Archive for 10月, 2014

Date: 10月 29th, 2014
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その8)

話がそれるように思われるかもしれないが、ひとつ思い出したことがあるので書いておく。
1987年に大建工業がスピーカーシステムCRAFT-α9000を出した。

それまでオーディオとは関係のなかった企業のオーディオへの参入であり、
大建工業のスタッフの方が、ステレオサウンドの試聴室にCRAFT-α9000を持ち込まれた。
音を聴き、説明を受けた。

後日、井上先生の新製品の試聴があった。
そのときにCRAFT-α9000の話になった。
どうだった? ときかれたので、話した。

そのとき井上先生がいわれたことが今も記憶に残っている。
「それは、もう木じゃないね」だった。

CRAFT-α9000は振動板にαウッドと呼ばれる新素材を採用した平面振動板による3ウェイのシステムだった。
αウッドは、中部コーン製作所と京都大学の木材研究所との共同開発で生れてきたもので、
アセチル化処理により木材の欠点を改良した、というものだった。
細かなことはインターネットで検索すれば出てくるので省略するが、
大きな特徴として水を吸いにくい(吸わない)ので腐らない、ということだった。
経年変化もわずかということだった。

自然素材である木の欠点を改良する。
いいことのように思えるけれど、そこに井上先生の一言で考えさせられた。

木の欠点をなくすことで、木の良さも失っている。
それはもう木とは呼べない、ということだった。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その4)

ソニーのブースで、スタッフの人が言っていた。
4Kには最低でも、このくらいのサイズで見てほしい、といったことを。

ソニーのブースのスクリーンは120インチだった(と記憶している。)。
このことはソニーのスタッフはいうとおりであり、
映像としての情報量が増えていけば、画面(スクリーン)のサイズも大きくなっていて、
1インチあたりの画素数も高くなっていかなければならない。

実家にあった古いテレビはモノクロ。
幼いころなのでサイズまでは正確に記憶していないけれど14インチくらいだったはずだ。
この時代に20インチ以上のテレビはあったのだろうか。
あったとしても、このころのテレビ放送には20インチ、それ以上のサイズは必要としなかったのではないか。

三菱電機が37インチのテレビを発表した時、ステレオサウンドで働いていたから、
HiVi編集部に、この37インチのテレビが搬入された日のことはよく憶えている。

エレベーターに乗るのか、重量はどのくらいなのか。
前の日から搬入の大変さが予想されていた。

液晶テレビが当り前の世代にとって、37インチの三菱電機のテレビの大きさはどう映るだろうか。
とにかく大きい、と感じた。画面サイズは想像できていたけれど、奥行きは想像をこえていた。
こんなに大きい(デカイ)テレビが、そんなに売れるのだろうか、と、個人的な感覚で思ってしまったが、
世の中には受け入れられていった。

このことが関係しているのか、テレビということに関して、36インチくらいでいいと思っている。
そんな人間だから、4Kに対してもそれほど関心がなかったわけだ。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その11)

目の前に紙が一枚ある。
手に取り、ぐしゃっとまるめる。

どんなに細心の注意をはらっても、まるめた紙と同じように別の紙をまるめることはできない。
まるめた紙は似ているまるめた紙はあっても、まったく同一のまるめ方の紙はおそらく存在しない。

だからといって、まるめた紙を「芸術(アート)だ」といえるわけがない。
だが、現実にはこれと同じことをして、「芸術(アート)だ」という人がいる。

まるめた紙がアートとなるのか。
まるめた本人がそういうのであれば、少なくともまるめた本人にとってはアートということになる。
本人だけでなく、一人以上の人が賛同してくれればどうなるか。
アートなのだろう。

ときとして、この程度であってもアートであるけれど、
これでは絶対にデザインにはならない。

その9)に書いた「4343よりも4333がデザインがいい」という人は、
まるめた紙をアートだといい、デザインだ、といっている人である。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その13)

録音されたモノを再生する、という行為で、
高城重躬氏の行為と、市販されているプログラムソースを購入して鳴らす、という私を含めての一般的な行為、
このふたつの行為の違いはなんなのか。

別項「ハイ・フィデリティ再考」の(その29)で書いたことをくり返すことになる。

High Fidelity ReproductionかHigh Fidelity Play backの違いである。
High Fidelity Reproductionは、誰かがどこかで録音したプログラムソースを鳴らす行為であり、
High Fidelity Play backは、高城氏がやられていた行為である。

