Archive for 5月, 2013

Date: 5月 12th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その17)

オーディオはメカトロニクスであり、
スピーカー、プレーヤーだけではなくアンプも振動による音の変化が生じることを的確に指摘され、
実際にどう音に影響していくのかを示してくれたのは井上先生だった。

ある試聴の時、訊ねたことがある。
このアンプの天板、ここにネジを一本追加するだけでずいぶん天板の鳴りが抑えられるはずなのに……、と。

井上先生はいわれた。
「10万円のアンプでもネジを一本増やすには稟議書がいるんだよ。」

ネジといっても、天板をとめているネジの径は大きなものではない。
値段はごくわずか。しかも小売りと違い、メーカーが大量に注文・購入するのであれば、
さらに安くなるはず。

なのに10万円のアンプでも、一本増やすために稟議書が必要になるとは。
この井上先生の話をきいたときは、私自身、若かったこともあり、
すぐには、このことがどういうことを表しているのか、すぐには理解できなかった。

国内メーカーにとって10万円のアンプは、売れ筋の商品ということになろう。
となると生産台数は少なくないわけがない。
正確な生産台数を知っているわけではないから、ここで出す数字はあくまでも例えである。

1万台、10万円のアンプを生産するのであれば、ネジを一本増やすことは総数で一万本増えることになる。
しかもネジを増やすだけですむわけではなく、
そのネジのための穴を開け、ネジが締るように加工しなければならない。
当然1万個の穴を開け加工することになる。

そしてネジを締る作業もある。
これも生産台数的に考えれば、一万箇所のネジをよけいに締ることになるわけだ。

ユーザー側は一台のコストで考える。
メーカー側は生産台数のコストで考える。

その違いに気づいて、ネジ一本に稟議書ということが理解はできた。

Date: 5月 12th, 2013
Cate: 型番

型番について(その6)

1970年代のエレクトボイスのスピーカーシステムは、
プロ用としてのSentry(セントリー)、コンシューマーとしてのInterface(インターフェース)があった。

SentryシリーズもInterfaceシリーズも、外観が黒っぽかった。
Interfaceシリーズにはフロアー型のInterface:Dはそうでもないけれど、
最初にステレオサウンドに掲載されていた写真で見たInterfaceシリーズの印象が強く、
どうしても私の頭の中には、エレクトロボイスのスピーカー=黒っぽい外観、というイメージが消え去らない。

そんなこともあって、なんとなくではあるけれど、クラシックを聴くためのスピーカーとは思えなかった。
つまり、あまり強い関心を、1970年代のエレクトロボイスのスピーカーシステムに持つことはなかった。

そうなると不思議なもので、オーディオ店やその他の場所でも見かけることもなくなる。
Sentryシリーズは1980年代にも続いていたし、Sentry500が登場している。

Sentry500も黒っぽい外観を特徴とするスピーカーシステムで、
やはりクラシックをしっとりと聴くスピーカーとは感じなかったけれど、
ホーンの素材をプラスチックから木に変え、
それに応じて外観のイメージを一新したSentry500SFVは、自分のモノにしたいとは思わなかったけれど、
聴いていて気持ちのいい音のするスピーカーシステムであった。

でもInterfaceシリーズは、ついに聴く機会がなかった。
でも、いまおもうと”Interface”という型番は、
エレクトロボイスがどういう意図で名づけたのかは知らないけれど、
スピーカーというものをエレクトロボイスがどう考えていたのかを顕していて、実にいい型番である。

interfaceには、境界面という意味もある。

Date: 5月 12th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その16)

1982年の598のスピーカーシステム三機種にはフロントバッフルに、
スコーカーとトゥイーターのレベルコントロールのツマミと表示パネルがついている。
1987年の598のスピーカーシステム三機種のフロントバッフルにはレベルコントロールはない。
リアバッフルにもない。レベルコントロール機能自体が省かれている。

なぜレベルコントロールがなくなったのか。
これも聴感上のS/N比と関係してのことであある。

レベルコントロールの表示パネルはたいていプラスチック製だった。
エンクロージュアは木製。
フロントバッフルを叩いた時の音と較べると、
レベルコントロールのプラスチック製のパネルを指ではじいた音は異質なものである。

この異質な音はスピーカーユニットに信号が加わり振動が発生することで、
その振動がフレームからフロントバッフルに伝わり、このプラスチック製のパネルとも振動させ、
不要輻射の発生源となる。

