Date: 3月 17th, 2019
Cate: High Resolution
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MQAのこと、録音のこと

2017年をふりかえって(その10)」でも指摘しているが、
ハイレゾリューション(High Resolution)というよりも、
ハイアーレゾリューション(Higher Resolution)といえる録音には、
どこかドキュメンタリー的になりつつあるように感じることがある。

もちろんすべてのハイアーレゾリューションといいたくなる録音を聴いているわけではないし、
いままで聴いたその種の録音のすべてがそうだとはいわないが、
それでも録音が、スタジオプロダクトからドキュメンタリー色を強めていくのか──、
そんな危惧がある。

人によっては、そのことを危惧とは捉えないかもしれないが、
私は別項「録音は未来/recoding = studio product」を書いているように、
録音は、はっきりとスタジオプロダクト(studio product)と考える。

スタジオプロダクトとしての録音は、主観的、音響心理的方法といえる色合いがある。
誤解しないでほしいのは、スタジオプロダクトといえる録音が、
100%主観的であり、音響心理的方法だけから成り立っている、というわけではない。

それでもドキュメンタリーとしての録音が、客観的、物理的な方法といえる色合いが濃いのに対して、
スタジオプロダクトはそうではない、と私は捉えている。

これについては別項で書いていくので、ここではこれ以上深くは触れないが、
MQAをとにかく否定している人たち(すべてとはいわないが)は、
どこか録音をスタジオプロダクトというよりもドキュメンタリーとして捕えているのではないか。

そのことすら意識していないのかもしれないが。

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