Archive for 10月, 2019

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その15)

いい音が鳴ってきた、と思う時がある。
オーディオマニアなら、誰にでもあろうことだ。

そういう時に愛聴盤、
それもとっておきの愛聴盤を、それこそ満を持してかける。

いい音よりも、もっともっと上の素晴らしい音で愛聴盤が鳴ってくれる──、
そういう期待がもう膨らみに膨らんでいる。

にも関らず、鳴ってきた音楽はすかすかだったりすることがある。
音は悪くないどころか、いい音ではある。

なのに音楽が、愛聴盤でこそ聴きたい音楽がすかすかとしか、
他に表現のしようがないほどに、なんら響いてこない。

虚しく、あちら側で鳴っている──、
そんな感じしかしない。
音楽に感動する、とか、そんなこと以前に、
かなしくなってしまう。

そういう時も「音は人なり」である。
そこで鳴ってきた、これまで大切にしてきた音楽がすかすかにしか鳴らないということは、
鳴らしている己がすかすかでしかない、ということを、
否応なく正面からつきつけられる。

どこにも逃げようがない。
愛聴盤をかけるまでは、素晴らしい音に仕上がった、と思っていただけに、
よけいに惨めさを味わうことになる。

そんな時に慰藉してくれる愛聴盤がまったく響いてこないのだから、
どこにも逃げ場はない。

「音は人なり」は容赦ない。
その容赦なさに、だまって耐えるしかない。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その2)

音楽をオーディオを介して聴いていると、
ふと、他に誰もいないのではないか、という錯覚に似た気持になることがある。

スピーカーから鳴っている音楽を演奏している人がいる。
そして、それをスピーカーの前で聴いている私がいる。

この二人以外、誰も世の中に存在していない──、
わずかな時間ではあるのだが、そう感じる、というよりも、
それに気づくことがある。

気づく、というのも変な表現だ。
実際に、外に出れば人は誰かしらいるし、
隣近所の建物には誰かが住んでいるわけなのだから。

東京のように人口密度が高い都市では、隣の家との距離も近い。
半径百メートルにどれだけ多くの人が住んでいるのか。

にも関らず、いま独りだ、と気づくことが、
スピーカーからの音楽を聴いていて、ときどきある。

この気づく瞬間が好きなのかもしれない。
この気づく瞬間があるからこそ、ながくオーディオをやってきているのかもしれない。

昨日もあった。
昨日は、野上さんのところで、野上さんと聴いていての気づきだった。
野上さんが私の前にいて、音楽を聴いている。

独りだ、と気づいたし、あっ、独りと独りだ、とも気づいた。
野上さんのところは線路から近い。

電車の走る音によって、
そうだ、野上さんの家の周りには、多くの人が歩いていたり、話していたり、
テレビを見ていたりしているわけだ。

電車の音も、聞こえていたはずなのに、
電車の音に気づくのもけっこうな時間が経っていた。

その電車には多くの人が乗っている時間帯なのに、
なんだか誰も乗っていない電車が走っている感じもしていた。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: オーディオマニア

平成をふり返って(その7)

個人情報の保護ということがいわれるようになってから、
病室の入口に、入院している患者の名前のプレートが消えていった。

私が入院していたころは、
どの部屋にどんな名前の人が入院しているのは、
部屋の前を通れば、誰でも知ることが出来た。

個人情報の保護という点では、ネームプレートをなくしたことは間違っていない。
けれど、一方で、患者の取り違えをなくすために、
患者本人に名前をフルネームで、さらに生年月日までいわせるようになっている。

こうすれば患者の取り違えは、まず起らないだろう。
でも、看護婦が患者に、病室の前の廊下で、名前と生年月日をきいているのは、
そばを通っている人の耳には、はっきりと聞こえたりする。

フルネームと生年月日が、第三者に情報が漏れてしまっている。
これで個人情報の保護を行っているつもりなんだろうか。

これがとある大学病院でのことである。
このちぐはぐさはなんだろう、と思う。

個人情報は保護しなければならない、
患者の取り違えは絶対に無くさなければならない。
この二つの重要なことの両立が、
私がたまたま訪れた大学病院ではできていなかった。

