基本すぎることだけど、あえて
オーディオの試聴は楽しい。
試聴には必ず接続をしたり外したりする。
アンプの電源が切ってあれば、どうやろうと問題ないといえば確かにそうだ。
それでも習慣として、接続する際には入力から先にして、出力を接ぐ。
接続を外すときには、その逆、出力を外して入力を外す。
これは無意識でそうするようにしておきたい。
電源が入っていないからといって無造作にやっていると、いつか痛い目にあうかもしれないからだ。
オーディオの試聴は楽しい。
試聴には必ず接続をしたり外したりする。
アンプの電源が切ってあれば、どうやろうと問題ないといえば確かにそうだ。
それでも習慣として、接続する際には入力から先にして、出力を接ぐ。
接続を外すときには、その逆、出力を外して入力を外す。
これは無意識でそうするようにしておきたい。
電源が入っていないからといって無造作にやっていると、いつか痛い目にあうかもしれないからだ。
8月のaudio sharing例会は「新月に聴くマーラー」。
9月7日の例会も音出しに決っている。
ゲストをお招きしての音出しで、
既製品ではないオーディオ機器を中心としたものになる。
8月の「新月に聴くマーラー」が終っていないので、
混同されるのを避けるためにこまかいことはまだ書かないが、
これまでの音出しとは違った面白さがあると、私自身も楽しみにしている。
マークレビンソンのNo.29、チェロのEncore Powerが登場した時期は、
パワーアンプのハイスピード化が音質向上につながる、といったことがよくいわれていた。
電源の平滑コンデンサーは、だから大容量よりも小容量のほうが有利だし、
音のにじみをなくすために出力トランジスターの並列接続をやめ、シングルプッシュプルにする、
アンプのプリント基板もできるだけ小さくまとめる──、といったことがいわれていた。
JBLのSE408Sを、そういう視点で一度ながめてみてほしい。
まずシングルプッシュプルである。
しかも出力トランジスターのすぐ隣にドライバー段のトランジスターがあり、
この間は、これ以上縮めようがないほど近接している。
しかもアルミダイキャストフレームがヒートシンクを兼ねているため、
いわゆる音叉的な構造体が存在しない。
増幅部のプリント基板も無駄に大きくはない。
入力段のトランジスターから出力段のトランジスターの距離も短い。
とくにNFBをかけたアンプの場合、この距離(ループの大きさ)は重要な項目となる。
平滑コンデンサーの容量も4500μFを二本並列にしているから、9000μF。
大容量とはいえない(これは、時代的なものも関係してのことではあろうが)。
しかもSE408S(に限らず同時代のJBLのアンプ)には、保護回路がない。
出力が40W+40Wという小ささも関係してのことであるが、
保護回路がないのは、音質劣化の要素がひとつないということである。
それから外装パーツがないということは、この部分におけるループの問題も発生しない。
シャーシーでアンプ全体を囲ってしまうことは、シールドの面からはメリットもあるが、
その他のデメリットもある。
六面体の筐体の場合、それぞれの面が電気的に接続されていて、
ループに対する配慮がなされていないと、デメリットの発生が大きくなる。
あらゆるところで、時代はくり返す、といわれる。
オーディオに関しても、そうであることが実に多い。
ただ前の時代、さらにその前の時代について知らない人が少なくないために、
もしくは盛大に技術内容を謳っているか謳っていないかの違いによっても、
くり返しが、新しいこととして受けとめられることが多い。
関東地方は梅雨明けしていないが、すでに夏である。
2016年夏に、ヤマハのスピーカーシステムNS5000は登場する、と昨秋発表されている。
もうそろそろオーディオ店の店頭に並ぶであろう。
生産ラインにすでにのっているはずだ。
つまり最終的な形に仕上がっている、ということである。
私がNS5000の完成した音を聴けるのは、
今年秋のインターナショナルオーディオショウのヤマハのブースになる。
まだ登場していない製品の音について書くことはこれまで避けてきた。
でも、NS5000についてだけは書いておきたい。
それは不安が大きいからである。
