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Date: 9月 19th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その5)

こんなことをつらつら考えるのは、
以前にそこに在籍したことがあるからであって、
編集経験がなかったら、こんなことを考えることはない。
考えずに、「あぁ、こんな変な日本語、書いている」と思い、
今回は笑ってしまって、それでおしまいであっても、
こういうことがこれからも2度、3度……と続くようであれば、
まず筆者を信用しなくなるし、それから編集者を信用しなくなる、はず。
つまり、このことはステレオサウンドという本を信用できなくなってしまうことへとつながっていっている。

それは読者ばかりではない、はず。
ステレオサウンドに書いている筆者も、
こんなおかしな日本語が、これからも誌面に載っていくようなことが続けば、
編集者に対する信用が少しずつ薄れていく、ということもあっても不思議ではない。

人は絶対にミスをしない生き物ではない。
得手不得手があり、ミスもする。
だから編集部は複数の編集者によっている、ともいえる。
編集部のひとりひとりが得手不得手があり、それは人それぞれ異っていて、
ある人が気がつかない、今回のようなおかしな日本語も、
別の人が気づいて訂正すればいい。

自分の書いたものがステレオサウンドの誌面に載ったとき、
もう一度読みなおす筆者(書き手)であれば、編集部による訂正に気がつき自分のミスを恥ずるとともに、
編集者への感謝の気持も涌いてくる。

ミスに気がついた筆者は、次回からは同じミスはやらかさないだろうし、
よりよい文章を書くようにつとめていくいくのではないだろうか。
そして、編集部、編集者への信用、信頼も生れてくるに違いない。

それが今回のように、そのまま誌面に載ってしまうと、
その文章を書いた筆者は気がつかない。
そうなってしまうと、これからもそのままになってしまうかもしれない。

ここ数年、ステレオサウンドには、変な技術用語が載ることがある。
このことについては以前書いているので、
どういう用語なのかについては改めては書かないけれど、
編集部に技術的なことを得意とする人はいないのだろうか、と思う時がある。

そんなことはないとは思っているけど、
いまの編集部はみな同じことを得手として、同じことを不得手とする人ばかりなのかもしれない、と。

ステレオサウンド編集部にいたころに、いわれた言葉をおもいだす。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・オーディオを語る、とは)

オーディオ機器について書いてあるのだし、
オーディオ機器、そのメーカーの歴史について書いてあるのだから、
それらの文章は、当然オーディオを語っている──、
そう思い込めれば、こんなことを自問自答しなくてもすむ。

あるオーディオ機器についてあらゆることを調べ上げ、
その時点でわかっていることを出し惜しみすることなく提示する。
さらに音についても、具体的に事細かに書いていく……、
このディスクのこの部分が、こういうふうに鳴った、というぐあいに、
これ以上ないというぐらいに詳細な記事を書く。

そこから得られる情報量は多くなる。
少ないよりも多い方がいい。
しかも良質な、そして誰も知る人のいない情報であれば、
ますます情報量は多いほうが、いいということになる。

ただ、ここで微妙になってくるのは、
そうやって書かれたものは、資料へとなっていく、ということだ。

オーディオを語っている読み物から資料へ、と移行していく。
小林氏の「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」はいまよりも、
10年、20年と経つほどに資料的価値は増していくであろう。

そうなのだ、私にとって「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は有難い資料である。
おそらく小林氏も、資料として書かれているのだと、勝手に思っている。
資料は資料として、あえて留まるからこそ、そこに価値がある。

となると、私がここに毎日書いているものは、はたして、なんであろうか。
オーディオについて書いている、オーディオ機器についても書いている。
人についても書いている。

オーディオについて語る、ということの難しさ、その曖昧さを頓に感じている。
だから書き続けていくしかないことだけが、はっきりとしている。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(続・オーディオを語る、とは)

実は、小林正信氏の連載が載っているから、管球王国を購入しようかとすら思ったほどである。
管球王国は創刊号から数年間は面白い雑誌だと感じていた。
それが急速に変貌していってしまった。

