Archive for 9月, 2012

Date: 9月 23rd, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その12)

リズム(rhythm)といえば、音楽を構成する要素のひとつであるわけだが、
私がここでいいたいリズムは、もちろんオーディオは音楽を再生するものであり、
しかもソプラノ歌手の声、とか、楽器の音色、とかいっているわけだから、それは音楽のことであり、
音楽のリズムのことでもあるのだけれど、
それだけではなく、歌手、演奏者の鼓動という意味でのリズムについても、である。

どのスピーカーシステムがそうだとは書かないけども、
スピーカーによってリズムのきざみ、打ち出される音の強さ、といったことは変化し、
まったく苦手としているのではないか、と思いたくなるスピーカーがないわけではない。

もちろんスピーカーシステムの責任ばかりなく、使いこなしにあったり、
アンプにも、そういう傾向のモノがやっぱりある。
とはいえスピーカーにあることが少なくないのも、やはり事実である。

そういうスピーカーでは、どんなに歪の少ない音が出てきても、
周波数特性(振幅特性)的にワイドレンジであっても、
音場感がきれいに左右に拡がってくれようとも、
音楽を聴いていてつまらなくなる、というか、
ボリュウムをしぼりたくなる。

同じレコードをかけてもスピーカーが変れば、そこでのリズムがまったく同じということは絶対にない。

リズムを打ち出す力、リズムをきざむ力は、一様ではない。
リズムは、やはり力だと感じる。
それゆえにスピーカーによって、この力の提示はさざまであり、
しなやかで軽やかにリズムを聴かせるスピーカーもあれば、
力強く、強靭とでもいいたくなるようなリズムを聴かせるスピーカーもある。

この力が、音楽の推進力を生んでいる。
オーディオで音楽を聴く、ということ、
つまりスピーカーを通して音楽を聴くという行為において、
この音楽の推進力が著しく損なわれると、そこで鳴っている音楽の印象は稀薄になり、
聴き手の心に刻まれなくなる。

Date: 9月 23rd, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その11)

ソプラノ歌手の描き分けがうまく行えないスピーカーシステムが、現実にはある。
安い価格帯のスピーカーシステムにもあるし、
オーディオに関心のない人からするとバカげた値札のついたスピーカーシステムの中にも少ないながらも存在する。

別にソプラノ歌手に限らなくてもいい。
他の楽器についてでもいい。
楽器には楽器特有の音色があって、楽器の銘柄が変れば音色は違ってくるし、
同じ銘柄の楽器でも奏者によって音色は変化していく。

誰が歌っているのか、誰が吹いているのか、誰が弾いているのか、
このことが音だけで明確に聴きとれるためには、音色の再現性の高さがスピーカーには要求される。

その音色の再現性のためにはどういうことが必要なのか……。

物理的なことがいくつか頭に浮ぶ。
考えれば考えるほど、ワイドレンジであることが音色の再現性には重要というところに行き着く。
ワイドレンジとひと言でいっても、ただ単にサインウェーヴでの測定上の周波数特性、
それも振幅特性のみを延ばしただけのスピーカーシステムであっては、
ワイドレンジとは言い難い、ということは、別項の「ワイドレンジ項」でも書いている。

応答性、過渡毒性ということに関しても、ワイドレンジである方が優位である。
なのに、時として、何度書いているように、よくできた中口径のフルレンジユニットのほうが、
ソプラノ歌手の声の鳴らし分けを、その何十倍、何百倍もするスピーカーシステムよりも的確なことがあるのは、
物理的な過渡特性、応答性の優秀さのほかに、
いわば感覚的な応答性のよさがあるような気がしてならない。

過渡特性、応答性のもうひとつの側面──、
といっていいのかどうか迷うところもあるのだが、リズムへの対応力、再現性といったものを感じる。

Date: 9月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その3)

S/N比は信号(signal)と雑音(noise)の比であり、
物理的なS/N比においては信号レベルが高く、雑音レベルが低ければS/N比は高くなる。

聴感上のS/N比でも基本的には同じであるわけだが、
例えば雑音(ノイズ)にしても、
耳につきやすい、つまりは音(信号)にからみつくような質(たち)のノイズと、
うまく信号と分離して聴こえ、それほど気にならないノイズとがあり、
測定上では同じ物理量であっても、聴感上のS/N比は後者のノイズのほうがいい、ということになる。