昨秋のインターナショナルオーディオショウで、NS5000の試作品の音が鳴っていた。
私はひさしぶりに期待のもてる国産スピーカーの登場だという予感がして、嬉しくなった。
ただインターネットでみかけるNS5000の評価は芳しいものではなかった。
ヤマハがなぜ半年以上も前に、試作品を多くの人に聴かせたのか。
その本当の意図は推測するしかないが、
聴いた人の評価を集めて最終的な音づくりをやるとしたら、そんなことはやめてほしい、と思っていた。
先日、親しい友人と会って話していた。
ヤマハのNS5000のことを話題に出した。
彼の友人が、最終モデルと思われるNS5000を聴いた、ということだった。
彼の友人とは面識がないが、どういう人なのかは知っている。
信頼できる耳の持主である。
あくまでも親しい友人を通しての話であることはことわっておくが、
どうも芳しくなかったようだ。
彼の友人がどういう音の表現をするのかわからないが、
あいだに親しい友人が入っているから、彼なりの翻訳が加わっているから伝わってくることがある。
その感触からすると、昨秋のNS5000の印象からずいぶん違った音に仕上がっているように感じた。
もっとも危惧していたことになりそうな予感とともに、その話を聞いていた。
私がここでこんなことを書いたところで、NS5000の音がこれから変ることはない。
どう仕上がっているのだろうか。
あと一ヵ月とちょっとでステレオサウンド 200号が出る。
瀬川先生が登場しているのは60号までである。
1/3にも満たない。
いまのステレオサウンドの中心読者層にとって、
瀬川先生はどうでもいい存在であっても不思議ではない。
ということはステレオサウンド編集部もそうであっても不思議ではないし、
いまの誌面をみるかぎり、そうであろうと思う。
しつこいぐらいに書くが、
瀬川冬樹について誰よりも解っていなければならないのは、
ステレオサウンドの編集に関わっている人たちだ。
編集部であり、筆者である。
だから解るべきであり、解るために瀬川冬樹賞が必要だと考えるわけだ。
本来ならば解らせる立場にいるべき人たちなのに……だ。
ステレオサウンド編集部、筆者のために瀬川冬樹賞は必要になっている。
もちろん名ばかりの瀬川冬樹賞ではあっては、そうはならないことは自明だ。
編集部も筆者も新陳代謝していくと書いた。
だから、何年後か、何十年後かに編集部、筆者が瀬川冬樹賞の必要性に気づく日がくるかもしれない。
その日を俟っていたら……、とどうしても思う。
それに創刊50周年の今年こそ、瀬川冬樹賞をはじめるあたって絶好の年ではないか。
実際にはやっていない人のほうが多いはずだけれども、
街に出ればやっている人の方が多いと思ってしまうほど、
いたるところでPokémon GOをやっている。
Pokémon GOに関してのいろんな記事がインターネットにはあるし、
ポジティヴな意見、ネガティヴな意見も当然ある。
危険視する意見も少なくない。
歩きながら、という危険性だけではなく、
個人データが送信されている、という危険性を訴える意見もけっこうある。
Googleが……、とか、CIAが……、といった記事・書き込みもある。
それらをすべて荒唐無稽とは考えていない。
Pokémon GOの配信開始とほぼ同時に、アメリカのドラマ”Billions“を観た。
主人公のひとり、ボビー・アクセルウッド(ダミアン・ルイスが演じている)が、
とある訪問者が帰った後に、壁の隠し金庫を開ける。
何を取り出すのかと思っていたら、携帯電話だった。
モトローラのStar Tacである。
auがIDOだったころ、私もこの携帯電話を使っていた。
1997年ごろの電話を取り出して、アクセルウッドは誰にも知られたくない電話をかける。
“Billions”は現在のドラマであり、登場人物はほぼ全員スマートフォンを使っている。
アクセルウッドも通常はiPhoneを使っているのにも関わらず、そういう時にはStar Tacを使う。
しかもふだんはもっていることを隠している。
アメリカではまだStar Tacが使えるのかという驚きと、
用心するということはこういうことなんだな、と感心していた。
つまるところスマートフォン使っている時点で、
