Archive for 2月, 2020

Date: 2月 24th, 2020
Cate: 電源

スイッチング電源のこと(その6)

スイッチング電源では、平滑コンデンサーにかかる電圧は、入力される電源電圧によって違ってくる。
100Vと200Vとでは、平滑コンデンサーにかかる電圧がそれだけ違ってくる。

つまりスイッチング電源で、100Vから200V(もしくは240V)まで対応するには、
高い電圧のほうに、コンデンサーの耐圧をあわせることになる。

交流を整流し平滑して直流にする。
けれどこれだけで完全な直流になるわけではなく、
リップルという小さな波が残ってしまう。

リップルが小さければ小さいほどいいわけで、
コンデンサーの容量は、このリップルと密接に関係してくる。
簡単にいってしまえば、コンデンサーの容量が大きいほどリップルは小さくなっていく。

けれどコンデンサーには耐圧という制約がある。
耐圧が高いコンデンサーと低いコンデンサーである。
この二つのコンデンサーのサイズが同じならば、
耐圧の低いコンデンサーのほうが容量は大きい。

それから実際に電源回路に使った場合、
消費電流が少ないほど、同じ電源電圧、同じコンデンサーの容量であっても、リップルは小さくなる。
ほかの条件が同じでも、電流が大きくなればリップルも大きくなる。

電圧に関してはどうかといえば、電流が同じであれば、
電圧が高い方がリップルは小さくなり、低くなればリップルは大きくなる。

どういうことかというと、240Vの電源電圧まで対応できるスイッチング電源であれば、
平滑コンデンサーの耐圧はそれだけ高いわけだし、リップルに関しては有利になる。

それを100Vで使うとなると、コンデンサーの容量は変らず、電圧だけが低くなるわけだから、
リップルに関しては不利になる。

240Vと同じリップル率にするには、100Vではコンデンサーの容量を増さなければならない。

Date: 2月 24th, 2020
Cate: 電源

スイッチング電源のこと(その5)

オーディオアンプにスイッチング電源が採用されたのは1970年代後半からだから、
スイッチング電源という考え方は、それ以前からあったのだろうなぁ、ぐらいには思っていた。

数日前に、あるニュースサイトに
コンピューターや家電製品の「電源」はどのように進化してきたのか?』という記事があった。

この記事によると、スイッチング電源の構想は1930年代とある。
まだトランジスターが登場していないころである。
動作周波数20kHzのスイッチング電源は、1960年代後半に登場したこともわかる。

この記事に刺激されて、スイッチング電源の歴史で検索してみると、
なかなかおもしろい。

1974年ごろ、Robert Boschert氏によるスイッチング電源の簡略化が実現してなければ、
オーディオへの採用はもっと後になっていたかもしれない。

とにかくそうやってビクターやソニーのパワーアンプ、
それからテクニクスのコンサイスコンポへ搭載された。

このころのスイッチング電源は、100Vのみだった。
いまのスイッチング電源は、そうではない。

メリディアンの218のリアパネルには、100-240V ACとある。
内部は緯線を切り替えることなく、100Vでも200Vでも、240Vでも対応できる。

いまではあたりまえのことなのだが、
初期のスイッチング電源ではそうではなかったから、進歩といえる。

けれどオーディオに関していえば、進歩と素直に喜べない面もある。

スイッチング電源は、まずダイオードで整流し、コンデンサーで平滑する。
通常の電源は、まず電源トランスがあり、そこで電圧を昇圧・降圧したうえで、
整流・平滑とする。

つまり通常の電源の場合、平滑用コンデンサーにかかる電圧は、
各国の電源事情にあわせて電源トランスの一次側の巻線で対応するため、
100Vの国だろうと、もっと高い電圧の国であろうと同じである。

スイッチング電源は、そこが違う。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その14)

