Archive for 10月, 2014

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その3)

オーディオのプロフェッショナルとはいうことでは、このことを書いておきたい。
オーディオ・ホームシアター展でのことだった。各ブースをまわっているときだった。
エレベーターホールのところで、どこかのブースの人が、別のブースの人に対して愚痴を言っているのが聞こえた。

ひどい音だ、耳が痛くなる。
そんなことをけっこう大きな声で、ほとんど一人で話しているが聞こえてきた。

私はそれほど近いところにいたわけではなかった。
それでもはっきりと聞こえてきていた。
どこのブースの人なんだろう……、こんなところで話すことではないだろう、と思っていた。

あるブースに入った。
オーディオ・ホームシアター展でも、ハイエンドオーディオショウと同じようなやり方のブースがあった。
ひとつの広めのブースを複数の出展社で使う、というものである。

そのブースは、ピストニックモーションではないスピーカーシステムが鳴っていた。
そのスピーカーの、製品としての完成度はお世辞にも高い、とはいえなかった。
それでも、面白い音だと感じていた。

いい悪いは、ほんの短い時間しか聴けなかった。
二分ほどだったろうか。

同じブースの、別の出展社の人が、腕時計を指さして、「あと一分」とにらんでいた。
この「あと一分」と言っていた人が、さきほどエレベーターホールで愚痴を言っていた人だった。

このスピーカーのことを貶していたのか、この音のことを言っていたのか、とわかった。

人の評価基準はさまざまだったりする。
だから、ある種の音を認めない人がいるのも知っている。
けれど、愚痴を言っていた人も、オーディオのプロフェッショナルであるべきだ。
嫌いな音だからといって拒絶するのではなく
そこで鳴っていた音から良さを聴き出そうとする姿勢をもってこそ、プロフェッショナルである。

そこまで求めてはいけない時代が来ているのかもしれない、と感じた。
それにしても、アマチュアのように、一般来場者に聞こえるように愚痴をいうのはやめるべきだ。
プロフェッショナルとしての最低限のマナーのはずだ。

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その2)

誰もが最初はアマチュアである。
いまは著名なメーカーの代表者でも、創業する前はアマチュアといえよう。
けれど、生き残っている、そういった会社の代表者は、もうアマチュアではない。
プロフェッショナルになったからこそ、生き残れたのではないのか。

今日聴いた、非常に高価な国産スピーカーの代表者は、あれこれ言い訳を口にしていたが、
こういうショウで、いい環境などあまり期待できないことは、もう常識ともいえる。
それでも、インターナショナルオーディオショウでも、ハイエンドオーディオショウでも、
プロフェッショナルならば、与えられた環境でなんとかしようとするし、言い訳に終始したりしない。

それにあえて書くが、このメーカーのセッティングを裏にまわり混んでみたわけではなく、
あくまでも座ったところから見える範囲内でも、
これだけ高価なスピーカーシステムにふさわしいとはいえないセッティングであった。
むしろひどいセッティングといえた。

言い訳を口にする前に、彼はやること(やれること)が数多くあった、と私は見ている。
それをほとんどやらずに、言い訳だけでは、残念ながら彼はプロフェッショナルではない。

インターナショナルオーディオショウもハイエンドオーディオショウも、
オーディオのアマチュアの発表の場ではない。

高価なスピーカーシステムのほんとうの実力はよくわからない。
それに、これだけのモノを、よく作ったものだと感心する(それがいいモノかどうかはわからないけれど)。
それだけに、これだけのモノを扱っていくのに、彼はアマチュアすぎないか、と思った次第だ。

彼はオーディオのプロフェッショナルになれるのだろうか。

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その1)

ハイエンドオーディオショウにも行ってきた。
あるブースにはいって、このスピーカーも出ていたのか、と気づいた。

そのスピーカーシステムとは、国産で、けれど非常に高価である。
よく桁が違う、というけれど、文字通り桁の違う価格である。

ハイエンドオーディオショウは、これまでの交通会館から、今回の会場に変更になった。
デモのやり方は基本的に同じで、ひとつのブースを複数の出展社が使うため、
デモの時間割が決っている。

その高価なスピーカーシステムが置かれていたブースは三社が使っていた。
しかも決して広くはない。
条件的にはよくないことは、音を聴かずともわかる。

とはいえ、非常に高価なスピーカーシステムのメーカーの代表者は、言い訳ばかりだった。
正直、音は到底その価格とは思えないレベルであった。
代表者は、これまで聴いた、このスピーカーのいちばんひどい音です、といっていた。

