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Date: 11月 1st, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(菅野沖彦・保柳健 対談より・その2)

「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」での菅野先生の発言は、
レコード演奏という行為は、再生側だけの行為でなく、
録音側においても同じであることがうかがえる。
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菅野 録音するというのも、まず、自分の気に入った楽器で、気に入った演奏家でないと、全くのらないわけです。まあ、録音というのは、ある程度メカニックな仕事ですから、のらなくても、それは仕事が全然できないという意味ではないのですが、わがつまかもしれていが、我慢できないのです。
保柳 あなたの場合、録音するということがプレイするというような……。
菅野 それなんですよ。甚だ失礼ないい方をしますとね、演奏家を録音するというのと違うんですね。誤解されやすいいい方になってしまうのですが、録音機と再生機を使って自分で演じちゃうようなところがあるのです。
保柳 やはりね。どうもそんな感じがしていたのです。菅野さんは、おそらく、そういう録音をして作ったレコードにたいへんな愛着を持っているのではないですか。
菅野 それはね、実際にそこで演奏しているのは演奏家なのですけれど、自分の作ったレコードは、あたかも自分で演奏しているような、つまり演奏家以上に、私の作ったレコードに愛着を持っているんではないかと思われるくらいなんです。
     *
ステレオサウンド 47号に掲載されているから、いまから39年前のことであり、
菅野先生もまだレコード演奏家論を発表されていなかった。

「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」という対談は、
当時読んだときよりも、いま読み返した方が、何倍もおもしろく興味深い。

保柳健氏については、47号掲載の略歴を引用しておく。
     *
 文化放送ディレクターとして出発。各種番組に手をそめ、後に独立。わが国で初めての放送音楽プロダクション:を創設。音楽中心に、ルポからドラマまで幅広い番組制作を行う。現在はフリーのプロデューサーであり、ライターである。氏と同年代で、常になんらかの係り合いを持ってきた人たちに、菅野沖彦氏、レコード・プロデューサー高和元彦氏、オーディオ評論の若林駿介氏などがいる。保柳師の言葉をかりれば、「われわれはどういうわけか、現場から離れられない」。と、いう昭和ひとけた生まれである。
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「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」がおもしろいのは、
保柳氏だから、ということが大きい。

録音という仕事を長年されながらも、
菅野先生と保柳氏は、立ち位置の違いがはっきりとあることが、
「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」を読んでいくとわかるし、
その違い(コントラスト)があるからこそ、
菅野先生の録音へのアプローチが、はっきりと浮び上ってくる。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その2)

「レコード落語百席」の数ページあとに、
特別インタビュー「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」がある。
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レコードというものは、コンサートホールでの演奏をできるかぎり忠実に再現することが、第一の目的であるのか、それともレコードならではの演奏というか、演奏再現を主体的に考えてレコーディングすべきなのか、ヴィルモースさんのご意見をうかがわせてください。
ヴィルモース 私は、生演奏とレコードの演奏とはまったく違うものだと考えています。そして生演奏をそのままレコードに忠実に写しかえるということは、ルポルタージュとしての意味しかないでしょう。たしかに優れた演奏のライヴ・レコードは、きわめてエキサイティングなものですが、それはその瞬間を捉えたからであって、いいかえるとその瞬間がきわめてエキサイティングなものだったわけで、レコードそのものかエキサイティングであるというわけではありません。たとえばフリッツ・ブッシュがベートーヴェンの第九番を指揮しているライヴ・レコードは、たいへんすばらしいものですが、それはその夜のブッシュの指揮のすばらしさということ、つまりはその夜の優れたルポルタージュということなんですね。そしてそれは、いま私たちが〈レコード〉と呼んでいることと、少し違っているわけです。
 レコードは、先ほどもいいましたが、生演奏の裡に生きているものを殺してはならない、ということがまず第一に必要ですが、だからといってルポルタージュにとどまってもならないのです。優れたレコードはが追求しているものは、たとえばカラヤンやベームの、ある作品に対する解釈がどんなものであるのか、ということだと思います。そして聴きては、同じ曲の違った演奏を聴き比べて、それぞれの演奏家の解釈の違いを知ってゆくことに興味をおぼえてゆくはずです。
 それからコンサートでは、ごく少数の例外をのぞいて、そのコンサートのはじめから終りまで通して、精神を集中したままで演奏を行なうというのは不可能でしょう。どこかで息抜きして、とくに難しい場面にそなえるということは、よく見受けられます。これは技術的にということではなく、心理的にそうした緊張感の連続に耐えられないからですね。
 しかしレコードでは、そうした緊張感をずっと持続させることが可能です。そうした精神の集中させた演奏の持続ということは、レコードならではのものではないかと思います。そういった精神の集中とか緊張の感覚というものは、コンサートホールでよりも、レコードでのほうがより大きく強く出ると思いますね。
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「レコード落語百席」と「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」が、
ステレオサウンド 37号に載っているのは偶然なのだろうが、
それにしても、単なる偶然では片付けられない一致が、読みとれる。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その1)