メリディアンの218のことについて書きつづけていて、
218ユーザーの人たちは、ここを読まれてどう思われているのか。

ここでは218の内部に手を加えていることを書いている。
私が手を加えた218は、audio wednesdayで聴ける。
そこでの変化を聴いている人にとっては、おもしろいだろうが、
audio wednesdayに来られない人、
つまり手を加えた218を聴いていない人にとっては、
どれだけの音の変化、違いがあるのかを確認できるわけでもなく、
私の自慢話を読まされているだけ──、そんな受け止め方もあるようには思っている。

それにどんな手の加え方をしたのかについては、ほとんど書いていない。
別に出し惜しみしているわけではない。

きちんとわかってくれる人には、何をやったのかは伝える。
ただ、ここで文字だけで、こんなことをやった、と、
どんなに詳細に書いたところで、肝心なところを読み飛ばして、
失敗する人が出てくる可能性があるのを実感しているためだ。

そういう人にかぎって、人のせいにする。
器用な人もいれば不器用な人もいる。
文字だけで、一方的に伝えることの危険性をわかっていると、
直接ならば、相手の力量もある程度は把握でき、
どこまで教えられるかもなんとなくつかめる。

そんなわけで、具体的なことはほとんど書いていない。
なので、つまらない、と思われてもしかたないぐらいには思っている。

先ほど、218ユーザーの方からメールが届いた。
218に手を加えられている方ではない。
でも、この「218はWONDER DACをめざす」を楽しみにしている、とあった。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その8)

別項「オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その4)」で、
情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、もうひとつのBGMとなる──、と書いた。

同じく(その3)では、情報の垂れ流しについて書いた。

私がSNSへのマルチポスト、
そしてマルチポストを平気でする人に対して嫌悪感をいだくのは、
ここである。

それは情報の垂れ流しであり、BGM(background media)であるからだ。

垂れ流しとは、辞書には、未処理の廃棄物などをたれ流すこと、とある。
未処理の情報もどきも、未処理の老廃物と同じように感じるからだ。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(オーディオアクセサリー 176号)

オーディオアクセサリーの最新号が書店に並んでいる。
176号のページによれば、《編集部入魂の1冊》だそうだ。

この号で興味を惹くのは、巻頭企画②「新春座談会2020年 これからのオーディオを語る」である。
記事の紹介文を引用しておく。
     *
2020年最初の刊行となる176号では、本誌で健筆をふるう評論家陣が大集合。福田雅光氏がオーディオ界でいまもっとも勢いのあるオピニオンリーダー達を自宅の新試聴室に招集。もともとは福田氏が単に新年会を企画していただけのことだったのですが、この錚々たるメンバーが一堂に会する機会などめったにない。そこで編集部はこの機会を逃すまいと、この新年会に潜入。新春座談会という形で、しばしの間(!?)、オーディオの未来や、アナログ再生の現状、オーディオ雑誌の問題点等々のお話をしていただいた。編集部からの要望はひとつだけ。「立派な話はしないでくださいね」。これを受けて“正論”無しのバトルが火を噴いた。掲載できるギリギリの内容までつめた、評論家陣のぶっちゃけトークをぜひともお楽しみください。
     *
福田雅光氏監修とある。
これだけを読んでいると、期待できそうな感じもしないでもない。
とはいってもオーディオアクセサリーだから……、
それほど期待はしていなかったが本音でもある。

おもしろければ、つまりほんとうに紹介文通りの内容であれば買うつもりだった。
これだけ、いわば煽っているのだから、
ボリュウム的にも最低でも8ページくらいあるんだろうな、とも勝手に想像していた。

書店に手にとって、がっかりした。
わずか4ページしかない。

《掲載できるギリギリの内容までつめた、評論家陣のぶっちゃけトーク》が、
ほんとうに読めるのであれば、それでもかまわない。

でもページをめくって4ページ目にある見出しを見て、
もう期待できない、と確信した。

福田雅光氏の発言が見出しになっていた。
買わなかったので、正確な引用ではないが、こんなことだった。

書き方を変えた、
持論を加えるようになった

そんなことだった。
これをどう受け止めるのだろうか。
ほとんどの人が、それではいままで持論を語ってこなかったのか、と驚くのではないのか。

Date: 2月 22nd, 2020
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL 4320(その12)