この考えが一般的がどうかはわからないが、私はそう考えている。
グレン・グールドがいうところの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」、
録音は未来であるためには、reproductionでなければならない。

reproduction(リプロダクション)には、High Fidelity ReproductionとGood Reproductionとがある。
1950年代にイギリスの音響界で、ハイ・フィデリティについて討論がなされていたころ出て来た概念が、
Good Reproduction(グッド・リプロダクション)であり、
最近のステレオサウンドで、ハイ・フィデリティとグッド・リプロダクションの扱われ方には、
いくつかいいたくなるけれど、ここでは控えておこう。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その12)

録音の対象であるスタインウェイが置かれた部屋での再生。
そこでほぼナマのスタインウェイの音と判断がつかないレベルの音が出たとしても、
スタインウェイのピアノを、その場から出した状態で、もう一度再生してみたらどうなるか。

ずいぶん違う印象の音になることはまちがいない。
スタインウェイのピアノが置かれた状態では、
ナマのスタインウェイの音と再生音との区別がはっきりとわからなかった人でも、
スタインウェイのピアノがなくなってしまった状態では、わかる人も出てくるはず。

このことで高城重躬氏が追求されていた「原音再生」を否定はしないし、できもしない。
ピアノがあることの、再生音への影響は高城重躬氏もよくわかっておられたであろうし、
あくまでも高城氏のリスニングルーム(スタインウェイのピアノが置かれた部屋)という、
非常に限られた条件下での原音再生であるのだから。

高城氏がLPも再生されていたのは知っている。
重量級のターンテーブルプラッターを、
オープンリールデッキのモーターを流用しての糸ドライヴという手法を、かなり昔からやられていた。

けれど高城氏の著書を読むかぎりでは、あくまでも音の追求ということに関しては、
LPで、ということではなく、自身で録音されたスタインウェイの音である。

高城氏がオーディオ、音について書かれたものを読む際に忘れてはならないのは、このことである。
とはいえいったん録音したものの再生であることには、レコード再生も自宅録音の再生も変りはない。

たとえば同じ部屋をふたつつくり、片方の部屋にはスタインウェイのピアノ、
もう片方にオーディオのシステムを置く。

ピアノの音うマイクロフォンで拾い、録音せずにそのまま隣の部屋のオーディオで鳴らす。
これでそっくりの音が出るように追求する、という原音再生の手法も考えられる。
けれど高城氏はそうではない。いったん録音されている。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その6)

サンスイのプリメインアンプAU-D907 Limitedを買ったことは何度か書いているとおり。
それからSMEの3012-R Specialも無理して買った。

AU-D907 Limitedは型番からもわかるように台数限定だった。たしか1000台だったはず。
3012-R Specialも、ステレオサウンドに最初広告が載った時には、限定、と書いてあった。
結局、SME(もしくはハーマンインターナショナル)が思っていた以上に売行きが良かったのだろう、
限定ではなく通常の製品になっていた。

オーディオ機器にはLimitedの型番がモノが他にもいくつもある。
Limitedとつかなくとも限定のオーディオ機器もいくつもある。

マニアの心理としてLimitedの文字には弱い。
それはなぜなのか。
「いい音で聴きたい」という気持よりも「人よりもいい音で聴きたい」という気持が、
時として強く、その人自身を支配しているからではないのか、と思う。

AU-D907 Limitedも3012-R Specialも、かなり無理して買っている。
これらが限定ではなかったら、そこまで無理はしなかったであろう。

いま買わないと、もう手に入らなくなる。そんなあせる気持もあった。
しかもAU-D907 Limitedも3012-R Specialも、音を聴かずに買っている。

なぜそこまでして買ったのだろう。
「いい音で聴きたい」という気持からだ、とは、もちろんいえる。
オーディオマニアのほとんどの人が、おそらくそういうだろう。

でも、やはり「人よりいい音で聴きたい」という気持があったからだ、ともいえる。

このことだけではない、オーディオマニアとしての「いい音で聴きたい」ための行動を、
少し違う視点からふり返ってみると、どうしても「人よりいい音で聴きたい」という気持があったことを、
少なくとも私は否定できない。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: audio wednesday