圓生百席」という録音物(レコード)がある。
1970年代前半から録音がスタートして、十年までいかないが、けっこうな年月をかけて完成された。
CBSソニー(現ソニーミュージック)からLPで発売され、
いまもCD(116枚+特典CD2枚)として発売されている。

ステレオサウンド 37号の音楽欄に、「レコード落語百席」という記事が載っている。
CBSソニーの京須偕充氏による「圓生百席」の録音に関する話だ。

いまもむかしも、落語に強い関心は持っていないため、
ステレオサウンドにいるときも、37号の他の記事は読んでいても、
この「レコード落語百席」は読まずじまいだった。

さきほど調べもののため37号を開いていた。
いまごろ「レコード落語百席」を読み終えた。

ひところステレオサウンドは、バックナンバーを編集したムックを出していた。
オーディオ機器中心、オーディオ評論家中心の内容だから、
「レコード落語百席」のような記事は、そういったムックに収録されることは、まずない。

もったいない、とおもう。
全文を掲載したいところだが、そうもいかないので、最後のところだけを引用しておく。
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 こういう苦心はひとくちではいえないから、つい黙っていると、「いくらよく出来ていても、テープ編集したものは死んだ芸だ」とか、「客の笑いをともなわい落語は落語にあらず」というような批判をあびせられる。ほめてくれるひとでも、じつをいうと、客の反応がきこえないのが寂しい、とつけくわえる。祝宴のつもりがお通夜になったといいたげなのだ。
 無理もないことかもしれない。落語は実演の枠を出たことがほとんどないのだ。落語が今日ほどに普及したのは、戦後のラジオ放送のお陰だが、それはほとんど例外なしに公開録音、寄席中継だった。落語家をお座敷によんで、結構な酒食とともに、サシ同然で一席楽しむ──そんなぜいたくのできるひとは、世の中にひとにぎりもいない。だからラジオのお陰で、茶の間で落語をきく習慣ができたということは、会場のお客と一緒にきくという錯覚を楽しむ習慣ができたことなのだんた。インスタント・ホーム寄席。そして、たいがいの落語ファンは、レコードも実演の代用品としてきこうとしている。レコードもまた、インスタント・ホーム寄席なのだろう。
 私も当初は迷い、おおかたのお客の好みに合わせようかと思った。しかし圓生師は、かたくなにスタジオ制作を主張した。実演は実演、レコードはレコード、中途半端はいやだというわけだ。
「実演をそのままレコードにするのはいやですねえ。実演とレコードとでは、あたくしの考えでは、演出を変えなくてはいけないと思うんです。実演だってお客様が千人のとき、百人(いっそく)のとき、それぞれやり方を変えています。実演のウソてェこともあるんですよ。たとえば内緒話の描写ですが、リアルにやったら、うしろのお客様にはきこえません。だから内緒話らしくやるんです。実演はそれでいいんです。ですがレコードならリアルなひそひそ声でやるべきでしょう。実演をそのままレコードにすると、そういうところが大味になるはずなんです。ですから実演とレコードは一長一短、そもそもは別ものなんで比較は出来ませんよ。レコードはレコードらしく、いいものにしようじゃありませんか。とにかくこわいものですよ、あたくしが死んでもレコードはのこる。」
 徹底的にスタジオでいこう、と私は思った。あるひとが、レコードをきいていってくれた。圓生師匠が自分ひとりのために、サシでやってくれているようなきぶんになり、心おきなくききこめる。登場人物や情景のイメージものびのびとひろがって、これまで気がつかなかった芸のうまみや奥行きがわかってきた、と。
 こういうひとがひとりでもいてくれれば、「レコード落語」も浮かばれるというものだ。
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音楽と落語は同一視できない面もある。
それは音楽の録音、落語の録音についてもいえようが、
それでも「レコード落語百席」は、完成度ということについても考えるきっかけを与えてくれる。