そうなのかもしれない。
だから、このスピーカーシステムの型番もメーカーも書かない。
でも、とそれでもいいたい。

少なくともオーディオ機器をつくって、誰かに売るのであれば、
その人はプロフェッショナルであるべきだ。
にも関わらず彼の言い訳は、彼がいまもアマチュアのままでいることを、
そのブースにいた人たちに白状しているのと同じである。

Date: 10月 18th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その1)

オーディオ・ホームシアター展に行ってきた。
NHKのブースがあった。
覗くと、かなり大きなサイズのスクリーンに8Kの文字が表示されている。
8Kのデモをやるのか、ぐらいの興味しか持てなかった。

いま量販店に行くと4Kテレビが展示してある。
今回のオーディオ・ホームシアター展でもシャープのブースでは4Kの液晶テレビが展示してあった。

4Kにあまり関心がもてないのは、ネイティヴのソースが揃っていないから、ではなくて、
こういうふうに展示してあるのを見ても、きれいだな、と思うだけだからである。

だから8Kに関しても、4Kの延長線上にあるものだと思い込もうとしていた。
それでもこんなところまでせっかく来たのだから(有楽町よりもずっと遠い)、ブースに入った。

簡単な説明があって、30分ほどのデモがはじまった。
スポーツの8K映像が映し出された。
サッカーのワールドカップ、ソチ・オリンピックとフィギュア・スケート。
音声は22.2チャンネルである。

4Kと8Kの違いは、想像以上に大きかった。
8Kはすごい、といいたくなる。
だが「すごい」と言ってしまうと、すごいという語感からイメージしてしまうものとは、8Kははっきりと違う。
この違いが、4Kと8Kの違いでもある。

Date: 10月 18th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その8)

テクニクスのEPC100Cといっしょに聴いた他のカートリッジの音は、
その特徴を一言で表そうと思えばできなくはない。
けれどEPC100Cの音は、そのカートリッジを特徴づけるであろう音のきわだった特徴、
つまりその部分において、他のカートリッジよりも秀でていると感じさせるところがないように感じる。

たとえばエラックのSTS455Eだと艶っぽさを色濃く出してくる。
これだけがSTS455Eの特徴ではないのだが、STS455Eの音を思い出そうとすると、
やはり艶ということがまず浮んでくる。

これはSTS455Eというカートリッジの特徴(音の良さ)でもある反面、悪さの裏返しでもある。
STS455Eはいいカートリッジであったし、私も買って常用していた。
けれど完璧に近いカートリッジというわけではない。

足りないところもだめなところもある。
けれど、ときとして、足りないところ、だめなところがあるから、
STS455Eの音の特徴ははっきりと浮び上ってくる。

このことは何もSTS455Eに限ったことではなかった。
他のカートリッジにもいえる。

けれどEPC100Cには当てはまらないような気がする。

Date: 10月 17th, 2014
Cate: イコライザー, 純度

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その3)

そのころブラームスの交響曲第四番をよく聴いていた。
だからワルターのデジタルリマスターのLPも、ブラームスの四番を買った。

五味先生、瀬川先生の書かれたものを読んできた私にとって、
クラシックのLP=輸入盤ということになる。
国内盤は海外盤が廃盤になっているもの以外は買わないことにしていた。
買わない、ということは、クラシックのLPとして認めていない、ということに近かった。

そのくらい国内盤の音と輸入盤の音は、当時違っていた。
楽器の音色が特に違う。ここで失われた「音色」は、ほとんどとり戻せないことはわかっているから、
輸入盤にこだわっていた。

そういえば、と、トリオの会長であった中野氏の著書「音楽・オーディオ・人びと」に出てくる話を思い出す。
     *
デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
     *
デュ・プレの国内盤は聴いたことがない。
聴こうとも思っていない。
でも、よくわかる。

デュ・プレのエルガーの協奏曲を聴いたことがある人ならば、
EMIの英国盤できいたことがあるならば。

Date: 10月 17th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その7)

テクニクスのオーディオ機器で、音を聴いて「欲しい」と思ったのは、
カートリッジのEPC100Cが最初である。
1976年に登場したヘッドシェル一体のMM型カートリッジのEPC100Cは、60000円していた。
高価だった。