しかもレベルコントロールのツマミも多くはプラスチック製で、回転できるように周辺どの間に溝がある。
この溝も不要輻射の発生源となっている。

昔の国産のスピーカーシステムはフロントバッフルに、こういったつくりのレベルコントロールがある。
それが音にどのくらい影響しているのかは、
このレベルコントロールをフェルトなどで覆い隠してみることではっきりと耳で確認できる。

その意味ではレベルコントロールを廃したことは決して悪いことではない。
そう考えることもできる。
実際にイギリス製のスピーカーシステム、
それもBBCモニターのスピーカーではレベルコントロールがないものも多い。
そのことに批判めいたことはいう人はいなかった。

けれど598のスピーカーシステムからレベルコントロールが消えたことに対しては、
批判の声もあった。
それはなぜだろうか。

実は598のスピーカーシステムの重量が増し、重量バランスが悪くなってしまったことと関係している。

Date: 5月 11th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その15)

1982年の598のスピーカーシステムとして、ビクターZERO5Fine、オンキョーD7R、ダイヤトーンDS73D、
1987年の598のスピーカーとして、ビクターSX511、オンキョーD77X、デンオンSC-R88Z、
それぞれ三機種ずつ挙げているのは、たまたまステレオサウンド 87号でも挙げているからだ。

沢村とおる氏による「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」の記事の担当は私ではなかったけれど、
写真の選定と、その説明分を書くのは私がやることになった。
つまり87号で、上記六機種を挙げたのは私なのだから、ここでもそのままいくことにしただけである。

1982年の598のスピーカーと1987年の598のスピーカーの写真を見比べるとわかることがある。
まず1987年の598のスピーカーシステムにはラウンドバッフルが採用されている。

ラウンドバッフルの採用といえば、指向特性の改善ととらえる人が少なくないのだが、
このころの598のスピーカーに採用されているr(半径)の小さなラウンドバッフルでは、
音の波長を考えればすぐにわかることだが指向特性の改善とはあまり寄与していない。

指向特性の改善目的であれば、ダイヤトーンの2S305のようなラウンドバッフルを必要とする。

では何のためのラウンドバッフルかといえば、聴感上のS/N比を高めるためのものである。
フロントバッフルと側版の接合部には角があり、
この直角の部分(エンクロージュアのエッジ)からの不要輻射が聴感上のS/N比を悪化させる。
この部分を丸くするだけでもずいぶんと違ってくる。
ほんとうはすべてのエンクロージュアのエッジを丸めたいところだが、
598という価格帯のスピーカーではそれは無理というものである。

このラウンドバッフルの採用とともに、
外観上1982年と1987年で違いがあるのはレベルコントロールの有無である。

Date: 5月 11th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その14)

例に挙げた1982年当時の598のスピーカー三機種、1987年当時の三機種。
1982年からステレオサウンドで働きはじめた私は、
いずれのスピーカーシステムも持ち運び設置している。

ステレオサウンドの特集の試聴、新製品の試聴、
これら以外の試聴もあるわけだが、とにかく日常的にオーディオ機器を持ち、運び、設置する作業は、
この仕事を経験したことの内人には想像できないほど多い。

スピーカーの試聴で一日に20機種を聴くことがある。
もっと多い場合もあるし、少ないこともあるわけだが、
20機種ということは、スピーカーは必ず二本一組だから40本のスピーカーシステムを運ぶことになる。
運んで設置して聴き終ったら試聴室の隣の倉庫に戻し、次のスピーカーシステムを運び設置する。
これをくり返すわけだ。
腰を痛めることにもなる。

とはいえ、このことは、他ではまず体験できないことだし、
オーディオ機器の重さに対しての感覚も変っていく。
そうやっていくうちに日常的感覚として、
オーディオ機器の重量には、そのバランスを含めて敏感になっていくものだ。

その日常的感覚からもはっきりといえることだが、
1982年の598のスピーカーシステムより、1987年の598のスピーカーシステムは重量が約10kg増すとともに、
重量バランスが悪くなっている(前側に偏っている)。

このことによる音の影響については、(その3)にも書いている。
この他にもスピーカースタンドの、音に対する比重が大きくなり、
スピーカーシステムの値段は同じ59800円でも、
1982年の598のスピーカーシステムと1987年の598のスピーカーシステムとでは、
スピーカースタンドにより丈夫で重量的にもバランスのとれるものを要することになる。
つまり、より高価なスタンドということになる。