Date: 5月 5th, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(トスカニーニの場合)

トスカニーニがNBC交響楽団と録音したものは、ほぼすべてがモノーラルである。
しかもそれらスタジオでのモノーラル録音のすべて(といっていいだろう)が、
残響を徹底的に排除した、ともいえる録り方である。

結局、それはモノーラルだったからではないのか。
ステレオ録音がもう数年ほど早く実用化されていたら、
トスカニーニがあと数年、現役を続けていて録音を残していれば、
あそこまでドライな録音ではなかったはすである。

トスカニーニは、確かに録音において残響を嫌っていた。
それは演奏の明晰さを、モノーラル録音・再生において損なわないためだとして、
再生側で、トスカニーニの意図通りに再生するには、
デッドなリスニングルームで、間接音をできるだけ排除して、
直接音主体であるべきなのか、というと、どうもそうではないようである。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
トスカニーニは部屋の四隅に大型のコーナー型スピーカーを配置してレコードを聴いていた、という。
トスカニーニは1957年に亡くなっているから、
トスカニーニの、この大がかりなシステムは、モノーラルと考えられる。

モノーラルで、四隅に設置されたコーナー型スピーカーを同時に鳴らす。
残響を嫌った録音とは異るアプローチの再生である。

Date: 12月 9th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続々・吉野朔実の死)

駅の改札を出ると、その奥に書店がある。
ふだんは帰り道にある別の書店に寄ることが多い。

この書店には数えるほどしか寄っていない。
今日はふと寄ってみた。
さほど広い書店ではない。
一周するのにも時間はかからない。
そのまま出ようと思っていたが、
レジの近くに平積みになっているコーナーを見てから帰ろう、と思い直した。

目に留った装丁の本があった。
なんだろう、と手にとった本は、吉野朔実の、今日発売になったばかりのものだった。
いつか緑の花束に」だった。

帯には「吉野朔実から、あなたへ。」とある。
おそらく、これが吉野朔実の最後の本なのだろう。

これだけだったら、ここで書くつもりはなかった。
「いつか緑の花束に」には、未公開ネームが収録されている。

ネームとは、マンガになる前のいわばスケッチ的なもので、
コマやセリフの割振りが割に描かれている。

本は印刷されたものだから、それは肉筆ではない。
でも収録されているネームを読んでいると、どこか肉筆に近いといいたくなるものを感じる。

この肉筆とは、録音・再生の系では何になるのか。
そんなことを考えていた。

Date: 7月 11th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続・吉野朔実の死)

2002年10月から2003年12月いっぱいまで、渋谷区富ケ谷に住んでいた。
最寄りの駅は小田急線の代々木八幡だった。

まだ高架になっていない。
踏み切りがある。駅も古いつくりのままである。
私鉄沿線のローカル駅の風情が残っている、ともいえる。

電車が通りすぎるのを待つ。
踏み切りが開く。視界の向うには階段がある。
山手通りへと続いている階段だ。

この風景、どこかが見ている。
どこで見たんだろう……、と記憶をたどったり、
手元にある本を片っ端から開いていったことがある。

ここで見ていたのだ、とわかったのは数ヵ月後だったか。
吉野朔実の「いたいけな瞳」の、この踏み切りがそのまま登場しているシーンがある。
一ページを一コマとしていた。(はずだ)。
印象に残っているシーン(コマ)だった。