JBLの4343こそ、いまでも欲しい、と思い続けているスピーカーであり、
自分の手で鳴らしてみたいスピーカーとしても、私にとっては4343こそがトップである。

4350にも惹かれるところはある。
4343と4350。
この二つのJBLのスタジオモニターは、いまでも特別な存在であり続けている。

なのだが、ここ数年、4320もいいな、と思うようになってきた。

スピーカーとしてのポテンシャルということでは、
4343か4350ということになるが、
こまかいことはあまり気にしない、
とにかく気持よく音楽が鳴ってほしい。

つまりこまかいことなど、どうでもいい、
そう思わせるほどの気持よい音を望むとき、4320はいいな、と思うのである。

4320でも、ひどい鳴らし方をすれば、そんなふうには鳴ってくれないだろうが、
それでも4343、さらに4350のほうが、そんな場合は、もっとひどい音で鳴ってしまう。

4320を自分の手で鳴らしたわけではないから、はっきりといえないけれど、
4320は、4343,4350のようにシビアな鳴らし方を、聴き手(鳴らし手)に要求することはあまりない。

気持よく鳴り響く音ということでは、
ステレオサウンドが40年ほど前におこなった2m×2mの平面バッフルに、
アルテックの604-8Gを取り付けて鳴らした音だろう。

その音を聴いているわけではない。
でも、何度も、その音について語られた文章を読み返している。

屈託なく音がのびていく。
そこにはためらいなど、まったくないかのように鳴っていく──、
そんな音を想像しながら読んでいた。

604-8Gと平面バッフルの組合せの音。
それに近い性格の音をJBLに求めるならば、4320ではないのか。

Date: 2月 21st, 2020
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(余談・その3)

いま書店に並んでいるおとなの週末の最新号の特集は、とんかつ。

そこに西荻窪のけい太という店が、高く評価されている。

西荻窪は以前住んでいたし、いまは途中の駅である。
途中下車して行ってみた。

駅からはとても近いビルの地下一階にある。
そこは昭和のころは、別のとんかつ店だった。
二三度行ったことがある。

令和に、新しいとんかつ店になっている(開店は2019年11月とのこと)。
夕方早い時間に、一人だったこともあり、並ぶこともなく入れた。

でも次々と客が入ってくる。
電話もかかってきていた。予約の電話のようだった。
おとなの週末であれほど高い評価なのだから、だろう。
私もおとなの週末を見て来ているのだから。

まず、なにもつけずにそのまま食べてほしい、とあった。
それから塩、わさび醤油、ソースをお好みで、とあった。

そのとおりに食べた。
感じたのは、刺し身的ということだった。

とんかつはソース! という私でも、
けい太のとんかつはわさび醤油がいい、と感じていた。

残念なこと、というか、不思議なこと、というべきか、
ソースをつけたのがいちばん少なかった。

ソースも、スパイシーなウスターソースであったならば、と思いもしたが、
ないものはしかたない。

食べていて、昭和のころのおいしいとんかつとは違ってきたことを感じていた。
どちらも私は好きなのだが、
ちょっとおもうところもある。

それは刺し身的に感じられたこととも関連してくるのだが、
このとんかつならば、白いご飯よりも、他にもっと合うものがあるのではないか。
けい太のご飯もおいしかった。

ケチをつけるようなことではないのだが、
昭和のおいしいとんかつ、
つまり白いご飯とよく合うとんかつに親しんできた者は、
そんなことをつい思ってしまう。

もっとも、このことも、
昭和のそういうとんかつに慣れ親しんだことでつくられた感覚にすぎないのかもしれない。

Date: 2月 21st, 2020
Cate: audio wednesday

第110回audio wednesdayのお知らせ(ピアノ録音を聴こう)