聴感上のS/N比がほんとうによくなってくると、
ボリュウムの位置はまったく同じでも、音量が増して聴こえるようになってくる。
これもよく井上先生がいわれていたことのくり返しなのだが、
つまりは聴感上のS/N比がよくなることで、ピアニッシモ(ローレベル)の音が明瞭に聴きとれるようになる。
それまで聴き逃しがちだったこまかな音まで聴きとれるようになると、
最大レベルは同じでもローレベル領域へダイナミックレンジが拡がったことにより、
ピアニッシモとフォルティッシモの差も明瞭になることによるものだ。

つまり、このことは聴感上のS/N比が劣化していく方向に音を調整していくと、
同じボリュウムの位置でも音量が下がったように聴こえるわけである。
聴感上のノイズレレベルが増しているわけだから、ピアニッシモの音が聴感上のノイズに埋もれてしまい、
聴き取り難くなってしまうからだ。

聴感上のS/N比がよくなれば聴感上のダイナミックレンジは拡がる。
聴感上のS/N比が劣化すれば聴感上のダイナミックレンジは狭くなる。

聴感上のダイナミックレンジが拡がれば、音量は増したように聴こえ、
聴感上のダイナミックレンジが狭くなれば、音量は減ったように聴こえるわけである。

このことは明白なことだと私は思っていた。
井上先生が聴感上のS/N比という表現を使われるようになって、すでに30年以上経つ。
誰もが口にするようになっている。
これも量に関することであるから、基本的なことを理解していれば間違えようがないはずだ、と。
そして、どちらがいいのかも明白なことのはず、である。

しかし、世の中には聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称している人がいる。
その人によると、音量が下がって聴こえる方が正しい、ということになる。

これはおかしな話だ。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その48)

マークレビンソンのアンプについては、3つに分けられると考えている。
ひとつめは、ジョン・カールとマーク・レヴィンソンによる時代。
その前にバウエン製モジュールを搭載したLNP2の存在があるけれど、
その時期は非常に短いし、バウエン製モジュールのLNP2の数は少ない。
なので、ここでは除外することにする。
アンプの型番でいえば、JC1、JC2、LNP2、それにML2などが、これにあたる。

ふたつめはトム・コランジェロとマーク・レヴィンソンによる時代。
アンプでいえばパワーアンプのML3、ML7、ML6A(B)などがそうだ。

それからマーク・レヴィンソンが離れたあとのマーク・グレイジャー体制になってからの時代。
アンプの型番からマーク・レヴィンソンのイニシャルであった”ML”が消え、No.シリーズになってから。
もっともこの時代も、また分けることはできるのだが、
この項では”Mark Levinson”というブランドは、
マーク・レヴィンソンという男がいたブランドとして会社についてのものであるから、
No.シリーズになってからのことについては、ここではとりあげない。

今後、No.シリーズについて書くことがあったとしても、
この項ではなく、新たな項で、ということになると思う。

どの時代のマークレビンソンのアンプの音が印象に深く残っているかは、
世代によっても違うし、同世代でも人が違えば違ってくる。
私にとってのマークレビンソン・ブランドのアンプといえば、
私がこれまで書いてきたものをお読みいただいた方はもうおわかりのように、
ジョン・カールと組んでいた時代のマークレビンソン・ブランドのアンプこそが、
私にとっての”Mark Levinson”である。

なぜ、私にとって、この時代のアンプが、
最初に音を聴いた時から30年以上が経っているにも関わらず、
いまでも、その魅力から完全に抜け出せないのか──、
その理由を考えてきている。

私は一時期、もうMark Levinsonのアンプはいいや、という時期があったにも関わらず、
再びMark Levinsonに惹かれ、離れることができずにいるのは、
“strange blood”を感じとっているからなのかもしれない。

Date: 9月 20th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その6)

「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」
気の合う者同士で本をつくっていても、それでは絶対におもしろいものはつくれっこない、
ということもいわれた。

私に、このことを話してくれたのは当時、編集顧問だったKさんだった。
そのころペンネームを使ってステレオサウンドにもときどき書かれていたし、
スーパーマニアの記事や、対談、座談会のまとめもやられていた。
私がステレオサウンドを離れてしばらくして、本名で書かれるようになった。

