「音は人なり」を、いまいちど考える(その15)
いい音が鳴ってきた、と思う時がある。
オーディオマニアなら、誰にでもあろうことだ。
そういう時に愛聴盤、
それもとっておきの愛聴盤を、それこそ満を持してかける。
いい音よりも、もっともっと上の素晴らしい音で愛聴盤が鳴ってくれる──、
そういう期待がもう膨らみに膨らんでいる。
にも関らず、鳴ってきた音楽はすかすかだったりすることがある。
音は悪くないどころか、いい音ではある。
なのに音楽が、愛聴盤でこそ聴きたい音楽がすかすかとしか、
他に表現のしようがないほどに、なんら響いてこない。
虚しく、あちら側で鳴っている──、
そんな感じしかしない。
音楽に感動する、とか、そんなこと以前に、
かなしくなってしまう。
そういう時も「音は人なり」である。
そこで鳴ってきた、これまで大切にしてきた音楽がすかすかにしか鳴らないということは、
鳴らしている己がすかすかでしかない、ということを、
否応なく正面からつきつけられる。
どこにも逃げようがない。
愛聴盤をかけるまでは、素晴らしい音に仕上がった、と思っていただけに、
よけいに惨めさを味わうことになる。
そんな時に慰藉してくれる愛聴盤がまったく響いてこないのだから、
どこにも逃げ場はない。
「音は人なり」は容赦ない。
その容赦なさに、だまって耐えるしかない。