3月4日のaudio wednesdayには、
ポリーニとアバド/シカゴ交響楽団によるバルトークも持っていく。

2016年1月のaudio wednesdayから音を鳴らすようになった。
この時、来られた方の一人が、ポリーニとアバドのバルトークをもってこられた。
鳴らしている。

四年以上が経ち、
喫茶茶会記のシステムも変化していっている。
スピーカーはおおまかには変っていないといえるが、
それでも変化はある。

それ以上に音は変化している。
だから、いまここで鳴らしたい、という気持が強い。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 21st, 2020
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL 4320(その11)

その1)を書いてから約六年も経てば、4320を聴く機会もあったりする。

4320は1971年に誕生したスピーカーシステムだから、
初期に製造されたモデルであれば、もうじき50年ということになる。

見た目はそうでなくとも、すべての箇所は衰えている,といってもいい。
コーン紙にしてもそうだ。
塗り直すことで新品同様に見えても、
50年前のコーン紙が新品の状態を維持していると考えるのは無理がある。

なので聴いた、といっても、
それがどのくらい、4320本来の音であるのかはなんともいえない。

こうなってくると、むしろ聴くよりも、
信頼できる耳の持主の印象のほうが、ずっと本来の音を想像しやすい、ともいえる。

私にとって4320の音ということで思い出すのは、
その3)でも引用している黒田先生の文章である。
ステレオサウンド 100号での「究極のオーディオを語る」の中での一節が、
いまも強く私の中で残っている。
     *
4343が運び込まれたとき、4320はある友人に譲る約束がしてあって、トラックの手配までしてあったが、なぜか別れ難かった。女房が「こんなにお世話になったのに悪いんじゃないの」と言ってくれたのを渡りに船と、「そうか」と譲るのをやめた。いまも松島の家で鳴っている。
     *
JBLのスタジオモニターからJBLのスタジオモニターに、
スピーカーをかえられたときに、4320を手放すのをやめられている。

たとえば、これがJBLの4343からアクースタットのModel 3へとかえられた時であるならば、
4343を手放されなかった、というのもわからないわけではない。

それほど4343とModel 3は性格からして大きく異るからだ。

けれど4320と4343とでは、
時代が違い、ユニット構成(2ウェイと4ウェイ)が違い、
エンクロージュアのプロポーションも違う、といっても、
どちらもJBLのスタジオモニターであることにかわりはない。

それでも4320を手放されなかったことは、
お世話になったスピーカーだからということだけではない、と思う。

このことが4320の音を、直接的ではないのだが、
もっともよくあらわしているように、私は感じてきた。

Date: 2月 21st, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その13)

数日中に、もう一回、メリディアンの218に手を加える予定でいる。
これで218(version 9)になる。

ここでひとまず手を加えることは止めにする。
version 10まで予定しているのだが、
version 10では、内部部品を一箇所交換することになる。

つまりハンダゴテを使う作業になり、
もともとの部品に戻したところで、
その部品には218を製造時に一回、
部品交換のために取り外しのときに、もう一回、
元にもどす際にも一回、と計三回のハンダ付けによる熱が加わることになる。

そうなると、厳密な意味で元の音には戻らない。
ハンダ付けの熱による影響を、まったく考えていない人もいるけれど、
想像以上に音質の変化は大きい。

なのでversion 10は、ここをこうしたら──、と考えているだけで実行にはうつさない。
それでも、実際に行った場合の音の変化は、決して小さくないはずだ。
ここまで手を加えているだけに、かなり大きい変化となりそうである。

ならば、とそれに代ることを考えるしかない。
そのためにぴったりの部品をさがしていた。
ちょうどいいのが見つかった。

取り寄せに、三〜四週間ほどかかる。
3月のaudio wednesdayには間に合わないが、
4月のaudio wednesdayには間に合う予定だ。

Date: 2月 20th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その7)