記憶違いでなければ、Kさんは中央公論の編集者でもあり、
フリーの編集者として、多くの人が知っている雑誌にも携わっておられたはず。

Kさんは、私の父と同年代か少し上の世代だと思う。
Kさんは、さまざまな本に、いったいどれだけ携わってこられたのだろうか。
かなりの数のはずだし、本の数が多いということはそれだけ多くの編集者とともに仕事をしてこられているわけだ。

そのKさんの言葉である。

雑誌の編集とは、とくにそういうものだ、と最近とみに思う。
Kさんからいわれたときは、そうなのかな? ぐらいの気持だった。

ステレオサウンドという雑誌は、いうまでもなくオーディオの雑誌であり、
その編集者は、オーディオという同じ趣味を持つ者ばかりが集まることになってしまう。
ある特定の趣味の雑誌は、ほかの雑誌よりも同じ傾向の人が集まりやすいのかもしれない。
だからこそ、Kさんは、あのとき、私にいわれたのかもしれない、といまにして思っている。

同じ部屋の空気を吸うのもイヤなヤツがいる仕事場では誰もが働きたがらないだろう。
気持ちよく仕事をしたい、というけれど、
気持ちよく仕事をしたいのが、仕事の目的ではなくて、編集者であれば面白い雑誌、
ステレオサウンド編集者であればおもしろいオーディオ雑誌をつくっていくのが仕事である。

いまのステレオサウンド編集部が、どういう人たちの集まりなのかは知らない。
気の合う人たちばかりの集まりなのかどうかはわからない。
でも、少なくとも「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!!」という人は、ひとりもいないような気がする。

さらに思うのは、”new blood”と”strange blood”のことだ。

Date: 9月 19th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その5)

こんなことをつらつら考えるのは、
以前にそこに在籍したことがあるからであって、
編集経験がなかったら、こんなことを考えることはない。
考えずに、「あぁ、こんな変な日本語、書いている」と思い、
今回は笑ってしまって、それでおしまいであっても、
こういうことがこれからも2度、3度……と続くようであれば、
まず筆者を信用しなくなるし、それから編集者を信用しなくなる、はず。
つまり、このことはステレオサウンドという本を信用できなくなってしまうことへとつながっていっている。

それは読者ばかりではない、はず。
ステレオサウンドに書いている筆者も、
こんなおかしな日本語が、これからも誌面に載っていくようなことが続けば、
編集者に対する信用が少しずつ薄れていく、ということもあっても不思議ではない。

人は絶対にミスをしない生き物ではない。
得手不得手があり、ミスもする。
だから編集部は複数の編集者によっている、ともいえる。
編集部のひとりひとりが得手不得手があり、それは人それぞれ異っていて、
ある人が気がつかない、今回のようなおかしな日本語も、
別の人が気づいて訂正すればいい。

自分の書いたものがステレオサウンドの誌面に載ったとき、
もう一度読みなおす筆者(書き手)であれば、編集部による訂正に気がつき自分のミスを恥ずるとともに、
編集者への感謝の気持も涌いてくる。

ミスに気がついた筆者は、次回からは同じミスはやらかさないだろうし、
よりよい文章を書くようにつとめていくいくのではないだろうか。
そして、編集部、編集者への信用、信頼も生れてくるに違いない。

それが今回のように、そのまま誌面に載ってしまうと、
その文章を書いた筆者は気がつかない。
そうなってしまうと、これからもそのままになってしまうかもしれない。

ここ数年、ステレオサウンドには、変な技術用語が載ることがある。
このことについては以前書いているので、
どういう用語なのかについては改めては書かないけれど、
編集部に技術的なことを得意とする人はいないのだろうか、と思う時がある。

そんなことはないとは思っているけど、
いまの編集部はみな同じことを得手として、同じことを不得手とする人ばかりなのかもしれない、と。

ステレオサウンド編集部にいたころに、いわれた言葉をおもいだす。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・オーディオを語る、とは)

オーディオ機器について書いてあるのだし、
オーディオ機器、そのメーカーの歴史について書いてあるのだから、
それらの文章は、当然オーディオを語っている──、
そう思い込めれば、こんなことを自問自答しなくてもすむ。

あるオーディオ機器についてあらゆることを調べ上げ、
その時点でわかっていることを出し惜しみすることなく提示する。
さらに音についても、具体的に事細かに書いていく……、
このディスクのこの部分が、こういうふうに鳴った、というぐあいに、
これ以上ないというぐらいに詳細な記事を書く。

