Archive for 4月, 2015

Date: 4月 17th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その9)

「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲について黒田先生が書かれた文章、
どこかに書かれたものなのか(たぶんマガジンハウスの雑誌のどれかだった気もする)、
それすらはっきりと憶えていないので、はっきりとしたことではないのはことわっておく。

黒田先生は「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を、
女性の性的快感の高まりを引き合いに出されて書かれていた。

私は同じことを、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のカデンツァでそう感じたことがあった。
東芝EMIからジョコンダ・デ・ヴィートのLPボックスが出た時だった。

彼女の弾くカデンツァを聴いていて、そう感じた。
そのことを黒田先生の「トリスタンとイゾルデ」についての文章を読んだ時に思い出した。
たしかカルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」について書かれたものだったはずだ。

音楽にはそういう面がある。
こんなことを書けば、クラシック音楽の、一部の聴き手からは、
神聖なる音楽に対して、なんてことを感じているんだ、思っているんだ、とお叱りをうけるだろうが、
そう感じたのは事実であり、隠すようなことではない。

だからというわけではないが、
五味先生の「勃然と、立ってきた」のもわかるような気がする。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 対称性

対称性(その1)

CDが登場したころだったはずだ、
あるメーカーのエンジニアの方からきいたことを思い出す。

デジタル録音再生システムにおいて、
ふたつのアナログフィルターは同一でなければならない、ということだった。

A/D変換の前段にはアナログフィルターがある、
D/A変換の後段にもアナログフィルターがある。
このふたつのアナログフィルターは、本来同一であるのが原則だということだった。

CD登場前に、数社からPCMプロセッサーが登場した。
ビデオデッキに接続して使うモノで、
このプロセッサーにはA/D、D/A、ふたつの変換器を搭載していた。
おそらくこのPCMプロセッサーにおいては、ふたつのアナログフィルターは同一だったのかもしれない。

けれどCDプレーヤーにはD/A変換回路はあっても、A/D変換回路はない。
CDというメディアのA/D変換は録音の現場にある機器に搭載されている。

こうなってしまうとふたつのアナログフィルターは、別のモノとなってしまう。
そういう状況からCD再生(デジタル再生)は、一般家庭で始まった。

ふたつのアナログフィルターが同一であれば、
そこには対称性が保たれていたはずである。
けれどCDの再生には、その対称性は崩れている。

オーディオの原点であるアクースティック蓄音器のことをおもう。
これほど音の入口と音の出口の対称性が存在していたシステムは、
電気が加わっていくことで崩れていってしまう。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 快感か幸福か, 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(ある映画の、あるシーン)

「復讐捜査線」という映画がある。
日本公開は2011年だった。メル・ギブソン、数年ぶりの主役の映画だった。

昨晩、(その11)を書いていて、この映画のあるシーンを思い出していた。
メル・ギブソン演じる刑事、トーマス・ブレイクンの髭剃りのシーンだ。
傍には愛娘が彼を眺めている。

これ以上はどんなシーンなのかは書かない。
興味のある方は、ぜひ見てほしいからだ。

このシーンを観ながら、これが幸福なんだろうな、と思ったことを思い出していた。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(録音のこと・その2)

「正しい音はなにか?」(録音のこと)に対して、facebookでコメントがあった。
コメントを読んで、そういえば30年前も同じことを聞いたことを思い出していた。

レコード(録音物)に対して懐疑的な人はいる。
30年前の人もそうだった。
彼もオーディオマニアである。私よりもキャリアは長い。

彼はこんなことを言ってきた。
「他人が録音したもので、音が判断できるのか」であり、
「どれだけ、演奏された音(音楽)が正確に収録されているのか」だった。

レコード(録音物)に、いったいどれだけのことが収録されるのか。
facebookでのコメントではフルトヴェングラーについて語ったチェリビダッケの言葉が引用されていた。

その話は、私も以前何かで読んでいた。
フルトヴェングラーの例だけでなく、昔からランドフスカに関しても同じようなことが言われていた。

ランドフスカの本領は演奏会場においてのみ発揮されるのであり、
スタジオ録音では、ほんのわずかしかランドフスカの姿を捉えていない──、
そういった趣旨のことを読んでいる。

そのランドフスカのライヴ録音ですら、どれだけランドフスカの姿を捉えているのかといえば、
ほんのわずかということになるだろう。

なにもフルトヴェングラー、ランドフスカだけに限ってのことではない。
同じことは、どの演奏家についてもあてはまる。

そういうレコード(録音物)を聴いて、音の判断をやる、その行為の心許なさを、
30年前のレコードに対して懐疑的な彼は、私にぶつけてきた。

それまでそんなことを考えたことのなかった私だったけれど、
不思議に即座に答が浮んできた。

Date: 4月 15th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その11)