表現のインフレーションとSNSへのマルチポスト。
ここに共通してくるのは、殊更という感覚なのではないだろうか。

殊更は、2月のaudio wednesdayに来られたデザイナーの坂野さんが、
facebbokにくれたコメントにあったことばだ。

『殊更』とあった。
ふだん、ほとんど意識せずに使っている「ことさら」ではあるが、
『殊更』を見て、今年一年の私にとってのキーワードになっていく予感がした。

オーディオのアクセサリー類を、
屋上屋を重ねるような使い方をしている人はけっこう多い。
私もハタチぐらいのころは、似たようなことをしてきた。

屋上屋を重ねることをやっていたときは、
音がよくなった、と思っていた。

なのにしばらくして、屋上屋を重ねる的なことをすべて取っ払ってしまった音を聴くと、
何をしていたのだろうか、何を聴いていたんだろうか、というおもいにとらわれることもしばしばあった。

これは、殊更感を増すためにやっていたのではないだろうか。

別項で「時代の軽量化」を書いている。
殊更感が増すほどに、時代の軽量化も進んでいくような気もしている。

その3)で、SNSを眺めていると、
この人は、いったいどういう音を鳴らしているのか、と思ってしまうことを書いた。

オーディオマニアならば、スピーカーとかアンプを交換したときの音の違い、
それもたいていはグレードアップなのだから、音が良くなっているはずなのだから、
そこでの音の良さについて誰かに伝えたくなる気持はある。

そういう文章を読んで、素直に喜びが伝わってくる、と感じるよりも、
最近では、この人は、いったい、どんなにすごい音を出しているのか──、
そんな疑問が先にたつことが増えてきた。

つい先日もtwitterを眺めていて、そうだった。

Date: 2月 20th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その6)

オーディオ評論は、どうだろうか。
マンガと違い、オーディオ評論用のスマートフォンのアプリはいまのところない。

これから先もまずない、だろう。
なので、掲載誌という概念はまだ残っていくのか、といえば、
どうなのだろうか、と考え込むところもある。

一冊の書籍でも書き下ろしでなければ、巻末に初出誌一覧がある。
岩崎先生の「オーディオ彷徨」、瀬川先生の「虚構世界の狩人」、
菅野先生の「音の素描」などにも、初出一覧がある。

けれど初出一覧をじっくり見ている人はどのくらいいるのか。
意外と少ないようにも感じている。

「オーディオ彷徨」だとステレオサウンドとスウイングジャーナルで大半をしめ、
あとはレコード芸術、オーディオ・ジャーナル、ジャズ、ジャズランド、サプリーム、FMレコパル、
サウンド、レアリテなどがある。

私は「オーディオ彷徨」を最初に読んだ時、
読み終ってから初出一覧を見て、
あの文章はやはりスイングジャーナルに書かれたものなのか、
レアリテって、どういう雑誌? と思い、冒頭を読み返したりもした。

「虚構世界の狩人」でも同じことをやったし、
黒田先生の「レコード・トライアングル」、菅野先生の「音の素描」のときもそうだった。

おもしろいと感じた文章ほど、どこに書かれたなのなのかが気になる。
自分がそうだから、ほかの人も同じ、と思い込まない方がいいのはこの件でも同じで、
初出一覧なんて、まったく気にしない、という人がいるのも知っている。

そこに書かれた内容をしっかりと読んでいさえすれば、
初出がどの雑誌なのか、なんてことは気にする必要はない、
といいきれないところが私にはある。

この感覚は、性格的なものでもあろうし、マンガを読んできていたからなのか、とも思う。

Date: 2月 19th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その5)

スマートフォンでマンガを読む人がけっこう多くなったように感じている。
電車に乗っていると、男の人だけでなく、女の人もスマートフォンで読んでいる。

女の人だから、女性向けのマンガを必ずしも読んでいるわけでもなく、
男性向けのマンガを読んでいる人も増えているようだ。

私もマンガ好きなので、iPhoneにはいくつかのマンガ用アプリを入れている。
一時期は、新しいマンガ用アプリが出ればインストールしていた。
けっこうな数使って、いまは四つだけに絞っている。

