴けば)、お国柄といえる共通する音が色濃くあったものだ。

こういうことを書くと、私よりも上の世代のオーディオマニアから、
そんなことはなかった──、と十年ほど前にいわれたことがある。

オーディオマニアが販売店や、個人のリスニングルームで聴いている範囲では、
そういう印象なのかもしれないが、オーディオ雑誌での、いわゆる総テストで、
スピーカーやらアンプを、集中して数十機種聴くという経験をしていれば、
イギリスにはイギリスの音、ドイツにはドイツの音、
アメリカにはアメリカの音(それも西海岸と東海岸の音)があることが感じられる。

瀬川先生の文章を読んでいると、
SAEが東海岸、マークレビンソンが西海岸のブランドのように思えてくる。

《かつてJBL SG520が聴かせた音を現代の最高水準に磨きあげたようだ》と、
瀬川先生も書かれている。
いうまでもなくJBLは西海岸のブランド(メーカー)である。

Date: 4月 12th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その31)

トロフィーオーディオとしてのスピーカーシステムの選択。
別にスピーカーに限らない。
トロフィーオーディオとして、アンプやその他の製品を選択していく。

そしてそれらすべてを揃えられれば、
トロフィーオーディオの主は、さぞや勝ち誇れるだろう。

勝ち誇ることで、本人が大満足しているのであればそれでいいのだが、
トロフィーオーディオとは無縁のオーディオをやっている私は、
ステレオサウンド 59号の瀬川先生の、パラゴンについての文章を思い出す。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
《目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい》
とある。
豊かな気分になれる──、このことはとても大切なことであり、
勝ち誇ることとは違うことでもある。

Date: 4月 12th, 2022
Cate: 世代

世代とオーディオ(実際の購入・続ヤフオク!)

さっきヤフオク!を眺めていたら、スレッショルドの800Aが出品されていた。
オーディオに興味を持ち始めたばかりのころ、
SAEのMark 2500以上に800Aは憧れのパワーアンプだった。

まだそのころはマークレビンソンのML2は登場しておらず、
価格的にも800AはMark 2500の約二倍。
しかもA級動作ということが、憧れの度合を増すことになっていた。

800Aは、それほど輸入されていないだろうに、
熊本のオーディオ店にあって、けっしていい環境とはいえないまでも聴いている。
その後も、ステレオサウンドで働くようになってから購入を考えてことがあり、
その時、二人の方のリスニングルームでも聴いている。

Mark 2500と直接比較試聴したわけではないが、
800AはMark 2500よりも清楚な印象を受けたものだ。

その800Aが出ている。
いまのところそれほど高くはなっていない。
前回出品されたときも、安価とはいえなかったものの、それほど高価で落札されたわけでもなかった。

いまだに欲しい、という気持はあるけれど、
800Aのメインテナンスは、私の手にはあまる。

出力トランジスターの数は、とにかく多い。
片チャンネル当り24石、両チャンネルで48石。

800Aの製造は短かった。
なので800Aは製造されてから、すでに四十年以上が経過している。

48石ある出力トランジスターが、すべて同じ状態で動作しているとはとうてい思えない。
そういうことも含めてチェックしてのメインテナンスとなると、かなりの労力を要する。

専門の業者にまかせるのがいいと、私だって思う。
もっとも引き受けてくれる業者がどれほどあるだろうか。

そんなことを考えると、800Aには手を出しにくいというよりも、
私は出す気はない。

誰か落札するのだろうが、どうされるのかに関心がある。

Date: 4月 11th, 2022
Cate: ディスク/ブック

内田光子のディアベリ変奏曲(その3)

2015年の内田光子の
《スポーツに例えるならば、心技体そろった今だからこそこの難曲に挑戦したい》は、
コンサートでの演奏が前提であるわけで、
ディアベリ変奏曲は一時間弱ほどかかる曲だ。

コンサートでは、ディアベリ変奏曲の途中で休憩を入れるわけにはいかない。
あたりまえすぎることなのだが、
最初から最後まで通しでのディアベリ変奏曲であり、
一時間ほどピアニストは、ディアベリ変奏曲は向きあうことになる。

だからこその心技体そろってなのだろう。
録音では、その点は多少違ってくる。

今回の内田光子のディアベリ変奏曲がどのように録音されたのか詳細は知らない。
コンサートに近い形での演奏・録音だったのかもしれないが、
それでも途中で休憩をはさんでいないとは思えない。