どんな雑誌も変化していく。
いい方向のときもあればそうでない方向のときもある。
長い間に変っていく……。

それは承知している。
だが管球王国ほど短期間で変貌してしまった雑誌も、珍しいといいたくなるほど、
その変貌は急激だった。
以前は気に入った号は購入していたが、ここ数年はまったく購入していない。
するつもりもない。
そんな私に、小林氏の「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は、
たとえ一瞬であっても買ってしまおうか、と思わせた。

小林氏の連載は、すべての人にとって面白い記事ではないだろうし、
興味のある記事でもないことだろう。
でもドイツのオーディオに関心をもつ人ならば、どこかで手にとって読んでほしい、と思う。

この小林氏の記事もそうだが、
インターネットで読むことができる、数はすくないけれど良質な文章で出合うと、
オーディオを語る、ということの難しさを、どうしても思ってしまう。

小林氏、そして小林氏による記事、インターネットにあるいくつかの記事、
それらを批判するつもりはまったくない。
ただ、そこから得られる知識の量と質に感心し、ときには感謝に近いものを感じながらも、
オーディオを語っている、といえるだろうか、と思ってしまうことがある、ということをいいたいだけである。

小林氏の記事は、記事のタイトルにもあるように「クラングフィルムの歴史」がテーマであろう。
そのことに集中されている。
だから、そこではクラングフィルムの歴史、クラングフィルムのスピーカー、
そこから生れてきたモノについて書かれていかれるのが主旨であり、
それだからこそ私にとって有難い記事なのだが、
これがオーディオを直接的、間接的に語っている記事か、となると、微妙なところがある。

インターネットでめ読めるオーディオ機器の詳しいレビューも、またそうである。
ひとつのオーディオ機器について詳細を書いてある。
そこにある音質評価が信じられる、とか、信じられない、とか、そういう問題ではない。
その記事(レビュー)が、オーディオについて語っているのか、ということである。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(オーディオを語る、とは)

毎日ブログを書く。
オーディオに関することを書いている。

書きながら自問自答することがある。
オーディオに関することを書いているわけだが、
オーディオを語っているのか、という自問自答である。

これは自分の行為に対してだけでなく、
誰かの文章を読んでいる時も、そういうときがある。

インターネットのおかげで、
調べたいキーワードを入力すれば、
いつもとは限らなくても、かなり高い頻度でほしい情報が得られるサイトが検索結果として示される。
そういう検索結果によって、この分野では、こんなに詳しい人がいるんだ、と思うし、
個人でオーディオ機器のレビューをやられている人の中にも、
実に細かいところまでチェック(技術的なことを含めて)して、
インターネットという分量の制限のなさということもあって、おしみなく書かれていたりする。

なにもインターネットだけにとどまらない。
たとえばステレオサウンドから出ている管球王国に、
小林正信氏による「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」という連載が始まった。
いま出ているVol.65に、その2回目が載っている。

シーメンスのオイロダインに惚れたことがあり、シーメンスのコアキシャルをつかっていた私にとって、
この連載は、待ちに待った、という感じの記事である。

ウェスターン・エレクトリックに関しては以前から結構な資料が入手できたものの、
クラングフィルムに関することは、ウェスターン・エレクトリックと比較するとないに等しい感じだった。
限られた情報が断片的でしかなかった。

そのクラングフィルムに関することが、この記事では事細かに調べられ、
そこには出し惜しみなんてことは感じられない。
個人的には、非常にありがたい記事である。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その35)

マッキントッシュのアンプにおけるツマミの変化は、
以前、この項で書いている、電気モノから電子モノへの変化と一致していると私はみる。

ノイズそのものが視覚的に捉えることができれば、
マッキントッシュのアンプにおける古いツマミの時代のアンプのノイズと、
新しいツマミになってからのアンプのノイズの質(たち)の違いがわかろうが、
実際にはまだそういう測定技術はない。
なので感覚的な表現になってしまうが、古いツマミのマッキントッシュのアンプのノイズは、
まず新しいツマミになってからのアンプのノイズよりも、粒子が大きい。
しかも、その粒子のマテリアルも違っているように感じる。
古いツマミの方が、より硬い気がする。
この「かたい」は、堅い、固い、とよりも硬いという感じを、私は受ける。
粒子の大きさが違い、しかもマテリアルも違うということは、
たとえ同じノイズ量だとしても、聴感上は古いツマミのアンプの方が多く感じるだろう。

