Archive for 9月, 2010

Date: 9月 19th, 2010
Cate: 電源

電源に関する疑問(その21)

ウェストレックスのパワーアンプ、A10の出力管の+B電圧は270V(電圧増幅段は375V)。
それに対し電源トランスの2次側のタップは525V。整流管は5R4Gで前述しているとおりチョークインプット。
そして出力管用の電源ラインには1kΩの抵抗が直列にはいっている。

出力管(6L6Gもしくは350B)のプレート電流は一本当たり64mA。プッシュプルで128mA。
それにスクリーングリッド用の電流を含めると、1kΩの抵抗が介在することで約140Vの電圧降下が生じている。
ここで生じる発熱も大きい。だから1kΩの抵抗は50Wというかなり大型のものが使われている。

伊藤先生の349Aプッシュプルアンプは、電源トランスのタップは310V。整流管はGZ34。
こちらはコンデンサーインプットでチョークコイルは使っていない。

ここでひとつ訂正しておきたいことがある。
伊藤先生の349Aのアンプにも1kΩの抵抗が使われていると書いた。
たしかに無線と実験に掲載された回路図には、1kΩとある。
1kΩの抵抗にかかる電圧は、コンデンサーインプットだから380V。
349Aのプレート電流とスクリーングリッド用の電流、その2本分は64mA。
すると1kΩの抵抗での電圧降下分は64Vになり、380V−64Vでは、316Vになってしまい275Vよりも41Vも高い。
つまり1kΩではなく、1.6kΩだった可能性が非常に高い。

Date: 9月 19th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その28)

この「純化」は、「切り離す」ことで生まれてくるもののはず。
「切り取る」だけの行為では純化されることはない。

これが、五味先生のバイロイト音楽祭の録音と、高城氏のご自身のピアノ録音との違いの本質だと思う。
ここに、ハイ・フィデリティ再生と原音再生の決定的な違いもある。

Date: 9月 18th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その27)

作曲家は、譜面に自分の裡にある曲を音譜に変換していく。
演奏者は、その音譜を音に変換していく。

その過程に置いて、すべてが忠実に変換されているわけではない。
だから優れた演奏者は、音譜を音にするだけでなく、その作品を音にする。
ここに演奏者による変調がある、と思っている。

そして、そこに濾過もあると思っている。

ベートーヴェンやモーツァルトがつくった曲が、何人もの人をとおしてレコードとなってわれわれの元に届く。
演奏者、録音にたずさわった人たち……。
人から人、その過程に変換が介在していくことで、100%の伝送なんてない。
なにかが欠けていく。そして、変調によってなにか(ときには個性、解釈)が足されていく。

さらに人というフィルターをとおっていく。音楽、音は人を介するたびに濾過されていく。
濾過されることで、またなにかを失うともいえる反面、
濾過ということばがあらわすように不要なものが省かれするはずだ。

ここで一流の演奏家と二流の演奏者とが分かれるような気がする。
一流の演奏家は濾過によって、音楽、音が純化されていく。
そうでない演奏者では濾過によって、大切なもの(エッセンスといったものか)を失っていく……。

録音もそうだろう。一流の録音とそうでない録音の違いは、濾過によって純化されていくのどうか。

音楽は作曲から難解となく切り離されていくことで、濾過されていく。
そこで純度が高まっていくこともあれば、蒸留水みたいに無味乾燥になっていくこともある。

この「純度」こそが、音楽の浄化へと唯一つながっていく、いまそう思えるようになった。

Date: 9月 17th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その26)

オーディオを構成・成立させる技術(要素)は、大きく3つある。
変換(conversion, transformation)、変調(modulation)、濾過・濾波(filtration)だ。

アンプの機能の「増幅」は、入力信号そのものを増幅(大きく)しているわけではなく、
入力信号に応じてDC電源を変調させて、その結果を出力としている。
アンプの源であるDC電源も、大半のアンプはACを濾過(濾波)してDCに変換している。