この当時のほかのカートリッジの価格。
たとえばEMTのTSD15は55000円、XSD15が65000円、デンオンのDL103は19000円、
エンパイアの4000D/IIIが58000円、シュアーのV15 TypeIIIが34500円だった。

輸入品のカートリッジだと60000円前後はあったけれど、
国産カートリッジで60000円というのは、価格だけでも話題になっていたようだ。

EPC100Cの評価は高かった。
     *
 振動系のミクロ化と高精度化、発電系の再検討とローインピーダンス化、交換針ブロックを単純な差し込みでなくネジ止めすること、そしてカートリッジとヘッドシェルの一体化……。テクニクス100Cが製品化したこれらは、はからずも私自身の数年来の主張でもあった。MMもここまで鳴るのか、と驚きを新たにせずにいられない磨き抜かれた美しい音。いくぶん薄味ながら素直な音質でトレーシングもすばらしく安定している。200C以来の永年の積み重ねの上に見事に花が開いたという実感が湧く。(瀬川冬樹 ステレオサウンド41号「世界の一流品」より)

 モノ時代からMMカートリッジの研究を続けてきたテクニクスが、いわば集大成の形で世に問う高精度のMM型。実に歪感の少ないクリアーな音。トレーシングも全く安定。交換針を完全にボディにネジ止めし、ヘッドシェルと一体化するという理想的な構造の実現で、従来のMMの枠を大きく超えた高品位の音質だ。(瀬川冬樹 ステレオサウンド43号「ベストバイ・コンポーネント」より)

 技術的に攻め抜いた製品でその作りの緻密さも恐ろしく手がこんでいる。HPFのヨーク一つの加工を見ても超精密加工の極みといってよい。音質の聴感的コントロールは、意識的に排除されているようだが、ここまでくると、両者の一致点らしきものが見え、従来のテクニクスのカートリッジより音楽の生命感がある。(菅野沖彦 ステレオサウンド43号「ベストバイ・コンポーネント」より)
     *
EPC100Cの音は、瀬川先生が熊本のオーディオ店の招きで定期的に行なわれていた試聴会で聴くことが出来た。
EMTやオルトフォン、エラック、エンパイア、ピカリングなどのカートリッジと聴いている。

Date: 10月 17th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その20)

ソニーは電子制御のトーンアームをバイオ・トレーサーと呼んでいた。
ソニーからやや遅れてビクターも、電子制御トーンアームを発表した。
ビクターはED(electro-dynamic)サーボと呼んでいた。

ビクターの電子制御トーンアームは、ソニーのバイオ・トレーサーと形状は異るが、
複数のセンサーをもち、垂直・水平、ふたつのリニアモーターをもつのは共通している。

ステレオサウンド 53号のビクターのQL-Y7、QL-Y5の広告には、
EDサーボ・トーンアームの分解図が載っている。
EDサーボ・トーンアームは従来のトーンアームの軸受け右側に、
垂直方向の電子制御のための機構を後付けしたような感じがしている。
水平方向のための機構は、トーンアームの下部にある。

センサーは垂直速度、水平速度、位置、高さを検出している。
プロセッサーについての記述はないが、
ソニーのバイオ・トレーサーに使われているものと性能的に大差はないはずだ。

ソニーはバイオ・トレーサーの特徴として、
 最低共振周波数のピークを3dB以内に抑制
 徹底したフロントオペレーション
 機械的なインサイドフォースキャンセラー、カウンターウェイトの除去
この三点をあげている。

ビクターのEDサーボにはカウンターウェイがあるのが、ソニーと異るが、
電子制御の特徴として挙げているのはソニーとほぼ同じである。

Date: 10月 16th, 2014
Cate: デザイン

悪いデザインとは

ソニーの苦境を伝える記事をよくみかける。
読んでみて納得の記事はほとんどない。

なぜソニーがこうなってしまったのか、について書いてあるようで、
実のところ何も書かれていない感じばかりを受ける。
ソニー、一人負け、といった見出しばかりが目につく。

なぜなのか、私にはわからないけれど、ひとつだけ書きたいことがある。
それも非常に偏った、狭いものの見方といわれるのを承知で書いておく。

私はソニーがこうなってしまったのは要因のひとつは、PSPだと思っている。
PSPは携帯ゲーム機のことだ。

PSPが発売された時、ボタンに不具合があったようで問題になりかけたことがある。
これに対して、久夛良木氏が、PSPのデザインは優れている、といわれたように記憶している。

