Archive for 6月, 2020

Date: 6月 25th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

五味先生の「ピアニスト」に、コーネッタのことは出てくる。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
これを読めば、コーネッタがどうしても欲しくなる。
なので、7月1日のaudio wednesdayでは、
「パルジファル」を、最後にかけようと考えている。

決めたわけではない。
コーネッタの音を、まだ聴いていない。
どの程度のコンディションなのかは、鳴らしてみるまではっきりとしない。

あるレベルの音が、当日鳴ってくるのであれば、
最後に締めの曲として、「パルジファル」を鳴らす。

五味先生がステレオサウンドの試聴室で聴かれたショルティ盤の「パルジファル」ではなく、
五味先生が自宅で聴かれていたクナッパーツブッシュの「パルジファル」である。

CDではなく、MQA(192kHz、24ビット)で鳴らす。

Date: 6月 25th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その12)

組合せのための試聴は、
アンプやスピーカーの試聴が受動的試聴とすれば、能動的試聴だと、
これまで書いてきた。

それから組合せという試聴は、思考の可視化とも書いた。

ここまで書いてきて、別項「正しいもの」のなかで、
「ベートーヴェンの音」について書き始めたところである。

だから思うのは、いまオーディオ評論家を名乗っている人たちに、
ぜひとも「ベートーヴェンの音」というテーマで組合せをつくってもらいたい、ということだ。

そこで使うディスクも、編集部から指定されたものではなく、
自身で「ベートーヴェンの音」が録音されているものと感じるディスクを数枚選んでもらうところから始める。

もちろん、ここでの録音とは、つねに演奏と切り離せないものであることはいうまでもない。

そしてスピーカーを選び、アンプを選び……、というふうに組合せをつくりあげてゆく。

いまオーディオ評論家と名乗っている人たちの、さまざまなことが顕になるはずだ。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: 言葉

直向き(その2)

7月のaudio wednesdayでは、タンノイのコーネッタを鳴らすことは、別項で書いている通り。
四十年前のスピーカーである。
コーナー型エンクロージュアというだけでなく、フロントショートホーンまでついている。
完全な前時代的形態と捉える人も多い、と思っている。

こういうスピーカーを手に入れて喜んでいる。
それだけでなく、audio wednesdayで鳴らして、誰かに聴いてもらおう、ともしている。

目新しいもの好きの人からすれば、なんと後向きのオーディオか、となろう。

このブログでは、あいもかわらず瀬川先生、五味先生、
岩崎先生、菅野先生のことをくり返し書いている。

生きているオーディオ評論家(と呼ばれている人たち)のことを書くことは、
それに比べれば、ずっと少ない。

ここでも、私は後向きだ、と思われていることだろう。

目新しいもの好きの人たちは、後をふり返るな、とか、
過去に縛られてはいけない、とかいう。
そして前を向け、未来を見よ、という。

こんなことを言っているのが好きな人は、
ほんとうに前を向いている、未来をみている、と信じ込んでいるのか、と疑問に思うことがある。

ただ単に自分が向いている方を、前、もしくは未来だと思い込んでいるだけじゃないのか。

前とは未来のことのはず。
未来は、誰にもみえない。
見えるのは、過去だけである。

だからこそ過去と直向きにつきあっていくしかない。
直向きは、あえて書いておくが、ひたむき、とよむ。

真っ正面から過去と直向きになれる人だけが、はっきりと前がわかるはずだ。
己の背中に未来がある。

ただし過去を斜に構えて眺めているだけでは、背中は未来からズレた方向にいってしまう。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: 価値か意味か

価値か意味か(その5)

いま、目の前にあるスピーカーから、いい音が流れてきた──、とする。
その「いい音」というのは、
これまでオーディオに情熱、そのほかさまざまなものを注ぎ込んできた結果としての「いい音」のはずだ。

結果であるからこそ「音は人なり」となる、ともいえる。

そう考えながらも、「いい音」というのは、人によっては、答ということもある。
すべてのオーディオマニアにとって答とはならないのは、
すべてのオーディオマニアが問いを常に求めているとはいえないからだ。

結果としての「いい音」、
答としての「いい音」。

そんなことを考えている。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Frans Brüggen Edition

フランス・ブリュッヘンの名前を知ったのは、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」でだった。

大村櫻子さんという女性の(架空)読者からの手紙に、愛聴盤のしてあげられていたのが、
ブリュッヘンの「涙のパヴァーヌ」だった。

他には、ミルシテインのメンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、
シャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」、ジム・ホールのアランフェス協奏曲だった。