マイクロフォンは振動を電気信号に、スピーカーはその反対に電気信号を振動に変換しているし、
録音ヘッドは電気信号を磁気に、再生ヘッドは磁気を電気信号に。
カートリッジはレコードの溝による振動を電気信号にかえ、
フォノイコライザーはRIAAカーヴというフィルターにそってイコライジングする。

トランスもそうだ。電源トランスも信号用トランスも、その名(Transformer)の通り、変換器である。

もっとこまかにアンプやスピーカー、CDプレーヤーの内部を見ていけば、
変換、変調、濾過(濾波)がそこかしこにあり、
それらが組み合わされてそれぞれのオーディオ機器が構成されていることがわかる。

この変換、変調、濾過は、演奏行為、録音行為にそのままあてはまると私は思う。

Date: 9月 16th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その25)

こう書いていると、そんなことは屁理屈だという人もいよう。
「戻ってゆく」といういったところで、いったいどうやって戻るのか、
そんなことは言葉の上でだけのことだろう、と、そういう人はきっというだろう。

そういう人に対して、なにかをいう気は、もうない。
理解できない人はそれでいいだろう。

想うのは、「戻ってゆく」ものだから消さずに残されているところに、
五味先生の音楽に対する「誠実さ」がはっきりとある、ということだ。

音楽を切り離す行為に必要なのは、やっぱり「誠実さ」であるはずだ。

切り離す行為は、なにも録音だけではない。
クラシックにおいては、演奏することが、作曲家から切り離す(ときには奪い取る)行為のように思えてくる。

演奏者が切り離したものを、録音エンジニアがさらに切り離していく。
さらに録音エンジニアとマスタリングエンジニアが異れば、そこでまた別の人間による切り離しがある。
アナログディスクであれば、カッティングエンジニアがさらに切り離していく。

ひとからひとへとわたっていくたびに、切り離されていく。
そうやって幾度となく切り離されたものを、われわれは家庭で聴く。

Date: 9月 15th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その24)

ワグナーは神々の音楽を創ったのではない、そこから強引にそれを奪い取ったのだ、奪われたのはいずれは神話の中へ還って行くのをワグナーは知っていたろう、してみれば、今、私の聴いているのはワグナーという個性から出て神々のとへ戻ってゆく音ではないか。
     *
この項の(その12)で引用したことを、もういちどくり返す。
ワグナーが、神々から奪ったのと同じ意味で、
録音という行為は、その場から「奪い取る」とまでは表現しなくても、「切り離してくる」行為である。

市販されているアナログディスクやCDによって音楽を聴くとき、
われわれは誰かの手によって「切り離された」ものを再生している。
そこに、聴き手の「切り離す」行為は存在しない。

バイロイト音楽祭を、それがたとえ誰かの手により録音されて、それがさらに誰かの手によって放送されていても、
その放送されたものから、五味先生は自らの手で切り離されていた、つまり録音されていた。
強引な表現がゆるされるなら、「奪い取る」につながる行為でもあろう。

だからこそ五味先生は、気に食わぬ演奏だとしても、消さずに残しておられた。
その「なぜ?」に対して、五味先生は「音による自画像」という答がすぐ返ってきた、と書かれている。

でもそれだけではない、そんな気もがする。
ワグナーが神々から奪い取ったものは、いずれ神話の中に還って行くように、
五味先生が切り取られた(奪い取った)ものも、いずれ「戻ってゆく音」であったように感じられていた。
だからこそ消されなかった、というよりも消すことは許されなかった。
消してしまったら、戻ってゆくことができなくなるから。

Date: 9月 14th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その23)

ボリュウムを少し絞る(音量を録音する対象よりも小さくする)という行為は、
さげた音量の分だけ「原音」からなにかをすこしだけ切り取る、といえないだろうか。

まずマイクロフォンが、その部屋に放出されたピアノの音すべて収録しているわけではない。
なにかを取り零している。言いかえれば、切り取って収音している。
それはなにもマイクロフォンが技術的に完璧なものでないだけでなく、
完璧なマイクロフォンセッティングがないためでもある。

とにかくすでにマイクロフォン(およびセッティング)で、原音を切り取っている。
切り取られ電気信号に変換され、録音器におくられる。
この伝送経路でもわずかとはなんからのロスが生じる。