それに、実際には新しいツマミになってからのほうがノイズも減ってきているので、
よけいに聴感上のS/N比は、ツマミの古い新しいで、ずいぶんと違う。

古いツマミのマッキントッシュのアンプ、
そのなかでもMC2300のノイズは、ノイズ総量の質量に手応えのある重さがあるような気もする。
この手応えのある質量感をもつノイズの存在が、
MC2300を電気モノと表現したくなるところへと、私のなかではつながっている。

このノイズのことひとつにしても、マッキントッシュのアンプは、ツマミの変化とともにあきらかに変化している、
ではなく向上している。
アンプの進歩としては確かなものではある。
けれど、この項の(その32)にも書いているように、MC2300とMC2600、どちらを選ぶかとなると、
心情的にはMC2300へと大きく傾く。

ふだん聴感上のS/N比は重要だと何度も書いていながらも、
はっきりとMC2600の方がアンプとして高性能であることは認めながらも、
自分で使うアンプとして選ぶのであればMC2300であり、
なぜなのか、について考えていくことが、この項にも深く関係していくような気がする。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その10)

なぜ一部のワイドレンジ志向のスピーカーシステムよりも、
ずっとナロウレンジのフルレンジのスピーカーのほうが、ソプラノ歌手の鳴らし分けに長けているのか、
いいかえると聴き分けが容易なのか、について考えていくと、
岩崎先生が書かれていた、ある考察を思い出す。
     *
ジェームス・バロー・ランシングが目ざした高能率とは音圧のためのではなく、もっと他のための高能率ではなかったのだろうか。他の理由——つまり音の良さだ。
 周波数特性や歪以外に音の良いという要素を感じとっていたに違いない。その音の良さの一つの面が過渡特性であるにしろ、立ち上がり特性であるにしろ、それを獲得することは高能率化と相反するものではない。むしろ高能率イコール優れた過渡特性、高能率イコール優れた立ち上がり特性、あるいは高能率イコール音の良さということになるのではないだろうか。私にはジェームス・バロー・ランシングが当時において今日的な技術レベルをかなり見抜いていたとしか考えられない。そうでなければあれだけのスピーカーができるはずがない。
     *
これは、「オーディオ彷徨」にもおさめられている「ジェームズ・バロー・ランシングの死」の中に出てくる。
この文章が書かれたのは、1976年、雑誌ジャズランドの10月号のことである。

過渡特性の良さ──、
結局、このことに深く関係しているのは間違いない、と確信している。

だからサインウェーヴでの周波数特性が広い、一部のスピーカーシステムよりも、
ナロウレンジのフルレンジのほうが、時としてソプラノ歌手の声をきちんと鳴らし分けてくれるし、
サインウェーヴでの周波数特性では同じようなナロウレンジの周波数特性のスピーカーがあっても、
片方はナロウレンジであることが気になって長く聴き続けることができないのに、
もう片方は聴いているうちにそれほどナロウであることが気にならなくなる、ということも、
過渡特性の悪いナロウレンジ(前者)と良いナロウレンジ(後者)ということになる。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その4)

なにも、筆者からもらった原稿はいちど必ず紙に印刷しろ、
とそんなことをいいたいわけではない。

ただメールで送信されてくる原稿、つまりはテキストファイルをパソコンの画面で確認し、
DTPでつくられるのであれば、ページのレイアウトに必要な写真や図版、
これらもデジタルカメラで撮影していたり、パソコンでつくった図版であれば、
テキスト(原稿)とまとめてデータとして、デザイナーに渡される。

つまり原稿も写真も図版も、実際にいちども手にすることがなく、作業は進んでいく。
それがDTPなのだから、いちいち紙に印刷して、ということは時間とコストの無駄でもある。

そう思いながらも、そこには陥し穴的なところが潜んでいる気もする。
昔ながら編集の仕事を経てきた者と、
最初からDTPで編集を行ってきた者とでは、
たとえデータとして送信されてくる原稿に対しての気持、そこに違いがあるのではなかろうか。