Date: 5月 11th, 2013
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その4)

なぜこんな大がかりで、思いついた時には実現がほぼ無理なことを考えたかというと、
グラフィックイコライザーである帯域を絞ったとする。
例えばテクニクスのグラフィックイコライザーSH8065は±12dBとなっている。
100Hzのノブを下まで下げれば12dB減衰する。

100Hzといえば、ほとんどのスピーカーシステムでウーファー受け持つ周波数である。
ウーファーのカットオフ周波数が低く設定される4ウェイ構成であっても、
100Hzはウーファー受け持っている。

JBLの4343は300Hzがミッドバスとのクロスオーバー周波数となっているから、
グラフィックイコライザーで100Hzを12dB減衰させたとして、
本当にきっちり12dB減衰するのだろうか、という疑問がまずあった。

つまり4343のウーファー2231Aは、音楽信号に含まれていれば、
100Hz近辺の信号を音に変換している。
80Hzの音も125Hzあたりの音も2231Aが出していて、
100Hzの音を12dB減衰させたとしても、100Hz近辺の音が鳴っていれば、
2231Aのコーン紙は近辺の周波数の振動の影響を受けているわけだから、
きっちり100Hzを中心とした1/3オクターヴの帯域幅を12dB減衰させることはできないのではなかろうか、
そう考えたわけである。

ならば100Hzの音をきっちりグラフィックイコライザーでの減衰量と一致するようにするには、
グラフィックイコライザーが33素子であるならば33ウェイとするしかない。
それで、こんな馬鹿げたことを考えていた。

そしてこれならばある帯域の音を完全に鳴らないようにもできる。
100Hzの帯域を受け持つパワーアンプの電源をきるなり、入力にレベルコントロールがあれば絞りきればいい。
そうすればグラフィックイコライザーでの100Hzと表示されている帯域に関しては完全に削りとることができるし、
櫛の歯が何本も欠けたような周波数特性もつくれる。

そういう音を聴いてみたい、確認したい、と思っていた時期があった。

Date: 5月 10th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(デザインに関しては……)

ステレオサウンドの存在を知り、ステレオサウンドを熱心にくり返し読みはじめたころ、
とにかく、いい音への手がかりをステレオサウンドに求めていたように思う。

経験は圧倒的に少ない。
それを少しでも補うためてもあり、いい音とはいったいどういう音なのか、
音を判断するということはどういことなのか、
その手がかりが欲しかった。

欲しかった手がかりは、音に関することだけではなかった。
デザインに関しての手がかりも、ステレオサウンドにあのころの私は求めていた。

私のオーディオの始まりといえる「五味オーディオ教室」には、B&Oのデザインについて書かれている文章があり、
これを読んだ時、とにかくB&Oがどういうデザインなのかを知りたかったのを想い出す。

中学生の視点で、いいデザインということを判断できるとは思っていなかった。
好きなデザインのオーディオ機器はあった、面白いと思うオーディオ機器のデザインはあった。
いいとおもえるデザインのオーディオ機器もいくつかあった。

でも、それがオーディオ機器のデザインとして優れているのかどうかを判断できる「もの」が、
あのころの私にはなかった。
だから、デザインに関しての手がかりも、音への手がかりと同じくらいに欲していた。

ステレオサウンド 43号に瀬川先生の文章がある。
     *
 最近のオーレックスの一連のアンプは、デザイン面でも非常にユニークで意欲的だが、SY77は、内容も含めてかなり本格的に練り上げられた秀作といえる。ただしこの新しいセパレートシリーズでは、プリアンプの方が出来がいい。適当な時間を鳴らしこまないと本領を発揮しにくいタイプだが、それにしてももう少し踏み込みの深い、艶のある音になれば一層完成度が高められると思う。
     *
オーレックスのコントロールアンプSY77について書かれたものだ。
SY77は、中学生ながらいいデザインだな、と感じていた。
とはいっても、断言できるほどのデザインの判断に関するものがなかったから、
この瀬川先生の文章は「やっぱりそうなんだ!」とおもえ、嬉しかったのを憶えている。

