Archive for 12月, 2013

Date: 12月 24th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その9)

現代に生きる人は忙しい、などといわれている。
その忙しい人にとっては、
ワーグナーの楽劇もツール・ド・フランスも長すぎる、ということになるであろう。

長すぎるから……、
通しで聴く(観る)など、そんな時間はとれない……、
そんな時間があったら、他のことをする……、
そういう忙しい人にとっては、ワーグナーの楽劇を、自分のものとすることはできない。

ワーグナの楽劇の長さも、ツール・ド・フランスの長さも、
人によっては長すぎると感じてしまう、その長さも、
ワーグナーの楽劇、ツール・ド・フランスならではの個性のうちだといえよう。

だから、長さとじっくり、最初から最後まで通してつき合う必要があるし、
それを聴き手に要求している。

そういう作品をハイライト盤で何度聴こうと、
多くの人のハイライト盤で聴こうとも、
ワーグナーの楽劇を聴き得た、ということにはならない。

こんなことを書いている私だが、
「パルジファル」を通しで頻繁に聴いているわけではない。
いままで何度聴いただろうか。
数えたことはないけれど、そう多くはない。

それでも「パルジファル」を聴くときは、
最初から最後まで通して聴いてきた。

Date: 12月 24th, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その8)

「五味オーディオ教室」からの引用だ。
     *
 かつてヴァイオリニストのW氏のお宅を訪れたとき、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴かせてもらったことがある。そのあと、オーケストラを聴いてみたいと私は言い、メンデルスゾーンの第四交響曲が鳴り出したが、まことにどうもうまい具合に鳴る。わが家で聴くオートグラフそっくりである。タンノイIIILZは何人か私の知人が持っているし、聴いてきたが、これほどナイーブに鳴ったのを知らない。「オリジナルですか?」とたずねた。そうだという。友人のは皆、和製のエンクロージァにおさめたもので、箱の寸法など寸分違いはないのに、キャビネットがオリジナルと国産とではこうまで音は変わるものか。
(中略)
 でも本当に、わが耳を疑うほどよい響きで鳴った。W氏にアンプは何かとたずねるとラックスのSQ38Fだという。「タンノイIIILZとラックス38Fは、オーディオ誌のヒアリング・テストでも折紙つきでした。〝黄金の組合わせ〟でしょう」と傍から誰かが言った。〝黄金の組合わせ〟とはうまいこと言うもので、こういうキャッチフレーズには眉唾モノが多く、めったに私は信じないことにしているが、この場合だけは別だ。なんとこころよい響きであろう。
 家庭でレコードを楽しむのに、この程度以上の何が必要だろう、と私は思った。友人宅のIIILZでは、たとえばボリュームをあげると欠陥があらわれるが、Wさんのところのはそれがない。カートリッジはエンパイアの九九九VEだそうで、〈三位一体〉とでも称すべきか、じつに調和のとれた過不足のないよい音である。
 畢竟するに、これはラックスSQ38Fがよく出来ているからだろうと私は思い、「ラックスもいいアンプを作るもんですな」と言ったら「認識不足です」とW氏に嗤われた。そうかもしれない。しかしIIILZと38Fさえ組合わせればかならずこううまくゆくとは限らないだろうことを、私は知っている。つまりはW氏の音楽的教養とその生活が創造した美音というべきだろう。W氏は、はじめはクォードの管球アンプで聴いていたそうである。いくらか値の安い国産エンクロージァのIIILZでも聴かれたそうだ。そのほかにも、手ごろなスピーカーにつないで試した結果、この組合わせに落着いた、と。
 私事ながら、私はタンノイ・オートグラフを鳴らすのにじつに十年を要した。それでもまだ満足はしていない。そういうオートグラフに共通の不満がIIILZにもあるのは確かである。しかし、それなら他に何があるかと自問し、パラゴン、パトリシアン、アルテックA7、クリプッシ・ホーンなど聴き比べ(ずいぶんさまざまなアンプにつないで私はそれらのエンクロージァを試聴している)結局、オートグラフを手離す気にはならず今日まで来ている。それだけのよさのあることを痛感しているからだが、そんな長所はほぼW家のIIILZとラックス38Fの組合わせにも鳴っていた。
     *
ヴァイオリニストのW氏とは、
ステレオサウンド 19号に載っている「五味オーディオ巡礼」に登場された鷲見健彰氏のこと。

この五味先生の文章を読んでいたからこそ、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」でのコーネッタが置いてある部屋、
そこでのアンプ(ラックスのSQ38Fではないけれど、管球式ということで共通している)との組合せ、
これらのことが、コーネッタというスピーカーがなんであるのか、
ほとんど知らないままでも、とても良さそうな組合せに思えた。

