Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その10)

SAEのMark 2500の音について、瀬川先生はこう語られている。
     *
 聴いた順でいえば、ダイナコ、ハーマンカードン、それからマッキントッシュの系列の腰の太い音というのが個人的には嫌いで、もっと細身の音が好きなんです。SAEの音はその意味ではまず細い。低域の方でちょっとふくらむぶんには、むしろぼくは歓迎する。つまり、プロポーションとしては、非常にぼく好みの音がしたわけです。
     *
瀬川先生が細身の音を好まれていたのは確かにそうであるのだが、
だからといって、下半身から肉づきをすべて削ぎ落とした音を、
瀬川先生が好まれた音と勘違いしている人がいるのを知っている。

以前、別項で書いているから詳しいことはくり返さないが、
中低域から下の帯域の量感を根こそぎ削ってしまった音を、いい音だ、
それだけでなく、瀬川先生の音を彷彿とさせる音、とまで言った男がいる。

彼は、瀬川先生の文章のどこを読んでいたのだろうか。

女性のプロポーションでいえば、ウェストに肉がついているかのような音は、
瀬川先生が嫌われていたことは、試聴記を読んでいくだけですぐにわかることだ。

けれどその下、つまりお尻まわりの肉づきは、
SAEのMark 2500の音を高く評価されていたことからも、
瀬川先生自身語られていることからも、好まれていたこともすぐにわかる。

自分にとって都合のいいところだけ読んで、
そうでないところはまるでなかったかのように無視して、
あげくの果てに、瀬川先生の音を彷彿とさせる音と、
似ても似つかない自身の音を、そう表現する。

それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし、
その男の音を聴いている人はそう多くないから、
まして瀬川先生の音を聴いている人はもっと少ないのだから、
実害はあまりない、といえばそうである。

それでもいいたいのは、もっときちんと読もう、ということだ。

1 Comment

  1. TadanoTadano  
    4月 13th, 2022
    REPLY))

  2.  低音域の重要性を伝えるというのは、大変に難しいことですね。

     簡単に言えば、西洋の音楽は低音を基調にして音楽が構成されているために、低音の絶対量が必要であるということですね。

     今日のオーディオ・ファイルは、概して低音不足に陥りやすい傾向があると思います。逆にパブリック・スペースでは中音域が抜ける「中抜け」という現象がよく起こっています。

     宮崎さんのおっしゃられますように、オーディオ・ファイルの低音恐怖症は598戦争*1の影響があると思いますし、ロバートEグリーン*2曰く、ピュア・オーディオの「フラット信奉」が様々な面で悪影響を及ぼしているとも考えられます。

     私もこれらの意見に同意します。また、オーディオ・ファイルが、まるでインセルのように不本意に孤独になっていくという現実の裏側には、独りよがりで臆病なレコード演奏の影響というものがあるのではないかと睨んでいるところです。ただ、自らの音痴に無自覚に、悦に入っている人というのを、あまり咎めても仕方がないだろう―、という気持ちも一方では持っています。脚の速いことや歌の上手いことと同様に、耳がいいというのも一つの先天的な資質だと思うからです。

     ハイ・レベルなオーディオ・ファイルの方には飛ばしてお読みいただきたいくだりですが、低音の重要性をすこし具体的に説明しますと、こういった事になります。

     例えば、Cmaj7というコード(和音)がありますが、最も低い音であるCが、もし低音不足によって聞こえなくなってしまったら、音の構成がCEGBから一音抜けてEBGとなります。これはEmの構成音です。したがって、これではEmを聞かされているような気になってしまうわけです。あるいは、Am7というコードの、最低音であるAが聞こえなくなってしまったら、そのコードは、上のCEGだけが残って、Cメジャー・コードのように振舞ってしまうわけですね。

     これは大げさに言うと、あかるく聞こえるはずの歌が暗く聞こえるようになったり、暗く聞こえるはずの歌が明るく聞こえたりするということです。ですから、音楽においては低音の量感というものが、まずしっかり無くてはならない―、というわけですね。

     また、ロック・ミュージックやジャズなどの音楽は、低音楽器であるキックやベースがビートを刻んでいますから、その音域が失われるとリズムが変わってしまいます。これではアーティスト・アプルーヴァル(演奏家の承認)は得られないというわけですね。