電気信号は録音ヘッドによって磁気に変換されてテープへと写される。
ここでも、なにかが取り零され、切り取られていく。
そのテープを再生するときでも、完全にすべてを電気信号に変換できているという保証はどこにもない。

やはりここにも取り零しがあって、切り取られたものが電気信号へ変換されてアンプに送られ、スピーカーを鳴らす。

高城重躬氏のように、同じ空間(環境下)において、
そこにあるピアノを録音して再生することで「原音再生」を目ざして装置を改良していくということは、
取り零しを極力へらし、「切り取り」ではなくしていく行為のように、私は考える。

こまかいところでいろいろと指摘したくはなるものの、この手法そのものを、頭から否定しはしない。
正攻法といえば正攻法といえなくてもない。
だが、この手法によって改良された装置(音)が、誰かの手による録音、
つまり市販されているアナログディスクなりCDといったプログラムソースを再生するにあたり、
どれだけ有効か、ということについては、はなはだ疑問をもつ。

それは市販されているプログラムソースは、切り取られたのものではあるが、
それ以上に「切り離された」ものであるという性格が強いからである。

この「切り離す」行為が、五味先生のバイロイト音楽祭の録音行為である。
そう断言する。

Date: 9月 13th, 2010
Cate: 電源

電源に関する疑問(続・余談)

電源トランスがこれだけ発熱している理由は、どうもここにあるな、と判断し知人の了解を得て、
120V仕様に変更してみた。つまり1次側巻線を並列にすることで、巻線ひとつあたりに流れる電流を減らせる。

そのアンプの電源電圧の変更は、電源トランス附近のプリント基板上で配線をやりかえるだけで簡単に行える。
もし結果が芳しくなくても、すぐにもとの100V仕様にもどせる。

該当アンプの電圧増幅部はICによるOPアンプ(5532使用)、電力増幅段にもゲインをもたせている。
まあ多少アンプ部にかかる電圧が低下しても、動作上ほぼ問題はないと,私なりに判断しての作業である。

120V仕様にして電源をいれる。ファンの速度も低速でまわっている。
10分経過しても、ファンの速度は変らず。つまり電源トランスの発熱がぐんと減っている。
1時間経っても、天板がほんのり温かくなるだけ。それまでの熱さはなくなった。

これだけ変われば、音もとうぜん変化している。
即断してもらうよりはしばらくこのままで聴いてもらい、
もし以前のまま(100V仕様)のほうがよかった、ということであれば、
すぐに元に戻すから、ということで引き上げた。

結果、知人はそのまま使っている。
電源電圧が低下したわけだから、多少出力の低下はある。
それでも聴いた感じでは、むしろ120V仕様を100Vで使った方が音の伸びに関しても良い、といっていた。
アンプの動作にも、なんら異状は出ていない、という。

今回の手法が、どの海外製アンプにも通用するわけではない。
電源電圧の低下でアンプの動作に多少なりとも異状をきたすものもあるだろうし、
音質面でも芳しくない結果になるアンプだってある。

だが電源トランスの発熱の多さが気になるアンプでは、
どういうふうに100Vに対応しているのか、を回路図が入手できて調べることができれば、
今回の手法で解決できることもあろう。

Date: 9月 13th, 2010
Cate: 電源

電源に関する疑問(余談)

1年ほど前ことになるが、知人からアンプのことで相談があった。
彼が使っているのは業務用のパワーアンプで、何に困っているかというと発熱だった。

スペックをみてもそれほどの大出力アンプではないし、
回路図が、そのアンプメーカーのウェブサイトからダウンロードできたので目をとおしても、
発熱に関しては、それほど問題にならないはず、と判断できたにもかかわらず、
実際に知人の使っているアンプは、電源をいれてわりとすぐに天板がけっこう熱くなり、
2段切替えになっているファンも常時フル回転している。