この組合せにも、
五味先生が書かれているところの「長所」が鳴っているはずだ、と。

Date: 12月 23rd, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その7)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’79」に載っていた
タンノイ・コーネッタの部屋は印象に残っていた。

あまりモノがない六畳という広さ。
このころ15歳の私にとって、最も身近なリスニングルームに思えたからだ。

高校を卒業して進学。
それも親元を離れて、ということになれば、
こういう部屋でひとり暮らしを始めるんだろうな。

本とレコード、
それにオーディオ。
あとは最低限の家具。

これだけあれば不満はない。
若いときであれば、これだけで暮らしていけるというものだ。

コーネッタ、いいな、と思い眺めていた。

これがもし他のスピーカーシステムだったら、
たとえば国産のブックシェルフ型とか、アメリカのブックシェルフだったら。
ブックシェルフではなく、フロアー型システムだったら、
印象は大きく変っていて、30年以上も経った今、
こうやって思い出して書いたりはしなかったはずだ。

タンノイの、このサイズの同軸型ユニットは、
私にとって最上級機の15インチのユニットと同じくらいに存在感をもっている。
これも五味先生の「五味オーディオ教室」を読んでいたからである。

Date: 12月 22nd, 2013
Cate:

音について(その3)

スピーカーの振動板が前に動いたときに、
振動板の前面にある空気を押し出しているのであれば、
振動板の動くスピードが速ければ速いほど、
押し出される空気のスピードも増す事になる。

それがもし音だとすれば、
音速が周波数や振動板の振幅に関係なく、同じであることと矛盾することになる。

こんな簡単なこと、基本的なことが、
オーディオに関心を持ちはじめたころ、すぐには理解できなかった。

どうしても振動板が前に動く、
空気が押し出される、
それが音になる、と捉えてしまっていた。

振動板の動きがどうして音となるのか。
それは水面に、何か小さな物が落ちたときに生じる波紋を思い出せばいい。

波紋が周囲に広がっていく。
けれど中心にあった水が波紋とともに周囲に移動しているわけではない。
あくまでも波紋が周囲に広がっていく(伝わっていく)。

音も同じである。
これにすぐには気づけなかった。
まわりにオーディオ、音に詳しい人がいれば、
疑問をぶつけることもできたのだが、当時の私のまわりには誰もいなかった。

だから自分で考えて気づくしかなかった。

Date: 12月 22nd, 2013
Cate:

音について(その2)

音速は、空気中では秒速約340mである。
温度によって多少変化するけれど、空気中であるかぎり340mからそう大きくは違ってこないし、
20Hzの低音も20kHzの高音も、音速は同じであって、
高音のほうが音速が速い、ということはない。

こんなことは音の、ごく基本的なことである。

けれど、いまから30数年前、
つまりオーディオに興味を持ちはじめたころの私は、
ある疑問に悩んでいた。

スピーカーは振動板を前後(ピストニックモーション)させて、
空気の疎密波をつくりだす。
このことは20Hzの音を出しているとき、
振動板は一秒あたり20回ピストニックモーションする。
20kHzでは20000回のピストニックモーションである。

ということは高音になればなるほど、振動板の振動回数は増えていく。
つまりは振動板の動くスピードが増していくことになる。

これだけではない。
ウーファーの場合、大口径ウーファーと小口径ウーファーとでは、
低音に関して同じ音圧を得るには、小口径ウーファーは振幅が大きくなる。

20Hzで、同じ音圧を得ようとしたら、小口径ウーファーは大口径ウーファーよりも、
大振幅で動くことを求められるから、そのストロークが長くなった分だけ、
振動板の移動距離は長くなっている。
つまり大口径ウーファーよりも小口径ウーファーは、
振動板が速く動く必要がある。

振動板がどんなに速く動こうとも、音速は変わらない。
ようするに、振動板は振動板の前面にある空気を動かしているわけではないからだ。
あくまでも振動板をピストニックモーションさせることで、疎密波を作り出しているだけである。

Date: 12月 21st, 2013
Cate:

音について(その1)

自分が何がわかっていて、何がわかっていないのか、
それを正しく知ることの難しさだけでなく、
同じ趣味をもつ人と話していて、目の前の人が何がわかっていて、何がわかっていないのか、
これを正しく知ることはもっと難しいことなのかもしれない。