     我々人間の耳は小音量で低音の感度が落ちるものですから、大音量では総じて中抜けが起こりやすく、ボーカルが聞こえなくなったりしがちです。また、小音量では低音が抜けてしまうということに陥りやすいものです。

     ただ、音量に対する低音、高音の感度には個人差がありますので、「いやいや、オレは中抜けでも歌詞が聞き取れる」と言う人もいれば、「低音が抜けても音階を聞き取れるんだ」という人もいらっしゃるわけです。そういったわけですから、バランスの事をあまりとやかく言うと、怒られてしまうという現実もあります。

     さて、前置きが長くなってしまいましたが、低音への感度という所で言いますと、欧米の方たちのほうに一日の長があるようです。日曜礼拝のオルガンで耳が鍛えられているのだろうと思います。

     普通、ミュージシャンは低音を直接音と間接音に分けて聞き取っています。さらに直接音のなかに「骨格、肉付き」、間接音の中に「距離、響き、広さ、高さ」を聞き分けています。そして、これらに対しそれぞれ、質と動きで分類して考えるようにしているはずです。

     オーディオにおいてこれらの比率というものは、ギアがもともと持っている特質のようなもので、制御しにくいパートです。たとえばプリアンプのトーン・コントローラーを使っての調整には、限界を感じる領域なのです。
    通常、間接音と直接音を分けてコントロールするということは容易ではありません。ですから、シーンに合わせて然るべきギアを選ばないといけないというわけですね。

     さらに言えば、時間軸に対する低音の振る舞いや、その変化というところは、プリアンプよりもパワーアンプによって変わってくるところが多いように感じます。つまり、動きの面ですね。このあたりが音の腰とか肉付きと言ったところに関係してくるのだと思います。

     音の腰というと抽象的な表現のように感じる方もいらっしゃるようですから、補足的な説明をいたしますと、例えば、レコード(録音)の再生の際に、大人の弾くピアノが子供の弾くピアノのようになってしまったり、性別や国籍が変わって感じられることがあるという所ですね。体格によって音が変わるという話です。それから、よく野球のバッティングなどで腰を使って打てとか言いますが、ああいった力の伝え方とか、そもそもの体格として聞こえてくる音の違いというのを、腰のある低音とか、肉づきのある低音などと言っているわけですね。

     それから、これは関係のない話ですが、楽器をやっている人は腰のある太い音を好まれる方が多いようです。演奏者はピアノでもドラムスでも、近接した距離で聴いていますので、そういう趣味になるのでしょう。

     プロテスタントとカソリックの違いもあると思います。宗派によって音楽へのアプローチは違いますから、好まれる音がそれぞれ違うように感じます。どちらかというとアメリカに多いプロテスタントは参加型、フランスに多いカソリックは鑑賞型、イギリスはカソリックの影響をうけたプロテスタントという所で、また独自の路線を行っていると思います。

     国や地域による違いというものもあるかと思います。例えば、同じ名古屋でも港区と中心部のほうでは、人々の骨格や身長が異なります。非常にローカルな話なのですが、名古屋は東京とは様子が少し違って、港区では工業地帯が分布しているためか、筋骨隆々とした人が多いという印象なのです。名古屋で港区女子というとB層のヤンキーということになってしまいますね。トヨタも近いですから、アメリカで言うデトロイトみたいなところです。彼らをダビデ像で例えて言うならば、ミケランジェロの作ったダビデ像のような身体つきです。(そういえばスーパーマンはデトロイトの新聞記者でした) ・・・ところが、芸どころの伏見、栄あたりは、同じ日本人ではないというくらいしゃなりとした人が多い。ダビデ像に例えると、こちらはドナテロのつくったダビデのような印象ですね。その距離にして、本当に目と鼻の先なのですが、歩いている人を見ると全然人種が違うぞという印象を受けるのです。

     先ほど子供のピアノの音で例えましたけれど、骨格が違えば音は違いますから、いわば音の骨格に関するニュートラル・ポイントと言ったようなものが、住んでいる地域によって違ってくると思うのですね。

     それから、日本という国は文化資本が女性に偏っています*3。そこのところの違いも無視してはならないポイントだと思います。

     GASの製品は男性的と言われています。私は必ずしもそうとは思わないのですが、表現としては的を得ているように思います。SAEの場合はどうでしょうか。低音のふくよかさということが言われているMark2500(SAEのパワーアンプ)ですが、強弱に伴う残響の、変化的な響きを再生する場合において、優良なギアではないのか・・・そのように想像しています。