30分ほど動作させたあと、天板をとってヒートシンク、その他の箇所にさわってわかったことは、
この熱の発生源はヒートシンクよりも、電源トランスだったこと。

電源トランスがすぐに熱くなり、すぐ近くのヒートシンクにもその熱が伝わっていた。
不思議なのは、電源トランスがこれほど熱くなること。
回路図上で電源トランスまわりをみると、ひとつ気がついた。
このアンプは、電源トランスの1次側のタップの配線をなおすことで、100、120、220、240Vに対応できる。
知人のアンプは、とうぜん100V仕様になっていた。

一見問題ないように見えるのだが、
もうすこし気をつけると、100V時だけ、他の電源電圧時と仕様が異ることがわかる。
1次側の巻線は120V用のがふたつある。

そのうちのひとつの巻線に100V用のタップが出ている。
120V時には、このふたつの巻線を並列にしているし、220V時には直列に接続して100V+120Vで対応している。
240V時には120V+120Vで、240Vにしている。

つまりふたつの1次側巻線を、100V時だけはひとつしか使っていない。
この電源電圧では、並列にしろ直列にしろ、巻線はふたつとも使っている、その違いがあった。

Date: 9月 12th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その16)

このころ(1978年)は、小型のシステムはサブシステムと考えられることが多かった。

黒田先生も書かれているように、4343にSU-C01とSE-C01のペアをつないで、
いつものリスニングポジションから動かずに聴くのであれば、
この小型のコントロールアンプとパワーアンプのペアは、サブシステムのままにとどまるだろう。

大型の4343というスピーカーシステムとの組合せではなく、
ビクターのS-M3という小型スピーカーシステムとB&Oのプレーヤーとの組合せを、
「キャスターのついた白い台」とともに構成されたからこそ、聴く音楽にすこしの条件はつくものの、
メインの装置としてつかえるようになる。

「スタイリングは、サイズと構成の上に成り立つ」
インダストリアルデザイナーの坂野博行さんが、Twitterに5日前につぶやかれている。

Date: 9月 11th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その15)

テクニクスのコンサイス・コンポ一式をむかえ入れられたとき、
黒田先生の部屋にはスピーカーはJBLの4343、パワーアンプはスレッショルドの4000、コントロールアンプは、
まだこのときはソニーのTA-E88(マークレビンソンのML7Lを導入されるのはまだ先のこと)だった。

この「より大がかりな装置」では、
「マーラーのシンフォニーをきくことも、リヒャルト・シュトラウスの楽劇をきくこともある」一方で、
「レコードによっては、スピーカーとききての間に生じる濃密な空気を求めて、
キャスターのついた白い台の一式できくことになるだろう」と書かれている。

「より大がかりな装置」は「小型の装置」よりも、「呼ばなかったであろうレコード」は少なくなる。
言いかえれば、「装置の呼ぶレコード」の数(種類、ジャンルの幅)は増えて広がっていく。

オーディオ機器としての能力が高いのは、呼ぶことのできるレコード(音楽)の多さ・広さと比例している、
そんなふうにいえるところがある。

けれど、黒田先生は「濃密な空気」を求めるときは、
「呼ぶレコード」の数・広さの少ない・狭い「小型の装置」を選ばれる。

さらに黒田先生はこうも書かれている。
     *
もし小編成のグループによって演奏された、ことさらダイナミックな表現力を必要としない音楽をおもにきくという人なら、この一式をメインの装置としてつかえるにちがいない。
もっとも、SU−C01+SE−C01を、一般的な使い方で──ということは、フロア型スピーカーにつないで、ききてが一定のリスニング・ポジションできくという使い方でということなら、その限りではない。
     *
そう、あくまでもアンプだけでなくプレーヤー、スピーカーを含めての装置一式を、
キャスターつきの台の上にのせて、という条件があったうえで、
「濃密な空気」を求めるときに聴くものであったり、
「ダイナミックな表現を必要としない音楽」とってはメインの装置として使える、ということである。

Date: 9月 10th, 2010
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past) を入力していて……(その45)