あるシステムに組み込まれていると考えるべきではないだろうか。
同寸法の電解コンデンサーは探せば見つかる。
その場合、容量がかなり大きくなる。
これも考え方次第なのだが、
容量の大きなコンデンサーは小さな容量のものよりもスピードが遅いとする人であれば、
SE408Sに最初からついているコンデンサーと同じ容量でなくてはならない、となるし、
容量が同じで寸法も同じとなると、選択肢はかなり狭まる。
それでも探せば見つかるとは思う。耐圧は高くなってしまうけれど。
そうやって見つけだしたモノでも、色が違う。
現在市販されている、このクラスの電解コンデンサーの多くは黒か青だったりする。
SE408Sについているサンガモの薄いグレーとはずいぶん違うものになってしまう。
小さな部品であればそこまで気にすることはしないが、
平滑コンデンサーは電源トランスに次ぐ大きさの部品であり、しかも四本使われている。
SE401は電源トランスも、この部分も黒のカバーがついているし、
SE408Sも電源トランスは黒だから、黒の電解コンデンサーでもまあいいとしても、
モノによっては、外装の質感が違いすぎるものもある……。
それに何よりもイヤなのが、コンデンサーの固定方法が変ってしまうことだ。
俗に腰巻きといわれる金属製のバンドで取り付けるタイプになるのが、どうしても我慢できない。
SE408Sに使われているサンガモのコンデンサーは昔に多かった取り付け方法で、
菱形のベークライト板に取り付けた上でフレームなりシャーシーに固定する。
電源部のコンデンサーをどうするのかだけでも、少なくともこのくらいは悩む。
どれを優先するのかは人によって違ってくるから、選択も違ってくる。
時間も手間もかけたくないというメンテナンスは、巷にあふれかえっている。
にも関わらず、そういうメンテナンスを「完全メンテナンス済み」とか謳っている。
中古オーディオ店はあくまでも利益を挙げなければならないし、
商売なのだから、その程度で完全を謳う。
SE408Sはサービスマニュアルがダウンロードできる。
回路図もあるし、各部の電圧もわかっている。
しかも構造上メンテナンスは難しい部類ではないから、
私だったら自分でメインテナンスすることを選ぶ。
今回久しぶりに聴く機会があったSE408Sは、eBayで入手したモノとのこと。
40年以上、50年近く製造されて経っているわけだが、
見た感じはよかった。どこも修理されたと思えるところもなく、
外観的には特に傷んでいるところはないように思える程度を維持していた。
けれど音を出すと、残留ノイズの多さとハムが気になる。
低能率のブックシェルフ型スピーカーであっても、出ているな、と感じる。
おそらく電解コンデンサーはほとんどダメになっているためだろう。
製造されて相当な期間が経っているのだから、
むしろこの状態で、これだけの音が出ることに感心してしまうのだが、
きちんとしたコンディションにするためには、電解コンデンサーはすべて交換することになる。
ここで平滑コンデンサーをどうするかだ。
サンガモのコンデンサーがここに使われているが、
もう同じコンデンサーの入手は難しいし、
仮に新品で入手できたとしても、そのコンデンサー自体もかなりの年月が経っている。
別のコンデンサーに交換することになる。
私はオリジナル至上主義者ではないから、交換を考えるわけだが、
どのコンデンサーにするのかはなかなか頭を悩ませる。
SE408Sは中古オーディオ店のウェブサイトにも、ときどき出ている。
こんなふうにメインテナンスしました、という写真とともに出ているわけだが、
そのいずれもが見た目を重視していないことに、一言いいたくなってしまう。
外装パーツつきのSE408Sならば、そういうメインテナンスでも許せるけれど、
SE408Sではそうはいかない。
電解コンデンサーも進歩しているから、同耐圧、同容量であれば、
SE408Sの時代よりも現代のコンデンサーのサイズは小さくなる。
これは結構なことなのだが、SE408Sのメインテナンスに関しては歓迎できないことになる。
心情的に同寸法のコンデンサーに置き換えたいのだ。
VR(仮想現実、Virtual Reality)という言葉が広まったのは、
