MQAのこと、録音のこと
「2017年をふりかえって(その10)」でも指摘しているが、
ハイレゾリューション(High Resolution)というよりも、
ハイアーレゾリューション(Higher Resolution)といえる録音には、
どこかドキュメンタリー的になりつつあるように感じることがある。
もちろんすべてのハイアーレゾリューションといいたくなる録音を聴いているわけではないし、
いままで聴いたその種の録音のすべてがそうだとはいわないが、
それでも録音が、スタジオプロダクトからドキュメンタリー色を強めていくのか──、
そんな危惧がある。
人によっては、そのことを危惧とは捉えないかもしれないが、
私は別項「録音は未来/recoding = studio product」を書いているように、
録音は、はっきりとスタジオプロダクト(studio product)と考える。
スタジオプロダクトとしての録音は、主観的、音響心理的方法といえる色合いがある。
誤解しないでほしいのは、スタジオプロダクトといえる録音が、
100%主観的であり、音響心理的方法だけから成り立っている、というわけではない。
それでもドキュメンタリーとしての録音が、客観的、物理的な方法といえる色合いが濃いのに対して、
スタジオプロダクトはそうではない、と私は捉えている。
これについては別項で書いていくので、ここではこれ以上深くは触れないが、
MQAをとにかく否定している人たち(すべてとはいわないが)は、
どこか録音をスタジオプロダクトというよりもドキュメンタリーとして捉えているのではないか。
そのことすら意識していないのかもしれないが。