ショルティの「指環」(その12)
ショルティ/シカゴ交響楽団による「復活」を聴いたのは、CDになってからだった。
旧録も新録、どちらもアナログディスクでは聴いたことがない。
でもCDで聴いても、低弦の強烈な表現には驚いた。
それはオーディオだからできる表現である。
こう書くと、オーディオに、再生音楽に否定的な人たちは、
そんなのは音楽的にまちがっている、とか、おかしい、とかいうだろ。
オーディオに熱心な人も、そういうかもしれない。
ショルティの旧録が、SX45でカッティングされたオリジナル盤よりも、
SX68によるリカット盤の音(表現)がおとなしくなったように、
新録もアナログディスク(おそらくSX74によるカッティングだろう)よりも、
CDのほうが表現はおとなしいのかもしれない。
それでも、はじめてショルティの「復活」の新録を聴いたときの、低弦の表現はとにかく強烈だった。
じつのこのとき、私も「やりすぎだろう、これは」と思っていた。
それから10年くらい経ったころから、ショルティの、この意図こそ音楽的に正しいことのように思えてきはじめた。
岡先生の文章を、また引用する。
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六六年録音がリッカティングでおとなしくなってしまったあのヒロイックで野性的な強圧感を、デジタル・レコーティングで積極的にとりもどそうと考えたショルティの意図は明らかである。
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ショルティの「意図」を、「復活」の新録をはじめて聴いたときには理解できなかった。
ただ、あとになって「意図」の理解につながるヒントは、「復活」の新録を聴くまえにすでにあった、ということ。