「正しい音とはなにか?」、
こんなことを思考しなくとも、オーディオで音楽を聴くことはできる。

「正しい音」よりも「好きな音」、そう思う人もいるだろう。
好きな音を追求するのもいい、でもそれだけでいいのだろうか、とやっぱり私は思う。

このブログを書き始めたころ、2008年9月に「快感か幸福か」というタイトルで書いた。
まだ書き続けている。

「正しい音とはなにか?」も、「快感か幸福か」に関係してくる。
好きな音の追求、そして好きな音がうまく鳴った時は快感である。
その快感は、私もオーディオマニアだから味わっている。

けれど、快感だけのような気もする。
若いころはそんなふうに思いはしなかったけれど、いまは違う。

快感が持続していれば、それは幸福といえるのだろうか。
快感と幸福の境界はどこにあるのか。

ここでも思う。五味先生の書かれたことを思い出す。
倫理性と芸術性の区別を曖昧にしてしまうのが二流の音楽家ということを。

快感と幸福の区別を曖昧にしたままでいいのか、と思う。
思うからこそ、「正しい音とはなにか?」と思考する。

Date: 4月 14th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(ある違和感について)

すこし前に、昨年出来たビルの中にテナントとして入っているホテルに仕事で行った。
高級ホテルということだった。
内装は、そんな感じを漂わせている。

けれど、すぐに違和感をおぼえる。ここもそうなのか、と思う。
これは何も、このホテルだけのことではない。

いつのころからなのか(おそらく1990年にはいってからだろう)、
見た目の印象とそこでの音(人の話し声、靴音、その他のさまざまな音)の響き方に違和感をおほえる。

つまり見た目は重厚そうなのだが、響きがじつに薄っぺらい。
こういう建物の場合、壁や柱を叩いてみると、ポコポコといった、いかにもという感じの音がする。
表面は石なのだが、叩くとそんな音が返ってくる。

石が薄いからだけではない、
石が薄くともしっかりとした造りの柱、壁に取り付けられているのであれば、そんな音はしてこない。
おそらく薄い石の裏側はハニカム構造のアルミ材が裏打ちされているのだろう。

最初ハニカム材で裏打ちされた石を見た時は、
賢い人がいるものだと感心した。

こうすれば石は薄くできるし、強度も確保できる。
輸送、建築現場への搬入も重量が軽くなることのメリットは大きい。
施工する人にとっても軽くなることは負担が少なくなる。

だから、たいしたものだと思った。
けれどそんな素材による建築物が増えてくると、
見た目の印象と音の響きに違和感があることに気づく。

これはハニカム構造の素材で裏打ちしたデメリット、
それも数少ないデメリットであろう。

もっともこんなことはデメリットのうちに入らないのかもしれない。
それでも、この違和感に気付いている人は私だけではないことも知っている。

自分で調べたわけではないのではっきりした情報ではないが、
このハニカム構造を採り入れた石材は、あるデザイナーのアイディアときいた。

ならば、これはデザインということになる。
これは「正しいデザイン」なのだろうか、と疑問に思う。

Date: 4月 14th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その10)

「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」。
この視点から井上先生によるオートグラフの組合せの音をふり返ってみる。

《引締まり、そして腰の強い低域は、硬さと柔かさ、重さと軽さを確実に聴かせ》ると、
オートグラフの音について語られている。

硬さと柔かさ、重さと軽さ、
対極にある性格の音が、確実にあるということは、正しい均衡を保っているといえるのではないだろうか。
静的力学的に安定している音といえるのではないか。

五味先生は書かれている。
     *
 S氏にすすめられ、半信半疑でとったこのタンノイ Guy R. Fountain Autograph ではじめて、英国的教養とアメリカ式レンジの広さの結婚──その調和のまったきステレオ音響というのをわたくしは聴いたと思う。
     *
英国的教養とアメリカ式レンジの広さの結婚──、
これも正しい均衡を保ち、静的力学的に安定している音だと私は思う。

オートグラフの原型は1953年に登場している。
五味先生のオートグラフにしても1964年につくられたモノだ。

古い古いスピーカーではある。
けれど古いから、新しいから、ということが、正しい音となんら関係してくるのだろうか。

そう思っている人は、何度でもステレオサウンド 51号の五味先生の文章を読み返すべきだ。

Date: 4月 14th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その9)

