「オーディオのデザイン論」を語るために(その1)
ステレオサウンドはあと二年で200号になる。
季刊誌で年四冊出ているから、50年。
このことは素直にたいしたものだと思う。
でも、いま48年、あと二年あるとはいえ、
200号までにステレオサウンドでオーディオのデザイン論が語られるとは思えない。
このオーディオのデザイン論こそが、ステレオサウンドがやってこなかったこと、やり残してきたことだ。
一時期、素人によるデザイン感的な文章が連載となっていた。
デザイン論とはとうてい呼べないものだった。
ほんとうにひどい、と思っていた。
その連載が終了して、デザインについてある人と話していた時に、この記事のことが話題になった。
「ひどい記事だったね」とふたりして口にしていた。
あれを当時の編集部はデザイン論と勘違いしていたのか。
私がいたときも、オーディオのデザイン論についての記事はつくっていない。
だからエラそうなことはいえないといえはそうなるけれど、いまは違うとだけはいえる。
瀬川先生もいなくなられてから、まともにオーディオのデザイン論は語られていない。
川崎先生の連載もわずか五回で終了してしまっている。
このことは以前も書いている。
それでも、またここで書いておきたい。
そのくらいに「オーディオのデザイン論」は大事なことであり、
これを蔑ろしていては、おかしなことになっていく。
すでにおかしなことになっているオーディオ機器もいくつか世に出ている。
200号は50歳である。
50歳は、もういい大人であるはずだ。
オーディオのデザイン論が語れる大人になっていなければならない。
ステレオサウンドはなれるのか(なってほしいのだが……)。