これは人によっても違ってくる要素だし、一概にはいえない、ことなのだろうが、
それでも……と思いたくなる。

ステレオサウンド編集部がそうなのかどうかは知らない。
ただいまのステレオサウンドの誌面を見ていると、
ときに原稿がテキストデータとして取り扱われているのではないか、そんな気がすることもある。

だから、うっかり、おかしな日本語が誌面に載るのではないか。
つまり編集者が、部分的ではあるにしても、オペレーターになってはいないだろうか──、
そう思うのだ。

それとも、編集部は、おかしな日本語に気がついていて、あえてそのまま誌面に載せた、
ということも考えられる。
気がつかなかったのか、それとも気がついていて、なのか。
それは私にはわからない。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その17)

山中先生からきいた話がある。
同じことを、菅野先生との対談も語られている。
ステレオサウンド 70号の巻頭対談に載っている。
     *
山中 アメリカの小売店というのは、これは昔からそうなんですが、ある街にオーディオ店が何軒かあるとすると、扱っている商品がすべて違うんです。ですから、お客さんも全部違う。しかも、扱っている商品に関して、サービスが徹底し、メインテナンスもすべて自分のところでできるくらいになっています。
 補修用のパーツをメーカーからとって、ある程度の修理は、自分のところで引き受けられるくらいの店としての技術、格式、誇りがあるんです。お客のほうもそこを頼りにしていきますしね。人間対人間の信頼関係によって商(あきない)が成立しているのです。
菅野 ですから外国のメーカーの人が日本に来て、その販売事情を見てまず感じるのは、日本のオーディオ店は、オーディオ販売店じゃないと、あれは単にオーディオサプライヤーであると厳しく非難してゆきます。
 売るという行為は何もしていないじゃないか、売るということは、売った物に対して責任を持つことであり、当然サービスが必要であり、自分が信じて、要は自分の好きなオーディオ機器を自信をもって説得するのがセールスであるという考え方を彼等は当然なこととしてもっている。ところが、日本にセールスはないと言いますね。量販、量販できたことの弊害というのは、今、様々なレベルで表に出ない問題をかかえこんでしまっていると言えるでしょう。
     *
ステレオサウンド 70号は1984年3月に出ている。
約30年前の話ではあるから、アメリカ、ヨーロッパのオーディオ機器の販売の状況も変化しているかもしれない。
でもアメリカの小売店の在り方は、個人によるガレージメーカーが主宰者をなくしたあとも、
修理、メンテナンスを継続していくうえで採り入れていくべきことであり、
そのままでは無理でも、この在り方を参考にしての、個人によるガレージメーカーの在り方がある、と考える。

個人によるガレージメーカーの製品は、数としてそれほど多くは出ない。
文字通り個人(ひとり)でやっているのだから、作っていける数にも限りもある、
取り扱ってくれる販売店の数も多くはないだろうから。

だからこそ、山中先生が話されている、アメリカのオーディオ店の存在とその関係が必要であるし、
またそれが可能である、はずだ。

Date: 9月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その3)

私がステレオサウンドにいた7年のあいだに、電算写植が登場し、ワープロも導入された。
編集の仕事の環境が変りはじめていた時期でもあった。

入ったばかりのころは手書きの原稿に直接朱入れしていたのが、
ワープロが導入されてからは、手書きの原稿をワープロで入力するとともに朱入れも行うようになった。

私がいたころ、手書きからワープロの原稿に移行されたのが早かったのは、黒田先生と柳沢氏だった。
そのあとに長島先生もワープロにされたように記憶している。

ワープロでもらった原稿も、いちど紙に印刷して朱入れを行っていた。
そんな時代を経験してきた。

現在のDTPへつながっていくごく初期の段階だけに、
いまのパソコンが編集の道具として活用されている状況とはずいぶん異る。

原稿は手書きにしろ、ワープロによるものにしろ、原則的に受け取りにいっていた。
メールに添付されて送信されてくるなんてことは、まだ想像もできなかった。

いまの編集作業のこまかいところは、わからない。
メールで送られてきた原稿を、編集部がどう処理しているのかはわからない。
ただ朱入れもパソコンで直接行っている気がする。
紙に印刷して朱入れして、その朱入れをパソコンで訂正、更新する、ということはやっていないのではないか。

