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Date: 10月 17th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その18)

マークレビンソンのML2の登場は1977年。
このころから1990年代のはじめあたりのアメリカのパワーアンプには共通する外観の特徴があった。

フロントパネルの横幅は19インチで、立派なハンドルがフロントパネルについていた。
ML2にもついていた。No.20にも、形状の変更はあったものの、ついていた。

マークレビンソンだけでなく、クレルのパワーアンプにもジェフ・ロゥランドのパワーアンプにも、
他のアメリカ製のパワーアンプの、けっこうな数に、金属製のそれぞれに立派なハンドルがついていた時期があった。

このハンドル、
割と簡単に取り外せるモノが多かった。
はずしてみるとわかるが、けっこうな重量である。
叩いてみてもわかるように、パイプのものはほとんどなかった、と記憶している。
金属のムクである。
そして、このハンドルがついているフロントパネルが、
筐体の中で板厚がもっとも厚みをもたせてあった。

何機種かではあったが、ハンドルをはずした状態の音を聴いたことがある。
音の変化としては、かなり大きい。
外した方が、全体的な傾向として素直な音になる、といえる。
聴感上のS/N比が若干良くなり、なめらかなになっていく。

たしかによくなっている、といえる。
いえるのだが、何か物足りなさも同時に感じてしまう。
ハンドルをふたたび取り付けた音を聴くと、納得できるものを感じる。

海外製のこのころのパワーアンプは、
あくまでもフロントパネルに、わりとごつい感じのハンドルを付けた状態で、
音を決めていっている、ということだ。

だから安易に外してしまうと、そのバランスが崩れてしまい、しっくりこなくなる。
つまりハンドルもまた、ヒートシンクと同様に筐体ならぬ響体であることがわかる。

Date: 10月 17th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その13)

ふたりの音楽愛好家がいる、としよう。
ふたりともクラシックを聴く愛好家である。

ひとりはステレオサウンド 66号のベストオーディオファイルに登場された丸尾氏のように、
ノイズの多い、貧しい音のSPで音楽を聴いてきたバックボーンがある人、とする。
もうひとりは、SPの時代なんてまったく知らない、はじめて耳にしたレコードはすでにステレオ録音、
しかも優秀録音ばかりを聴いてきた人、とする。

このふたりが自分のオーディオで、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによるマーラーの第四を聴いた、とする。
仮に同じシステム(音)で聴いたとする。
丸尾氏と同じバックボーンをもつ人ならば、
そこで鳴ってきたギラギラした音のマーラーであっても、
丸尾氏と同じように愛聴盤とされることだろう。

でも、もうひとりはどうだろうか。
録音のひどさ、スピーカーから鳴ってきた音の悪さによって、
バーンスタインのマーラーの第四を愛聴盤とすることは、
丸尾氏のようにはならないだろう、と思う。

そこに、音楽に対する想像力が関係してくるのではないだろうか。

菅野先生は、
バーンスタインの、このLPの音をギラギラしたアメリカのオーケストラといった印象といわれている。
さらに著書「オーディオ羅針盤」にも、このバーンスタインのマーラーのLPのことを書かれている。
つまり丸尾氏のことについて、「オーディオ羅針盤」でも書かれている。
第5章「コンポーネント構成とその問題点」のなかの「CD否定の一般的概念(F氏の場合)」がそうだ。

ここを読めばよりはっきりとするのだが、
バーンスタインのマーラーのLP(丸尾氏所有のこの盤はCBSソニーの国内プレス)は、
2kHz〜4kHzあたりの中高域がかなり盛り上っていて、10kHz以上の高域もやかましい感じ、
400Hz〜600Hzあたりは反対に凹んでいる──、
そんな感じの録音らしい。

ここでの「録音」はテープレコーダーに記録されている録音ということではなく、
カッティングされプレスされて聴き手の元に届けられるLPを再生した印象で語られる録音である。
つまりカッティング、プレスなど、
LPができあがるまでのすべての過程を含んだ結果としての録音ということになる。

丸尾氏が、レコード番号SONC10204のバーンスタインのマーラーの第四を愛聴盤とされたのは、
音楽の本来の姿を想像する、という意味の想像力があったからこそ、のはず。