マンガ用アプリで読んでいて気づくことは、
人気の高いマンガは、一つのアプリだけでなく、
複数のアプリで読むことができる、ということだ。

このことは紙の本では絶対に、といっていいくらいありえないことである。
どんなに人気があるマンガであっても、
掲載誌が複数ということはこれまでなかった(はずだ)。

だからこそ、このマンガを読みたいから、このマンガ誌(掲載誌)を買っていたわけだ。
つまりマンガという作品は、掲載誌とつねに関連づけられていた。

けれど、いまはどうだろうか。
スマートフォンでマンガを読む人が増えれば増えるほど、
掲載誌という概念はなくなりつつあるわけだ。

そうだから、女の人でも、いまでは男性向けのマンガを読む機会、接する機会が、
紙の本だけの時代よりもずっとずっと多くなっている。

おそらくマンガ雑誌の編集者の人たちは、
掲載誌という概念が希薄になっている、
すでに失われつつある──、ということを以前から感じとっていた、と思う。

Date: 2月 18th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるミケランジェリのドビュッシー(e-onkyoの価格)

ミケランジェリのドビュッシーが、e-onkyoで配信が始まったのが1月3日。
約一ヵ月後の2月7日には、ミケランジェリのドビュッシー集が、
CD(二枚)+Blu-Ray Audio(一枚)で、ドイツ・グラモフォンから発売になった。

CDとBlu-Ray Audioの組合せは、これまでもドイツ・グラモフォンは積極的だった。
すべてをチェックしたわけではないが、
Blu-Ray Audioはほぼすべて96kHz、24ビットである。

今回のミケランジェリのドビュッシーは192kHz、24ビットである。
しかも収録内容は、
「前奏曲集」の第一巻と第二巻、
「映像」第一集と第二集、
「子供の領分」である。

この内容で、タワーレコードなどでは三千円を切る価格になっている。

e-onkyoでの価格は、というと、
それぞれ分売で、四千円を超える。
「前奏曲集」は第一巻のみである。
二タイトル購入すれば、九千円近く、と、CD+Blu-Ray Audioの組合せの三倍。

それでも「前奏曲集」第二巻は含まれていない。

e-onkyoでの価格は、どうやって決定されるのかは知らない。
レコード会社の意向が強いのかもしれない。
それにしても……、とどうしても思ってしまう。

私の場合は、MQAで購入している。
Blu-Ray Audioは、MQAではない。
なのでしかたないといえばそうなのか、納得するしかないのか……、と思いつつも、
flacで購入する人は、CD+Blu-Ray Audioの組合せのほうが、お買い得である。

e-onkyoがMQAに積極的であるのは高く評価したい。
でも、一部のタイトルの価格には、納得できなかったりする。

Date: 2月 18th, 2020
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるバルバラ(その4)

「コンポーネントステレオの世界 ’77」でのそれぞれの組合せの記事中には、
すべての組合せではないが、試聴風景の写真が使われている。

写真の下にはネーム(説明文)がある。
たとえば、
《少し古いレコードを聴くためにはタンノイのレベルコントロールも活用する。調整中の瀬川氏》、
《ソニー、タンノイ、ヤマハの3機種のスピーカーを慎重に試聴する岡氏》、
《アンプの音の違いを真剣に聴き入る菅野氏》、
たいていはこんな感じのネームである。

井上先生の組合せ、
山崎ハコ、ジャニス・イアン、絵夢などのレコードをしんみり聴くための組合せでは、
《山崎ハコなど人前で聴くとやはりテレるのです》とある。

あきらかに、ほかの組合せとは違う。

オーディオのことはまだ何もわかっていないといえた中学二年の私でも、
この写真のネームの違いにはすぐに気づいた。

それだけに、キャバスのBrigantinかロジャースのLS3/5Aの組合せには、
ほかの組合せとは違うなにかを感じたものだった。

そういうことがあったからこそ、
バルバラを、いまMQA-CDで聴いていると、LS3/5Aのこととか、
井上先生のこととかをおもい出すことになる。