パソコンを導入してDTPで本づくりをおこなっているのに、
しかも筆者からの原稿はテキストファイルで送信されてくるのだから、
あえて紙に印刷するなど、時間とコストの無駄、といえば、たしかに無駄である。

印刷しなくても、編集という仕事が機能するのであれば、それでいい、と私だって思う。
だが、ステレオサウンド 184号のおかしな日本語が誌面に登場したのは、
実は、そういうシステムが生んでいる弊害なのではないだろうか。

私は、なにか、そこに、筆者の書いたものが単なるデータとして処理されていくだけのような、
そんな感じさえ、つい想像してしまう。
だから、おかしな日本語が、うっかり載ってしまった──、そう思えてならない。

Date: 9月 15th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その2)

私が在籍していたころ(1980年代)のステレオサウンドでは、
筆者の原稿を受けとったら、まず担当編集者が、いわゆる朱入れをする。

この時代はまだワープロがやっと登場したばかりで、しかもそうとうに高価で大きなモノだったたら、
筆者からの原稿はすべて原稿用紙に手書きのものだった。
朱入れした原稿を、実質的に編集長だった編集次長の黛さん(いまは筆者として活躍されている)がチェックする。
そして活字にするために写植にまわすことになる。

写植があがってきたらコピーして、編集部全員で校正する。
私がステレオサウンドで働きはじめたころは、私をいれて6人だった編集者は、
私がいたころ少なかった時は、その半分だったこともある。
だいたい4、5人で校正する。

その次に写真や図版などがレイアウト通りになってくる青焼きと呼ばれるものをチェック(校正)する。
ほんとうは、この段階で文章のチェックをするものではないのだけれど、
どんなにチェックしても誤植は完全にはなくせないから、ここでも文字、文章のチェックを行っていた。
青焼きに朱をいれたものが印刷にまわる。

つまり編集者が4人いたとしたら、のべ10人の目、5人だとしたら12人の目をとおって、本になるわけだ。

いまのステレオサウンドの体制がどうなのかは知らないが、そう大きくは変っていないだろう。
担当編集者の次に編集長が、そして校正の段階で編集部全員がチェックしている、と思う。

なのに、今回のおかしな日本語は誰の目にも留まらずに、そのまま誌面に残ってしまっている。
編集者は、筆者の原稿を読んでいるのだろうか、と勘ぐりたくなる。
文字だけを追っているようになってしまっているのではないか。

ステレオサウンド 184号のおかしな日本語は、文字の間違いはない。
だからうっかり見過されたのか。

このことを小さなミスと受け取るか、
それとも編集者の存在を問うことにつながることとしてとるのか、
それは人によって違ってくるだろうが、私は小さなミスとは、どうしても思えない。

Date: 9月 14th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その1)

電子出版元年は、これまで何度いわれてきたことだろうか。
最近では、電出版元年に変り、自己出版元年ということばも見かけるようになってきた。

自己出版と同じ意味で、ダイレクト出版という言葉も登場した。
書き手が読み手にそのまま電子書籍を配信することで、
そうなると編集者の存在が問われることになる。

電子出版という言葉の登場以前から、
インターネットがこれだけ一般的なものとなり、
不特定多数の人たちになにかを発信していくことがこれだけ容易になってくると、
書き手と読み手の間に、これまでの紙の書籍では必ず存在していた編集者が、
必ずいるとは限らなくなる。

編集者不在でも(つまり出版社を通さなくても)本(電子書籍)を出すことができる、
情報が発信できることは、いい面もあればそうでない面もあって、
編集者不在がいいとは思っていない。

それでも、あえていいたいことがある。
紙の本では編集者が不可欠ではあるが、
ほんとうに編集者として機能しているのか、と問いたくなることが、
オーディオ雑誌を手にとってみると、どうしてもある。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 184号を書店で手にとってパラパラと立読みした。
5分と手にしていない、それでもある文章が目に留まった。

誰が書いているのか、どういう内容だったのかについては書かない。
その筆者を責めたいわけではないから。

それは、おかしな日本語だった。
それのどこがおかしいのか説明するのに、すこし時間がかかるくらい、
人によっては、どこがおかしな表現なの? と思われるものではあるのだが、
明らかにおかしな日本語であることは確かである。