そこから得られる情報量は多くなる。
少ないよりも多い方がいい。
しかも良質な、そして誰も知る人のいない情報であれば、
ますます情報量は多いほうが、いいということになる。

ただ、ここで微妙になってくるのは、
そうやって書かれたものは、資料へとなっていく、ということだ。

オーディオを語っている読み物から資料へ、と移行していく。
小林氏の「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」はいまよりも、
10年、20年と経つほどに資料的価値は増していくであろう。

そうなのだ、私にとって「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は有難い資料である。
おそらく小林氏も、資料として書かれているのだと、勝手に思っている。
資料は資料として、あえて留まるからこそ、そこに価値がある。

となると、私がここに毎日書いているものは、はたして、なんであろうか。
オーディオについて書いている、オーディオ機器についても書いている。
人についても書いている。

オーディオについて語る、ということの難しさ、その曖昧さを頓に感じている。
だから書き続けていくしかないことだけが、はっきりとしている。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(続・オーディオを語る、とは)

実は、小林正信氏の連載が載っているから、管球王国を購入しようかとすら思ったほどである。
管球王国は創刊号から数年間は面白い雑誌だと感じていた。
それが急速に変貌していってしまった。

どんな雑誌も変化していく。
いい方向のときもあればそうでない方向のときもある。
長い間に変っていく……。

それは承知している。
だが管球王国ほど短期間で変貌してしまった雑誌も、珍しいといいたくなるほど、
その変貌は急激だった。
以前は気に入った号は購入していたが、ここ数年はまったく購入していない。
するつもりもない。
そんな私に、小林氏の「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は、
たとえ一瞬であっても買ってしまおうか、と思わせた。

小林氏の連載は、すべての人にとって面白い記事ではないだろうし、
興味のある記事でもないことだろう。
でもドイツのオーディオに関心をもつ人ならば、どこかで手にとって読んでほしい、と思う。

この小林氏の記事もそうだが、
インターネットで読むことができる、数はすくないけれど良質な文章で出合うと、
オーディオを語る、ということの難しさを、どうしても思ってしまう。

小林氏、そして小林氏による記事、インターネットにあるいくつかの記事、
それらを批判するつもりはまったくない。
ただ、そこから得られる知識の量と質に感心し、ときには感謝に近いものを感じながらも、
オーディオを語っている、といえるだろうか、と思ってしまうことがある、ということをいいたいだけである。

小林氏の記事は、記事のタイトルにもあるように「クラングフィルムの歴史」がテーマであろう。
そのことに集中されている。
だから、そこではクラングフィルムの歴史、クラングフィルムのスピーカー、
そこから生れてきたモノについて書かれていかれるのが主旨であり、
それだからこそ私にとって有難い記事なのだが、
これがオーディオを直接的、間接的に語っている記事か、となると、微妙なところがある。

インターネットでめ読めるオーディオ機器の詳しいレビューも、またそうである。
ひとつのオーディオ機器について詳細を書いてある。
そこにある音質評価が信じられる、とか、信じられない、とか、そういう問題ではない。
その記事(レビュー)が、オーディオについて語っているのか、ということである。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(オーディオを語る、とは)

毎日ブログを書く。
オーディオに関することを書いている。

書きながら自問自答することがある。
オーディオに関することを書いているわけだが、
オーディオを語っているのか、という自問自答である。

これは自分の行為に対してだけでなく、
誰かの文章を読んでいる時も、そういうときがある。

インターネットのおかげで、
調べたいキーワードを入力すれば、
いつもとは限らなくても、かなり高い頻度でほしい情報が得られるサイトが検索結果として示される。
そういう検索結果によって、この分野では、こんなに詳しい人がいるんだ、と思うし、
個人でオーディオ機器のレビューをやられている人の中にも、
実に細かいところまでチェック(技術的なことを含めて)して、
インターネットという分量の制限のなさということもあって、おしみなく書かれていたりする。

なにもインターネットだけにとどまらない。
たとえばステレオサウンドから出ている管球王国に、
小林正信氏による「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」という連載が始まった。
いま出ているVol.65に、その2回目が載っている。