そのまま鳴らせば「死の舞踏」がアパッチの踊りへと、簡単に変質してしまうような録音であっても、
丸尾氏は、そこにバーンスタインが描いていた本来の姿を、少なくと頭の中で想像されていた……。
私は、そう思っている。

この想像力をもっているかいないかが、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーをとるかとらないかになっていく。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続々続々・チャートウェルのLS3/5A)

PM510SIIの外観は、PM510とほとんど見分けがつかない。
トゥイーターのパンチングメタルがメッシュに変更されたことぐらいである。
もっとも裏側にまわれば入力端子がバイアンプ対応になったため、
そのための変更がなされているからすぐにPM510SIIと判断はつく。

PM510をバイアンプ駆動すれば、LS5/8とほほ同じにできる。
それが結果的に望ましい音が得られるかどうかは別として、
PM510のクォリティをさらに追求する手段が、ロジャースによって提供された、ともいえる、
SIIへの改良であった。

音を聴くまで、実を言うと、PM510の購入はもうすこし待てばよかったかも……、と思っていた。
でも、ステレオサウンドの試聴室で鳴ったPM510SIIの音を聴いて安心した。
PM510を買っておいて、良かった、とも思っていた。

PM510SIIはエンクロージュアの材質も変更されている。
そのこともあって、PM510の低音に不満をもっていた人にとっては、
ずいぶんとすっきりした低音になった、ということになるのだろうが、
PM510に惚れ込んでいた私の耳には、PM510に感じていた良さの大半が失われた、と感じた。

これは市場の要求に応えた改良ということになるのかもしれない。
実際に、PM510SIIの方がいい、という人がこのときも何人もいたのだから、そういうことになるのだろう。

でも、瀬川先生が健在だったら……、と思った。
PM510に惚れ込まれていた瀬川先生ならば、PM510SIIの音になんといわれるか。

PM510SIIを聴いて、もうひとつ思っていた。
私がロジャースのスピーカーの中で惚れ込んでいたのはPM510とLS3/5Aだけである。
このふたつのスピーカーシステムは、ロジャースが製造していることは間違いないけれど、
ロジャースが開発した、とはいえないスピーカーシステムであることを、思っていた。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その17)

いま市販されているスピーカーシステムに限っても、さまざまな種類が存在している。
過去のスピーカーシステムまで含めれば、その種類はさらに増す。

スピーカーユニットの形式もいくつもあるし、口径も実に豊富で、
それらの組合せとなると、大変な数になる。
そこにエンクロージュアの形式、つくり、材質などといったことが加わり、
ネットワークの存在も絡んでくる。

それぞれのメーカーが、ある制約の中で出した答が、市販された、市販されている製品という見方をすれば、
たったひとつの答というものはオーディオには存在しない、ともいえる。

よく、これこれは、こうでなければならない、
それ以外は一切認めない、という物言いをする人が少なからずいる。

オーディオマニアというアマチュアだけではなく、
プロのエンジニアを名乗っている人のなかにも、そういう人はいる。

ご本人は、それだけがたったひとつの正しい答だと思い込んでいる。
そのため、他のいっさいの答を間違っているものとして認めようとしない。
そんな人は、ソニーのTA-NR10とマークレビンソンのML2(No.20)のヒートシンクを比較すれば、
どちらかを認め、他方は否定するんだろうな、と思う。

どちらを正しい答とすれば、他方はそうではない、ということになるぐらい、
ソニーとマークレビンソンの、A級100Wのモノーラルパワーアンプのヒートシンクは異る。

でも、どちらかが正しくて、他方はそうではない、ということではない。
スピーカーシステムに、実に多くの種類があるように、
パワーアンプのヒートシンクにしても、パワーアンプを構成する他の要素との関係において、
絶対的な答は存在しない、ともいえる。

どちらかをとる、ということはもちろんある。
けれど、どちらかのみが正しい、ということではない、とくリ返しておく。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その1)

音楽を聴くには十分だ、とか、
これ以上の性能はオーバースペックだ、とか、
こういった類の表現が、昔からなされることがある。

オーディオは家庭で音楽を聴く行為である。
音ではなく、音楽を聴く──、
この「音楽を」を強調する意味も含めて、音楽を聴くには十分だ、という表現だということはわかっている。