どのくらい前になるのだろうか。十年は優に過ぎている。二十年いくかいかないかだろうか。
オーディオは仮想現実なのだろうか、とある知人が問いかけてきた。
彼はそう思いたがっていたようだが、私は違う、といった。
彼はくいさがる。オーディオはなんらかの現実ではないのか、と。
それはそう思う、と答えたけれど、ではどういう現実なのか、とは答えられなかった。
いまならば、拡張現実のひとつだろう、と答えるところだろう。
そして、瀬川先生の、この発言、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
を言った後で、LS3/5Aでの再生を例に出す。
LS3/5Aを、左右の間隔をあまり開けすぎず、しかも近距離で正三角形の頂点で聴く。
音量もあまりあげない。ひっそりとした音量で聴くLS3/5Aの世界は、
井上先生は「見えるような臨場感」、「音を聴くというよりは音像が見えるようにクッキリとしている」と、
瀬川先生は「精巧な縮尺模型を眺める驚きに緻密な音場再現」、
「眼前に広々としたステレオの空間が現出し、その中で楽器や歌手の位置が薄気味悪いほどシャープに定位する」、
と表現されている、そのものの世界を聴かせてくれる。
井上先生も瀬川先生も、視覚的イメージにつながる書き方をされている。
そう、ごく至近距離に小人のオーケストラが現出したかのような錯覚をおぼえるわけだ。
左右のスピーカーのあいだ(それはLS3/5Aの場合1mほどだ)に、
小人のオーケストラがいると感じられるのは、拡張現実といっていいのではないだろうか。
私はPokémon GOをやっていて、
iPhoneが表示するまわりの景色の中にポケットモンスターが現れるのを見て、
まず感じたのは、LS3/5Aのことと小人のオーケストラのことだった。
昨夏、瀬川冬樹賞があるべきではないか、と書いた。
ステレオサウンドに、これだけは期待したい。
創刊50周年を迎えるということは、つぎの50年のために……を考えることでもある。
だからこそ瀬川冬樹賞を本気で考えてほしい。
ステレオサウンドがオーディオ評論を真剣に考えているのであれば、
瀬川冬樹賞がどうあるべきかもわかるはずである。
昨夏までは、そう考えていた。
いまは少し違ってきた。
この項の(その1)にも書いた。
菅野先生の書かれたものをもう一度じっくり読み返してほしい。
《彼の死のあまりの孤独さと、どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様は、多くの人達には解るまい。もし解っていたら、世の中、もっとよくなっているはずだ。》
瀬川冬樹という《どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様》を解るためにも、
瀬川冬樹賞は必要だと考えるようになった。
瀬川冬樹賞によって、瀬川先生を解っていくことが、オーディオ界をよくしていくことのはずだからだ。
いまのステレオサウンドにそれを期待するのは無理だろう、と思う人の方が多いはず。
私もその一人だが、そう思っているからこそ、瀬川冬樹賞をやるべきだと考えている。
ステレオサウンドの論文募集には、ほぼ間違いなく新しい筆者を探す意図があったと見ていい。
菅野先生によるベストオーディオファイル訪問にも、そういう意図はあった。
事実、ベストオーディオファイル訪問に登場した人の何人かは、
筆者としてステレオサウンドの誌面に登場している。
おそらくどのオーディオ雑誌の訪問記事も、新しい筆者探しの意図があるとみていい。
書き手としての寿命より、雑誌の寿命が長いことがある。
ステレオサウンドもそうである。
9月に発売になる号で200号。創刊50周年。
創刊号をもっている人は、めくってみてほしい。
いまステレオサウンドに書いている人で、創刊号に書いていた人はいない。
筆者も編集者も、そして読者も新陳代謝していくのだから。
ならばなぜステレオサウンドは、59号以降、読者の論文募集をやらなくなったのか。
応募がほとんどない、というのが現実的な理由であろうが、
それだけが理由だろうか……、といまは思っている。
これは私が勝手にそう思っているだけで、確たる根拠はなにもない。