シーメンスのオイロダインに惚れたことがあり、シーメンスのコアキシャルをつかっていた私にとって、
この連載は、待ちに待った、という感じの記事である。

ウェスターン・エレクトリックに関しては以前から結構な資料が入手できたものの、
クラングフィルムに関することは、ウェスターン・エレクトリックと比較するとないに等しい感じだった。
限られた情報が断片的でしかなかった。

そのクラングフィルムに関することが、この記事では事細かに調べられ、
そこには出し惜しみなんてことは感じられない。
個人的には、非常にありがたい記事である。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その35)

マッキントッシュのアンプにおけるツマミの変化は、
以前、この項で書いている、電気モノから電子モノへの変化と一致していると私はみる。

ノイズそのものが視覚的に捉えることができれば、
マッキントッシュのアンプにおける古いツマミの時代のアンプのノイズと、
新しいツマミになってからのアンプのノイズの質(たち)の違いがわかろうが、
実際にはまだそういう測定技術はない。
なので感覚的な表現になってしまうが、古いツマミのマッキントッシュのアンプのノイズは、
まず新しいツマミになってからのアンプのノイズよりも、粒子が大きい。
しかも、その粒子のマテリアルも違っているように感じる。
古いツマミの方が、より硬い気がする。
この「かたい」は、堅い、固い、とよりも硬いという感じを、私は受ける。
粒子の大きさが違い、しかもマテリアルも違うということは、
たとえ同じノイズ量だとしても、聴感上は古いツマミのアンプの方が多く感じるだろう。

それに、実際には新しいツマミになってからのほうがノイズも減ってきているので、
よけいに聴感上のS/N比は、ツマミの古い新しいで、ずいぶんと違う。

古いツマミのマッキントッシュのアンプ、
そのなかでもMC2300のノイズは、ノイズ総量の質量に手応えのある重さがあるような気もする。
この手応えのある質量感をもつノイズの存在が、
MC2300を電気モノと表現したくなるところへと、私のなかではつながっている。

このノイズのことひとつにしても、マッキントッシュのアンプは、ツマミの変化とともにあきらかに変化している、
ではなく向上している。
アンプの進歩としては確かなものではある。
けれど、この項の(その32)にも書いているように、MC2300とMC2600、どちらを選ぶかとなると、
心情的にはMC2300へと大きく傾く。

ふだん聴感上のS/N比は重要だと何度も書いていながらも、
はっきりとMC2600の方がアンプとして高性能であることは認めながらも、
自分で使うアンプとして選ぶのであればMC2300であり、
なぜなのか、について考えていくことが、この項にも深く関係していくような気がする。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その10)

なぜ一部のワイドレンジ志向のスピーカーシステムよりも、
ずっとナロウレンジのフルレンジのスピーカーのほうが、ソプラノ歌手の鳴らし分けに長けているのか、
いいかえると聴き分けが容易なのか、について考えていくと、
岩崎先生が書かれていた、ある考察を思い出す。
     *
ジェームス・バロー・ランシングが目ざした高能率とは音圧のためのではなく、もっと他のための高能率ではなかったのだろうか。他の理由——つまり音の良さだ。
 周波数特性や歪以外に音の良いという要素を感じとっていたに違いない。その音の良さの一つの面が過渡特性であるにしろ、立ち上がり特性であるにしろ、それを獲得することは高能率化と相反するものではない。むしろ高能率イコール優れた過渡特性、高能率イコール優れた立ち上がり特性、あるいは高能率イコール音の良さということになるのではないだろうか。私にはジェームス・バロー・ランシングが当時において今日的な技術レベルをかなり見抜いていたとしか考えられない。そうでなければあれだけのスピーカーができるはずがない。
     *
これは、「オーディオ彷徨」にもおさめられている「ジェームズ・バロー・ランシングの死」の中に出てくる。
この文章が書かれたのは、1976年、雑誌ジャズランドの10月号のことである。

過渡特性の良さ──、
結局、このことに深く関係しているのは間違いない、と確信している。

だからサインウェーヴでの周波数特性が広い、一部のスピーカーシステムよりも、
ナロウレンジのフルレンジのほうが、時としてソプラノ歌手の声をきちんと鳴らし分けてくれるし、
サインウェーヴでの周波数特性では同じようなナロウレンジの周波数特性のスピーカーがあっても、
片方はナロウレンジであることが気になって長く聴き続けることができないのに、
もう片方は聴いているうちにそれほどナロウであることが気にならなくなる、ということも、
過渡特性の悪いナロウレンジ(前者)と良いナロウレンジ(後者)ということになる。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その4)