それでも会話は成り立つ。
成り立っているようではあるけれど、どこかで食違いが発生したりすることだってあろう。
そんなつもりで話したのではないのに、
別の解釈で受けとめられ、それがいいほうへの理解へと変っていったり、
そのことがこちらへの刺戟(気づき)ともなったりするのだから、
会話はおもしろい。

とはいえ、話していると、私にとって常識であり、
オーディオマニアにとっては多くの人にとっても、そのことは常識である、
そう思っていたことが、意外にもそうではなかった、ということが何度かある。

これはもう話してみるからわかることである。
話してみないことにはわからない。
オーディオマニアすべての人にとっての常識なんてものは、世の中には存在しないのかもしれない。

ここでは、音について書いていこう、と考えている。

何人かの人と話していて、あっ、と気がついたことに音の性質に関することがあったからだ。

Date: 12月 21st, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その24)

10代、20代の若いオーディオマニアならば、自分のルール(制約)をもっていなくとも、
それに関しては何も言わない。

若いときには、むしろルールなど設けずに、
積極的にあれこれ試した方がいいことだってあるからだ。

菅野先生が以前よくいわれていたことに「若さはバカさ」がある。
ある程度の年齢になってみると、
「若さはバカさ」の意味が実感できるようになる。

「若さはバカさ」である。
へんに小さくまとまるよりも、「若さはバカさ」を発揮した方がいい。
そうやっていれば、自分の裡にルールが形作られてくる。

「若さはバカさ」ができる年齢とはいつまでなのだろうか。
20代でなくなったら、「若さはバカさ」といえなくなるのだろうか。

30も後半になると、「若さもバカさ」でもないだろう、
まして40すぎたら、もう若くもないし……、という気持になるかもしれない。

けれど、常に自分よりも年上のオーディオマニアは誰かしらいてくれる。
そういう人がいてくれるあいだは、その人からみれば、
30になろうと40になろうと、50をすぎても、若いということになるのだから、
「若さはバカさ」をどこかに保ったままでもいいのかもしれない、とも思う。

ただ自分よりも年上の人よりも徐々に年下の人が多くなってくる。
そのころから、若い人たちに対して「若さはバカさ」なんだから、というようになるのかもしれないし、
そういう年齢になったときに、自分だけのルールを持っていなかったら、
もう「若さはバカさ」ではすまされない──、そんな気がする。

Date: 12月 20th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その23)

ルールを持たない者は、
どんなスピーカーシステムでもマルチアンプにしてしまうのではないだろうか。

内蔵ネットワークよりもマルチアンプ。
そうすることによる音の変化は、確かに大きい。
良くなったといえるところも、いくつもある。

マルチアンプの可能性を、私は少しも否定はしない。
けれどすべてのスピーカーシステムをマルチアンプにしましょう、
マルチアンプにすれば音が良くなります、
こんなことは私は絶対にいわないし、このことには疑問もある。

マルチアンプにするにふさわしいスピーカーシステムとそうでないスピーカーシステムは、
確実にある。
それをどう見極めるか。
それは、その人次第である。

私がマルチアンプ化しないと考えているスピーカーシステムを、
積極的にマルチアンプで鳴らしたい、と考える人もいることだろう。
それはそれでいい、と思っている。

それが、その人なりのルールに従ってのことであれば、
私が口出しすることではないからだ。

だが、傍から見ていると、そうではない人がはっきりといる。
そういう人が、マルチアンプをすすめている文章を書いてたりすることがある。

Date: 12月 20th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その22)

10数年まえのこと。
ある知人が、ウェブサイトを作っていた。
ウェブサイトには、まず紙の本と違いページ数という制約がない。
当時はまだアナログ回線が主だったから、
あまり大きなサイズの画像をは表示するのに時間を要するということはあったけれど、
それすらもいずれは時間が解決することであったし、事実そうなっていった。
それに時間がかかるといっても、表示できないわけではない。

紙の本とはいくつもの点で異るところはある。
けれど紙の本での制約はあまりなかった、ということもできる。

だからこそウェブサイトをつくっていくうえでは、ルール(制約)を自分で決めておく必要がある。
私は最初にそう考えて、audio sharingをつくっていった。

知人はどうもルールは決めていなかったようだ。
彼のつくるサイトは、見るたびに混沌としていき、
お世辞にも美しいサイトとはいえなかった。

なんでもできるから自由である──、とはいえない。
それは自由ではなく、好き勝手にやっているだけでしかない。
知人は、そのことに結局気づくことはなかったようだ。

このことはウェブサイトについてだけいえることではない。
紙の本でもまったく同じことがいえる。

オーディオにおいても、そうだ。

Date: 12月 19th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その21)