「正しいもの」の(その1)では、フルトヴェングラーの言葉を転用して、
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」とした。

音について語られたものでない言葉を転用していくことで、
正しい音のかたちがなんとなくはっきりしてくる感触がある。

たとえば五味先生が愛用されていたタンノイのオートグラフ。
同軸型ユニットを、フロントショートホーンとバックロードホーンの複合ホーン、
しかもコーナー型というと、
現代のスピーカーシステムの傾向からすれば、
古くさいスピーカーの一言で片付けられてしまうそうシロモノということになってしまう。

そんなスピーカーから、正しい音なんて鳴ってくるはずがない──、
そう思う人も、世代によっては大勢いるのかもしれない。

だが正しい音と正確な音は、完全に一致するものではない。
私がここで書いているのは、正確な音ではなく、正しい音について、である。

そうはいっても、この項の(その2)で、井上先生によるオートグラフの組合せのことを書いているじゃないか、
そこで、ベースのピチカートがウッ、ゥーンと鳴るとしているだろう、
そんな音が果して正しい音といえるのか──。

こんな反論がきこえてきそうである。

私はなにも完璧な音とは書いていない。
あくまでも正しい音である。
完璧な音ということであれば、ある帯域においてであっても、
ベースのピチカートが、ウッ、ゥーンと尾をひくように鳴るのは、もうそれだけで完璧な音とはいえない。

そんな単純なことを、長々と書いているわけではない。

Date: 4月 13th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その8)

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

小林秀雄の有名すぎる一節(一句とでもいうべきか)である。
これは、ロダンの「美しい自然がある。自然の美しさといふ様なものはない」という言葉の転用らしい。
ならばと、転用してみる。

正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない。

花を音を置き換えただけである。
けれど、そのまま通用しそうな気がしてくる。

ロダンの「自然」も、小林秀雄の「花」も、いわば自然のものである。
私が勝手に転用した「音」は、スピーカーから鳴ってくる音である。
電気仕掛けの結果、鳴ってくる音なのだから、自然のものとはいえない。

それでも音は音である。
空気の疎密波である。

楽器から放たれる音も、人の体から発せられる声も、
その他の多くの自然の音も、空気の疎密波であることには変りはない。

ならば、正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、といえるのか。
いえると思う。
むしろ、再生音だからこそ、
正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、といえるのではないか。

自然の音こそ、正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、とは言えないような気もしてくる。
つまり自然の音、こと音楽に限っていえば、
「音」の正しさがある。正しい「音」といふ様なものはない。

こういうべきなのではないか。
どうしてそう思うのか、誰かにうまく説明できるかといえば、いまのところできない。
直感として、そうそう思っている。

くり返す、
再生音こそ《正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない。》であり、
生音は反対に《「音」の正しさがある。正しい「音」といふ様なものはない。》、
そう思えてならない。

Date: 4月 12th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その7)

ステレオサウンド 51号の五味先生の文章を読んで、すぐに「正しい音」と結びついたわけではなかった。
それなりの時間と、いくつかのことが私には必要だった。

川崎先生の文章がなかったら、
五味先生の51号での文章が「正しい音」と結びつくことはなかったかもしれない。

「正しい音とはなにか?」を思考はしていたであろうが、
川崎先生と出逢ってなければ、手前の段階で留まっていたような気がしてならない。

「正しい音」は、倫理性と芸術性の区別を曖昧にしたところには存在しない。
絶対に存在しない、といえる。

「正しいデザイン」も、倫理性と芸術性の区別を曖昧にしては存在しない。

「正しい音とはなにか?」を思考することで、
私は川崎先生のデザインに惹かれてきたのか、その理由がはっきりした。
それは「正しいデザイン」を、そのデザインを手にする者に問いかけているからである。
私は、そう解釈している。

だからこそ惹かれてきたといえるし、川崎先生のデザインによって引かれて(牽かれて)きたのかもしれない。

Date: 4月 11th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その6)

「正しい音」、「正しいデザイン」。
つねに私の頭に浮んでくるのは、五味先生の、ステレオサウンド 51号の文章である。
これは別項「戻っていく感覚」でも引用している。

