老いとオーディオ(青春の一枚)
別項で、ケイト・ブッシュの“THE DREAMING”を青春の一枚だった、と書いた。
だった、と過去形で書いた。
だった、としたことを取り消そうとしたいわけではない。
“THE DREAMING”は、私にとって青春の一枚だったことは確かだ。
けれど書きながら、
3月6日のaudio wednesdayで“THE DREAMING”を聴いてきた心境を思い出してみれば、
“THE DREAMING”をこういう音で、この歳になっても鳴らせるのか、と思っていたのは事実である。
50をすぎて枯れてしまった、枯れてきている音ではなかった。
実というと、ほかの人よりも、ほかならぬ私自身が、
“THE DREAMING”を最初の曲から聴きはじめたものの、
途中でお腹いっぱいになったように感じてしまうのではないか──、
わずかではあっても、そんな気持があった。
一曲目の“SAT IN YOUR LAP”の冒頭の、あの鞭打を思わせる音を聴いた瞬間から、
もうワクワクしていた。
“THE DREAMING”はどれだけ聴いたか、もうわからない。
“SAT IN YOUR LAP”もどれだけ聴いたろうか。
だから、もしかするともう条件反射のようなものなのかもしれない。
“SAT IN YOUR LAP”の音を聴いただけで、
“THE DREAMING”の世界に入りこめるような錯覚があるのだろうか。
一曲目の“SAT IN YOUR LAP”から二曲目の“THERE GOES A TENNER”を聴いているときには、
老いの実感なんて、その瞬間には関係なくなっていた。
最後の三曲、
“ALL THE LOVE”、“HOUDINI”、“GET OUT OF MY HOUSE”では、
どっぷりケイト・ブッシュの世界だけでなく、
“THE DREAMING”を夢中になって聴いていた、
そして少しでもいい音に、ということで夢中になっていたころとすっかり同じ心境だった。
だからこそ「青春の一枚だった」と書いてしまったのか。