コンサートでのディアベリ変奏曲よりも、録音でのディアベリ変奏曲は、
体力面に関してはいくらかは楽ではあろう。

そう思いながらも、内田光子のディアベリ変奏曲を聴いていると、
けっこう通しで録音したのではないか、という感じもしてくる。

ディアベリ変奏曲は、以前書いているように、あまり頻繁には聴かない。
前回聴いたのは、2020年秋である。

グルダのバッハの平均律クラヴィーア曲集とベートーヴェンのディアベリ変奏曲が、
SACDで登場した時である。
一年半ほどぶりのディアベリ変奏曲を、
内田光子の演奏で、すでに二回聴いているし、
クラウディオ・アラウの演奏も聴いた。

アラウと内田光子のディアベリ変奏曲を聴いて、
こんなにも音が違うのか、と少々驚いてしまった。

アラウは1985年、内田光子は2021年だから、二つの録音には三十六年の隔たりがある。
それだけでなくアラウの録音は44.1kHzで、
内田光子の録音は192kHzで、しかもMQAである。

そんなことは最初からわかっていたことなのだが、それでもこんなに違うのか、と思う。

Date: 4月 10th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その11)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
「私の推奨するセパレートアンプ」のところで、瀬川先生がこんなことを書かれている。
推薦機種としてのGASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところである。
     *
 耳当りはあくまでもソフトでありながら恐ろしいほどの底力を感じさせ、どっしりと腰の坐った音質が、聴くものをすっかり安心感にひたしてしまう。ただ、試聴記の方にくわしく載るように、私にはこの音が男性的な力強さに思われて、個人的にはLNP2とSAE♯2500の女性的な柔らかな色っぽい音質をとるが、そういう私にも立派な音だとわからせるほどの説得力を持っている。テァドラ/アンプジラをとるか、LNP2/2500をとるかに、その人のオーディオ観、音楽観のようなものが読みとれそうだ。もしもこれを現代のソリッドステートアンプの二つの極とすれば、その中間に置かれるのはLNP2+マランツの510Mあたりになるか……。
     *
瀬川先生のこの文章を、いま読んで思い出すことがある人もいれば、そうでない人もいる。
何かを思い出す人でも、何を思い出すのかは人によって違うだろうが、
記憶のよい方ならば、「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」であろう。

ステレオサウンド 62号、63号には、「音を描く詩人の死」が載っている。
瀬川先生に関する記事である。

この記事を執筆されたのは、編集顧問のYさん(Kさんでもある)だった。
そこに、こうある。
     *
 昨年の春、こういう書きだしではじまる先生のお原稿をいただいてきた。これはその6月に発刊された特別増刊号の巻頭にお願いしたものであった。実は、正直のところ、私たちは当惑した。編集部の意図は、最新の世界のセパレートアンプについての展望を書いていただこうというものであった。このことをよくご承知の先生が、あえて、ちがうトーンで、ご自身のオーディオ遍歴と、そのおりふしに出会われた感動について描かれたのだった。
     *
最新の世界のセパレートアンプについての展望というテーマということであれば、
編集部は「コンポーネントステレオの世界」の’79年版の巻頭、
「’78コンポーネント界の動向をふりかえって」、
’80年版の巻頭「80年代のスピーカー界展望」、どちらも瀬川先生が書かれているが、
こういう内容の原稿を期待しての、
最新の世界のセパレートアンプについての展望という依頼だったのだろう。

なのに「いま、いい音のアンプがほしい」の文章の中ほどまでは、
マッキントッシュのC22、MC275、マランツのModel 7、そしてJBLのSA600、SG520、SE400、
これらの、1981年の時点でもすでに製造中止になっていたアンプのことが占めている。
     *
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような〝一見……〟ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば〝黄金の中庸精神〟で一貫していた。
     *
私は、ここのところと
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でのGASについての文章とがリンクしてしまう。

Date: 4月 9th, 2022
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その13)

セルゲイ・ラフマニノフが演奏家(ピアニスト)として、
高い評価を得ていたヴィルトゥオーゾなのは、
クラシックに興味を持ち始めたころに知っていた。

けれどラフマニノフの曲にさほど関心のない私は、
ピアニスト・ラフマニノフの演奏にもさほど関心をもつことはなかった。

なので聴いたのは、つい先日が初めてだった。
TIDALにラフマニノフによるショパンがあるのは、以前から知っていた。
昨年秋からMQA Studioで聴けるようになっていたのも、もちろん気づいていた。

それでも積極的に聴きたいとは思わず、聴かずじまいだった。
当然古い録音なのだが、聴いてみると、聴きづらいと感じるほどではない。
むしろ、この時代の録音にしてはうまく録れている、とも感じたのは、MQAだったからなのか。

