Archive for 3月, 2011

Date: 3月 23rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その6)

その1)で、疾走することによって、風が興る、と書いた。

そのモーツァルトの音楽を再生するスピーカーも、また風を興すものだと思う。
スピーカーから流れてくる音楽によっても、その音質によっても、
風の性質が変化してくる。

風量の違いがある。すーっと吹いてくる隙間風もあれば、台風のようなひじょうにつよい風もある。
湿り気の違いもある。からからに乾いた風もあれば、湿り気のある風にも、じとっと湿り気のある風、
うるおいのある風がある。
温度感も違う。肌につき刺さる風もあれば、暖かくつつみ込んでくれる風もある。

そう思うと、オーディオこそ、エアーコンディショナーではないだろうか。
部屋に澱んでいる「なにか」を吹き飛ばしてくれるものではあるように思う。

そんなふうに捉えたとき、バックグラウンドミュージックに対しての考えも変ってくる。

Date: 3月 22nd, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その6)

その5)でスピーカーシステムを例えとしたが、
そのスピーカーシステムにもたいていのものには、ネットワークは存在する。

オーディオマニアにとってのネットワークは、スピーカーシステムのためのものであり、
それは信号を分割するものというイメージが強いはず。

スピーカーシステム内のものについて、ついネットワークと略して言ってしまうが、
正しくはデヴァイディングネットワーク(Dividing Network)、分割するネットワークである。
パワーアンプから送り込まれた信号を、ウーファーにはウーファーが受け持つ帯域だけを、
スコーカー、トゥイーターには、それぞれのユニットが受け持つ帯域だけを、
言いかえれば、必要な帯域以外は通過させないフィルターから構成されている。

不要な帯域をカットされたされた信号が、それぞれのスピーカーユニットに送り込まれ振動板が動き、音が出る。
3ウェイなら3つのスピーカーユニットから、4ウェイなら4つのスピーカーユニットから音が出る。
いうまでもなく多少クロスしている帯域はあるもののは、
ウーファーから出る音と、トゥイーターから出る音は違う。

出来の悪いスピーカーシステムなら、複数のユニットからの音がバラバラということもあるけれど、
まともなスピーカーシステムならば、きちんと鳴らされているスピーカーシステムであるならば、
そんなことを音楽を聴くときに意識することはない。

ということはデヴァイディングネットワークで分割された信号が、
どこかでまたひとつになっているから、ということになる。

オーディオの再生系をネットワークしてとらえるなら、分割したならばどこかで統合しなければならない。

どこで統合されるのか、は、スピーカーシステムと聴き手のあいだにある空間ということになり、
この空間こそ統合ネットワーク(Combining Network)ということになる。

Date: 3月 21st, 2011
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その1)

待ち遠しい」というタイトルで、
アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集Vol.8についてふれた。
輸入盤が入荷したその日に購入した。

待ち遠しかったCDだけに、帰宅後、すぐに聴いた。
待っている間に、聴き手の勝手な期待はふくらんでいく。
そのふくらんだ期待を、シフの演奏はまったく裏切るところがない。
なんと優秀な演奏だろう、と思って聴いていた。

聴いていて、ほかのベートーヴェンのアルバムとすこし違う気がしてきた。
それがなにかははっきりとそのときはわからなかったが、後日、ある記事を読んでいたら、
このVol.8だけスタジオ録音だということだった。

アンドラーシュ・シフのECMでの録音は、たしかすべてライヴでの録音だ。
もちろんベートーヴェンの最後の3曲のピアノ・ソナタもコンサートで演奏しているはずだし、
それを録音をしているはず。
にもかかわらず、あえてスタジオ録音で入れ直している。

このことを知る前に、実は感じていたことが、もうひとつある。
それを確認したくて、シフのベートーヴェンのあとに、
内田光子の演奏を聴き、グールドのモノーラル盤も聴いた。

ほかのピアニストの演奏も聴くつもりでいたが、このふたりの演奏を聴いてはっきりと気づいた。
シフのベートーヴェンの、それも最後の3曲には、「ないもの」があるということだ。
しかも、その「ないもの」があることによって、ややこしい話だが、ほかの演奏にはないものがある、といえる。