この四枚のなかで、「涙のパヴァーヌ」がとても気になっていた。
1976年12月の時点で、四枚のうち、聴いていたのは一枚もない。

ブリュッヘンは、私にとってカザルスと同じで、
指揮者としての活動のほうに強い感心がある。

ブリュッヘンを熱心に聴くようになったのは、
フィッリプスから出た一八世紀オーケストラによるベートーヴェンとモーツァルトがきっかけである。

それまでは古楽器によるオーケストラの演奏に、あまり関心をもつことはなかった。
コレギウム・アウレウム合奏団のコンサートは、
ブリュッヘン/一八世紀オーケストラを聴く数年前に行っている。

私のなかで、がっかりしたコンサートの数少ない一つであるから、わりと記憶に残っている。
だからといって古楽器にアレルギーのようなものを持ったわけではないが、
積極的に聴こう、とうい姿勢は持てなくなっていた。

そこにブリュッヘンのモーツァルトとベートーヴェンは、新鮮だった。
それからブリュッヘンに夢中になった数年間が続いた。

ふたたびブリュッヘンのリコーダー演奏を聴くようになったのは、それからである。

Frans Brüggen Edition」は十二枚組のアルバムである。
すでに持っていたものとダブるけれど、
持っていないものもあったし、それに再発ボックスの例にもれず、
この「Frans Brüggen Edition」はとても安価だ。

メリディアンの218で聴くようになってから、ブリュッヘンのリコーダーをまだ聴いてなかった。
昨晩遅く、久しぶりに聴いてみた。

聴いていたら、今度のaudio wednesdayに持っていくことに決めた。
コーネッタで聴きたい、と思ったからだ。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

二時間ほど前に、喫茶茶会記にコーネッタを搬入してきた。
一週間後のaudio wednesdayで鳴らすコーネッタである。

ヤフオク!で落札したコーネッタの出品者は、リサイクルショップだった。
実物をみていたわけではない。

リサイクルショップの倉庫に引き取りに行って、初めて実物をみた。
四十年以上のスピーカーだから、ある程度のくたびれ感はしかたない、と思っていた。
実際、倉庫でみたコーネッタは、そんな感じだった。

なのに喫茶茶会記に持ち込んで、とりあえず置いてみると、感じ方がまるで違ってくる。
どんなスピーカーであれ、部屋にスピーカーを持ち込めば部屋の雰囲気は大なり小なり変化する。

コーネッタがおさまった喫茶茶会記の、いつものスペースはいい雰囲気だな、とまず思った。
コーネッタというスピーカーのアピアランスは、わりと素っ気ないともいえるが、
コーナー型ということ、そして実際にコーナーあたりに置いてみると、しっくりくる。

不思議なことに、くたびれた感じが今度はしない。
もちろん細部をみていくと、それなりの年月感はあるけれど、
コーネッタが部屋におさまったときの雰囲気のよさは、
いまのスピーカーからは、まず得られない。

実をいうと、まだ音を聴いていない。
今日は搬入しただけである。
あと一週間、どんな音が鳴ってくるのか、
どんな音を聴かせてくれるのか、楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 23rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER

キングインターナショナルから、
フィルクシュニー名演集(Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER)が、
7月に発売になる。十枚組である。

ルドルフ・フィルクシュニーは、菅野先生がお好きだったピアニストだ。
日本ではフィルクスニーと表記されることが多いようだが、
菅野先生はフィルクシュニーと書かれていたし、
話の中に出てくるときも、フィルクシュニーと発音されていた。

フィルクシュニーの演奏は菅野先生による録音もある。
なので名前は聴いたことがある、という人は少なくないだろうが、
フィルクシュニーの演奏をじっくりと聴いたことがある、
聴き込んでいる、という人は意外と少ないように感じている。

かくいう私も、フィルクシュニーの演奏は、菅野先生が録音されたものぐらいしか聴いていない。
今回発売になる名演集の詳細を眺めていて、
いまさらといわれようが、じっくり聴いてみようという気になっている。

菅野先生の音をきいたことのある人は、どのくらいいるのだろうか。
聴いたことのある人のなかには、既に亡くなっている方もいると思う。
菅野先生の音を聴いている人は、これから少なくなっていくだけで、
増えることは絶対にない。