16歳のときに読んでいる。
「戻っていく感覚」の終りにも書いた──、
《読み返して、いま書いていることのいくつかの結論は、ここへ戻っていくんだ、という感覚があった。》
     *
 二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
 再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的エレクトロニクスの進歩に耳の馴れた吾人が聴いても、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
 誤解をおそれずに言えば、二流の再生装置ほど、物理特性を優先させることで芸術を抽き出せると思いこみ、さらに程度のわるい装置では音楽的美音——全音程のごく一部——を強調することで、歪を糊塗する傾向がつよい。物理特性が優秀なら、当然、鳴る音は演奏に忠実であり、ナマに近いという神話は、久しくぼくらを魅了したし、理論的にそれが正しいのはわかりきっているが、理屈通りいかないのがオーディオサウンドであることも、真の愛好家なら身につまされて知っていることだ。いつも言うのだが、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンがオーケストラを背景につねに音場空間の一点で鳴ったためしを私は知らない。どれほど高忠実度な装置でさえ、少し音量をあげれば、弦楽四重奏のヴァイオリンはヴィオラほどな大きさの楽器にきこえてしまう。どうかすればチェロが、コントラバスの演奏に聴こえる。
 ピアノだってそうで、その高音域と低域(とくにペダルを踏んだ場合)とでは、大きさの異なる二台のピアノを弾いているみたいで、真に原音に忠実ならこんな馬鹿げたことがあるわけはないだろう。音の質は、同時に音像の鮮明さをともなわねばならない。しかも両者のまったき合一の例を私は知らない。
 となれば、いかに技術が進歩したとはいえ、現時点ではまだ、再生音にどこかで僕らは誤魔化される必要がある。痛切にこちらから願って誤魔化されたいほどだ。とはいえ、物理特性と芸術性のあいまいな音はがまんならず、そんなあいまいさは鋭敏に聴きわける耳を僕らはもってしまった。私の場合でいえば、テストレコードで一万四千ヘルツあたりから上は、もうまったく聴こえない。年のせいだろう。百ヘルツ以下が聴こえない。難聴のためだ。難聴といえばテープ・ヒスが私にはよく聴きとれず、これは、私の耳にはドルビーがかけてあるのさ、と思うことにしているが、正常な聴覚の人にくらべ、ずいぶん、わるい耳なのは確かだろう。しかし可聴範囲では、相当、シビアに音質の差は聴きわけ得るし、聴覚のいい人がまったく気づかぬ音色の変化——主として音の気品といったもの——に陶然とすることもある。音楽の倫理性となると、これはもう聴覚に関係ないことだから、マーラーの言ったことはオーディオには実は該当しないのだが、下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数の伸び、歪の有無などばかり気にしている、それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
マーラーの「二流の音楽家は、芸術性と倫理性をあいまいにしたがる」、
この言葉を、五味先生は「イタリア歌劇から」(「人間の死にざま」所収)の冒頭でもかりられている。

ただしすこし違っている。
「イタリア歌劇から」では、
「性格の弱い男は、芸術的と道徳的の区別を曖昧にしたがる。」となっている。

Date: 4月 10th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その5)

読みはじめのころは、「美しいデザイン」「優れたデザイン」のことを考えていたけれど、
いつのころからか、「正しいデザイン」はあるのか、
あるとすればそれはどういうモノなのか、ということを考えはじめるようになってきた。

この項のカテゴリーは「正しいもの」であり、
正しいもの」というタイトルで書いているところでもある。

この「正しい音とはなにか?」も、
そこで書いていこうと最初は考えていたけれど、
そうなると「正しい音」について書いていくのはずいぶん先のことになりそうなので、
新たにタイトルをつけて書いている。

「正しいもの」の(その1)の書き出しも、
正しいデザイン、である。
(その1)では、フルトヴェングラーの言葉を引用した。

引用したフルトヴェングラーの言葉の真意を完全に理解しているとはいわない。
理解しているのであれば、「正しいもの」はとっくに書き終っているはずである。
まだ書いている途中であるということは、まだまだということでもある。

それでも、「正しいデザイン」について考えることによって、
私にとって「正しい音」は次の段階にうつったといえる。

そして「正しいデザイン」、「正しい音」、
このふたつについて考えることで、
なぜ川崎先生の文章を、五味先生の文章を読むのと同じように熱心に読んだのかの理由もはっきりしてきた。

Date: 4月 10th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その4)

まだ10代だったころ、
自分のシステムのどこかを変え、音を聴く。
音の違いはわかる。

変える前と変えた後、どちらがいい音なのか、すぐに判断つくこともあれば、
どちらがいい音なのか、と迷うこともあった。

迷った時に考えた。
どういう判断をすればいいのだろうか、と。

そのとき考え出したのは、どちらがより違いを出すか、ということだった。
たとえば同じレコード(時代的にLPのことになる)でも、国内盤と輸入盤とがある場合、
その違いを、より自然に、はっきりと出してくれる音が、
少なくともそれまでよりも正しい音を出すようになったと判断していいのではないか、と考えた。