私は、いまのところベートーヴェンの、30番、31番、32番には、
シフの演奏には「ないもの」を求めている。

だからシフによるこの3曲のピアノ・ソナタは、私にとっては優秀な演奏で満足するところはありながらも、
その「ないもの」を意識することになる。

五味先生が、ポリーニのベートーヴェンのソナタを聴かれて、激怒されたのとはまったく違う。

こういうことを書きながらも、シフの演奏は優秀だ。
だが私の勝手な憶測にしかすぎないが、シフも、その「ないもの」を気づいていたのかもしれない。
そうでなければ、なぜ、あの3曲だけ、誰もいないスタジオで録音しなおしたのか。

Date: 3月 21st, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その4・補足)

この項の(その4)をすぐあとに、この補足を書くつもりでいたのに、
ころっと忘れてしまっていて、いまごろ思い出した。

(その4)で書いたように、ケイト・ブッシュはオマケで録音したものだった。
だから興味のあった女性ヴォーカリストから聴いていていって、
最後に、これも一応聴いてみよう、という、はじめて耳にする音楽に対しては失礼な態度だった。

写真で見るかぎり、ケイト・ブッシュは私にとって、ちょっとおかしな女の子だった。

なのにイントロが終ってケイト・ブッシュの歌声を聴いたとたんに、
強い衝撃を受けたときによくいわれるように、背筋に電流が走った。
こういう言い方がゆるされるなら、背筋が屹立した。

それはクラシックの名演奏を聴いたときの強い感動とはまた異質の衝動だった。

あの日から30年以上経つ。
いまだに、背筋の屹立による快感がどこかに残っているのだろう、
ケイト・ブッシュの歌から離れることができないでいる。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(続・朝沼予史宏氏のこと)

朝沼さんに感じていた役割と、
ステレオサウンド創刊当時からのオーディオ評論家の方々に感じていた役割とには、
私個人としては、微妙な差がある、と思っている。

誤解を招く書き方になるが、朝沼さんの役割には、ある種の演じている、と感じるところがあるからだ。
もちろん、瀬川先生ほか、オーディオ評論家の方たちにも、そういう演じている役割はあったと思う。
それでも、表立つことはそうはなかった。

その点において、朝沼さんは違う。
なぜ違うのか。
世代の違いがある。

役割を果してこられた方たちと朝沼さんとは、ひとまわり以上違う。
朝沼さんは、若手と呼ばれるグループにいた。
そのグループ内には、共通認識としての役目・役割がなかったのではなかろうか。
上の世代には、それがあった。
朝沼さんの世代には、それがなかった。
これが朝沼さんが、役割を演じていると感じることに関係している、と思う。

まず共通認識としての役目があり、そしてそれぞれの役割があるのだから。

話はそれるが、いまでも朝沼さんのことに関して菅野先生を誤解している人がいるのを、見聞きする。
菅野先生ご本人が語られていないことを私が語るわけにもいかないが、
なにひとつ事情を知らない人の誤解であることは、はっきりと書いておく。

2002年12月8日の未明に、朝沼さんは亡くなられている。
その日の午前中、私は菅野先生のお宅をうかがっていた。
そのときの菅野先生の表情を私はみている。
そして、菅野先生から、直接聞いていることがある。

だから言える、菅野先生は朝沼さんに期待されていた。
それゆえのことだった、と。

いつか詳しく書く日が来ると思うが、いまはこれ以上は書かない。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その1)

めまぐるしい変化のなかに生きている、とわれわれは思っていた。
そこに、とてつもなく大きな変化がおきた。想像も出来ないほどの大きさだった。

そういう変化のあとで(しかもめまぐるしい変化も続いていてるなかで)愛聴盤を、
これまでと同じに聴けるのだろうか。
いままで気がつかなかった意味に気がつくこともあるだろう。違う意味に受けとれる音楽もあるかもしれない。

それが音楽だと思う。

一方で、はじめて聴いたときの同じに聴こえてくるレコードも、きっとある。
変らず、そこに音楽が或るレコードもある。
これも音楽だと思う。

いうまでもないことだけど、愛聴盤自体はなんら変っていない。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(朝沼予史宏氏のこと)

オーディオ雑誌(ジャーナリズム)に「役目」、それぞれのオーディオ雑誌に「役割」が本来あるべきなのと同じに、
そこに書く人たちにも、当然「役目」、「役割」がある。

ステレオサウンドが幸運だったのは、五味先生を筆頭に、
岡俊雄、井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三の各氏みな、
「役目」に対する共通認識が、なんらかの形であったこと。
そしてそれぞれの方たちが、それぞれの「役割」を果してこられていたこと。