菅野先生がいわれたことをおもいだす。
菅野先生の音を聴いた人は、
もちろん「素晴らしい音ですね」とか「すごい音ですね」と、菅野先生にいう。

それは本心からのことばであっても、
ほんとうに菅野先生の音のすごさを理解していた人は、そうとうに少ない──、
そんなことをもらされたことがある。

オーディオ業界の人でも、数える程しかいない、ともきいている。
それが誰なのかもきいて知っているが、ここで書くことではない。
みんな、自分がそうだ、と思っている(信じている)ほうがシアワセだろうから。

菅野先生の音を聴く機会がなかった人のほうが、聴く機会があった人よりもずっと多いはずだ。
聴けなかった人のなかにこそ、菅野先生の音のすごさをわかる人がいた可能性はある。

こんなことを書いても、もう菅野先生の音は誰も聴けない。
けれど、菅野先生が愛聴されていた演奏家の録音は、誰でもが聴ける。

そうやって聴いていくことで、菅野先生がどういう音を実現されていたのか、
その手がかりは、きっとつかめるはずである。

どれだけ聴いてもつかめない、という人は、
菅野先生の音を聴いていたとしても、菅野先生の音をわかっているとはいえない──、
私は、そうおもっている。

Date: 6月 22nd, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218(version 9)+α=WONDER DAC(その10)

LAN端子にターミネーターを挿すことによって、どれだけの音の変化があるのか。
私が試したのは、あくまでもメリディアンの218だけであって、
ほかの機種に関しては、まだ試していない。

それに私よりも、早い時期からターミネーターを試している人は少ないわけだし、
製品化もされているくらいだから、Googleで検索すれば、
こんなふうに音が変った、というのは、いくらでもみつかると思う。

このディスクの、この部分がこんなふうに変った、と、
こまかく書いていくのは、別に大変なことではないが、やるつもりはない。

けれど、どこが変ったのか、といえば、
おもに低音域での暗騒音が、明瞭になってくる、とは確実にいえる。

この録音に、こんな暗騒音が入っていたのか、と感じる。
たとえば床を踏み鳴らす音、どこかのドアを開閉していると思われる音、
そういった類の音が、いままで以上にはっきりと聴こえたり、
いままで入っていることに気づかなかった音に気づいたり、ということが、
特にスタックスのヘッドフォンで聴いていると、けっこうある。

聴感上のS/N比が向上したともいえるし、
物理的なS/N比もよくなっているはずである。

Date: 6月 22nd, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは・その7)

日本人のオーディオマニアのなかには、
低音に関して臆病な人が少なからずいるように感じている、と以前書いた。

そこへfacebookでのコメントには、
西洋人と東洋人(日本人)とでは、低音への感じ方が民俗的に違うのではないだろうか、
そんなことが書いてあった。

たとえば虫の音。
西洋人には、単なるノイズとしか聞こえないのに、
日本人に秋の虫の音をそんなふうには受け取っていない。

この感じ方の違いは、かなり以前から指摘されていることであり、
確か虫の音を聞いている時の脳の活動をみると、
西洋人と日本人とでは違いがある、とのこと。

ところが低音に関しては、そうではないことをずっと以前に読んでいる。
1980年代の終りごろに読んでいる。

記憶がかなり曖昧なのだが、100Hz以下の低音は、
身の危険を感じさせる音ということで、
西洋人も日本人も、脳の同じ部位で感じとっている。

身の危険、つまり死に関係してくることで、
本能的ということで右脳で感知している、ということだった。

ここが虫の音と低音とでは、違ってくる。
そうなってくると、オーディオにおいて低音に臆病な人が、
日本人に多いと感じるのは、環境からくることなのか。
それとも、別の何かが関係してくるのだろうか。

もしかすると、1980年代の598戦争が関係しているのかもしれない──、
そんな考えが浮かんでくる。

Date: 6月 21st, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その20)

オーディオ雑誌でもレコード雑誌でも、昔から録音評というのがある。
つまり演奏と録音をわけての評価である。

けれど、これについては、ずっと以前から、本来おかしいことだ、といっている人もいた。
演奏が平凡でも、録音だけが素晴らしい──、なんてことは本来おかしいことである、と。

ゼルキンのエピソードは、まさにこのことについて語っている。
ゼルキンによるベートーヴェンは、結果として幻のレコードに終ってしまったわけだが、
おそらく、一般的な意味では優秀録音として認められたのではなかろうか。

演奏は素晴らしかったに違いない。
だとしたら、優秀録音といえるのか。

幻のレコードに終ってしまっているのだから、
録音に立ち合った人以外は誰も聴いていない。
おそらく今後も世に出ることはないはずだ。

誰も聴いていない、といえる録音を評価することはできない。
それでもゼルキンが「これはベートーヴェンの音じゃない」といっている以上、
この録音は、もう優秀録音とはいえない。