わかっていはいる。
けれど、こういう表現をみかけると、黙ってはいられなくなる。

ほんとうに、音楽を聴くには十分なのだろうか、
音楽を聴くにはオーバースペックな性能なのだろうか……。

この手の表現からは、
私は音を聴いているのではない、音楽を聴いているのだ、という主張が顔をのぞかせていることがある。

にも関わらず、この手の表現には主語がないことがある。
私、ぼく、といった主語がなく、この手の表現が使われることには、
私は強い違和感をおぼえる。

私には十分だ、となっていれば、
こんなことを書くこともない。

けれど、不思議なことに、主語がないことのほうが多いようにも思うから、
こんなことをつい書いてしまっている。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その13)

不思議なもので、人は映像のズームに関しては不自然さを感じない。
映画、テレビにおけるズームを不自然と感じる人は、現代においていない、と思っていいだろう。

なのに音の世界となると、人は音のズームを不自然と感じてしまう。
菅野先生が山中先生との対談で例としてあげられている
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーの交響曲第四番。

スコア・フィデリティをコンサート・フィデリティよりも重視した結果、
オーケストラが手前に張り出してきたり、奥にひっこんだりするのを、
左右のふたつのスピーカーを前にした聴き手は、不自然と感じる。

なぜなのだろうか。

考えるに、映像は平面の世界である。
映画のスクリーンにしてもテレビの画面にしても、そこに奥行きはない。
スクリーンという平面上の上での表現だから、人は映像のズームには不自然さを感じないのかもしれない。

ところが音、
それもモノーラル再生(ここでのモノーラル再生はスピーカー1本での再生)ではなくステレオ再生となると、
音像定位が前後に移動することになる。

奥行き再現に関しては、スピーカーシステムによっても、
スピーカーのセッティング、アンプやその他の要因によっても変化してくるため、
ひどく平面的な、左右の拡がりだけのステレオ再生もあれば、
奥行きのあるステレオ再生もあるわけだが、奥行き感を聴き手は感じているわけだから、
ある音がズームされることによって、その音を発している音源(音像)の定位が移動することになる。

こう考えていったときに、(その9)に書いたカラヤンの録音に存在する枠とは、
映画におけるスクリーンという枠と同じ存在ではないか、という結論に行き着く。

こういう「枠」はバーンスタインのベートーヴェンには、ない。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その16)

電源部の、それほど多くないヒートシンクなのに、
振動対策を施すかどうか、施すにしてもどうやるかによって音は変る、と書くと、
電源こそ重要なんだから変って当然、と指摘してくれる人がいる。

電源が重要なのはわかっている。
CDプレーヤーにしてもアンプにしても、交流電源を整流・平滑し、
それを入力信号に応じて変調して出力信号として負荷に供給しているわけだから、
電源が重要なのは、ずっと以前からわかりきっていることである。

だが、少なくともCDプレーヤーの電源部のヒートシンクから、音(というより音楽)は鳴ってこない。

どんなパワーアンプでもいい(といっても管球式ではなくてヒートシンクをもつソリッドステート型だが)、
出力にダミーロード(8Ωの抵抗)を接続して入力信号(音楽信号)を加えた状態で、
ヒートシンクの近くに耳をもっていくと、ヒートシンクから音楽が聞こえてくるのがわかる。

音楽信号に応じて出力段のトランジスターが振動し、
その振動によって音叉的ヒートシンクが共鳴しての現象である。

ヒートシンクの形状、材質、取付け方法などによって、この鳴り方は変ってくるから、
パワーアンプの数だけヒートシンクから聞こえてくる音楽の鳴り方も、また違ってくる。
音量もとうぜん違ってくる。

井上先生が、出力段トランジスター振動源、ヒートシンクを音叉的に捉えられている、
その理由を実感できる。
ヒートシンクは筐体の一部であるとともに、響体ともいいたくなる。