私にとってラフマニノフは、作曲家よりも演奏家としてのほうが関心がある。
どんなふうに評価されていたのかも知りたくなった。

ロンドンでラフマニノフの実演に幾度か接している野村光一氏の文章があった。
     *
ラフマニノフの音はまことに重厚であって、あのようなごつい音を持っているピアニストを私はかつて聴いたことがありません。重たくて、光沢があって、力強くて、鐘がなるみたいに、燻銀がかったような音で、それが鳴り響くのです。まったく理想的に男性的な音でした。それにもかかわらず、音楽はロマンティックな情緒に富んでいましたから、彼が自作を弾いているところは、イタリアのベルカントな歌手が纏綿たるカンタービレの旋律を歌っているような情調になりました。そのうえにあの剛直な和音が加わるのだから、旋律感、和声感ともにこれほど充実したものはないのです。
(「ピアノとピアニスト 2003」より)
     *
《燻銀がかったような音》とある。

野村光一氏は実演を聴いての《燻銀がかったような音》という感想なのだが、
MQA Studioで聴くラフマニノフの音も《燻銀がかったような音》である。

Date: 4月 9th, 2022
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その16)

レコード芸術の3月発売の4月号は、少し楽しみにしていた。
別項で触れている、金子三勇士の「Freude(フロイデ)」の録音が、
どう評価されているのかに関心があったからだ。

レコード芸術はKindle Unlimitedで読める。
表紙をみると、特集は「激推し! 21世紀型 次世代ピアニスト」とある。

金子三勇士も若手ピアニストなのだから、
「Freude」についても、特集でも取り上げられているかも──、
と読むまでは、そんなふうに期待していた。

特集に登場するピアニストに金子三勇士は入っていなかった。
新譜紹介のコーナーにも、「Freude」はなかった。
別のページで簡単な紹介があっただけである。

「Freude」は3月4日の発売。
レコード芸術は毎月20日の発売。
だから4月号で、なんらかのかたちできちんと取り上げられるものと、勝手に思っていた。

期待して読んで気づいたことがある。
新譜紹介のところに登場しているディスクは、2月発売のものが大半だったことだ。

えっ? と思った。
3月発売の新譜が、3月20日発売の号に載っていないか、と。

きくところによると、レコード会社はサンプル盤を用意していない、らしい。
すべてのレコード会社がそうなのかどうかまでは知らないが、
けっこう大手のレコード会社でも、そうらしい、ということだ。

以前ならば取り上げてくれる雑誌の編集部には、
発売前にサンプル盤を提供することで、発売日前後の号に取り上げられるようになっていた。
それが、いまではどうも違ってきているようなのだ。

さらに貸出用のディスクには通し番号がふられていて、返却が求められるともきいている。

確かに「Freude」は3月4日発売なのだから、
それからということになれば、20日発売の4月号には間に合わない。

Date: 4月 8th, 2022
Cate: ディスク/ブック

内田光子のディアベリ変奏曲(その2)

今日(4月8日)は、内田光子の「ディアベリ変奏曲」の発売日である。
MQA-CDで発売されている。

買おうと思っていたけれど、TIDALで先に聴いてしまった。

2015年、内田光子はサントリーホールで「ディアベリ変奏曲」を弾いている。
その時のインタヴューが、毎日新聞のサイトで公開されている。

そこには、こうある。
《スポーツに例えるならば、心技体そろった今だからこそこの難曲に挑戦したい》。

当時、このインタヴューを読んでいた。
心技体そろった今、とあるのだから、
一年以内くらいに「ディアベリ変奏曲」を録音するものだとばかり思ってしまった。
そうそう心技体そろった状態を維持できるとは思えなかったからだ。

録音は2021年10月である。
日本で「ディアベリ変奏曲」を弾いてから、まる六年経っている。

いまも心技体そろっている、ということなのか。
内田光子は1948年12月20日生れだから、
録音のときは、73歳になる少し前である。

「ディアベリ変奏曲」のディスクは、そう多くは持っていない。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタほどには頻繁に聴かない、ということもある。

それでもグルダの録音とクラウディオ・アラウの晩年の録音は、
素晴らしいと感じている。

この録音は1985年4月。
アラウは1903年2月6日生れだから、この時82歳。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(続・カザルスを聴いておもうこと)

2020年10月に、
オーディオマニアとしての「純度」(カザルスを聴いておもうこと)」で、
燃焼こそ純度だ、と書いている。

2020年10月の時点では、カザルスのベートーヴェンの交響曲を、MQAでは聴けなかった。
TIDALでMQA Studioで聴けるようになったのは、2021年秋からだ。