プログラムソースからテープデッキ、アンプはもちろんのこと、
スピーカーに至るまですべてマーク・レヴィンソンの手によるHQDシステムに対する、瀬川先生の試聴記を読むと、
やはりマークレビンソンは、アメリカ東海岸のメーカーだということを感じてしまう。

1970年代の後半、わが国では瀬川先生の文章によって、
JBLの4343(4341)とマークレビンソンのアンプの組合せから得られる音こそ、
最尖端であると受けとめられていたはず。すくなくとも私は、そう受けとっていたし、
いまもあの時代を代表する音だと言い切れる。

JBLはいうまでもなくアメリカ西海岸のメーカー。
対する東海岸には、ボザーク、AR、KLHなどのスピーカーメーカーがあった。

これもよく云われていたことだが、同じアメリカのスピーカーでも、西海岸と東海岸の音は大きく異る。
たしかKLHのスピーカーだったはずだが、レベルコントロールにふたつのポジションがある。
ひとつはFLATで、もうひとつはNORMAL。
FLATポジションは無響室での周波数特性(正しくは振幅特性)が、
ウーファーとトゥイーターがほぼ同じレベルであるのに対して、
NORMALではトゥイーターのレベルを明らかに抑えてある。

つまり、少なくともKLHの技術者たちは、特性上のフラットレスポンスよりも、
聴感上でもトゥイーターのレベルを抑えてあることがすぐにわかるレベルを「ノーマル」と判断した、というよりも、
そう感じているのだろう。

そういう傾向はKLHだけでなく、東海岸の、少なくともこの当時のスピーカーシステムには共通していたこと。
その東海岸にあって、マークレビンソンのLNP2やJC2の、とくにJC2のアナログディスク再生の、
あきらかに高域にウェイトのおかれた、ともいいたくなる性質は、異質だったのではなかろうか。

このことは、マーク・レヴィンソンとジョン・カール、
マーク・レヴィンソンとトム・コランジェロという因子とも深くかかわってくる。

Date: 9月 9th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その26)

JBLのSG520は、マークレビンソンのLNP2に惚れ込まれていた瀬川先生が、
LNP2が登場するまでやはり惚れ込まれ、自宅で使われていたコントロールアンプであったことも、
もちろん大きな理由のひとつ。

でもそれだけではなく、これも瀬川先生が書かれたものと関係していることが、ひとつある。

瀬川先生はFMfanに連載記事を持っておられた。
そのなかで、あるユーザーのお宅の音について書かれていた。
瀬川先生が手術をうけられた熊本の外科医の方の音について、だった。

スピーカーシステムは、エレクトロボイスのパトリシアン800(おそらく復刻のほう)、
プレーヤーシステムは、トーレンスのリファレンス、アンプは、SUMOのThe Goldを決めてから、
あれこれコントロールアンプを試された結果、たどりついたのがSG520だった、とその記事にはあった。

LNP2も試されている。他の著名なコントロールアンプも試されたうえで、
すでに製造中止になっていたSG520をつないだときに、当時優秀録音として、
瀬川先生もステレオサウンドの試聴によく使われていたコリン・デイヴィスのストラヴィンスキーのレコードから、
いままで耳にしたことのないグランカッサの音が鳴ってきたからだった、というふうに記憶している。

これを読んだとき、SG520はやはりすごいアンプなんだ、とまた刻まれたからだ。

Date: 9月 8th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その13)

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー」の試聴レコードでは3枚。
アバド/シカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲第一番、クライバー/ウィーン・フィルのブラームスの第四番、
それにカラヤン/ベルリン・フィル、リッチャレルリ、カレーラスらによるプッチーニのトスカ。
3枚ともドイツ・グラモフォンのレコードだった。

このときの試聴で印象に残っているのは、
当時から好きだったクライバーのブラームスではなく、アバドのマーラーだった。
試聴に使ったは第一楽章の序奏の部分。
こんなに張りつめた空気で、聴き手の集中力をどこまでも要求してくるかのように思えた響きの透徹さに、
何度も何度も聴くうちにすっかりくたびれてしまったということもあったが、
試聴後の話の中で、黒田先生の発言が印象深かったこと関係している。