PSPのデザインは優れているのかもしれないが、悪いデザインである。
どう悪いのかといえば、PSPがどう使われているのか、
ソニーの偉い人たちは知らないのではないか、と思う。
電車、それも混んでいる電車に乗ってみて、PSPがどう使われているのか、
PSPで電車内でゲームをしている人が、どうしているのかを把握しているのか、と問いたくなる。

携帯ゲーム機はPSP以外にも他メーカーからいくつも出ている。
けれどPSPは両手を必要とするゲームが多いように見受けられる。
(PSPを持っていないしPSPでゲームをしたこともないのであくまでも推測でしかないが)

しかもデザイン的になのだろう、両肘を張り出してゲームに夢中になっている人が少なくない。
電車内で座っていて、両隣に人がいようとおかまいなしに肘を左右に突き出してゲームをしている。
また立っていてもPSPでゲームをしている人も少なくない。

両手がPSPでふさがっているから、つり革や手摺につかまっていない。
彼らはどうしているかというと、立っている他人の背中を背もたれとしている。
しかも肘は突き出している。

こういう使われ方を幾度となく電車内で見てきていると、
悪いデザインということについて考えてしまう。

家で一人でPSPでゲームをしている分には、肘がどういうふうになっていもいい。
けれどPSPは外でも、電車の中でもゲームができるモノだけに、
PSPのデザインは悪い、と私は判断する。

PSPはひと目でPSPとわかる。ソニーの製品だとわかる。
電車内でPSpでゲームに夢中になり、周りの人に迷惑をかけている人たちがいる。
このことがソニーの及ぼす影響は微々たるものだろうか。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: audio wednesday

第46回audio sharing例会のお知らせ

11月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その19)

ソニーの電子制御トーンアームとは、いったいどういうものだったのか。
ステレオサウンド 49号に載っているソニーの広告をみてみる。

センサーは垂直速度センサー、トーンアーム姿勢検出器、水平速度センサー、トーンアーム回転角検出器で、
構造図をみるかぎり、どれもけっこうなサイズである。
これだけのサイズであればトーンアームの軸受け周辺で動きを検出する以外にない。

けれどセンサーが小型軽量化されれば、軸受け周辺だけでなく、アームパイプにもつけられるし、
さらにはヘッドシェルに取り付けることも、いまでは無理なことではないと想像できる。

電子制御トーンアームが搭載されたソニーのPS-B80が登場した1978年では、
センサーが小型であっても、数を増やすことはもしかすると無理だったかもしれない。
なぜなら、電子制御にはプロセッサーを必要とするわけで、
センサーの数をふやし、センサーから贈られてくる情報量をむやみに増やしても、
プロセッサーが処理できなくなるからである。

ソニーの広告には、128ワード×4ビットの「電子頭脳」と書いてある。
いまiPhoneには64ビットのプロセッサーが、非常に高いクロック周波数で動作している。

プロセッサーの処理能力はインプットだけでなく、アウトプットにも大きく関わってくる。
PS-B80のトーンアームには、垂直リニアモーターと水平リニアモーターがある。
プロセッサーは、このふたつのリニアモーターを制御している。

検出と制御、このふたつの精度を高めるにはプロセッサーの処理能力が高くなければならない。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: イコライザー, 純度

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その2)

日本では、昔から、余計なことをするな、余分なものを加えるな、というのが、
オーディオにおけるピュアリストアプローチだったような気がする。

たとえばアナログディスクの製作過程においても、
マスターテープのままカッティングしろ、というのが以前からある。
カッティング時に音をいじるのはけしからん、というやつである。

これはCDが登場してからも同じである。
何もいじらずにマスターテープのままCDにしろ、と主張する人たちがいる。

いまCDの規格(16ビット、44.1kHz)よりもハイビット、ハイサンプリングのソースが増えはじめている。
ハイレゾと呼ばれている。
ここでも、せっかくの器の大きな規格なのだから、
その良さを最大限に活かすためにも何もいじるな、という人たちが表れている。