「いたいけな瞳」は最初に読んだ吉野朔実の作品であり、
最初に買った吉野朔実の単行本だった。

あの風景は現実にあるのか。
記憶と毎日見ている踏み切りと階段の風景が一致したときに、そう思った。

今日ひさしぶりに小田急線に乗っていた。
代々木八幡駅を通りすぎるとき、この風景は目に入ってきた。

そうだった、吉野朔実はもう亡くなったんだ……、と思い出していた。

オーディオとは直接関係のないことのように思えても、
記録、記憶、録音、それから別項のテーマにしている憶音などが、
この風景と吉野朔実とに関係していくような気がした。

Date: 5月 3rd, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(吉野朔実の死)

うたたねから起き、手にしたiPhoneで目にしたニュースは、かなり衝撃だった。
「漫画家の吉野朔実さんが死去」とあったからだ。

人は必ず死ぬものである。
こうやって書いているあいだにも、世界のどこかで誰が亡くなっている。
その人のことを、その人の名前も何も、私が知らないというだけで、
誰かがつねに、世界のどこかで亡くなっている。

今年も少なからぬ著名人が亡くなっている。
音楽関係において、もだ。

衝撃を受けることもあれば、それほどでもないときもある。
ただどちらにしても、喪失感はそれほど感じていない。

他の人はどうなのかわからないが、
私は、熱心に聴いてきた演奏家が亡くなっても、衝撃をうわまわるような喪失感は感じてこなかった。

けれど吉野朔実の死には、衝撃だけでなく喪失感が強かった。
手塚治虫のときもそうだった。

音楽もマンガも同じところがある。
オリジナルとなるものがあり、それの大量複製を手にしている、という点だ。

違いもある。
本はそのまま読める。
読むための特別な機器を必要とはしない。
視力がかなり悪い人は補うものを必要とするが、それは複雑なものではない。

レコード(録音物)はそうではない。
オーディオという、かなり複雑なシステムを介在させなければ聴くことはできない。

この決定的な違いが、私にとって喪失感につながるかどうかに大きく関係しているように、
吉野朔実の死を知って、考えたことだった。

あらためて「録音は未来」だと思う……

Date: 3月 31st, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(DAM45)

数日前に書いたDAM45
このレコードの録音は、どちらなのだろうか。

レコードに惚れこんでいるところからスタートして行われた録音なのか、
音源に惚れこむところからスタートしての録音なのか。

私には前者のように感じられる。

Date: 3月 30th, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(菅野沖彦・保柳健 対談より・その1)

ステレオサウンド 47号から始まった「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」。
菅野先生と保柳健氏による対談がある。

最初読んだ時は、面白いんだけどよくわからない、という面も多々あった。
当時高校一年で、オーディオの経験も浅いし、録音というものもよくわかっていなかったのだから、
あたりまえといえばそうなのだが、
それでもこの対談はじっくり読むべきものだということはわかっていた。

48号で保柳健氏が、こう語られている。
     *
保柳 ははあ、ここで、あなたと私の根本的な違いがわかってきました。菅野さんは、レコードに惚れこんでいるところからスタートしているんです。私は音源に惚れこむところからスタートしています。それをどう再生するかというところで再生にきた。
菅野 私のは、フィードバックなんです。
     *
録音を仕事としている人は大勢いる。
著名な人も少なくない。
彼らのなかで、菅野先生と同じでレコードに惚れこんでいるところからスタートした人の割合は、
どのくらいなのだろうか。
録音を仕事としている人の多くは、保柳健氏と同じで、
音源に惚れこむところからスタートした人が、多そうな気がする。

あくまでも気がする、という感じだ。
調べたわけではないし、そういうことに触れた記事を読んだこともない。

とはいえ、この違いは録音を考えていくうえで、ひじょうに興味深いことではないだろうか。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(2020年東京オリンピック)

私はアーティストには用はない
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グレン・グールドがこういっている。

2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動。
盗用なのかそうでないのか、他のデザインはどうなのか──、といったことよりも、
佐野研二郎氏を擁護している人たちの発言を目にするたびに、
このグレン・グールドの「アーティストには用はない」を思い浮べてしまう。