いい音を得るために、なぜルール(制約)を自らつくる必要があるのか。
答は、音の美を得るため、である。

ルールを決めずに、目的のためになんでもやる。
そういう考えでやるのはいい。
私も、一度はそういうことを試してきている。

あれこれやってきた。
やってきた上で、ルールを決めてきた。

別項で書いている、太いスピーカーケーブルを部屋の真ん中を這わせることは、
私にとってはルールに反することになる。
だからやらないだけのことである。

それは私にとってのルールであり、
ほかの誰かは私のルールに従う必要はまったくない。
その人なりのルールに従えばいいだけのこと。

私は私だけのルールに従う。
従うからこそ、マルチアンプ駆動をやるスピーカーとやらないスピーカーとがあることになるわけだ。

内蔵ネットワークを通さずにマルチアンプ駆動にすることで、
音は良くなる、といえる。
もちろん調整をきちんとやれば、という条件はあるものの、
可能性としてはマルチアンプにすることで大きくなることは事実である。

そしてコントロールできるところも増える。
だからこそ、自分なりのルールをもたない者は、
マルチアンプに手を出すべきではない、といいたい。

Date: 12月 19th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その8)

「パルジファル」は、ワーグナーの楽劇で、最も美しいのではないだろうか。
そして、宗教的な気配が「パルジファル」にはあるようにも感じる。

宗教的な気配とは、どんなものなのかについての説明は、うまくできない。
というかまったくできない、と書いた方がいい。

それでもクナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴けば、
そこに宗教的な気配が存在していることは、ワーグナーを通しで聴いていた聴き手には感じられる。

ワーグナーの楽劇を、ハイライト盤でしかきいた事がない人は、
「パルジファル」を聴こうとは思わないかもしれない。
でも、全曲盤でワーグナーを聴いてこなかった聴き手が「パルジファル」を聴いて、
どう感じるか──、そこにあるのは退屈なのかもしれない。

ワーグナーの楽劇は長い。
クラシックの作品の中でも、長いといえる長さである。
この長さが、ワーグナーである、とも思うことがある。

フランスにはワグネリアンが多い、ときく。
なんとなくでの印象であるが、フランス人とワーグナーがうまく合わさらないところがあった。

なぜフランス人が、ワーグナーを聴くのか。

けれど、自転車に興味をもつようになり、
ツール・ド・フランスを見ていると、
こういう競技をうみ出し、それに熱狂しているフランス人を見ていると、
ワグネリアンが多い、ということに納得がいく。

ツール・ド・フランスもワーグナーの楽劇も、とにかく長い。

Date: 12月 18th, 2013
Cate: JBL

JBLのユニットのこと(先入観・その3)

先入観は思い込みでもある。

思い込みであれば、先入観は決していいイメージではない。
はっりきと悪いイメージといっていい。

先入観は思い込みだけだろうか。
思い入れも、ある種の先入観といえなくはないだろうか。

思い込みの「込み」と思い入れの「入れ」は、
「入」という字が共通してある。
先入観にも「入」が共通してある。

またくり返すことになるけれど、
五味先生の文章からオーディオをスタートした。
それを核として、瀬川先生、岩崎先生、菅野先生、岡先生、黒田先生といった人たちの文章を読み、
肉付けしていった、ともいえる。

そんな私にとってはタンノイのオートグラフは特別な存在のスピーカーであり、
JBLの4343も、やはりまた特別なスピーカーシステムである。
他にもいくつかの特別な存在のスピーカーがある。

これらのスピーカーを鳴らす機会があったとする。
うまく鳴らなかった、としても、そこには思い入れという先入観が私にはあるから、
そこで目の前にあるスピーカーのせいだとは、決して思わない。

うまく鳴らない理由は、自分の側にある、と判断することになる。
特別な思い入れがあるから、たとえひどい音からスタートしたとしても、
いつかは必ず、と思い、鳴らし込んでいくことだろう。

Date: 12月 18th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その20)

アルテックの同軸型ユニットはデジタル信号処理とマルチアンプの組合せで鳴らしたいのに、
タンノイの同軸型ユニットでは、それをやらないのも、パラゴンと同じ理由である。

だからパラゴンと、これも同じように、
一度だけはデジタル信号処理とマルチアンプの組合せで鳴らしておきたい。
そのときの音をしっかりと耳に刻んだ上で、ネットワークに戻して鳴らすことをやりたい。