     THAEDRAの場合はGASのプリアンプの中でも、最も中庸を行くものではないかと想像します。

     比較したことがありませんが、THALIAやTHOEBEは低音域における間接音を少し抑えた印象があります。質的な面では過剰な装飾を抑えるという点がTHAEDRAにも共通しているのではないかと思います。ただ、抑えるポイントが同じGASの製品のうちであっても、少しずつ異なるのではないかという見解です。

     今、我々世代がこういったことを想像できるのも、ひとえに宮崎さんがAudio sharing、Audio identityを続けていらっしゃるおかげです。ステレオサウンドのバックナンバーというのはプレミアがついて手頃ではありません。とくに70年代のものは値が張りますから、私のような半可な読者ですと、すっと手が届かないものです。ところが、Audio sharingで記事を知っているから、ああ、あの号を買ってみようと思えるわけですね。

     今、若者の間でヴィニールのレコードが物凄く流行っていますけれど、そのあおりで昔のオーディオにも目が向くようになってきています。ここの読者もかなり若い人が増えているのではないかと踏んでいます。今、ファッションにしても何にしても、レトロであるということが物凄く重要になっていますね。ポストモダンが既に歴史を持ち始めたからだと理解しています。

     ところが、若い世代は我々世代も含めてハイ・ファイの歴史を知りませんでした。ですから、昔の製品はみな白黒テレビのように、ぼけて忠実度のない骨董品なのだと想像していたわけですね。

     それで音を聞いてはじめて、「ちょっとこれは違うぞ」となるわけです。聞けば、量販店で聴くゼネラル・オーディオとは比較にならないくらい音が良くて、ビックリしてしまうわけです。

     どこかで宮崎さんが書かれた記事で、GASの製品に「いまさら」と言う人がいるかも知れない―という話がありましたね。私もその話に同意できるのです。というのは、実のところそれは、我々世代がゼネラル・オーディオとハイ・ファイ、それからハイ・レゾリューション―、これらの区別をまったくと言っていいほどできていないからだということを、一つに思うのです。

     つまり、大げさに言いますが、若い世代は、古いギアは全てハイ・フィディリティに達していない―とすら思っていると考えるのです。

     たとえば今言った、GASのプリ・アンプリファイアーのTHAEDRAですね。これは1970年代に作られたプリアンプですけれど、このギアは日本オーディオ協会の分類でいけば、ハイ・レゾリューションに分類できる特性を持ちあわせています。適切な整備さえなされていれば、オーバー・スペックとは言えなくとも、カタログ・スペックの特性くらいはクリアするはずなのです。私のギアも良好です。

     こうした偏見というのは、言ってみれば人種差別のようなもので、ついには埋まらないようにも思います。最も偏見を持っていないのは楽器をやっている人たちですが、彼らは良くも悪くも数字を読めません(笑)。

     デザインからGASの製品を見れば、流行としては既に一周していると言っても良いでしょう。古臭いという表現は、一時代前の流行に感じられるものです。デザインから言えば、むしろ今日の流行に近いものではないでしょうか。むしろ、今日のハイエンドが抱えているY2Kを引きずったデザインは、「ビッチーズ・ブリュー」や「ヘッド・ハンターズ」をポストモダンの古典としてとらえている若い世代にとっては、古臭くすら感じられるでしょう。

     GASの製品群はハイ・フィディティにおける古典的名作として記録されてもいいと思います。
    楽器で例えるならば、ヴィオラ・ダ・ガンバのような古楽器ではなく、既にヴァイオリンの形になってからの古いヴァイオリンという位置づけが適当かと思います。

     古いギアが当時と同じ音を出せないことは、楽器と共通しています。ストラディバリでも当時の指板を使っている楽器はもうないでしょう。つまり、「のこ」の入っていないストラディバリは、もう存在していないと言う事です。楽器をやっている人ならば、指板を取り換えると、どれだけ音が変わってしまうのか、よく知っているはずです。それでも、ストラディバリの音を奏でようと思ったら、指板を取り替えて使っていくしかないわけですね。今の科学では、ストラディバリのニスというのはどうやって作られているか分からないそうですから、現物を利用するしかないと言う訳です。