先日も、ある人が発表したエンブレムに対しての、この人たちの発言を目にした。
この人たちの多くは、アートディレクターもしくはアーティストと自称しているし、
まわりからもそう呼ばれているようだ。

グレン・グールドがいっている「岩山に群がる猿」、
「高い地位、高い階層を目指そうとする」猿そのもののように、どうしても映ってしまう。

この人たちも、グレン・グールドを聴いていることだろう。
そして、この人たちはグレン・グールドのことをアーティストと呼ぶのだろう。

だがグレン・グールドは「アーティストには用はない」といっているのだから、
自身のことをアーティストだとは思っていなかったはず。

グレン・グールドはピアニストではあった。
けれど指揮も作曲もしていたし、ラジオ番組の制作もやっていた。

ピアニストという枠内に留まっていなかった。
音楽家という枠内にも留まっていなかった。

グレン・グールドが行っていたのは、
スタジオでのレコーディングであり、それはスタジオ・プロダクトであり、
グレン・グールドはスタジオ・プロダクト・デザイナーであった。

グレン・グールドは、アーティストとデザイナーの違いをはっきりとわかっていた。
だから「アーティストには用はない」。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その4)

1992年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書いた。
グールドの没後10年目だから書いた。

22年が経って、1992年の「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」には欠けているものに気づいた。

録音、それもグレン・グールドが認めるところのスタジオ録音(studio productとはっきりといえる録音)、
それをデザインの観点からとらえていなかったことに気づいた。

そのことをふまえてもう一度「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書けるのではないか、
そう思いはじめている。

いつ書き始めようとか、そんなことはまだ何も決めていない。
それに、この項もまだまだ書いていく。
ただ、書けるという予感があるだけだ。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その3)

studio productとはっきりといえる録音は、デザインである。
このことに気づいて、グレン・グールドがコンサートをドロップアウトした理由が完全に納得がいった。

グレン・グールド自身がコンサート・ドロップアウトについては書いているし語ってもいる。
それらを読んでも、はっきりとした理由があるといえばあるけれど……、という感じがつきまっとていた。

グレン・グールドが録音=デザインと考えていたのかどうかは、活字からははっきりとはつかめない。
けれどグールドには、そういう意識があったはず、といまは思える。
だからこそ、デザインのいる場所のないコンサートからドロップアウトした、としか思えない。

確かグールドはなにかのインタヴューで、
コンサートでの演奏は一瞬一瞬をつなぎあわせている、といったことを発言している。

それが聴衆と演奏者が一体になって築くもの、つまりは芸術(アート)だとするならば、
スタジオでの録音は、それもグレン・グールドのようなスタジオ・アーティストによるものは、
アートと呼ぶよりもデザインと呼ぶべきではないのか。

グールドは、こうもいっていた。
     *
私はアーティストには用はない。
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グールド以外のすべての演奏者がそうだといいたいのではない。
ただグレン・グールド自身はアーティストとは思っていなかったのかもしれないし、
呼ばれたくもなかったのだろう。

それはなぜなのか。
デザインということだ、と私は思う。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その2)

グレン・グールドはコンサート・アーティスト、スタジオ・アーティストと言っていた。
無論グールドは後者である。

前者がコンサートホールでの演奏を録音したものと、
後者が、studio productを理解しているスタッフと録音したもの。

後者の録音は、デザインであるはずだ。

Date: 10月 9th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その1)

別項「オーディオマニアとして」で、グレン・グールドの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」について触れている。

ここでの録音、つまりグレン・グールドが指している録音とは、studio productである。

studio productといっても、何も録音場所がスタジオでなければならない、ということではもちろんない。
ホールで録音しても、教会で録音しようとも、studio productといえる録音もある。

スタジオで録音したから、すべてがstudio productというわけでもない。
studio productとは、録音によって解釈を組み上げる行為、その行為によってつくられるモノであり、
録音をstudio productと考えていたのはグレン・グールドだけでなく、
カラヤンもそうであるし、ショルティもそうだ。

studio productだから、生れてくる「モノ」がある。