なにも、筆者からもらった原稿はいちど必ず紙に印刷しろ、
とそんなことをいいたいわけではない。

ただメールで送信されてくる原稿、つまりはテキストファイルをパソコンの画面で確認し、
DTPでつくられるのであれば、ページのレイアウトに必要な写真や図版、
これらもデジタルカメラで撮影していたり、パソコンでつくった図版であれば、
テキスト(原稿)とまとめてデータとして、デザイナーに渡される。

つまり原稿も写真も図版も、実際にいちども手にすることがなく、作業は進んでいく。
それがDTPなのだから、いちいち紙に印刷して、ということは時間とコストの無駄でもある。

そう思いながらも、そこには陥し穴的なところが潜んでいる気もする。
昔ながら編集の仕事を経てきた者と、
最初からDTPで編集を行ってきた者とでは、
たとえデータとして送信されてくる原稿に対しての気持、そこに違いがあるのではなかろうか。

これは人によっても違ってくる要素だし、一概にはいえない、ことなのだろうが、
それでも……と思いたくなる。

ステレオサウンド編集部がそうなのかどうかは知らない。
ただいまのステレオサウンドの誌面を見ていると、
ときに原稿がテキストデータとして取り扱われているのではないか、そんな気がすることもある。

だから、うっかり、おかしな日本語が誌面に載るのではないか。
つまり編集者が、部分的ではあるにしても、オペレーターになってはいないだろうか──、
そう思うのだ。

それとも、編集部は、おかしな日本語に気がついていて、あえてそのまま誌面に載せた、
ということも考えられる。
気がつかなかったのか、それとも気がついていて、なのか。
それは私にはわからない。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: SUMO

SUMOのThe Goldとヤマハのプリメインアンプ(その4)

プッシュプルといっても、真空管アンプのそれとトランジスターアンプのそれとは、
微妙に異るところがある。

トランジスター、FETといった半導体にはNPN型とPNP型、N型とP型とがあるのに対して、
真空管にはNPN型、PNP型に相当するものは存在しない。
真空管に相当するのはトランジスターでいえばNPN型であって、
つまりPNP型トランジスター的な真空管はない。

そのためトランジスターアンプでのプッシュプルといえば、
NPN型トランジスターとPNP型トランジスター、
このふたつのトランジスターを組み合わせた回路ということになるが、
真空管アンプでのプッシュプルは、同一の真空管を2本使用することになる。
つまり真空管アンプのプッシュプルをトランジスターでつくるとなると、
NPN型トランジスターのみを使う、ということになるわけだ。

このことはトランジスターアンプのプッシュプルはアンバランス増幅であるのに対し、
真空管アンプのプッシュプルは、いわゆるバランス増幅ということになる。

だから真空管のプッシュプルアンプには、原則として位相反転回路が必要となる。
コンシューマー用アンプでは、いまでこそバランス接続が装備されるものが増えてきているが、
1980年代以前はほぼすべてアンバランス接続であった。
アンバランスによって送られてきた信号をそのまま増幅しただけではシングル動作になってしまう。
プッシュプルを形成する下側の真空管には位相を反転した信号を加えなければならない。
もちろんバランス信号を受けてそのまま増幅する回路であれば位相反転回路は要らない。

一方トランジスターのプッシュプルアンプには位相反転回路は要らない。
NPN型トランジスターとPNP型トランジスターからなるプッシュプルは真空管のプッシュプルと違い、
実際にはバイアス回路が必要であっても、信号の位相は同じである。

トランジスターアンプでのブリッジ構成(バランス回路)は、
出力段はNPN型トランジスターとPNP型トランジスターによるプッシュプル回路を、
+側と−側用にそれぞれ用意して、−側には位相を反転した信号が加えられる。

SUMOのThe GoldとヤマハのA-S2000、A-S1000は、
いま説明したようなトランジスターアンプのプッシュプルではなく、
真空管アンプのプッシュプル的な回路といえる。

もちろん出力トランスは必要としないし、
プッシュプルの真空管アンプの真空管をNPN型トランジスターにそのまま置き換えた回路ではない。
真空管アンプのプッシュプルと違う点は、出力段用にフローティング電源を用意している点にある。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その17)