そういう存在のヒートシンクだから、
この部分をどう考えるかは、井上先生の言葉をもういちど引用しておく。

「アンプの筐体構造はスピーカーのエンクロージュアと同等の楽器的要素をもつことを認識すべきだ」

つまりヒートシンクの鳴きを徹底的に抑えていくのも手法のひとつであるし、
どんなに、あらゆる手段を講じたところで、トランジスターの振動の発生をゼロにはできないし、
ヒートシンクの音叉的性格を完全になくすこともできない。

スピーカー・エンクロージュアをどんなに無共振化しようとしても、
無共振思想はあっても、無共振エンクロージュアはひとつとして世の中には存在しないのと同じでもある。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続々続・チャートウェルのLS3/5A)

これから先はどうなるのかは自分でもわからないけれど、
すくなくともいまのところ、BBCモニタースピーカーのオーディオ的音色の世界から完全には抜け出きれていない。

片足の小指くらいではなくて、片足の膝下くらいまではまだまだ浸かっていることを意識させられる。

ロジャースのLS3/5AとPM510、スペンドールのBCII、BCIII、ハーベスのMonitor HL、
そしてKEFのLS5/1Aと、いまだ聴いたことはないけれどModel 5/1ACも気になってしょうがない。

ロジャース、スペンドール、ハーベス、KEF、
これらのメーカーはBBCとも深い関係をもつイギリスのスピーカーメーカーなのだが、
だからといって、これらのメーカーのすべてのスピーカーシステムに対して、
そのオーディオ的音色に惹かれているわけではない。

たとえばロジャースのPM510。
チャートウェルのPM450という原型をもつこのスピーカーシステムに、
20(ハタチ)になったばかりの私は、惚れ込んだ。

瀬川先生の影響だけではなくて、このPM510の音色にはほんとうにまいってしまった。
でも、このスピーカーシステムの世間的な評価はそれほど高くはない。

ステレオサウンドで働きはじめたばかりのころ、
先輩編集者のSさんに、「このぶかぶかの低音じゃ、ジャズのベースはまったく聴けない」といわれた。

いわれるように、ジャズのベースは、得意としていないスピーカーだった。
けれどアクースティックな楽器のもつ、心地よさに通じるブーミングに関しては、
うまいこと表現してくれる(つまりは騙してくれる)ところのあるスピーカーだ、と思っていたから、
Sさんの聴き方とは違う、熱心でないジャズの聴き手であった私にとっては、
PM510のベースの音も、そう悪くはない、と実は思っていた。

でも、やはり不満な人は世の中には実に多かったようで、
PM510は私が購入したあとにPM510SIIへとモデルチェンジした。

Date: 10月 14th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(黄金比)

フィリップスはCDを開発しているときに、
共同開発のソニーが収録時間を延ばすために12cmを提案したとき、
当初のサイズであった11.5cmからの変更をなかなか譲らなかった──、
これはけっこう知られている話で、
傅信幸氏の著書「光を聴く旅」にも、このへんの事情については、もちろん書いてある。

なぜフィリップスは11.5cmに、それほどこだわったのだろうか。
フィリップスがオリジネーターであるコンパクトカセットテープの対角線が11.5cmだから、なのだろうか。

この項の(その72)から(その74)にかけて、
スピーカーユニットの口径比(おもにウーファーとミッドバスについて)について書いている。
それでふと気がついた。

11.5cmは、黄金比なのかもしれない。
だとしたら何に対してだろうか、と考えてすぐに思いつくのはアナログディスクの30cmである。

30cmの黄金比として11.46cmがある。11.5cmには少し足りない。
けれどアナログディスク(LP)の外径は正確には30.1cmである。
30.1cmで計算してみると、ぴったり11.5cmとなる。

そうなのかぁ、とひとりごちる。

Date: 10月 13th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続々・チャートウェルのLS3/5A)

黒田先生の音楽の聴き方を少しでもみならっていこう、とある時期から思いはじめ、
オーディオ的音色の魅力から抜け出したうえでの音楽の聴き方をしていこう、と。

オーディオマニアならば、誰しも、ころっとまいってしまうオーディオ的音色がある、と思う。
そのオーディオ的音色の存在を意識しているか意識していないかの違いはあっても、
オーディオ的音色の魅力にまったく惹かれることのないオーディオマニアはいない、と思う。
そういう人は、いわせてもらえれば、どれほどオーディオにお金をかけていても、
いい音で鳴らしていようとも、オーディオマニアではないのではなかろうか。