こんなことを書いている私だって、どこまで正しい日本語を書けているのか、と振り返ることは多い。
だから、そんなおかしな表現を書いた筆者を、ここで名指ししたいとは思っていない。

問題にしたいのは、なぜ、そのおかしな日本語が誌面に載ったかということだ。

Date: 9月 14th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その9)

ソプラノ歌手の再生といっても、基音だけでいえばそれほど広い音域を必要とするわけではない。
声楽の音域は、バスが82.4〜261.6Hz、バリトンが97.9〜349.2Hz、テノールが130.8〜391.9Hz、
アルトが196.0〜587.3Hz、メゾ・ソプラノが261.6〜783.9Hz、
そしてソプラノが329.6〜1046.5Hzとなっているから、
バスの最低音からソプラノの最高音までほぼ4オクターヴは、
1kHzよりも低いところにあり、意外にも、というべきか、それほど高い音は出ていないように思える。

これはあくまでも基音であって、楽器も人の声も倍音が発生する。
この倍音を含めて、周波数レンジはどの程度必要なのか、を楽器別にまとめた、
W.B.スノウによる実験データがある。

このスノウの実験データは、周波数レンジをどこまで狭めていくと、
もとの楽器、もしくは人の声の音色が損なわれるかを表しているもので、
女性言語は200Hzよりも少しひくいところから10kHzまで、となっている。

スノウの、この実験データは、たしか1931年に発表されたものであるから、
ずいぶんと古いデータであり、現代のシステムで実験をすれば、多少値に変動が出てくるかもしれないけれど、
目安としては、それほどの変化はないように思う。

女性の声に関しては、10kHzまできちんと再生されていれば、
音色の再現に支障をきたすわけではない、ということになる。

10kHzまでなら、
いま市販されているスピーカーのうち、
オーディオマニアを対象としたスピーカーシステムの大半(ほぼすべてといってもいいだろう)は、
楽々クリアーしている数字である。
さらに10kHzよりも周波数レンジが延びていれば、もっと音色の再現性は精確になっていくはずなのに、
一部のワイドレンジ型であり、音場型とも呼ばれているスピーカーシステムの中には、
くり返すが、ソプラノ歌手を正体不明にしてくれるモノがある。

そして、このこともまたくり返すが、レンジの狭いフルレンジのスピーカーのほうが、
ずっとはっきりとソプラノ歌手が誰なのかをはっきりとさせてくれることがある。

Date: 9月 13th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その3)

オーディオに関することで家族への言い訳をあれこれ考えずにすんだ人は、
めぐまれた人といえるのだろうか。

家族といっしょに暮らしていて、
誰にもオーディオ機器の購入、その他に関することでまったく言い訳する必要のない人は、
まず金銭的にもめぐまれている人であることは間違いないであろう。

言い訳なんぞしなくてすむならしたくはない、考えることしたくはない。
そんな言い訳をしなくてもすむのだから、すくなくともオーディオ機器の購入に関しては、そうであるのだから、
やはりめぐまれている、ということになる。
そして自由に、欲しいオーディオ機器が登場したら、買い替えられる。

買い替える、もしくは買い足すことに誰も文句を言わない、
そういう環境の人は、ほんとうに誰にも言い訳をしていない、と言い切れるだろうか。

確かに家族に対しては、言い訳をする必要はないからしない。
けれど、彼らの中には、自分自身に対して言い訳をして、あれこれ買い替え、買い足している人だっている。

あのスピーカーシステムがあれば、こういう音が出せる、
あのパワーアンプに買い替えれば、このスピーカーからもっといい音を出せる、
ケーブルをさらに高価なものにしたら……、
つねにこんな言い訳を自分に対してしていない、と言い切れるだろうか。

オーディオは自分自身に言い訳をしなければ、いい。
自分自身に言い訳をしてしまったらダメなのが、オーディオである。

Date: 9月 13th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その16)

