Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音
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録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その2)

「レコード落語百席」の数ページあとに、
特別インタビュー「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」がある。
     *
レコードというものは、コンサートホールでの演奏をできるかぎり忠実に再現することが、第一の目的であるのか、それともレコードならではの演奏というか、演奏再現を主体的に考えてレコーディングすべきなのか、ヴィルモースさんのご意見をうかがわせてください。
ヴィルモース 私は、生演奏とレコードの演奏とはまったく違うものだと考えています。そして生演奏をそのままレコードに忠実に写しかえるということは、ルポルタージュとしての意味しかないでしょう。たしかに優れた演奏のライヴ・レコードは、きわめてエキサイティングなものですが、それはその瞬間を捉えたからであって、いいかえるとその瞬間がきわめてエキサイティングなものだったわけで、レコードそのものかエキサイティングであるというわけではありません。たとえばフリッツ・ブッシュがベートーヴェンの第九番を指揮しているライヴ・レコードは、たいへんすばらしいものですが、それはその夜のブッシュの指揮のすばらしさということ、つまりはその夜の優れたルポルタージュということなんですね。そしてそれは、いま私たちが〈レコード〉と呼んでいることと、少し違っているわけです。
 レコードは、先ほどもいいましたが、生演奏の裡に生きているものを殺してはならない、ということがまず第一に必要ですが、だからといってルポルタージュにとどまってもならないのです。優れたレコードはが追求しているものは、たとえばカラヤンやベームの、ある作品に対する解釈がどんなものであるのか、ということだと思います。そして聴きては、同じ曲の違った演奏を聴き比べて、それぞれの演奏家の解釈の違いを知ってゆくことに興味をおぼえてゆくはずです。
 それからコンサートでは、ごく少数の例外をのぞいて、そのコンサートのはじめから終りまで通して、精神を集中したままで演奏を行なうというのは不可能でしょう。どこかで息抜きして、とくに難しい場面にそなえるということは、よく見受けられます。これは技術的にということではなく、心理的にそうした緊張感の連続に耐えられないからですね。
 しかしレコードでは、そうした緊張感をずっと持続させることが可能です。そうした精神の集中させた演奏の持続ということは、レコードならではのものではないかと思います。そういった精神の集中とか緊張の感覚というものは、コンサートホールでよりも、レコードでのほうがより大きく強く出ると思いますね。
     *
「レコード落語百席」と「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」が、
ステレオサウンド 37号に載っているのは偶然なのだろうが、
それにしても、単なる偶然では片付けられない一致が、読みとれる。

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