JBL 4320(その11)
(その1)を書いてから約六年も経てば、4320を聴く機会もあったりする。
4320は1971年に誕生したスピーカーシステムだから、
初期に製造されたモデルであれば、もうじき50年ということになる。
見た目はそうでなくとも、すべての箇所は衰えている,といってもいい。
コーン紙にしてもそうだ。
塗り直すことで新品同様に見えても、
50年前のコーン紙が新品の状態を維持していると考えるのは無理がある。
なので聴いた、といっても、
それがどのくらい、4320本来の音であるのかはなんともいえない。
こうなってくると、むしろ聴くよりも、
信頼できる耳の持主の印象のほうが、ずっと本来の音を想像しやすい、ともいえる。
私にとって4320の音ということで思い出すのは、
(その3)でも引用している黒田先生の文章である。
ステレオサウンド 100号での「究極のオーディオを語る」の中での一節が、
いまも強く私の中で残っている。
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4343が運び込まれたとき、4320はある友人に譲る約束がしてあって、トラックの手配までしてあったが、なぜか別れ難かった。女房が「こんなにお世話になったのに悪いんじゃないの」と言ってくれたのを渡りに船と、「そうか」と譲るのをやめた。いまも松島の家で鳴っている。
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JBLのスタジオモニターからJBLのスタジオモニターに、
スピーカーをかえられたときに、4320を手放すのをやめられている。
たとえば、これがJBLの4343からアクースタットのModel 3へとかえられた時であるならば、
4343を手放されなかった、というのもわからないわけではない。
それほど4343とModel 3は性格からして大きく異るからだ。
けれど4320と4343とでは、
時代が違い、ユニット構成(2ウェイと4ウェイ)が違い、
エンクロージュアのプロポーションも違う、といっても、
どちらもJBLのスタジオモニターであることにかわりはない。
それでも4320を手放されなかったことは、
お世話になったスピーカーだからということだけではない、と思う。
このことが4320の音を、直接的ではないのだが、
もっともよくあらわしているように、私は感じてきた。