ただタンノイを同軸型ユニットを搭載したシステムに、
以前ロックウッドのスピーカーシステムがあった。
一度しか聴くことがなかった、このスピーカーシステムは、
同じタンノイの同軸型ユニットを使いながらも、タンノイのオリジナルシステムとは、
異る趣をもつシステムであり、
このロックウッドのシステムが存在していたからこそ、
バッキンガムやSRMシリーズがタンノイから登場したのではなかろうか。

ロックウッドのMajorを思い出すと、
こういうシステムに挑戦したくなる。
ロックウッドのシステムはエンクロージュアは独自の設計だったけれど、
ネットワークはユニットに付属してくるモノをそのまま採用していた。

もしいまMajor的なスピーカーシステムに挑戦するならば、
ネットワークにはUREIの813のネットワークの設計を採り入れたい。
そうすることでウーファーとトゥイーターの、構造からくる時間差を補整する。

それでうまくいったとしよう。
それでは、その成功したネットワークを、
タンノイの現行システム、たとえばウェストミンスター、カンタベリーのネットワークを、
それに置き換えて鳴らすかといえば、これもまたやらない。

このこともルールである。
私が勝手に決めた私だけが守るルールであるからだ。

Date: 12月 18th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その19)

仮想同軸配置といえるJBLのパラゴン。
このパラゴンを構成する三つのユニットの位置は、
通常のスピーカーシステムでは考えられないほど離れている。

ウーファーがもっとも奥に位置して、
トゥイーター、スコーカーが、ウーファーのホーンの開口部に取り付けられている。

それぞれのユニットから放射された音が、
聴き手の耳に届くまでの時間は、ばらばらといえる。

時間軸が揃っているかどうかの観点からすれば、
はなはだ時代遅れのスピーカーシステムということになる。

このことはいまさら指摘されるまでもなく、以前からいわれていたことであり、
デジタル信号処理が実用化されはじめたころから、
パラゴンの、それぞれのユニットの時間軸を補整する、という試みは、
パラゴンに関心をよせる人ならば、考えていたことであろう。

これはたしかに実験してみたい。
いったいどういう音に、パラゴンの音が変化するのか。
そうやって鳴らしたときが、パラゴンの音の真価なのか。
そういったことを自分の耳で確かめたい。

こういったことは実際にやってみないことにはなにもいえない。
頭の中で考えれば、理想的なパラゴンの鳴らし方ということになるけれど、
実際の鳴らし方として、それが理想的といえるのか、
最上といえるのか、そこまでいかなくともより良い鳴らし方となるのか。

オーディオはやってみないことにはわからないことがある。

もしパラゴンをそうやって鳴らして、ひじょうにいい結果が得られたとしよう。
それであれば、もし私がパラゴンを自分のスピーカーとして鳴らすときに、
デジタル信号処理とマルチアンプの組合せで鳴らすかといえば、
内蔵ネットワークに戻す、と思う。

一度、どこまで鳴るのかを確認しておきたい。
そのうえで、あえてネットワークに戻して、鳴らしはじめる。

なぜかといえば、私にとってパラゴンとはそうやって鳴らすスピーカーシステムであるからだ。
パラゴンを鳴らすうえでのルール(制約)を自分で決めて、
それを守って鳴らすこと。
これはオーディオにとって重要なことだと思っている。

Date: 12月 18th, 2013
Cate: JBL

JBLのユニットのこと(先入観・その2)

ステレオサウンド 4号から10年後に出た別冊HIGH-TECHNIC SERIES-1でも、
井上先生はJBLの130AとLE175の組合せについて書かれている。
ここでのホーンはパーフォレイテッドプレート型ではなく、
スラントプレート型の音響レンズつきのHL91である。

130Aをおさめるエンクロージュアは、
ステレオサウンド 4号ではC40(つまりハークネス)で、
HIGH-TECHNIC SERIES-1では4530。
どちらもバックローディングホーン型式である。

そういう違いはあるものの、基本的には同じユニット、エンクロージュアの組合せで、
スピーカーシステムを構成されている。

HIGH-TECHNIC SERIES-1でも、こう書かれている。
     *
システムトータルの音は、いわゆる、現在でいうJBLサウンドではないが、比較的に小音量で鳴らすときにはハイファイというよりは、ディスクならではの蓄音器的なノスタルジックな響きである。
     *
いま私は、これと基本的に同じといえるシステムで聴いている。
D130とLE175DLH、エンクロージュアはC40である。

たしかに比較的に小音量で鳴らしたときの、このシステムの音は穏やかであるし、
「蓄音器的なノスタルジックな響き」を、帯域を拡げた音とも感じられる。