そして同じオーレックスのチューナーST720についてはこう書かれている。
     *
 物理データや音質面で、この価格のチューナーとしてほんとうに他社と同格あるいは以上かといえばその点は注文もあるが、画一的な表現の国産チューナーの中にあって、ユニークな操作性を大胆な意匠で完成させたところに絶大な拍手を送りたい。こういう製品が、モデルチェンジなしに育つ土壌を大切にしよう。
     *
ここでもオーレックスのデザインについてふれられている。
ステレオサウンド 43号は、私にとっては別冊を含めて四冊目のステレオサウンドであった。
それでも四冊をくり返し読んでいれば、瀬川先生の書かれたものに、何かを感じることはできていた。

この人が、「絶大な拍手を送りたい」と書かれている。

SY77、ST720が、その後の私にとってどういう意味をもつモノになるのかは、
まったく想像できなかった遠い日に得た、
オーディオ機器のデザインに関する、小さいけれど、確実な「手がかり」であった。

Date: 5月 10th, 2013
Cate: audio wednesday

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(再掲・第29回audio sharing例会のお知らせ)

ひとりでも多くの方に来ていただきたいので、5月1日に公開したものを再掲します。
5月1日の段階では片桐氏と西川氏、おふたりでしたが、
ビクターに勤務されていた西松朝男氏も来てくださることになりました。

−−−−−以下再掲−−−−−
「昔はよかった」と書いている。
だからいまは、そのよかった昔よりもずっとよい、といいたい。
本音で、心からそういいたい。

すべてがその昔よりも悪くなっているとは言わないけれど、
それでも「昔はよかった」といわざるをえないのが現実であり現状である。

「昔はよかった」と書いている私は、いま50。
私より上の世代の人は大勢いる。
私が「昔はよかった」といっている時代よりも、もっと前のことを体験してきている人たちがいる。

私は瀬川先生とは何度かお会いできた。
話をすることもできた。
けれど五味先生、岩崎先生には会えなかった。

オーディオ界には、岩崎先生、瀬川先生と仕事をされてきた人たちがいる。
その人たちに、いまのうちに話をきいておこう、と思っている。

「昔はよかった」のはなぜだったのかを、より深く知りたいという気持もあるからだ。

6月5日(水曜日)のaudio sharingの例会には、
岩崎先生、瀬川先生と仕事をされてきた国内メーカーに勤務されていた、
いわばオーディオの先輩といえる人たちに来ていただく。

パイオニアに勤務されていた片桐陽氏、
サンスイに勤務されていた西川彰氏、
ビクターに勤務されていた西松朝男氏、
お三方に「岩崎千明・瀬川冬樹がいた時代」について語っていただく。

折しも5月31日には、ステレオサウンドから岩崎先生の「オーディオ彷徨」が復刊、
さらに瀬川先生の著作集の出版も予定されている。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

「岩崎千明・瀬川冬樹がいた時代」についてなら、
私にも語らせろ、という方いらっしゃいましたらご連絡ください。

こんなスピーカーもあった(その1)

駅までの1km弱のあいだの歩道に、いま松ぼっくりが落ちている。
私は実物を見たわけではないけれど、
昔、松ぼっくりがエンクロージュア内にはいっていたスピーカーがあった、ときいたことがある。

井上先生の話だと、
ある国産メーカー(ごく小さなメーカーだったそうだ)が新製品としてスピーカーシステムを、
ステレオサウンド試聴室に持ち込んできた。
音を聴くと、残念ながら評価に値するモノではなかったそうだ。
というよりも、あきらかに変な音がするスピーカーシステムで、
どこかこわれているんじゃないか、と中を確認しようと持ち上げたところ、
エンクロージュアの中からカサコソという、本来あり得ない音がきこえてきた。
部品でも外れているのかと思い確認したところ、
エンクロージュア内部には松ぼっくりと銀紙(アルミホイルだったかも)が吸音材の代りとして使われていた。
松ぼっくりは拡散のためで、銀紙は反射のためで、
つまりは定在波対策らしい、ということだった。

ずいぶん前の話だ。
こまかなことを聞いたのかどうかも忘れてしまっているが、
おそらくステレオサウンドが創刊されて数年ぐらいのことだと思っている。

私が体験した例では、やはり音がおかしい、どこか故障とまではいえないものの、
どこかおかしなところがあるんしじゃないか、と思われるスピーカーシステムがあった。
海外製だった。

それで開けてみよう、ということになった。
実は、これもエンクロージュアを揺すってみると異音がしていた。
案の定、ネットワークのプリント基板の固定が片チャンネルだけいいかげんだった。

そんなこともあるんだ、という笑い話である。

Date: 5月 9th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その13)

