世代とオーディオ(埋められないのか・その1)
ひとつ前の「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」へのコメントがfacebookであった。
コメントの内容をここでは引用しないが、
「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」での毒についての捉え方が、
読む人によって、こうも違ってくるのか、と感じている。
コメントをくれた人は若い。まだぎりぎり20代である。
そうなると、これまで聴いてきたオーディオ機器は、その若い人と私とでは大きく違っていよう。
数も違えば、内容も違う。
違って当然である。
けれど聴いてきた音によって、培われるところがある以上、
ここに世代の違いを感じてしまう。
世代の違いが生じるのが悪いわけでもないし、それだから面白いところもあるわけだが、
それでもオーディオの毒、音の毒、そういったことでの毒の捉え方そのものに違いを感じてしまうと、
こちらの文章力の未熟さは棚上げして、埋められないものがあるのを、感じてしまう。
これは「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」だけではない。
EMTの930stについて、そのことを最近強く感じて書いている。
いくら930stについて書いても、ある世代より下の人たちは、
930stの音を聴いていない人が圧倒的に多い。
それでも930stというプレーヤーというモノは、中古であれば残っている。
けれど、そういう中古の930stを聴いて、どれだけきちんとしたところが伝わるのか、と思うからだ。
程度のいい930stを聴く機会は、稀であってもあろう。
それでも、どの時代に聴いてきたのか、どの年齢で聴いてきたのか、
そういったことによっても感じとれるものは違ってくるはずだ。
それに私と同世代であっても、930stを同じ場所で同じ音を聴いても、
人によってこんなに感じ方、捉え方が違うのか、と驚くことはある。
そういう驚きとは反対に、こうも一致するのか、という驚きも、またある。
だから一概に世代の違いだけを理由にしてはいけないことはわかっている。
それでも、毒の捉え方の違いは、また別のところにある問題のようにも感じている。