こんなふうに書いていくと、
どうも私が個人によるガレージメーカーを全否定するものと思われるのかもしれないが、
そういうつもりはない。

なにもすべてのオーディオメーカーが組織でなければならない、とは思っていない。
個人だけのデメリットは確かにあるものの、
一人だから、というメリットもあり、だからこそ経営が成り立っていることもあることはわかっている。

私がいいたいのは、個人によるガレージメーカーであっても、
主宰者なきあとのことを考えての手はずを整えておくことはできる、ということと、
そのことをまったくやっていない個人によるガレージメーカーの製品を買う時には、
修理、メンテナンスに関して苦労することがあるかもしれない、
と購入を考えている人にわかっていてほしい、ということである。

どのメーカーとはいわないけれど、
やはり個人によるガレージメーカーの主宰者に、修理のことを訊ねている人がいた。
それに対する答は、明快だった。
そこの製品は、複雑な構成をとっているものではない。
回路的にもひじょうに簡単なものである。
だから、わからないことがあったら、なんでも訊いてくれれば教える、ということだった。
そのガレージメーカーの中に、1機種だけ高価なモノがあるけれど、
それに関しても、複雑そうに見えても構成はそうではなく、故障する箇所は限られている。
そこに関しても、教えますよ、
と惜しみなく、その製品に注ぎ込まれた、その人のすべてを教えてくれるメーカーがある。

こういうメーカーであれば、あまり不安もなく安心して長くつきあっていけることだと思う。
でも一方で、ノウハウは私の商売のタネだから、教えられない、と頑なな主宰者もいるのを、私は知っている。

そう主張したい人がいるのは理解できるし、
自身の商売を守るためのものだから(それにしても狭量だとは思うけれど)、仕方ないことだろう。

でも、主宰者自身が生きている間はたしかに商売をしていくためのことであっても、
主宰者なきあとのことを、彼自身はどう考えているのだろうか。
そういう主宰者にかぎって、製品を、自分の作品と呼ぶ人が多いようにも感じている。

作品と呼ぶのは、いいことでもある。
でも、その作品を買ってくれた人に対して、
自分がなきあとの修理、メンテナンスのことをまったく用意しておかないことは、
作品(製品)を購入し、彼をいわばサポートしてくれた人に対しても、
彼自身が作品と呼ぶ製品に対しても、不誠実な態度のようにみえる。

だから組織化しなければならないわけでもない。
文字通り個人経営であっても、自身が生きているあいだは明せないことであっても、
きちんとできることはある。

Date: 9月 12th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その2)

家族の理解が得られない……というオーディオマニア共通の悩みがある。
ひとり暮らしであれば、そんな悩みは当然ないし、
家族といっしょに暮らしていてもそんなこと悩みなんてない、という人もいることだろう。

でも多くのオーディオマニアにとって、なかなか家族の理解が得られない、得られにくいということは、
オーディオ機器をなにか購入する際、家族を説得することから始めなければならないし、
言い訳も考えておく必要も生じてくる。

なぜ家族の理解が得られないのか──。
音楽が嫌い、という人は少ないはず。
あまり音楽には深い関心はない、という人でも、一曲か二曲、
あるいはもうすこし多いだろうが、想い出の曲とか好きな曲はある、と思う。
音楽は好き、という人も大勢いる。

にも関わらず、家族の理解が得られないのは、なぜなのか。
昔からいわれていることだが、
これまでとくに答を見つけようとはしてこなかった。
気儘なひとり暮らしを続けているからなのだが、
昨晩、ふと気づいたことがある。

音は所有できない、と書いた。
実は、このことを直感的に知っている、というより気づいている人、といったほうがいいだろう。
こういう人たちを相手に、理解は得られないのではなかろうか。

オーディオマニアの目的は、いい音を所有することだとしたら、
いくらお金をつぎ込んだとしても、あくまでも所有できるのはオーディオ機器であって、
どこまでいっても、いい音を所有できるわけではない。

もしかするとオーディオという趣味が、オーディオ機器を所有することであれば、
家族の理解はもっとたやすく得られるのかもしれない。
けれど、オーディオという趣味は、いい音を求める趣味でありながらも、
音そのものは絶対に所有できないものであることを、すでに説得すべき相手が知っていたら、
言い訳をするしかないのかもしれない。