そのきっかけとなったのは、RIAAカーヴの改訂だった。

RIAAカーヴは、それまで35Hzから15kHzまでは厳格な規格が定められているが、
それ以下、それ以上の周波数帯については、35Hzから15kHzまでのカーヴの延長であればいいとなっていた。

だからハイ上りのカーヴも実際にあったし、
低域に関してもローカットの周波数に関しては規定はなかった。
メーカーの考え方によって、そうとうに低いところまでフラットに再生するカーヴであったり、
ある周波数からなだらかに減衰するカーヴであったりもした。

新RIAAカーヴにいつ改訂されたのかは正確には憶えていないが、
新RIAAカーヴに関する記事を読んだのは、電波科学だった。
それからしばらくしてステレオサウンド 55号にも、
ダイレクトカッティングで知られるシェフィールドのダグラス・サックスのインタヴュー記事の中でふれられている。

新RIAAカーヴは、録音特性を含めてのものではなく、あくまでも再生特性のみである。
20Hz以下の周波数を減衰させる新RIAAカーヴは、レコードの反りや偏芯、
アナログプレーヤーのワウや低域共振などの悪影響から逃れるためであり、
私の知る範囲ではDBシステムズのDB1は新RIAAカーヴに対応していた。

新RIAAカーヴとそれまでのRIAAカーヴ、
フォノイコライザーのカーヴの設定ということになるわけだが、
実際にどちらが音がいいのかというと、一概には言いにくいところがある。

Date: 5月 9th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その13)

一本59800円のスピーカーシステムは、いわば普及クラスの製品ということになる。
オーディオをやり始めたばかりの学生にとっては、59800円は安くはない。
スピーカーシステムは二本必要だから、スピーカーだけで約12万円。

598のスピーカーシステムに、価格の点で見合うアンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤーを選べば、
それぞれ6万円前後のモノを揃えたとしてトータルで30万円になる。

これにチューナーやカセットデッキを加え、
さらにはスピーカースタンド、ラックも加えていくと……。

その金額は、いまの非常に高価な製品が当り前になりつつある現状からみれば、
高価なケーブルの値段と同じくらい、という見方もされよう。

それでも、598のスピーカーシステムを購入する層は、そういう層ではない。
598のスピーカーシステムが、オーディオ用と呼べる最初のスピーカーシステムであったり、
はじめてのグレードアップ対象となるスピーカーシステムであったはずだ。

そういう価格帯の製品であっただけに、各社の力の入れようは激化していったのかもしれない。
にも関わらず、598のスピーカーシステムは各社とも似ていく方向にある時期向いていた。

1988年の598のスピーカーシステムに、
ビクターのSX511、オンキョーのD77X、デンオンのSC-R88Zなどがある。
これらのスピーカーシステムの重量は31kg、34kg、34.5kgである。

598のスピーカーシステムは長岡鉄男氏の影響もあって重くなっていった、と書いているが、
実際にどれだけ重くなっているかというと、
1988年の5年前の1983年の598のスピーカーシステムの重量は、
ビクターのZERO5Fineが21.5kg、オンキョーD7Rが22kg、ダイヤトーンDS73Dが21kgであり、
10kg前後、重量が増している。五割増しというわけだ。

しかも外形寸法には大きな変化はない。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その2)

瀬川先生の著作集が出ないことがはっきりした。

よく遺稿集という言い方をする。私もこれまで何度も使ってきた。
けれど遺稿とは、未発表のまま、その筆者が亡くなったあとに残された原稿であって、
すでに発表された文章を一冊の本をまとめたものは遺稿集とは呼ばない──、
ということを、私もつい先日知ったばかりである。

私の手もとには瀬川先生の未発表の原稿(ただし未完成)がひとつだけある。
いずれ電子書籍の形で公開する予定だけれど、それでも一本だけだから、遺稿集とはならない。
あくまでも著作集ということになる。

ステレオサウンドの決まり、
そんなことがあるものか、と思われる方も少なくないと思う。
けれどふりかえってみていただきたい。
瀬川先生の著作集は出なかった。
黒田先生の著作集も出なかった。
黒田先生の本は、すでに「聴こえるものの彼方へ」が出ていたから。

岡先生の本も出ていない。
岡先生の本は、すでに「レコードと音楽とオーディオと」というムックが出ていたから。

山中先生の本も出ていない。
山中先生の本は、すでに「ブリティッシュ・サウンド」というムックが出ていたから。
「ブリティッシュ・サウンド」は山中先生ひとりだけではないものの、
メインは山中先生ということになる。