強い聴き手でありたい──、
だから、できるかぎりオーディオ的音色の魅力から抜け出てきた、
そのつもりではあった。

でもチャートウェルのLS3/5Aの復刻記事を目にすると、
まだ抜け出方に不徹底なところがあるのを意識させられる。

そういえば、と思い出す記事がある。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 3、
トゥイーターを55機種集めて試聴を行った、この別冊の巻頭記事にJBL4343のトゥイーターを、
他社製品に置き換えた試聴を行っている。
そこで瀬川先生が述べられている。
     *
どちらにしても井上さんもぼくも、YL的世界にべったり浸っていた時期があって、抜け出てきた。この抜け出方は井上さんの方が徹底していて、ぼくなんか、どうも片足の小指くらいまだ抜けていない気がするんですね。
     *
この瀬川先生の発言の前に、井上先生は述べられている。
     *
そういう耽美的な音の世界というのも当然ありますね。これはこれで素晴らしい世界だとは思うんだけれど、ぼくはとらない。
     *
井上先生にも、黒田先生と同じところでの、強い聴き手の部分があったことを、
この発言、この記事からも感じとれるし、
ステレオサウンドで働くようになってからも、そう感じていた。

ただ、井上先生は強い聴き手であろう、と意識的にそうされていたとは思っていない。
しなやかな聴き手であった、とおもう。

Date: 10月 13th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続・チャートウェルのLS3/5A)

LS3/5AもPM510も、ある時期使っていた。
どちらも好きなスピーカーでることは、いまでも変りはしない。

このふたつのイギリスのスピーカーシステムが、いまも優秀なスピーカーシステムであるかどうかは、
いまいちど自分で鳴らしてみて判断したいところだし、
このふたつのスピーカーシステムは、あくまでも、好きなスピーカー、
もっといえば私の好きな音色を出してくれたスピーカーシステムであった。

オーディオ機器には固有の音色が、どの製品にも、いつの時代の製品にもある。
技術が進めば、いわゆる癖と呼ばれる、分類される固有の音色は稀薄になってくるものの、
そう簡単にオーディオ機器から固有の音色が消えてなくなることはない。

この固有の音色は、オーディオ機器の欠点でもあるけれど、
欠点であるがゆえの魅力にもなっていて、
10代、20代の前半ぐらいまでは、この固有の音色の魅力に強く惹かれる傾向が、私にはあった。

オーディオ機器固有の音色は、オーディオ的音色にも連なっている。
楽器固有の特質となっている音色とはまた少し違った意味と魅力をもつ、
このオーディオ的音色の魅力から抜け出すのは、
もしくは捕らわれないようにするのは、難しいところがある、と感じている。

だから、黒田先生の音楽の聴き方を傍でみていると、
黒田先生は、そういう意味でも強い聴き手だな、と感じていた。

黒田先生は、そういうオーディオ的音色の魅力に、ころっと参ってしまう、ということがなかった。
だからこそ、1980年ごろ、ソニーのスピーカーシステムAPM8をシカゴ交響楽団とたとえられ、
高く評価されていたのは、そうだからだと思っている。

黒田先生も、そのへんはあとになって変化があったように私はおもっているけれど、
そのことについては、ここで書いていくと、話がそれてしまうので、いずれ別項にて書く予定だ。

Date: 10月 12th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その15)

CDプレーヤーの小さなヒートシンクの鳴き止めとしてついているゴムは接着してあったわけではなく、
外そうと思えば簡単に外せたしすぐに元にも戻せた。

だから当然外した音も聴いてみる。
ゴムが付いている音と外した音を聴いたら、次はゴムの取付け位置を変えてみる。
ヒートシンクの上部、下部、中央、最低でもこの3つの位置の音は聴いてみる。

いいかげんなセッティングによる、いいかげんな試聴では、
こういう細かな違いによる音の変化は、ほとんど聴き取り難くなるけれど、
逆にいえば、こういう細かな違いを鳴らし分けることができるようにセッティングを心掛ける、ともいえる。