どんなにピアノの音が素晴らしく録れていようと、
ベートーヴェンの音でない以上、
それはベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したものとして不出来ということになる。
むしろ本質的なところでゼルキンがダメだししているわけだから、
むしろ失敗ともいえるだろう。

ゼルキンは、だからきっとベートーヴェンの音で演奏していたはずだ。
その音を、日本のレコード会社の録音スタッフは録れなかった。

それは空虚な録音でしかないはずだ。
別項で「毒にも薬にもならない」音(録音も含めて)のことを書いているが、
ゼルキンのエピソードでの録音も、実のところ、
「毒にも薬にもならない」録音なのだろう。

Date: 6月 21st, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるギレリスのベートーヴェン(その2)

今年は、何度も書いているようにベートーヴェン生誕250周年である。
ギレリスのベートーヴェンのピアノ・ソナタも、
今年の9月、MQA-CDが出る。

ギレリスのドイツ・グラモフォンでのベートーヴェンの録音は、1972年から始まっている。
十年以上かかっているけれど、五曲のソナタは録音されなかった。
そこに32番も含まれている。

30番と31番を聴いた人は、誰しも32番を聴きたかった──、と思うはず。
残されていない演奏は、どうやって聴けない。

これだけの時間をかけての全集録音なのだから、
もう少し早く終らせられなかったのか、と思ったりするが、
それでも30番と31番は聴ける。

30番と31番はデジタル録音になっている。
だから、9月発売のMQA-CDには含まれていない。
アナログ録音だけが、MQA-CDとして発売になる。

しかたないことなのだが、
だったらせめてUHQCDとして、30番と31番のディスクを出してくれないだろうか。

MQA-CDは、UHQCD仕様である。
これまでに、素材を変えたりした、いくつかの高音質を謳うCDが出てきた。

どちらかというと、それらに懐疑的な私でも、
UHQCDはかなりいいように感じている。

サンプリング周波数が44.1kHzのデジタル録音であっても、
MQAにするメリットはあることは確認している。

レコード会社にすれば、44.1kHzのデジタル録音まで……、という考えなのかもしれない。
ギレリスの30番と31番がMQAになることは期待できない。

それでもUHQCDとして出してほしい。

Date: 6月 21st, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるギレリスのベートーヴェン(その1)

エミール・ギレリスというピアニストの演奏を、
若いころ、なんとなくさけていた。

特に理由もなく、いそいで聴かなくてもいいや、なんて思っていた。
ギレリスよりも先に聴きたいピアニストがいた、ということは理由としてあったけれど、
それ以上の理由はなかった。

まったく聴いていなかったわけではなかったけれど、
聴いていなかった、といったほうがいいくらいの聴き方でしかなかった。

そんな私が、襟を正して聴く、というのは、
こういう演奏に対してなのか、とおもったのが、
ギレリスの最後の録音となったベートーヴェンの30番と31番をおさめたディスクだった。

たまたまステレオサウンド試聴室に、ギレリスのCDがあった。
なぜあったのかは、もうはっきりと思い出せない。

誰かが試聴のために持ってきて、
試聴は数日続くから試聴室に置いていかれたのか。

とにかくステレオサウンドの試聴室で聴いた。
このCDのジャケットのギレリスの表情をみれば、
聴かずにいられる人はいないだろう。

ギレリスの享年は68。
撮影の日時の正確なところは知らないが、録音と同時期なのだろう。
ぞっとする写真だ。

この写真を撮った人は、どう感じたのだろうか。

グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲のジャケットの写真と、
どこか共通するものを感じる。

グールドの写真は、49歳のもののはず。
グールドはなにを眺めていたのか、と、
演奏を聴いたあとでは、誰もがおもうのではないのか。

ギレリスも、なにを眺めていたのか。

吉田秀和氏は、「ギレリス/ピアノ・ソナタ第30番、31番」で、
《こちらを眺めている写真は、もう、これを眺める私たちを通りこして、「死を見つめている」ようなのだ。》
と書かれている。

Date: 6月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その4)