第46回audio sharing例会のお知らせ(賞とショウ)

11月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

インターナショナルオーディオショウもハイエンドオーディオショウも、
showをショーではなく、ショウとしている。
今年もあと二ヵ月ほどだ。
11月、12月に出るオーディオ雑誌では、それぞれ独自の賞を特集する。

showも賞も、(しょう)と読む。
単なる偶然なのだろうが、オーディオ雑誌の賞の在り方をみていると、
単なる偶然なのだろうか、という気がしてくる。

賞はshowなのか。
この関係について、何か話せるような気がしている。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

戻っていく感覚

川崎先生の10月28日のブログ(『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』)を読んで、
五味先生の文章を読み返した。

ステレオサウンド 51号、オーディオ巡礼である。
     *
 二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
 再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的エレクトロニクスの進歩に耳の馴れた吾人が聴いても、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
 誤解をおそれずに言えば、二流の再生装置ほど、物理特性を優先させることで芸術を抽き出せると思いこみ、さらに程度のわるい装置では音楽的美音——全音程のごく一部——を強調することで、歪を糊塗する傾向がつよい。物理特性が優秀なら、当然、鳴る音は演奏に忠実であり、ナマに近いという神話は、久しくぼくらを魅了したし、理論的にそれが正しいのはわかりきっているが、理屈通りいかないのがオーディオサウンドであることも、真の愛好家なら身につまされて知っていることだ。いつも言うのだが、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンがオーケストラを背景につねに音場空間の一点で鳴ったためしを私は知らない。どれほど高忠実度な装置でさえ、少し音量をあげれば、弦楽四重奏のヴァイオリンはヴィオラほどな大きさの楽器にきこえてしまう。どうかすればチェロが、コントラバスの演奏に聴こえる。
 ピアノだってそうで、その高音域と低域(とくにペダルを踏んだ場合)とでは、大きさの異なる二台のピアノを弾いているみたいで、真に原音に忠実ならこんな馬鹿げたことがあるわけはないだろう。音の質は、同時に音像の鮮明さをともなわねばならない。しかも両者のまったき合一の例を私は知らない。
 となれば、いかに技術が進歩したとはいえ、現時点ではまだ、再生音にどこかで僕らは誤魔化される必要がある。痛切にこちらから願って誤魔化されたいほどだ。とはいえ、物理特性と芸術性のあいまいな音はがまんならず、そんなあいまいさは鋭敏に聴きわける耳を僕らはもってしまった。私の場合でいえば、テストレコードで一万四千ヘルツあたりから上は、もうまったく聴こえない。年のせいだろう。百ヘルツ以下が聴こえない。難聴のためだ。難聴といえばテープ・ヒスが私にはよく聴きとれず、これは、私の耳にはドルビーがかけてあるのさ、と思うことにしているが、正常な聴覚の人にくらべ、ずいぶん、わるい耳なのは確かだろう。しかし可聴範囲では、相当、シビアに音質の差は聴きわけ得るし、聴覚のいい人がまったく気づかぬ音色の変化——主として音の気品といったもの——に陶然とすることもある。音楽の倫理性となると、これはもう聴覚に関係ないことだから、マーラーの言ったことはオーディオには実は該当しないのだが、下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数の伸び、歪の有無などばかり気にしている、それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
読み返して、いま書いていることのいくつかの結論は、ここへ戻っていくんだ、という感覚があった。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その5)

オーディオにおける音の追求は、あくまでもいい音で聴きたい、なのであって、
人よりいい音で聴きたい、と思う気持ちが、人よりもいいモノを持ちたい、という気持を生んでしまう。

人よりいい音で聴きたい、という気持を全否定はしたくない。
こんな気持も、必要な時期が人にはあるだろうし(私にはあった)、
この気持を持ったことがない、という人よりも、そんな時期があったな……、という人の方がいい。

けれど、そんな気持も行き過ぎてしまうと、別項で書いた人のようになってしまうかもしれない。

誰かに自分の音を聴いてもらう、
今度は誰かの音を聴かせてもらう、
けっこうなことではある。

けれど、このことが「いい音で聴きたい」気持よりも「人よりいい音で聴きたい」気持を肥大させはしないだろうか。
そして「人よりもいいモノを持ちたい」気持へとなっていく。