だから、ステレオサウンドをおこした原田勲氏には、編集者は黒子、という考えがあるのだ、とも思う。
「編集者は黒子」という発言は直接聞いているし、
いつの号だったかは失念してしまったが、菅野先生と原田勲氏との対談の中でも、やはり語られている。

編集者は黒子であるべきなのか、黒子でいいのか、については、
当時は黒子の方が、いい結果を生んだように思う。
なまじ編集者が表に出しゃばったりするよりも、
役目と役割を共通に新規としてもっておられる方たちにまかせたほうがうまくいくように思うし、
事実、うまくいっていた。
もちろん、そこに編集者の役割がなかった、というわけではないし、
編集者は黒子としての役割を果してきたとは思う。

だが、岩崎先生が1977年に、五味先生が1980年に、瀬川先生が1981年に亡くなり、
菅野先生も不在のいま、編集者が黒子でよかった時期は、とうに過ぎ去っている。

いまステレオサウンドに書いている筆者(菅野先生が不在のいま、オーディオ評論家という言葉は使わない)で、
「役目」「役割」をはっきりと認識して、果してきている人がいる、とは思えない。

上にあげた方たちのあとに、「役割」を意識していた人は、朝沼予史宏氏だと思う。

Date: 3月 19th, 2011
Cate: 五味康祐

「シュワンのカタログ」を読んだ者として

レコードを聴けないなら、日々、好きなお茶を飲めなくなったよりも苦痛だろうと思えた時期が私にはあった。パンなくして人は生きる能わずというが、嗜好品──たとえば煙草のないのと、めしの食えぬ空腹感と、予感の上でどちらが苦痛かといえば、煙草のないことなのを私は戦場で体験している。めしが食えない──つまり空腹感というのは苦痛に結びつかない。吸いたい煙草のない飢渇は、精神的にあきらかに苦痛を感じさせる。私は陸軍二等兵として中支、南支の第一線で苦力なみに酷使されたが、農民の逃げたあとの民家に踏み込んで、まず、必死に探したのは米ではなく煙草だった。自分ながらこの行為にはおどろきながら私は煙草を求めた。人は、まずパンを欲するというのは嘘だ。戦場だからいつ死ぬかも分らない。したがって米への欲求はそれほどの必然性をもたなかったから、というなら、煙草への欲求もそうあるべきはずである。ところが死物狂いで私は煙草を求めたのである。(「シュワンのカタログ」より「西方の音」所収)
     *
五味先生の、この文章はしっかりと記憶している。
それだけつよい印象だったからだ。

だから、嗜好品よりも、被災地には先に送るべきものがある、ということは頭ではわかっていても、
こういう状況だからこそ、嗜好品の必要性をどうしても思ってしまう。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論, 井上卓也

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(続・井上卓也氏のこと)

井上先生が「ステレオサウンドの一人勝ち」をよくないことと考えられていたのは、
いまにして思うと、オーディオ雑誌(オーディオ・ジャーナリズム)の「役目」と「役割」について、
言葉にしては出されなかったものの、井上先生の中にはなんらかの想いがあったのかもしれない。

いまオーディオ雑誌(オーディオ・ジャーナリズム)は、「役目」についてはっきりと認識しているのだろうか。
これは、ステレオサウンドが、とか、オーディオベーシックが、とか、その他のオーディオ雑誌を含めて、
ぞれぞれが個別に考えてゆくものでもあるし、全体としての共通認識としてもっていなければならないもの。
そのうえで、それぞれの「役割」を考えていくもの。

オーディオ雑誌の「役目」を共通認識としてもち、
それぞれのオーディオ雑誌が、それぞれの「役割」をになっていく。

井上先生は、こういうことを言われたかったのかもしれない。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: Kate Bush

名曲とは(THIS WOMAN’S WORK・補足)

5月16日に、ケイト・ブッシュの「DIRECTOR’S CUT」がリリースされる。

「DIRECTOR’S CUT」の名のとおり、ケイト・ブッシュによって、
「THE SENSUAL WORLD」と「THE RED SHOES」からの選曲によるもので、
一部は再録音をしている、らしい。

「THIS WOMAN’S WORK」は「THE SENSUAL WORLD」に収録されているから、
「DIRECTOR’S CUT」でも聴ける可能性は高いと思っている。

「DIRECTOR’S CUT」は通常のCDのほかに、
「THE SENSUAL WORLD」と「THE RED SHOES」のリマスターCDを加えた3枚組、
それにLP(2枚組)、という3つのパッケージでの予定。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・補足)