(その6)で書いている、昼間でもカーテンを閉めきって、
病室が暗くなっていることも、
入院患者の一人一人が、なんとなくではあるが、
個人情報の保護とプライバシーの確保ということに、
ずいぶん神経質になっているためなのだろうか。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、カセットテープのこと(その6)

218で聴くmp3の音について考えていて思い出すのが、
モーツァルトのレクィエムの補筆に関してのことだ。

五年ほど前に「ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)」で書いている。

私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっているわけだ。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。
未完成なのだから、それは仕方ない。

モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。

補筆のところになった途端に、音楽的差違の激しさにがっかりする演奏がある。
補筆が始まったとわかっても、モーツァルトのレクィエムとして、
最後まで聴ける演奏もある。

そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──
という考えに立てば、前者がハイ・フィデリティな演奏ということになる。

そんなことはわかっている。
でも、そういうモーツァルトのレクィエムを聴きたいのか。
補筆が加わる前で、レクィエムは止める、という聴き方もある。

それがモーツァルトのレクィエムとしての正しい聴き方とは思う。

それでも、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持がある。
そうすると音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。

218でmp3の音の、カセットテープ的な音は、
モーツァルトのレクィエムでいえば、後者の演奏的といえる。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、カセットテープのこと(その5)

写真家の野上眞宏さんのところに、
メリディアンの218が入って、ほぼ一ヵ月。

野上さんによると、mp3の音もいい、ということ。
今日は野上さんのところでいろいろな曲を聴いたあとで、mp3の音源も聴いた。

それまで聴いていた音とは、はっきりと違う。
違うけれど、他の機器で聴くmp3音源の嫌な感じは気にならない。
ない、とさえいいたくなる。

それに音の印象が、実にカセットテープの音の印象そのままに感じる。
高校生のころ、
レコード(アナログディスク)をカセットテープにダビングした音を思い起こさせる。

低音域も高音域もナロウレンジになっている。
ダイナミックレンジも狭くなっている感じがある。

それに不安定とまでいうといいすぎかもしれないが、安定感にはかける。
ふわふわした感じがつきまとうなど、
私がカセットテープに抱いている印象そのままで鳴っている。

悪くない。
これだったら、しばらく聴き続けていられる。ちょっと意外な感じがした。

こんなことを書くと、
MQAは非可逆圧縮、mp3も非可逆圧縮。
非可逆圧縮音源の再生が得意なD/Aコンバーターなんだろう──、
そんなことを言い出す輩がいるはず。

mp3はデータ量が少ないからひどい音で、
ハイレゾ音源のようにデータ量の多いものはいい音で、
そうであってこそハイ_・フィデリティだ──、
つまり二つの音源の違いがはっきり出たほうがいい、というのか。

私はmp3でしか聴けない音源があるのだから、
mp3がカセットテープのような感じでもいいから、
聴いていて苦痛になるような感じが払拭されている218での音は、歓迎する。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(老害、独断と分断・その1)

老害とは、
企業や政治の指導者層の高齢化が進み,円滑な世代の交代が行われず,組織の若返りがはばまれる状態、
と大辞林には、そう書いてある。

オーディオの世界でも、老害について書かれていることを、
SNSでもみかける。
割と多いのではないか、とさえ思うほど、頻繁にそうであったりもする。

それほど熱心にSNSをチェックしなくなったので、
たまたまみかけた、そういう書き込みについての印象でしかないのだが、
この人が指摘している老害は、ほんとうに老害なのだろうか、
と一言返したくなることもないわけではない。

面倒なので返信したりしないのだが、
老害といっておけば、それに賛同する人が必ず現れるというのが、
SNSの、オーディオに関する投稿ではないのか。

五年前に、twitterに、
《年寄りの話をきちんと聞けない、年寄りと会話できない人はオーディオに向いてない、と断言できる。》
と投稿した。

これに数年後、書いたことを忘れたころに返信があった。
見知らぬ人、フォローもしていない人からだった。

そこには、老人の話ばかりを有難がって、
若者の意見に耳を貸さないのは老害である──、
そんなことが書かれてあった。

どんな人なのかは、まったくわからなかったけれど、
おそらく私よりも若い人なのだろう、かなり若い人なのかもしれない。

その人の返信を読みながら、こんなふうにとらえるのか、とがっかりもした。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・その5)