どの機種のところで話されたのか、確認しようと思い、
いま「サウンドコニサー」をぱらぱらめくってみたけど、見つけられなかった。
まとめでは省略されてしまっただろうか。

黒田先生は、現代にマーラーが生きていたら、
第一楽章の序奏にはシンセサイザーを使ったかもしれない、ということだった。
アバド/シカゴ交響楽団の演奏は、たしかにそう感じさせるところが、その響きのなかにある。

アルマ・マーラーの回想記「グスタフ・マーラー──回想と手紙──」(酒田健一氏訳、白水社刊)にこうある。
     *
──『第六交響曲』の練習の時だった、マーラーは終楽章の大太鼓の強打音が弱すぎるといって、巨大な箱を取り寄せ、それに皮を張らせた。これを棍棒で叩こうというのだ。練習に入る前、この即製の楽器はステージに運ばれた。しんと静まりかえった緊張、やがて太鼓叩きが棍棒をふりかぶって打ちおろした。鈍くかぼそい音が出た。これが答えだった。そこでもう一度ありったけの力をこめたが、結果は同じ。マーラーはしびれを切らし、前へ走り出すと男の手から棍棒をひったくり、たかだかと振りかぶり、風を切って打ちおろした。あいかわらず情けない音。みな一斉に笑い出した。そこで従来のまともな大太鼓を持ち出すことになった。するとどうだろう、雷鳴一時にとどろきわたった!……
     *
しかもマーラーはこれで懲りることなく、バカにならない費用をかけて、
この「箱」を次の演奏会場にまで運び込んでいる……。

五味先生は、「マーラーの〝闇〟、フォーレ的夜」(「天の聲」所収)のなかに、
このエピソードを引用した上で、書かれている。
     *
「われわれ音楽家は詩人にくらべて分が悪い。読むことなら誰にだってできる、だが印刷された総譜は謎の書物だ、謎ときの出来るのは指揮者だけなのに……」そんな意味のことも洩らしたという大指揮者が、即製の箱に皮を張れば大太鼓より轟くだろうと本気で考えたのである。よりよい音への貪欲さによることだが、貪らんで執拗な行為が、稚気を感じさせるには天性の童心がなくてはかなうまい。
     *
こういう男だから、マーラーの前にシンセサイザーがあったならば採用していただろうとは思える。

だが、勘違いしないでほしいことがひとつある。
だからといって、アバド/シカゴ交響楽団による交響曲第一番の第一楽章の弦が、
シンセサイザー的に鳴っていいわけではない、ということだ。

Date: 9月 7th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その12)

ショルティ/シカゴ交響楽団による「復活」を聴いたのは、CDになってからだった。
旧録も新録、どちらもアナログディスクでは聴いたことがない。

でもCDで聴いても、低弦の強烈な表現には驚いた。
それはオーディオだからできる表現である。
こう書くと、オーディオに、再生音楽に否定的な人たちは、
そんなのは音楽的にまちがっている、とか、おかしい、とかいうだろ。
オーディオに熱心な人も、そういうかもしれない。

ショルティの旧録が、SX45でカッティングされたオリジナル盤よりも、
SX68によるリカット盤の音(表現)がおとなしくなったように、
新録もアナログディスク(おそらくSX74によるカッティングだろう)よりも、
CDのほうが表現はおとなしいのかもしれない。
それでも、はじめてショルティの「復活」の新録を聴いたときの、低弦の表現はとにかく強烈だった。

じつのこのとき、私も「やりすぎだろう、これは」と思っていた。
それから10年くらい経ったころから、ショルティの、この意図こそ音楽的に正しいことのように思えてきはじめた。

岡先生の文章を、また引用する。
     *
六六年録音がリッカティングでおとなしくなってしまったあのヒロイックで野性的な強圧感を、デジタル・レコーティングで積極的にとりもどそうと考えたショルティの意図は明らかである。
     *
ショルティの「意図」を、「復活」の新録をはじめて聴いたときには理解できなかった。
ただ、あとになって「意図」の理解につながるヒントは、「復活」の新録を聴くまえにすでにあった、ということ。