MQAのこと、カセットテープのこと(その6)
218で聴くmp3の音について考えていて思い出すのが、
モーツァルトのレクィエムの補筆に関してのことだ。
五年ほど前に「ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)」で書いている。
私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっているわけだ。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。
未完成なのだから、それは仕方ない。
モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。
補筆のところになった途端に、音楽的差違の激しさにがっかりする演奏がある。
補筆が始まったとわかっても、モーツァルトのレクィエムとして、
最後まで聴ける演奏もある。
そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──
という考えに立てば、前者がハイ・フィデリティな演奏ということになる。
そんなことはわかっている。
でも、そういうモーツァルトのレクィエムを聴きたいのか。
補筆が加わる前で、レクィエムは止める、という聴き方もある。
それがモーツァルトのレクィエムとしての正しい聴き方とは思う。
それでも、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持がある。
そうすると音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。
218でmp3の音の、カセットテープ的な音は、
モーツァルトのレクィエムでいえば、後者の演奏的といえる。