今回、Windowsを触って思うのは、
音楽を聴くためにWindowsは使いたくない、ということを再確認していた。

Windowsを使うのに抵抗のない人はそれでいいのだろうが、
私はどうしても嫌である。

自分のところではいろいろ試すのもいいが、
喫茶茶会記でのaudio wednesdayでは、Raspberry Piの導入を考えはじめている。

Raspberry Piの基板にはI2Sのコネクターがついている。
I2SをSPDIFに変換するドーターボードも、いくつか市販されている。
どちらも数千円で購入できる。
サイズも小さい。

Raspberry Piには以前から興味をもっていたけれど手を出すことはしなかった。
単に面倒がっていただけである。

でも218の喫茶茶会記への導入を機に、Raspberry Piの導入は、
優先順位として高くなりつつある。

Raspberry Piをいじるようになったらなったで、
CDプレーヤーの、なんだかんだいっても完成度の高さを実感するようになるような気がする。

CDプレーヤーは第一世代から、
ステレオサウンドの試聴室でじっくりと触ってきている。

そのころのCDプレーヤーはプログラム再生を試すと、
動作がおかしくなって、電源を一度落さなければならないモデルも、
実を言うといくつかあった。

そういう時代から知っているだけに、
よけいに完成度ということを思ってしまう。

Date: 10月 23rd, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・その4)

先週金曜日に喫茶茶会記に、メリディアンの218その他を導入したとき、
店主の福地さんは旅行中で休みだった。

福地さんが休みのときの店番の女性に、基本的な操作方法を伝えていた。
それでもパソコンを接続しての再生は試していなかった。

今日、喫茶茶会記の開店前に行ってきた。

218には、D/Dコンバーターが、
D/Dコンバーターにはノート型パソコンが接続されていた。

D/Dコンバーターは、FX-AUDIOのFX-D03J+を使用した。

型番末尾に+がつかないモデルもあるが、
サンプリング周波数192kHzに対応できるのは、+がつく方である。

USBバスパワーで動作するモノなんて……、という人がいるのはわかっているが、
サイズも大きくないし、価格も手頃である。

USBバスパワーで満足のいく音が出なければ、その時対処法を考えればいいことで、
最初からUSBバスパワーということだけで、製品そのものを否定はしたくない。

ノート型パソコン(Windows)には、foobar2000がインストールされていた。
私はWindowsもfoobar2000も、どちらも初めて、といっていい。
Windowsはまったくとはいわないが、これまで触った回数は四回程度の短い時間。

それでも、ちょっと設定で迷ってしまったけれど、
192kHz、24ビットまでの再生は問題なくできるようになった。

福地さんも、218のためにiPhoneを購入した、とのこと。
218で、さまざまな音源が楽しめる環境が整いつつある。

Date: 10月 23rd, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、音の量感のこと(その6)

BCIIにしても、LS3/5A、そしてPM510も、
その音を最初に聴いたのは、CDではなくアナログディスクでの音で、だった。

どのスピーカーも、CD以前に登場している。
そういう時代に、これらのスピーカーの音を聴いて、みずみずしい音というものを知った。
知った、といえるし、出逢えた、ともいえる。

これらのなかでLS3/5Aは、いまも人気のあるスピーカーだし、
復刻版や各社から、いくつものLS3/5Aか出ている。

それでも、私が十代のころ体験できた、あのみずみずしい音を、
いまの若い人たちが体験できるのかというと、
周りの状況がずいぶんと違ってきているし、
LS3/5Aも、いまではLS3/5aになって、音そのものの変化もあるだろうから、
なんともいえない。

みずみずしい音の認識、捉え方が違っていても仕方ないのか、と
なかばあきらめもあるが、
それでもみずみずしい音、
私がずっと求めてきているみずみずしい音を、
誰もが聴く機会がもてるようになってほしい。

そこに昨秋、メリディアンのULTRA DACを聴く機会が訪れた。
MQA-CDの音を、ULTRA DACで初めて聴いて、驚くとともに嬉しくなった。

みずみずしい音が、
本音でみずみずしいといえる音が、そこにあったからだ。

ULTRA DACは、喫茶茶会記のスピーカー、
つまりアルテックのユニットを中心としたシステムであり、
私か感じるみずみずしい音を出してくれるスピーカーとは大きく違っている。

それでも、そこからみずみずしい、といえる音が聴こえてきた。

Date: 10月 23rd, 2019
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その20)