この「人よりもいいモノを持ちたい」気持をもってしまった人を見逃さない人がいる。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その19)

「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた。」
黒田先生は、「そういう経験がこれまでなかった」だけに、びっくりされている。

この時の黒田先生は「疲れをとるためにさまざまなことをしてみた。にもかかわらず、
あいかわらず後頭部がなんとなく重く、身体もだるかった。
疲れはちょっとやそっとのことではぬけそうになかった」ほどに疲労されていた。

音楽を家庭で聴くという行為は、レコードを選ばなければならない、ということで能動的な行為である。
この時の黒田先生は、レコードを選ぶのが億劫だった、と書かれている。

レコードなんて、すぐに選べるではないか。
そう思ってしまえる人と黒田先生とは、レコードの選び方に違いがあるのではないか。

「ミンミン蝉のなき声が……」が載ったステレオサウンドは52号。
1979年9月に出ている。黒田先生は1938年1月1日生れだから、この時41歳。
30代の黒田先生であったら、レコードを選ぶのを億劫がられることもなかったかもしれない。
     *
 ききたいレコードに対しては、どうしても身がまえる。身がまえる──という言葉が正しいかどうかはともかくとして、音楽に対して正座する。正座したいと思う。しかし、場合によっては、関節のあたりがいたくて、正座できないこともある。本当は、正座がしたくともできない状態でも、きいてしまって、結果として正座してしまうのがいいのだろう。これまでは、そうやって、きいてきた。ただ、今回は、それができなかった。
 そのために、ふいをつかれて、よろめいて、身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさに気づいた。そうしてそのことは、必然的に、音楽をきくことの微妙さ、むずかしさ、きわどさにかかわる。そうか、疲れれば、ミンミン蝉のなき声しかきけないこともあるのかと、わかりきっていることを、あらためて思った。
     *
若ければ、「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づくこともないだろう。
けれど人は誰もが歳をとる。
歳をとることで「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づく。

「頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」ことを、
私も体験している。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その16)

電気工事の人が使うアナログ式テスターは、小さいとはいえない。
かなり大きいサイズであることが多い。

電気工事の人が使う工具はテスターだけではない。他にもいろいろな工具を必要とする。
だから必要な性能であれば、工具は小さくて軽い方がいい面もある。
アナログ式テスターは、どうしても大きくなってしまう。
サイズ(小さいということ)では、デジタルテスターの方が有利である。

にも関わらずアナログ式テスターの方がいい、と言っていた人は、
「針が振れるから」ということだった。

正確な測定値を読みとるということではデジタルテスターの方が便利なのだけど、
そうではなく、導通があるのかないのか、電気が来ているのかそうでないのか、
そういった測定値が必要なのではなく、状態を確認する場合には、針が振れることが重宝する、ということだった。

あとはおそらくデジタルテスターは、電圧・電流を測る時でも電池を必要とする。
電池がなければデジタルテスターは動作しない。

アナログ式テスターは、抵抗値を測る時には電池が必要となるが、
電圧・電流の測定には電池は必要としないこともあってだと思う。

アナログ式テスターが大きくなってしまうのはメーターのためである。
アナログ式テスターのメーターの文字盤にはいくつもの目盛りが描かれている。
電圧・電流・抵抗を測るのがテスターの基本なのだから、少なくともこれだけは必要となり、
さらにアナログ式テスターではレンジの切替えもやる。

デジタルテスターではそんなことは必要としない。
電圧を測るのか電流なのか、抵抗値なのかを指定するだけである。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: prototype

prototype(8Kを観て)

オーディオ・ホームシアター展でのNKHの8Kは、プロトタイプといえよう。
NHKのブースに運び込まれていた器材はかなりの数だった。

考えてみれば音声でも22.2チャンネルなのだから、
スピーカーシステムは22本プラスサブウーファーが2本、
それを駆動するパワーアンプも同じ数だけ必要になるし、
それ以外にも信号処理のために必要な器材もあったのだろう。

どの器材が、どういう働きだったのかは、見ただけではほとんどわからなかった。
とにかくすごい数の器材が置いてあり、ほとんどすべてが動いていたように感じていた。

器材の数、消費電力の多さ、発熱量の多さ、その他、家庭におさまるようにするためには、
クリアーしなければならないことが数多くあるはずだ。
それらは2020年の東京オリンピックまでにはクリアーされるはずだ。

