瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その4)
昨夏、瀬川冬樹賞があるべきではないか、と書いた。
ステレオサウンドに、これだけは期待したい。
創刊50周年を迎えるということは、つぎの50年のために……を考えることでもある。
だからこそ瀬川冬樹賞を本気で考えてほしい。
ステレオサウンドがオーディオ評論を真剣に考えているのであれば、
瀬川冬樹賞がどうあるべきかもわかるはずである。
昨夏までは、そう考えていた。
いまは少し違ってきた。
この項の(その1)にも書いた。
菅野先生の書かれたものをもう一度じっくり読み返してほしい。
《彼の死のあまりの孤独さと、どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様は、多くの人達には解るまい。もし解っていたら、世の中、もっとよくなっているはずだ。》
瀬川冬樹という《どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様》を解るためにも、
瀬川冬樹賞は必要だと考えるようになった。
瀬川冬樹賞によって、瀬川先生を解っていくことが、オーディオ界をよくしていくことのはずだからだ。
いまのステレオサウンドにそれを期待するのは無理だろう、と思う人の方が多いはず。
私もその一人だが、そう思っているからこそ、瀬川冬樹賞をやるべきだと考えている。