ヘンリック・シェリングの無伴奏は、1967年の録音だから、
私がクラシックに興味をもったころにはすでに名盤として存在していた。

皆川達夫氏の評価を読んで、シェリングの無伴奏を買おう(聴こう)と決めたのはおぼえている。
にもかかわらず、あとまわしにしてしまっていた。

初めて聴いたクラシックのコンサートがシェリングだったにもかかわらず、
ふしぎと、そのころの私にとってシェリングは特別な存在ではなかった。

いつかは買おう、そんなことをおもっていると、ずるずるそのままになってしまうことがある。
シェリングの無伴奏が、私にとって、まさにそうだった。

三十年以上聴かずに過ごしてしまった。
なんと堕落した聴き手なんだろう……、と自分でも呆れてしまうけれど、
MQAになっていることで、こうやってであえた。
聴くことがかなった。

CD化されたばかりのころに聴いていたら、どう感じていただろうか。
数字によって何かが決ってしまうわけではないのはわかっている。

それでも44.1kHz、16ビットのCDと、
192kHz、24ビットのMQA。

優劣をうんぬんするつもりはないが、どちらを選ぶかと問われれば、
迷うことなくMQAを、わたしはとる。

e-onkyoには、DSF(2.8MHz)もある。

1967年録音ということは、おそらく録音器材の多くは真空管が使われたモノだろう。
これが数年後の録音ということになっていたら、
トランジスター式の器材もけっこう使われるようになっていたことだろう。

Date: 6月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その3)

別項「218はWONDER DACをめざす(ENESCO PLAYS BACH SONATASを聴く)」で、
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータについて書いている。

そこではエネスコの演奏について、だった。
エネスコの無伴奏はめったに聴かない。

それでは誰の無伴奏をよく聴いているのかというと、シゲティが多い。
といっても、そんなに頻繁に聴いているわけではない。

エネスコにしろシゲティも、モノーラル録音である。
ヴァイオリン・ソロの録音、そして再生はなかなか難しいところがある。
へたなステレオ録音よりも、良質なモノーラル録音のほうがいい、と思うこともある。

それでもステレオでの無伴奏を聴くとなると、誰なのか。
クレーメル、ミルシテイン、アッカルドあたりなのか(にしても古いな、と自分でも思う)。
全曲でなければ、他にもいる。

最近ではファウストか。
CDは、わりとすぐに買って聴いた。

そのあとにLPとSACDが出てきた。
そこまで買おうとは思わなかった。

ファウストを絶賛する人がいるけれど、私はそこまで夢中になって聴けなかった。

私にとって、バッハの無伴奏のステレオ録音で、
エネスコ、シゲティに肩を並べる存在にであえてなかった気がしていた。

世の中には、どれだけのバッハの無伴奏の録音が出ているのか。
すべてを聴くことは、もう無理だと思っている。

そのなかに、であえた、とおもえる一枚があるのかもしれないけれど、
20代のころのように聴きまくる、ということは……、とも思うところがある。

そんな時だった。
e-onkyoでMQAでクラシックを検索して、シェリングの無伴奏を見つけたのは。

こういうのを灯台下暗しとでもいうのか。
シェリングの無伴奏は、私が20代のころ、評価が高かった。
特に皆川達夫氏は、畏敬の念をさえ禁じえない、
とまで高く評価されていた、と記憶している。

そうだ、シェリングがあったのだ。

Date: 6月 19th, 2020
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、になる聖域)

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、という聖域)」、
オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいる聖域)」を、2018年11月に書いた。

書いた時から、あと一本、同様のタイトルで書こう、と考えていた。
一年半ほどかけて、このタイトルにした。

タイトルを決めてから、内容を考えているところでもある。
無理矢理という感も拭えないかも……、と自分でも思いながらも書いているのは、なぜだろう。

わがまま、になる聖域とは、どこなのか、なんなのか。
オーディオマニアなのだから、即座に己のリスニングルームという答が浮ぶ。

続けて、私にとっては、この場(ブログ)もそうだ、と思う。

不特定多数の人に向けての場をわざわざつくって、そこで書くということには、
覚悟が必要だ。

なんと大袈裟なと思う人もいるだろう。
ブログなんて日記のようなものだから、気軽に好きなことを書いていけばいいんだから、と。

そういう捉え方もあっていいけれど、私の捉え方は違う。

周りの目を気にしながら、
相手の機嫌を伺うようにして書いていくつもりはさらさらないわけで、
人によっては、好き勝手なことばかり書きやがって、と思うかもしれない。

好き勝手なことを書いて、誰かに嫌われる。
そのことに傷つき嘆く──、
そんな人は「ぼく(私)、ナイーヴですから」といっていればいい。
それも、どこか自慢気にいっていればいい。

覚悟なしに書いているのだから。
そんな人はこれから先もずっと自分のヘソだけを見つめていればいい。