長島先生の本も出ていない。
長島先生の本は、すでに「HIGH-TECHNIC SERIES2 図説・MC型カートリッジの研究」が出ていたから。

I先輩の言われた「決まり」、
そういうものがあることをあとになって「やっぱりそうなのか」と、
ステレオサウンドをやめたあと、岡先生、長島先生、山中先生が亡くなり、そう思っていた。

だからこそ瀬川先生が亡くなられて32年目の今年、著作集がステレオサウンドから出る、ということは、
嬉しいとともに、意外でもあった。

正直、遅すぎる、とは思う。
そう思うとともに、なぜ、いまになって、とも考えている。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: よもやま

引用・コピーに関して

今日、友人が教えてくれて知ったのですが、
2ちゃんねるのピュアオーディオ板にある長岡鉄男氏に関するスレッドで、
「598のスピーカーという存在(その11)」がまるごとコピーされていました。
少し前にも別のスレッドに、やはりまるごとコピーというのがありました。

まるごとコピーするのはやめてください、とはいいません。
ご自由にコピーしてくださってかまいません。
ひとりでも多くの人に読んでもらいたい、と思っているからです。

ただ本文のコピーとともに、ここのURL(http://audiosharing.com/blog/)を併記していただくか、
コピーされたブログ記事へのディープリンクでもかまいませんから、
元の記事をたどれるようにしていただけるとうれしく思います。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その1)

5月31日に岩崎先生の「オーディオ彷徨」が復刊され、
瀬川先生の著作集が出るのだから、このことは書いてもいいと判断したことがある。

私がステレオサウンドで働くようになったのは、1982年1月。
瀬川先生が亡くなって二ヵ月後のこと。
ステレオサウンド試聴室隣の倉庫には、
瀬川先生が愛用されていたKEF・LS5/1A、スチューダーA68、マークレビンソンLNP2があった。

そういうときに私はステレオサウンドで働きはじめた。

入ってしばらくして訊ねたことは「瀬川先生の遺稿集はいつ出るんですか」だった。
編集部のI先輩にきいた。
どうみても、その編集作業にとりかかっている様子はどこにもなかったし、
そんな話も出てきていなかったから、不思議に思いきいたのだった。

I先輩の返事は、当時の私にはたいへんショックなものだった。
「出ないんだよ。ステレオサウンドのルールとして筆者一人一冊と決っているから。
瀬川先生はすでに『コンポーネントステレオのすすめ』がもう出ているから……」

確かに「コンポーネントステレオのすすめ」は出ている。
しかも改訂版も出て、「続・コンポーネントステレオのすすめ」も出ている。
だからといって、なぜ出さないのか。
そんなことを誰が決めたの? そんな決まり(これが決まりと呼べるのだろうか)は破ればいいじゃないか、
ステレオサウンドにとって瀬川冬樹とは、そんな存在だった?──、
とにかくそんなことが次々と頭に浮んだものの、何も言わなかった(言えなかった)。

Date: 5月 7th, 2013
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その1)

2年ほど前に「50年(その10)」で「憶音」という造語を使った。

こんな造語を思いついた理由のひとつは、「50年(その9)」ですこし触れている。
理由というか、こんなことを考えるきっかけは他にもあった。

そのひとつが、なぜ人は音を比較できるか、だった。

スピーカーから出た音はわずかの時間で消失する。
音に、映像のようにポーズ(休止・pause)はかけられない。
だから音を比較するのは、聴いた人の頭の中でのみ行われる。

いま聴いている音と以前聴いた音を比較する。
このとき片方はいま鳴っている音であり、比較対象となる音は記憶の中にある音。
このふたつの音は、音といっても同じとは言い難い。

例えば写真の比較なら二枚の写真を並べて比較できる。
この二枚の写真は同じ条件におかれている。

けれど音は違う。
ふたつの音の条件はまったくといっていいほど異っている。
なのに、われわれは音を比較できる。

もちろん人によって比較の能力に差はあるし、
ひとりの人でも訓練を積むことで、より正確に比較できるようになる。
それでも、比較する音の条件が違うことには変りはない。

ここで考えたのは、比較できるということは、
いま聴いている音も、いま聴いていると思っているだけであって、
実はいったん脳に記憶され、すぐさまその記憶から再生しているからこそ、
比較できる(つまり同じ条件で)のではなかろうか、ということだった。