今日(3月18日)の川崎先生のブログを読んだ。

そこに、
〝真に「命がけ」、平成の特攻隊という比喩は不謹慎ではありません〟
と、ある。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを聴いて、
送り出す側の音楽、送り出される側の音楽、と書いたのは、
そういうことである。

Date: 3月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 五味康祐

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・その1)

「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。

ベートーヴェンの後期の作品もそのとおりだと思う。

五味先生は戦場に行かれている。
高射砲の音によって耳を悪くされた。
そして焼け野原の日本に戻ってこられた。
レコードもオーディオ機器も焼失していた。

そういう体験は、私にはない。

だからどんなに五味先生の文章をくり返し読もうと、
そこに書こうとされたことを、どの程度理解、というよりも実感できているのかは、
なんとも心もとないところがある。

五味先生が聴かれていたようにはベートーヴェンを聴けない──、
これはどうすることもできない事実であるけれども、
そこになんとしても近づきたい、
近づけなくとも、同じ方向を視ていたい、と気持は決して消えてなくなるものではない。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ(30、31、32番)を聴いた。
2日前のことだ。イヴ・ナットの演奏で聴いた。

これらのピアノ・ソナタを、なまなかな状態で聴いてきたことはなかった、と自分で思っていた。
けれど、「いま」聴いていて、いままでまったく感じとれなかったことにふれることができた。

送り出す側のための音楽でもあり、送り出される側の音楽だと思えた。

五味先生の「日本のベートーヴェン」をお読みになった方、
ベートーヴェンの音楽をなまなか状態では決して聴かない人には、これ以上の、私の拙い説明は不要のはずだ。

Date: 3月 16th, 2011
Cate: Kate Bush, 言葉

名曲とは(THIS WOMAN’S WORK)

はじめてきいたときは、まだステレオサウンドにいた。
昼休みにほぼ習慣となっていたWAVE通い。
CDの置かれている棚には、まったく予想していなかったケイト・ブッシュのシングルCDが並んでいた。
「THIS WOMAN’S WORK」だった。
すぐに会社に戻りヘッドフォンで聴く。涙が出た。

今朝(といっても昼近くに)、ふと聴きたくなった。

また涙が出た。
最初に聴いたときの涙とは違う涙が出た。
「THIS WOMAN’S WORK」の歌詞が、あのときと「いま」とでは心に響いてくる意味が違っているからだ。
20数年を経て、心にしみこんでくる。
20数年前とは違う、心の別のところにしみこんでくる。
こういう音楽こそ、(使い古されたことばだけど)名曲ではないか。

こまかい説明はしたくない。
THIS WOMAN’S WORK」のwomanをほかの単語に置き換えてみても、この歌詞は通用する、とだけいっておく。

[THIS WOMAN’S WORK]
Pray God you can cope
I stand outside this woman’s work,
This woman’s world.
Ooh, it’s hard on the man
Now his part it over
Now starts the craft of the father.

I know you have little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I know you have a little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I should be crying but I just can’t let it show
I should be hoping but I can’t stop thinking
Of all the things I should’ve said
That I never said,
All the things we should’ve done
That we never did,
All the things we should’ve given
But I didn’t
Oh, daring, make it go,
Make it go away.

Give me these moments back
Give them back to me
Give me that like kiss
Give me your hand.

I know you have little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I know you have a little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I should be crying but I just can’t let it show
I should be hoping but I can’t stop thinking
Of all the things we should’ve said
That we never said.
All the things we should’ve done
That we never did
All the things that you needed from me
All the things that you wanted fro me
All the things we should’ve given
But I didn’t
Oh, daring, make it go away
Just make it go away now.

(内田久美子氏による和訳)
うまくやっていけるように神に祈りなさい
私はこの女の務めを
この女の世界を外側から眺める
そう 男にとってはつらいこと
いま 彼の役割は終わり
父親としての仕事が始まる

あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
泣けばいいのにそれを顔に出せない
望みをかけるべきときに私は考え続けている
言うべきだったのに
私が言わなかったいろんなこと
するべきだったのに
私たちがしなかったいろんなこと
あなたが私に求めたいろんなこと
あなたが私に欲したいろんなこと
与えるべきだったのに
私がそうしなかったいろんなもの
ダーリン 忘れさせて
みんな忘れさせて