LPの製造国だけではない。
さまざまな違いを鳴らし分ける(響き分ける)ことができる音を、
どちらがいい音なのか迷った場合に選択していこうと決めたし、そうしてきた。

ステレオサウンドで働くようになり、様々な試聴の体験によって、
この考えは少し発展していった。

一枚のレコードにおいても、音楽はつねに変化している。
音色も変化していく。
そういう一枚のレコードの中での変化をきっちりと鳴らし分け(響きわけ)できる音は、
そうでない音よりも、正しい音といえるし、
聴感上のS/N比をよくしていった音も、聴感上のS/N比の悪い音よりも正しい、といえる。

この判断ポイントは、他にもいくつもあり、
そうやって音を判断してきた。

それでも、この「正しい音」は、初期の段階ともいえるし、基礎的な段階ともいえる。

1990年代、私は川崎先生の文章を熱心に読むようになっていた。
当時は、なぜ、そこまで熱心になれたのか、その理由について考えることはなかった。
読み続けるうちに考えるようになったのは、「正しいデザイン」ということである。

Date: 4月 9th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その3)

しつこいぐらいに書いているように、私のオーディオは五味先生の「五味オーディオ教室」から始まった。
このことがもつ影響は、どれだけ言葉を尽くしても理解されないくらいに、私にとっては大きい。

そして「五味オーディオ教室」をくり返し何度も何度も読んだあとに、
「西方の音」、「天の聲」、「オーディオ巡礼」、「いい音いい音楽」、「人間の死にざま」を読んできた。

これから先、どんなことが待ち受けているのかはわからない。
それでも五味先生の書かれたものからの影響を私の中からなくすこと、なくなっていくことはないであろう。

つまりは、私は、そういうオーディオマニアである。
だから、私の中では、「正しい音」「より正しい音」は、倫理ということになる。

このことは納得してもらおうとはまったく思っていない。
理解されようとも思っていない。
これは、私というオーディオマニアにとっての大事な宝であり、
そんな個人的な宝の価値は、どこまでいっても私だけのものであるのだから。

音の倫理性、オーディオにおける倫理観念、
こういったものを持たずとも、オーディオという趣味は楽しめるだろうし、
音楽も聴ける、といっていい。

むしろ、倫理なんてものを考えないほうが、オーディオを難しく捉えずに楽しめるのかもしれない。
「正しい音」「より正しい音」なぞ考えずに、好きな音と求めていくのが、オーディオの楽しみ方かもしれない。

けれど「五味オーディオ教室」から私のオーディオは始まっているから、
私のオーディオの終りも「五味オーディオ教室」ということになる。
いわば閉じたサーキット(回路)、
それも複雑なコースを永い時間をかけて、一周しているだけなのかもしれない。

それでも向っている先(視ている先)は、同じような気もする。

Date: 4月 9th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(録音のこと・その1)

その1)で、スタインウェイのピアノでの演奏ならば、
そのレコード(録音物)の再生において鳴ってくるピアノの音色は、
スタインウェイの音色であってほしいし、ベーゼンドルファーやヤマハになってもらっては困る、と書いた。

それはわかるけれど、レコード(録音物)はどうなのか、と考えられる。
考えられる、というよりも、疑える、と書いた方がいいかもしれない。
ほんとうにそのレコード(録音物)は、スタインウェイの音色を捉えているのであろうか。

疑いが出せばきりがない。
マイクロフォンはスタインウェイの音色を捉えているのか。
マイクロフォンの性能は充分であっても、マイクロフォンのセッティングがどうなのか。
仮にマイクロフォンがきちんととらえていたとしても、
テープレコーダーにたどりつくまでにいくつもの器材を信号は通過する。
それは器材はいったいどうなのか。

そして肝心の録音機は……、ということになるし、
録音がうまくいきマスターテープにスタインウェイの音色がおさめられていたとしても、
アナログディスクならばカッティングを、さらにはプレスの工程も疑える。

疑いたければすべてを疑える。
そういう過程をへてレコードはつくられ、聴き手の元に届く。

そういうレコード(録音物)を信じなければ、
再生というオーディオは成立しない世界である。

少なくともそのレコード(録音物)におさめられている音楽を聴いて感動したのであれば、
良いと感じたのであれば、そのレコードを疑うことをしてはいけない。

疑いたくなる気持はわかる。
でも疑いはじめたら、それはオーディオといえるのだろうか。

井上先生はよくいわれていた。
「レコード(録音物)は神様だから、神様を疑ってはいけない」と。