それでもそう思えることがある。
論文募集に積極的であったのは瀬川先生だったのでは……、ということだ。
ステレオサウンド 61号から瀬川先生は不在になった。
同時に論文募集も終ってしまった。
HIGH-TECHNIC SERIES 4の巻頭には、
「フルレンジスピーカーの魅力をさぐる」という座談会が載っている。
この座談会の中で、瀬川先生がこんな発言をされている。
*
瀬川 ぼくはレンジ切りかえといういい方をしましたが、タンノイのHPD385Aやアルテックの604−8Gのところで、岡先生がしきりに強調されていた額縁というものを具体的なイメージとしてとらないで、一つの枠の中でといういい方に受け取ってもらえれば、その説明になっていると思います。
*
604-8Gの試聴記でも、岡先生は額縁説を出されていると読めるわけだが、
604-8Gのページでの岡先生の発言に「額縁」は一言も出てこない。
おそらく実際は、額縁にたとえられて604-8Gの音を語られたのだろう。
けれど巻頭座談会のまとめをした編集者と、
個々の試聴記のまとめをした編集者が違っていたためと、
最終的なすり合せがおこなわれなかったため、こういうちぐはぐなことになってしまったのだろう。
HIGH-TECHNIC SERIES 4を最初に読んだ時も、このことは気になっていた。
いまは、その時以上に気になっている。
岡先生は604-8Gをどういう額縁と表現されたのだろうか。
同じ2ウェイ同軸型であっても、アルテックとタンノイはアメリカとイギリスという国の違いだけでなく、
違いはいくつもあり、その違いを「額縁」はうまく伝えてくれたかもしれない。
活字になっていない以上、ないものねだりになってしまう。
それに書きたいのは、「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会につながっていくからだ。
この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。
これに対し、岡先生は「そういうことは夢にも思わなかった」と答えられ、
そこから岡先生との議論が続く。
SE401とSE408Sは共通のダイキャストフレームを採用しているため、
コンストラクションは基本的に同じである。
中央にアンプ部があり、これを挟むように片側に電源トランス、
反対側に整流ダイオード、平滑コンデンサーが配置されている。
SE401ではインターステージトランスがあるため、
平滑コンデンサーのブロックに、このトランスはまとめられている。
それ以外にも違いはある。
アンプ部のプリント基板の取り付け方が違う。
SE401ではイコライザーボードを含めて、増幅回路の基板も垂直配置になっている。
SE408Sではイコライザーボードは垂直だが、増幅回路の基板は水平配置に変更されている。
SE408Sでは電源回路は左右共通になっているが、
コンストラクション的にはデュアルモノーラルコンストラクションになっている、といえる。
ステレオアンプとして見た場合、SE401とSE408Sのこの違いはかなり重要な意味をもつ。
回路構成が変ったこともあってだが、
SE408Sはアンプとしてうまくまとめられている。
SE408Sそのものがアンプユニットといえる面をもっている。
SE408Sのコンストラクションは、ダイキャストフレームにヒートシンクを兼ねさせることを含め、
高く評価したいのだが、だからといって問題点がないわけでもない。
まず重量物の電源トランスが片持ちになっている。
このことは平滑コンデンサーに関してもいえる。
現代アンプの、よく考えられているコンストラクションを見た目には、
SE408Sの構造から来る問題点は、少なからず音に影響を与えていることは容易に想像できる。
では電源トランスが片持ちにならないように、反対側になんらかのフレームを用意するのか。
それはみっともないことになる。
解決方法は意外に簡単である。
SE408Sを水平に設置するのではなく、垂直に設置すればいいだけだ。
ダイキャストフレームがフロントではなく、ボトムになるようにする。
こうすることで電源トランスもコンデンサーも垂直配置になるし、
増幅回路の基板に関しても、水平配置では、片チャンネルの基板が下側にくるため、