あの時間を取り戻して
私に返して
あのささやかなキスをちょうだい
あなたの手を貸して

あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
泣けばいいのにそれを顔に出せない
望みをかけるべきときに私は考え続けている
言うべきだったのに
私が言わなかったいろんなこと
するべきだったのに
私たちがしなかったいろんなこと
あなたが私に求めたいろんなこと
あなたが私に欲したいろんなこと
与えるべきだったのに
私がそうしなかったいろんなもの
ダーリン 忘れさせて
みんな忘れさせて

Date: 3月 15th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 菅野沖彦

ベートーヴェン(菅野沖彦氏の音)

2005年の6月から8月にかけての約2ヵ月のあいだに、菅野先生の音を3回聴く機会があった。
ステレオサウンドで働いていたときでさえ、こう続けざまに聴けることはなかった。

最初は私ひとりでうかがった。だからリスニングルームには、菅野先生と私のふたり。
2回目と3回目は二人の方をお連れしてうかがったので、4人である。

お客様に音を聴いていただくときは3人を限度としている、と菅野先生が言われていたことを何度か聞いている。
人がはいれば、そのだけ音は吸われる。
菅野先生がひとりで聴かれる音と、ひとりでも誰かがそこに加わった音は、微妙に違ってくる。
ひとりがふたりになり、ふたりが三人になれば、それだけ音の違いもより大きくなってくる。

厳密にいえば、たとえひとりでうかがっても、
菅野先生がひとりで聴かれているときとまったく同じ音は聴けない道理となる。
それでもひとりでうかがったときの音は、菅野先生がひとりで聴かれている音とほぼ同じといってもいいはず。

わずか2ヵ月のあいだで、菅野先生をいれてふたりのときの音、
4人のときの音(これは2回)をたてつづけて聴いて、
菅野先生が、3人が限度と言われているのが理解できる。

もちろん菅野先生の音も毎日同じわけではないし、
うかがうたびに音は良くなっているけれども、この2ヵ月のあいだの変化は、
とくに前回(私がひとりでうかがったとき)から何も変えていない、と言われていたから、
その差は、ほぼ無視してもいいだろう。

となると、私は菅野先生のリスニングルームにおいて、人が増えたときの音の差を確実に実感できていた。

どこがどう違うのかについてはふれない。
言いたいのは、私がひとりでうかがったときの音と、3人でうかがったときの音は、まったく同じではない。
音のバランスに微妙な違いはあったし、ほかにも気がついたことはある。
だが、どちらの音も、見事に菅野先生の音であったということ、を強調しておきたい。

あれだけ細かい調整をされていると、往々にして人がふえていくことに極端に敏感に反応して、
音が大きく崩れることも、ときにはある。

そんなひ弱さは、菅野先生の音にはなかった。そんな崩れかたはしない。
つまり音の構図がひじょうに見事だからだ。

Date: 3月 14th, 2011
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(3月11日以降のこと)

3月11日は、奇しくもステレオサウンド 178号の発売日でもあった。
編集長が変って新体制になっての最初の号である。

このことをどう捉えるのか、単なる偶然としてさっと流してしまうのか、
それともそこに何かの意味を考えるのか……。

オーディオ雑誌(はっきりいえばステレオサウンド)は、
3月11日以降のオーディオのあり方について、どう考えているのか、
そしてそのことをどう編集方針へと転換して誌面へ展開していくのか。
それとも6月に発売予定の179号では、お見舞いの言葉を述べるだけなのか。

はっきりと書けば、ステレオサウンドはすでに役目を終えた雑誌だと思っている。
菅野先生が不在のいま、ほんとうに終った、と思う。

それでも179号以降で、今後のオーディオのあり方について、
模索しながらでもいい、なにかをはっきりと提示していくことができれば、
ステレオサウンドは復活できるとも思っているし、
こういうことを書きながらでも、心のどこかには復活を望んでいるところは、やはりある。

でも何も提示できない、どころか、それ以前に、これからのオーディオのあり方について何も考えていなければ、
ステレオサウンドにはジャーナリズムはまったく存在しない、ともいおう。

これは編集部に対してのみ言いたいことではない。
ステレオサウンドに書いている筆者に対しても、だ。

これまでと同じようなことしか書けないのであれば、考えつかないのであれば、
「役目」を果しているとはいえない。

ステレオサウンド編集部と筆者とで、いますぐにでも、3月11日以降のオーディオのあり方について、
真剣に議論しあい、すでに役目を終えた形ではない、これからの「かたち」を生み出してほしい、と思う。