     どれだけパーツを入れ替えたとしても、回路やパーツのコンストラクション、アース・ポイント、シャシーの材質などは変わりません。これはヴァイオリンと同じで、ある程度は目を瞑ってもいいような気がしますし、反対に慎重になる人の気持ちも良くわかります。とくに、楽器を演奏する人は、商売道具でもありますから、修理に対しては物凄くナーバスになるものです。

     過去の優れた製品には、トロフィー・オーディオとしての価値や、文化資産としての価値、骨董品としての価値など、再生音とは無関係に付帯する価値というものも存在するでしょう。ある程度は共感出来ますし、ある面では過剰だと感じます。

     ボブ・ディランがロイヤル・アルバート・ホールで使用したストラトキャスターが1億円で落札されました。これを高いと思うか、安いと思うかは、見る人によるのでしょうが、当時はそんなに高いものではなかったはずです。フレットの打ち方も雑で、今の中国製よりもずっとひどいくらいです。確かに乾いた音は艶があって素晴らしいものですが、オカルティックな幻想も含まれていると思います。それでもストラディバリと比較すれば、まだ安いものかも知れません。

     とはいえ、まだ利用できるギアや楽器が、無価値化され廃棄物とみなされることは、環境上好ましいことではありません。21世紀を生きる我々世代のイデオロギーとしてのミニマリズムは、環境破壊と共に加速しています。大量消費社会は我々世代で食い止めなければなりません。

     私の住んでいる地域でも、いくつかの良心的な電気店が、古いギアを修理してくれます。古いモールド・キャップやカーボン抵抗の新古品を探してくれる店もあります。私は、古い街の電気屋で修理してもらっていますが、彼らも随分歳をとりました。
     私は電気に明るくないので、日本から電気磁気学の技術が絶えたら、将来は海外にオーバーホールを出すようになるのかもしれません。

     先日、水をかけてしまったパソコンを修理してもらったのですが、買った時より高くなってしまいました。それでも、私にとっては思い出であり、不必要な環境破壊は私のイデオロギーに反するものなので、電気屋を回って頭を下げてなおしてもらいました。幸運なことに私は、善良な技術者と知り合うことができました。彼はジャズが好きなようなので、何かお礼ができたらいいなと考えています。
     楽器でも同様の話が言えますが、レトロ・テクノロジーは一つのロマンになりつつあります。

     オーディオはとても面白い趣味です。ヴァイオリンを演奏するよりは簡単ですし、ある程度年齢を重ねてから始めても、楽しめるものです。私は自作もやりますし、最新のデジタルアンプなども随分作りました。ファッションと同じで、流行を取り入れるのも楽しいですし、ヴィンテージに思いをはせるのも興味深いものです。ひたすら音の道に進むのも一興です。
     ブルー・トゥース・スピーカーや、ラジオなどのゼネラル・オーディオも私は好きですし、紙コップの糸電話も大好きです。今、カセットのテレコが流行っていますが、ちょうど欲しい所です。サンスイからレトロなテレコが出ています。ひどい音ですが、とてもレトロなデザインで欲しいです。
    たぶん、次はCDプレーヤーが流行るでしょう。マランツのCD34が高騰するかもしれません。個人的にはMDデッキでもう一度聞きたいですね。エアチェック派だった私にとって、MDは思い出深いものです。

    以下、注釈
    *1 598戦争における低音の影響:598スピーカーとは、日本のオーディオブームのころに、おおよそ\59,800前後で販売されていたスピーカーの普及品。当時のステレオ文化のメインストリームを作っていたが、低音の再生が難しかった。参照「Audio identityシングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは・その8)」

    *2 ロバートEグリーン:アメリカのオーディオ評論家、季刊アブソリュート・サウンドの記者

    *3 文化資本が女性に偏っている:駒澤大学、社会階層論の学者である片岡栄美はわが国では芸術文化資本が女性に偏っていると主張している。日本のエリート層の多くが正統文化(クラシック、美術館、短歌・俳句、歌舞伎・能・文楽など)と大衆文化の両方を好む文化的オムニボア(文化的雑食)であると解析し、とくに男性はエリート層であってもカラオケやパチンコ、スポーツ新聞という大衆文化に親しむ人が多いというデータを示し、わが国の文化的素養がジェンダー差を伴っていることを指摘した。
    参考文献:片岡栄美著 「趣味の社会学~文化・階層・ジェンダー~」
    https://synodos.jp/opinion/society/23895/

    1F

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