小林秀雄が語っている。
     *
美の鑑賞に標準はない、美を創る人だけが標準を持ちます。人間というものは弱いものだね。標準のない世界をうろつき廻って、何か身につけようとすれば、美と金を天秤にかけてすったもんだしなければならぬ。
     *
坂口安吾との対談での発言のはずだ。

《美の鑑賞に標準はない》、
七十年以上前に、すでに語られている。

この項は、『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』に、
「理解についての実感」という副題をつけて書き始めた。

そのきっかけとなったのは、
ステレオサウンド 207号の特集はスピーカーシステムのテストだった。

そこでの柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記に関して、
avcat氏がツイートしたことが始まりである。
一年ほど前のことだ。

そしてステレオサウンドの染谷編集長が謝罪した、とavcat氏のツイートにはあった。
「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その6)』から、
この件について触れている。

この件については、ずいぶん書いてきた。
一年以上経っている。
染谷編集長は、だんまりだ(少なくとも私が目にした範囲では)。

それにしても……、いまだに思う。
avcat氏は、美の鑑賞に標準はある、と思っているのだろう。
しかも自身の美の鑑賞を標準と思っているようにも思える。

《美の鑑賞に標準はない》、
そういうふうに考えたことは、ないのだろう。

もしかすると染谷編集長も同じなのだろう。
だからこそ、avcat氏のツイートにあるのが事実なら、
avcat氏に謝罪する必要などまるっきりないのに、謝罪という行為を選択した。

だとしたら、けっこうおそろしいことのようにも思えてくる。
ステレオサウンドは、美の鑑賞の標準となろうとしているのか……。

Date: 10月 23rd, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、音の量感のこと(その5)

量感の乏しい(貧しい)音で、
みずみずしい音は絶対に出ない、と、
ずっとみずみずしい音を求めてきた私は断言する。

にも関らず、みずみずしい音と表現されることは案外多い。
そんな試聴記をみかけるたびに、みずみずしい音とは? と、
その試聴記の書き手に問いかけたくなる。

そういえば、清楚に関しても同じように感じる。
こちらは音というよりも、清楚な女性という表現をみかけるたびに思う。

清楚な女優、と見出しにあったりすると、ついクリックして見てしまう。
そこに誰かしらの写真が表示される。

たいていは、いまでは、こういう人を清楚というのか、とがっかりする。
別に、そこに表示される写真の人が美しくない、きれいじゃない、ということではなく、
ただただ清楚とは感じないだけである。

私にとっての清楚と感じる女性は、
十代のころ、そう感じた人がいまもつよく記憶に残っているからなのだろう。

四十年前のことだ。
でも、清楚ということは、四十年前も現在も変るようなことではないはず。
なのにずいぶん変った、と感じてしまう。

みずみずしい音も同じなのか、私にとっては。
十代のころ聴いたBBCモニター系列の音、
スペンドールのBCII、ロジャースのLS3/5A(15Ω9、そしてPM510など、
それらの音を聴いて、みずみずしい音を知った、といえるのだから。

現行のスピーカーシステムで、みずみずしい音と表現したくなる音は、
すぐには思い浮ばないのだから、ないといえる。

それはそのころはアナログディスク全盛の時代でもあった。

Date: 10月 22nd, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その20)

エソテリックのデザイン担当者は、音楽好きなのだろうか。
音楽が好きだとして、いったいどんな音楽を聴いているのだろうか。
そして、どんな音楽の聴き方をしているのか。

そんなことを考えてしまうのは、
エソテリックのデザインからは、一切の調和という要素を感じないからだ。

(その19)でも書いているように、しつこくくり返すが、
オーディオというシステムはコンポーネントである。
他社製のオーディオ機器と組み合わせて使われる、ということだ。

エソテリックの製品だけで、音を鳴らすことはできない。
エソテリック聖のCDプレーヤーはある、
トランスポート、D/Aコンバーターもある、
コントロールアンプ、パワーアンプもある。

ここまではエソテリックだけで揃えられる。
けれど肝心のスピーカーシステムは、エソテリック製はない。

エソテリック扱いのスピーカー・ブランドは二つ、タンノイとアヴァンギャルドがあるが、
タンノイのスピーカーとエソテリックでまとめたプレーヤー、アンプ群、
これらのシステムにデザインの調和があるとは、私は感じない。