とにかく、現時点でやれることをやってみた。まさしくプロトタイプだと思う。
こういうプロトタイプが、オーディオ関連のショウで展示されることが久しくなかった。

プロトタイプのみが味わわせてくれる昂奮が、8Kにはあった。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その4)

価格も数字である。はっきりとした数字である。
これも数字なのだ、と実感している。

数字といえば、カタログに記載されているスペックがある。
周波数特性、歪率、S/N比、インピーダンスなど、さまざまな項目の数字(数値)が並ぶ。

価格もカタログ・スペックも数字が並んだものだ。

スピーカーシステムのスペックに、再生周波数帯域がある。
これをとても気にする人がいる。
たとえばあるスピーカーシステムが25Hz〜20kHz、別のスピーカーシステムが30Hz〜20kHzだとしよう。
こんな差は、私はまったく気にしないけれど、
そうでない人にとっては、前者のスピーカーシステムの方が低域の再生能力に優れている、
ということになるようだ。

これはほんの一例で、他にもいくつかの例を聞いたり見たりすることがある。
数字のもつ力を無視できない、と思う。

数字(数値)によって、選択が決定されることもあるように感じられる。
つまり重要な判断材料なのだろう。

そうであれば、価格という数字(数値)もそうなのだろう。
人よりもいいモノを持ちたい、という気持が、どこかで、人より高いモノを持ちたい、
そんなふうにすり変ってしまうのだろうか。

そうでなければ「もっと高くした方が売れますよ、高くしましょう」ということにならないはずだ。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 理由

「理由」(その28)

白川静氏が書かれている。

【きよし(浄・清)】純粋で美しい。余分のものや汚れのないことをいう。対義語の【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れること。これに対して「きよし」は、本来の生気を保っている状態をいうものであろう。もとは人の生きざまをいう語であろうが[万葉]では山川についていうことが多い。

ならば「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」ということは、
本来の生気を保っている状態になることであるはずだ。
本来の生気を保っている状態以上にはならないのではないか。

「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」と頻繁に口にする人の中には、
どうも勘違いされている方がいるように感じる。
浄化を、あたかも本来の生気を保っている状態以上にしてくれるのだ、と。

【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れることならば、
浄化によって、本来の生気を保っている状態とは、本来の形をとり戻す、ということになるだろう。

本来の形がいびつなものであったなら……、と考えてしまう。
浄化とは、己のいびつな形から目をそらすことではない、と。

Date: 10月 26th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その15)

平面であることがすべて悪いわけではなく、
平面であることの良さが感じられるメーターであれば、OPPOの液晶によるメーターをひどいとはいわない。
けれどOPPOのヘッドフォンアンプについているメーターは、平面であることの良さがまったく感じられなかった。

その12)で、メーターに時計と共通するものを感じる、と書いた。

メーターも時計も文字盤と針があるだけでなく、透明なガラス(もしくはプラスティック)が前面にある。
奥から文字盤、中間に針、手前にガラスが、それぞれの間隔をもって配置され、閉じた空間を形成している。
この間隔が、時計というモノに対しての感覚をつくっているのではないか。

空間の存在しない表示をしてしまう液晶表示のメーターは、何を模倣しているのか。
ただ針の動きを模倣すれば、液晶でメーターが表示できる、というものではないはずだ。

時計もメーターも閉じた空間の中で針が動く。
直読ということでは、針と文字盤による表示よりも、数字での直接表示が有利だろう。
なのに、なぜ針の動きに惹かれるのか、針で表示することにメリットはなにかあるのだろうか。

メーターはアンプやカセットデッキの他にも、テスターにもついている(いた)。
私が最初に買ったテスターは、いわゆるアナログ式テスターである。
大きなメーターがついていた。

そのころデジタルテスターも登場していたかもしれない。
だがデジタルテスターは、当時は高価だった。いまとは違っていた。

デジタルテスターもどんどん安価になっていき、いま秋葉原に行けば、デジタルテスターの方が数多く並んでいる。
私もデジタルテスターを使っている。

どのくらい前になるだろうか。
デジタルテスターがシェアを逆転しはじめたころだった。
ある電気工事の人が、テスターの話をしているのが聞こえてきた。

デジタルテスターも良くなっているけれど、まだまだアナログ式テスターだ、ということだった。