とにかく鳴き止めをした音とそうでない音をいちど聴いてしまうと、
他のCDプレーヤーで、鳴き止めをなにも施していないモノだと、
やはりあれこれ試してみたくなる。
ヒートシンクのフィンのピッチがほぼ同じであれば、上記CDプレーヤーのゴムを流用できたし、
試聴室内での比較的短い時間内での実験でもあるからアセテートテープを使うこともあった。

また、ちょうどこのころはヤマハからYT9SPというアクセサリーが出ていた。
スピーカーのチューニング用として、フェルト、無酸素銅、コルク、皮のコイン状のスペーサーをそろえたもので、
この中の無酸素銅のスペーサーをヒートシンクの上に置く。
別項で書いているソニーのパワーアンプTA-NR10のヒートシンクは銅製だが、
CDプレーヤーのヒートシンクは一般的なアルミ製。
だから銅とアルミは異種金属ゆえに、この無酸素銅のスペーサーを置くだけで、
ヒートシンクの鳴きは尾を引かなくなる。

ヒートシンクの鳴きを抑えるという結果は同じでも、
ゴム(弾性体によるダンプ)と無酸素銅(異種金属によるダンプ)とでは、
結果としてのスピーカーから鳴ってくる音には違いが生じる。

断っておくが、ヒートシンクの鳴きを抑えたからといって、
必ずしも、トータルとしての音がよい方法に向くとは限らない。

ここでいいたいのは、CDプレーヤーのリアパネルにある、
小さなヒートシンク、それも電源部用のヒートシンクでもあって、
何かをすれば音は確実に変化する、という事実がある、ということだ。

Date: 10月 12th, 2012
Cate: PM510, Rogers, オリジナル

オリジナルとは(チャートウェルのLS3/5A)

昨年6月に、ロジャースのLS3/5Aが、創立65周年記念モデルとして復刻されたことは、
BBCモニター考(LS3/5Aのこと)のところでふれている。

輸入元のロジャースラボラトリージャパンで見ることのできる写真、
昨年、無線と実験7月号に掲載された写真を見るかぎり、
ひじょうに出来のよい復刻と判断できた。

この復刻LS3/5Aが中国製なのは、昨年も書いているし、
そのことが気にくわない、という人がいても不思議ではない。

まだ実物をみる機会はないけれど、この写真のままの出来で量産されているのならば、
見事な復刻だといいたくなる。

とにかく写真から伝わってくる雰囲気は、LS3/5Aそのものであるからだ。

にもかかわらず発売から1年以上経つのに、まだ聴いていないのは、ただ私の無精ゆえなのだが、
今月発売の無線と実験をみていたら、今度は、チャートウェル・ブランドのLS3/5Aが復刻され、
その紹介・試聴記事が掲載されていた。
輸入元はカインラボラトリージャパンとなっている。
今日現在、カインラボラトリーのサイトをみても、このチャートウェルについての情報はなにもない。

これもまたロジャースの65周年記念モデル同様、
あくまでもカラー写真で判断するかぎりなのだが、見事である。
これもまた、LS3/5Aの雰囲気をまとっている。
ここで紹介されているのが量産モデルなのか、どうかははっきりしないものの、
おそらくそうなのだろう、と思うし、思いたい。

この雰囲気のままのチャートウェル・ブランドのLS3/5Aは、
オリジナルのチャートウェルのLS3/5Aを聴く機会はなかっただけに、よけいに聴いてみたい。
そして、これがほんとうに写真から期待できるクォリティを有しているのであれば、
高く評価されてほしい、と思ったりする。

そう思う、というか、願うのは、
このチャートウェル・ブランドのLS3/5Aがそこそこにヒットすれば、
それに気を良くした会社は、LS3/5A以外のスピーカーシステムも復刻してくれるかもしれない、
というかすかな期待を、もうすでに私は抱いている。

PM450を、このLS3/5Aと同じレベル、もしくはそれ以上のレベルで復刻してほしい、と。

チャートウェルは経営難に陥りロジャース(スイストーン)に吸収され、
PM450はロジャース・ブランドのPM510に、
QUAD405を組み込んだマルチアンプ仕様のPM450EはLS5/8として、世に出た。