左右チャンネルの条件があまり等しいとはいえなかったが、垂直設置にすれば、
増幅回路の基板も垂直になり、左右チャンネルの条件はそうとうに等しくなる。
SE408Sを垂直設置した音はまだ聴いていないが、
水平配置よりも音場の拡がりは増すはずだし、
帯域バランスもより低域がしっかりしてくるものと予想できる。
それに垂直設置したときのSE408Sは、まさにプロ用アンプモジュールそのものに見えてくる。
マークレビンソンの初期のモデルは、LNP2、JC2、JC1などである。
これらのアンプの内部はモジュールユニットが使われている。
これが当時のマークレビンソンのアンプの特徴でもあった。
マークレビンソンのロゴ上段には、三角形の記号がある。
回路図でアンプを表す記号である。
しかもNFBをかけていることを表すように、出力から入力へのフィードバックも描かれている。
細かいことをいえば、この記号は反転アンプを表しているともいえ、
LNP2やJCのモジュール内部がどうなっているのか、まったく情報がなかったあのころ、
私はもしかすると反転アンプになっているのかもしれない、と思ったこともある。
現在のマークレビンソンのロゴは下段のLevinsonが、
従来のロゴよりも横に長くなったため、この記号も横に長くなっている。
現在のマークレビンソンには、創始者のマーク・レヴィンソンはとっくにいないし、
アンプ内部も密閉モジュールは採用していない。
LNP2やJC2が現役モデルだったころ、
マークレビンソンのロゴは、アンプの記号を含めて、うまいな、と思ったことがある。
マーク・レヴィンソンが次につくった会社チェロ(Cello)のロゴよりも、うまくいっている。
そのロゴをいまも使っている。
けれど私の目には、どう見ても改悪されたとしか映らない。
中途半端な変更を加えるぐらいなら、まったく別のロゴをつくればいいのに、と思う。
その方が、いまのマークレビンソンのアンプに似合うはずだ。
このブログを始めたときから、このことは書こう、と決めていることがいくつかある。
でもすべてを書いているわけではなく、まだ手つかずのことがいくつも残っている。
そのひとつが、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4にある。
HIGH-TECHNIC SERIES 4をフルレンジを取り上げている。
岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏による試聴が行われ、
座談会形式で試聴記が載っている。
タンノイのユニットももちろん登場している。
HPD295A、HPD315A、HPD385Aの三機種があり、
HPD295Aのところで、岡先生が次のように発言されている。
*
岡 私は音響機器の持っている性格とプログラムソースのかかわりあいやマッチングをいつも気にしながら聴いているのですが、タンノイの場合、タンノイという一種の額縁にプログラムソースをはめるような感じがするわけです。しかも、それは非常に絵を引き立てる額縁なんですね。
*
岡先生はHPD295Aよりも口径の大きなHPD315Aについては、
額縁的な性格が一番薄い、といわれ、最上級機のHPD385Aについては、こう語られている。
*
岡 また額縁説を持ち出して恐縮ですが、抽象でも具象でも合う額縁というのがありますね。このユニットはそういう感じがするんです。とにかくこのユニットは、特性を追いかけて作ったのではなくて、ある音楽を聴く目的のためにまとめられ、それが非常にうまくいった稀なケースの一つではないかという気がするんです。
*
スピーカーは、というより、オーディオの再生音は額縁にたとえられることは、
かなり以前からあった。
タブローという表現が、音の世界に使われたりもしていた。
だから岡先生の発言は目新しいことではなかったけれど、
それでもHPD385Aのところでの発言──、
抽象でも具象でも合う額縁、こういうたとえは岡先生ならではだと感心していた。
この発言は頭のどこかに常にあって、ブログで取り上げようと思っていた。
でも、今日まで取り上げずにいたのだが、Pokémon GOがきっかけとなった。