そういう人たちからすれば、アナログ録音のものをアナログディスクにする際に、
デジタルリマスターするなど、もってのほかとなる。

CDが登場してから、CD化のためにデジタルリマスターが行なわれるものがあった。
そのデジタルリマスターをアナログディスクのマスターとして使ったレコードが出ていた。
CBSソニーから出ていたブルーノ・ワルターえコロムビア交響楽団がそうだった。

頭だけで考えれば、アナログ録音をアナログディスクで供給するのに、
途中でデジタル処理(デジタル機器)を通すのは、音を悪くするだけのことにしか思えない。

それでも買って聴いてみた。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: イコライザー, 純度

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その1)

ステレオサウンド 74号の拍子はチェロのAudio Paletteである。
プロトタイプの撮影だった。
74号には、チェロを興したマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。

レヴィンソンはMLAS(マークレビンソン)時代のアプローチ、
つまりモノーラル構成のコントロールアンプで、入力セレクターとレベルコントロールだけのML6、
消費電力が片チャンネルで400Wながら出力25WのAクラス・パワーアンプのML2を、
非常にピュアリストのオーディオマニアのための製品、と呼んでいる。

確かにそうだった。
これらのアンプに憧れた時期が私にもあった。
そして、これがピュアリストのオーディオマニアのためのモノだと思い込んでいた。

けれど、Audio Paletteは6バンドのイコライザーである。
Audio Paletteがなくとも音は再生できる。
いわばピュアリストのオーディオマニアからみれば、非常に高価な不要物ということになる。

けれどレヴィンソンは「ピュアリストアプローチを忘れたわけではない」ともいっている。

ML6、ML2を開発したのもピュアリストアプローチからであって、
Audio Paletteを開発したのもAudio Paletteからである。

矛盾ではないか、詭弁ではないか、と思われるかもしれない。
だがピュアリストアプローチとは、いったいどういうことなのか。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: アナログディスク再生, サイズ

サイズ考(LPとCD・その1)

CDが1982年に登場して、もう30年以上が経つ。
CDは片手で持てる。
その名のとおりコンパクトなディスクである。

最初CDを見て触れた時、小さいな、と感じた。
それまでプログラムソースとしてもっとも聴いていた(さわっていた)のはLPの12インチだから、
CDのサイズはかなり小さく感じた。

CD登場以前からオーディオをやってきた者にとっては、
CDのサイズはシングル盤(7インチ)よりも小さいわけで、
けれどシングル盤が片面に一曲ずつしか記録できないのに対して、
CDは片面だけでLPよりも長い時間を記録できるから、よけいに小さく感じたものである。

それにシングル盤はドーナツ盤といわれるように中心の穴が大きい。
だから片手で持てるわけだが、実際にプレーヤーにのせるときには両手を使う必要がある。

CDはトレイにのせるのに両手は必要としない。
むしろ両手でやろうとすると面倒である。片手で持ち、片手でトレイにセットできる。
だからこそコンパクトディスクなのだと思う。

そんなCDを、いまでも小さいな、と感じることがある。
その一方で、アナログディスク(LP)を大きいと感じる人(世代)もいるようだ。

つまり12インチが私にとって標準サイズになっていることに気づかされる。
だから、いまでもCDを小さいと感じるわけだ。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: きく, 老い

まるくなるということ

昨夜書いたフランス映画「オーケストラ!」のこと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のこと。
これを、若いころ、とんがっていたのが年取ってまるくなってしまっただけだろう、と読もうと思えば読める。

年取ってまるくなった、よくいわれることである。
でも、このことが意味しているのは、少し違うところにあるように思っている。

若いころ針のようにとがっている。
年取ってまるくなるとは、針先が摩耗して丸くなることだと思われがちだが、
私は上下左右全方向に針が増えていって、全体のかたちとして球体になることを、
まるくなる、というふうに解釈している。

若いころの針は、本数がすくない。それにある方向にだけ向いていたりする。
だからこそ、相手にとがっている、と感じさせるだけであって、
歳を重ねて、さまざなことを体験していくことで、針の本数は増え、
いままで針のなかった方向に針が生じていく。

そうやって針全体が形成するかたちは球体になっていくのが、まるくなることであり、
決して針先が摩耗して丸くなってしまうわけではない。
これが理想的な歳の重ね方なのだと思う。

私はまだいびつなかたちだと自覚している。
どこまで球体に近づけるのかはわからない。

そして針先を向けるのは、外に対してではなく、
内(裡)に対して、であるはずだ。