アヴァンギャルドにスピーカーをかえても、同じだ。
そこになんらかの、わずかでもいい、調和を感じる人はいるのか。

そんなことをおもうから、エソテリックのデザイン担当者は、
音楽に調和ということを感じていない人だと思ってしまう。

少なくともクラシックを聴く人ではないはずだし、
いやクラシックを聴いています、と反論されても、
ずいぶん、というか、私とはまったく違う聴き方をしている人としか思えない。

Date: 10月 22nd, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その14)

どんな時でも、同じ音が、自分のオーディオから鳴っている──、
そう心底思っている人は、まぁオーディオマニアではない、といえる。

いつ聴いても、ウチの音はいい音だ、
そう思い込んでいられる人は、シアワセだ。

そういう人にとって「音は人なり」を、重たく感じることはないはず。

けれど、実際は同じ音、さらにはずっといい音が鳴っているわけではない。
これ以上美しい音はないのでは……、
そんなふうに思える音が鳴る時がある。

そういう時であれば「音は人なり」は、
これ以上ない讃美のことばとして、受け止められる。
昔の人は、いいことをいったなぁ、と思うことだろう。

でも、それはずっとは続かないどころか、
あっさりと消えてしまったりする。
消えてしまうどころならば、まだいい。

どうして、こんなひどい音しか鳴らないのか、そう嘆く日もある。
そういう時も「音は人なり」である。
「音は人なり」を正面から受け止めなければならない。

箸にも棒にもかからない、そんなふうに表現するしかない音であっても、
どこまでも「音は人なり」はついてまわる。

都合のいいときだけの「音は人なり」ではない。

Date: 10月 22nd, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その13)

自己模倣から逃れられない──、
そうみえるオーディオマニアがいる。

私が勝手にそう想っているだけで、
他の人からみればそんなことはない、ということになることだってあるし、
当の本人にしてみれば、たとえそうであったとしても、よけいなお世話ということになる。

どこそこの誰が、自己模倣のまま、と指摘したいわけではない。
考えているのは、なぜ自己模倣をしてしまうのか。

別項「続・何度でもくりかえす」で、
無為に耐えられないから、ついつい手を出してしまう、と書いた。

とにかく、なにかあるとどこかいじっている人がいる。
時には屋上屋を重ねる的なことを、何度もくり返している人がいる。

もう少し、じっくり腰を落ち着けて音楽を聴いてからでも、
オーディオをいじるのは遅くないどころか、
昔からいわれているように、そのほうが確実である。

にもかかわらず、ここを変えたら……、
そんなことをずっと言っているオーディオマニアがいる。

そういう人たちは、無為に耐えられないのだろう、と思っている。

自己模倣の人たちも、同じに思う。
無為に耐えられない人なのだろう、と。

Date: 10月 22nd, 2019
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その27)

真空管アンプではどうしても不可欠になってしまうトランス類、
これらをどう配置して、どう取り付けていくのかについて、
こまかく書いていこうとすると、どこまでも細かくなってしまうほど、
やっかいな問題といえる。

それに真空管アンプを自作される人ならば、
こうやって文章だけで伝えてもイメージされるだろうが、
自作されない方のなかには、なかなかイメージしにくいと思われている方もいるのではないか。

ここまで書きながら、もう少し具体的に、
もう少しイメージしやすいようにしたい、と考えていた。

なので、過去の真空管アンプで、
私が考える現代真空管アンプに近いモデルはあっただろうか、とふり返ってみた。

マランツの管球式アンプ?
マッキントッシュ?

いくつかのブランド名とモデル名が浮びはするが、
どれも違うな、と思う。

結局、QUADのIIが、意外にも、
私が考える現代真空管アンプに近いようにも感じている。

ここで考えている現代真空管アンプとは、
あくまでも自分の手でつくれる範囲において、である。

加工機械を駆使して、金属ブロックからシャーシーを削り出して──、
そういうことまでは、ここでのテーマではない。

もちろん理想の現代真空管アンプとは? ということは考えながらも、
個人でつくれる範囲に、どうもってくるのか。
それもテーマの一つである。

そういう視点で眺めてみると、
QUAD IIというモデルこそが、という想いが確固たるものになってくる。