AXIOM 80について書いておきたい(その17)
AXIOM 80には毒がある、と(その16)でも書いているし、
他でも何度か書いている。
別項「ちいさな結論(「音は人なり」とは)」では、毒をもって毒を制すことについて書いた。
オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なり毒がある。
それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。
それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である──、
そう書いている。
毒から目を背けるオーディオマニアが、いまは大半なのでは……、とそう感じることが増えつつある。
だからこそ、毒を持たない(きわめて少ないと感じられる)スピーカーが、高評価を得る。
長島先生がジェンセンのG610Bからの最初の音を「怪鳥の叫び」と表現されたが、
もう、この「怪鳥の叫び」が本当に意味するところを理解できるオーディオマニアは少数かもしれない。
それが技術の進歩がもたらす時代の変化(音の変化)というぐらいのことは理解できないわけではない。
けれど、そういったスピーカーで、(その15)で書いた「我にかえる」ことにつながっていくだろうか、という疑問が私のなかにはある。
しかもそれが強くなってきている。