山中先生からきいた話がある。
同じことを、菅野先生との対談も語られている。
ステレオサウンド 70号の巻頭対談に載っている。
     *
山中 アメリカの小売店というのは、これは昔からそうなんですが、ある街にオーディオ店が何軒かあるとすると、扱っている商品がすべて違うんです。ですから、お客さんも全部違う。しかも、扱っている商品に関して、サービスが徹底し、メインテナンスもすべて自分のところでできるくらいになっています。
 補修用のパーツをメーカーからとって、ある程度の修理は、自分のところで引き受けられるくらいの店としての技術、格式、誇りがあるんです。お客のほうもそこを頼りにしていきますしね。人間対人間の信頼関係によって商(あきない)が成立しているのです。
菅野 ですから外国のメーカーの人が日本に来て、その販売事情を見てまず感じるのは、日本のオーディオ店は、オーディオ販売店じゃないと、あれは単にオーディオサプライヤーであると厳しく非難してゆきます。
 売るという行為は何もしていないじゃないか、売るということは、売った物に対して責任を持つことであり、当然サービスが必要であり、自分が信じて、要は自分の好きなオーディオ機器を自信をもって説得するのがセールスであるという考え方を彼等は当然なこととしてもっている。ところが、日本にセールスはないと言いますね。量販、量販できたことの弊害というのは、今、様々なレベルで表に出ない問題をかかえこんでしまっていると言えるでしょう。
     *
ステレオサウンド 70号は1984年3月に出ている。
約30年前の話ではあるから、アメリカ、ヨーロッパのオーディオ機器の販売の状況も変化しているかもしれない。
でもアメリカの小売店の在り方は、個人によるガレージメーカーが主宰者をなくしたあとも、
修理、メンテナンスを継続していくうえで採り入れていくべきことであり、
そのままでは無理でも、この在り方を参考にしての、個人によるガレージメーカーの在り方がある、と考える。

個人によるガレージメーカーの製品は、数としてそれほど多くは出ない。
文字通り個人(ひとり)でやっているのだから、作っていける数にも限りもある、
取り扱ってくれる販売店の数も多くはないだろうから。

だからこそ、山中先生が話されている、アメリカのオーディオ店の存在とその関係が必要であるし、
またそれが可能である、はずだ。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その3)

私がステレオサウンドにいた7年のあいだに、電算写植が登場し、ワープロも導入された。
編集の仕事の環境が変りはじめていた時期でもあった。

入ったばかりのころは手書きの原稿に直接朱入れしていたのが、
ワープロが導入されてからは、手書きの原稿をワープロで入力するとともに朱入れも行うようになった。

私がいたころ、手書きからワープロの原稿に移行されたのが早かったのは、黒田先生と柳沢氏だった。
そのあとに長島先生もワープロにされたように記憶している。

ワープロでもらった原稿も、いちど紙に印刷して朱入れを行っていた。
そんな時代を経験してきた。

現在のDTPへつながっていくごく初期の段階だけに、
いまのパソコンが編集の道具として活用されている状況とはずいぶん異る。

原稿は手書きにしろ、ワープロによるものにしろ、原則的に受け取りにいっていた。
メールに添付されて送信されてくるなんてことは、まだ想像もできなかった。

いまの編集作業のこまかいところは、わからない。
メールで送られてきた原稿を、編集部がどう処理しているのかはわからない。
ただ朱入れもパソコンで直接行っている気がする。
紙に印刷して朱入れして、その朱入れをパソコンで訂正、更新する、ということはやっていないのではないか。

パソコンを導入してDTPで本づくりをおこなっているのに、
しかも筆者からの原稿はテキストファイルで送信されてくるのだから、
あえて紙に印刷するなど、時間とコストの無駄、といえば、たしかに無駄である。

印刷しなくても、編集という仕事が機能するのであれば、それでいい、と私だって思う。
だが、ステレオサウンド 184号のおかしな日本語が誌面に登場したのは、
実は、そういうシステムが生んでいる弊害なのではないだろうか。

私は、なにか、そこに、筆者の書いたものが単なるデータとして処理されていくだけのような、
そんな感じさえ、つい想像してしまう。
だから、おかしな日本語が、うっかり載ってしまった──、そう思えてならない。