カザルス指揮によるベートーヴェンの交響曲第七番は、最初LPで聴いた。
CBSソニーのLPで、だから国内盤である。

マスターサウンドを謳っていた。
その音は、というと、決していいとはいえなかったけれど、
カザルスの燃焼するさまは、きちんと伝わってきた。

でも聴いていると、もっといい音のはず、と思う。
しばらくしてドイツ盤を買って聴いた。

音の艶、弦の響きなど、日本盤とはさすがに違う、と感じたものの、
カザルスの燃焼度ということでは不満が残った。
これならば日本盤のほうをとる。

CDになって、日本盤、アメリカ盤を聴いた。

カザルスのベートーヴェンの交響曲は、優秀録音とはいえない。
それはわかっているのだが、もっとどうにかなるのではないのか──、
そんなおもいがずっとついてまわっていた。

それでも聴けば、その凄さに圧倒されるのだから、
充分な音といえば、そういえなくもない。

それでも欲はある。
MQA Studio(44.1kHz)で聴けるカザルスの第七番は、
燃焼こそ純度だ、とそういえる音で鳴ってくれる。

その美しさが聴きとれる。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
1 msg

GAS THAEDRAがやって来る(その10)

SAEのMark 2500の音について、瀬川先生はこう語られている。
     *
 聴いた順でいえば、ダイナコ、ハーマンカードン、それからマッキントッシュの系列の腰の太い音というのが個人的には嫌いで、もっと細身の音が好きなんです。SAEの音はその意味ではまず細い。低域の方でちょっとふくらむぶんには、むしろぼくは歓迎する。つまり、プロポーションとしては、非常にぼく好みの音がしたわけです。
     *
瀬川先生が細身の音を好まれていたのは確かにそうであるのだが、
だからといって、下半身から肉づきをすべて削ぎ落とした音を、
瀬川先生が好まれた音と勘違いしている人がいるのを知っている。

以前、別項で書いているから詳しいことはくり返さないが、
中低域から下の帯域の量感を根こそぎ削ってしまった音を、いい音だ、
それだけでなく、瀬川先生の音を彷彿とさせる音、とまで言った男がいる。

彼は、瀬川先生の文章のどこを読んでいたのだろうか。

女性のプロポーションでいえば、ウェストに肉がついているかのような音は、
瀬川先生が嫌われていたことは、試聴記を読んでいくだけですぐにわかることだ。

けれどその下、つまりお尻まわりの肉づきは、
SAEのMark 2500の音を高く評価されていたことからも、
瀬川先生自身語られていることからも、好まれていたこともすぐにわかる。

自分にとって都合のいいところだけ読んで、
そうでないところはまるでなかったかのように無視して、
あげくの果てに、瀬川先生の音を彷彿とさせる音と、
似ても似つかない自身の音を、そう表現する。

それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし、
その男の音を聴いている人はそう多くないから、
まして瀬川先生の音を聴いている人はもっと少ないのだから、
実害はあまりない、といえばそうである。

それでもいいたいのは、もっときちんと読もう、ということだ。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その9)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版には、
SAEのMark 2500も登場している。

この「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での試聴がきっかけとなって、
瀬川先生はMark 2500を買いこまれてしまった。
そのことは、テスト後記にも書かれている。

で、ここでまたテーマから逸れてしまうのだが、
瀬川先生のテスト後記には、ジュリアン・ハーシュのことが出てくる。

ジュリアン・ハーシュといって、いまはどのくらい通じるのだろうか。
ジュリアン・ハーシュの名前は知らなくても、
アンプの理想像の代名詞的に使われる“straight wire with gain”。

この表現を使ったのが、ジュリアン・ハーシュで、
彼はアメリカのオーディオ誌“Stereo Review”の書き手の一人である。

瀬川先生は、ジュリアン・ハーシュについてこう書かれている。
     *
 もっとも、アメリカのオーディオ界では(いまや日本でも輸出に重点を置いているメーカにとっては)有名なこの男のラボ(自宅の地下室)に招かれて話をした折、こんな男の耳など全くアテにならないという印象を持ったほどだから、ハーシュの(測定や分析能力は別として)音質評価を私は一切信用していないのだが、右の例を別にしても、国産のアンプが海外ではそれなりに高い評価を受ける例が少しずつ増えていることは事実なのだ。
     *
これを読んでどうおもうかは、その人の勝手(自由)である。

話を元にもどそう。