PM450はPM510の原型である。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”というCDボックスが、いま出ている。
7枚組で、HMVなど安いところでは、1700円を切る価格で売っている。

廉価盤というつくりでブックレットはついていない。
だから、この値段なのか、とも思うけれど、やはり安い。

内容は、だからといって、それ相当のものではなく、ワルターが米COLUMBIAに残したマーラーの演奏は、
とくにニューヨーク・フィルハーモニーとによるものは、いま聴いても興味深いものを感じる。

コロムビア交響楽団とのワルターの演奏は20代のときに集中して聴いていた。
あのころは、素直にいい演奏と感じていたものが、いまでももうそれほどとは思えなくなっている。

そのころから20数年経ったいま、私にとってワルターは、
ウィーン・フィルハーモニーと残したいくつかの演奏を除いて、もう大切な指揮者ではなくなりつつある。

そんな私の耳にも、ニューヨーク・フィルハーモニーとの一番、二番、四番、五番、「大地の歌」、
その中でも五番の交響曲は素晴らしい、と思える。
こういう曲だったのか、という、いくつかの小さな発見を、2012年のいま、1947年の演奏を聴いて感じている。

いいCDだ、と、ワルターのこれらのマーラーの演奏を聴いたことのない人には推められる。
なのだが、ひとつ思うこともある。

DISC1にはコロムビア交響曲との一番と、ニューヨーク・フィルハーモニーとの二番の第一楽章のみがはいっている。
DISC2には二番の二楽章以降と「さすらう若人の歌」が、
DISC3にはニューヨーク・フィルハーモニーとの四番と、コロムビア交響楽団との九番の一楽章が、
DISC4には九番の二楽章以降が、
DISC5にはニューヨーク・フィルハーモニーとの五番、
DISC6にはニューヨーク・フィルハーモニーとの「大地の歌」、
DISC7にはニューヨーク・フィルハーモニーとの一番と「若き日の歌」がおさめられている。

廉価盤として、少しでも価格を抑えるためにディスクの枚数を減らすための、
こういう組合せなのだろう、と一応は理解できる。

けれど、二番と九番の、ふたつの交響曲はどちらも一楽章のみが、別のディスクにはいっている。

マーラーは二番の交響曲の第一楽章のあとに、すくなくとも5分以上の休止をおくこと、と指示している。
だから、二番の楽章の分け方は納得できないわけではない。
ディスクを入れ換えて、5分以上の休止を聴き手がつくるのにもいいかもしれないからだ。

だが九番に関して、マーラーはそのような指示は出していない(はず)。

なのにこういう曲の収め方をするということは、
ディスクの枚数を減らす、という目的とともに、
これはもうレコード会社(ここではSony Classicalになる)が、
リッピングして聴け、といっているようにも受けとめられる。

リッピングしてしまえば一楽章のみが別のディスクにはいっていることなどは関係なくなるし、
ワルターのマーラーを録音年代順に並び替えるのも簡単にできる。

CDと同じフォーマット、
16ビット、44.1kHzでの配信を全世界に行っていくための設備を整えるのは大変なことなのかもしれない。
それもよりも手なれたCDで、できるだけ安く作って市場に出した方が、
レコード会社にとっては手間のかからないことなのだろうか。

そんなふうにも勘ぐってしまいたくなる。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その12)

グレン・グールドの、シベリウスのソナチネの録音における試みは、
グールドが自身がのちに語っているように、けっして成功とはいえないものである。

アナログディスクで聴いても、1986年にCD化されたものをで聴いても、
グールド贔屓の聴き手が聴いても、やはり成功とは思えないものではあった。

それでもグールドがシベリウスの録音でやろう、としていたことは興味深いものであるし、
1976年からそうとうに変化・進歩している録音技術・テクニックを用いれば、
また違う成果が得られるような気もする。

グールドが狙っていたのは、音のズームである。
そのためにグールドは、4組のマイクロフォンを用意して、
4つのポジションにそれぞれのマイクロフォンを設置している。
ひとつはピアノにもっとも近い、いわばオンマイクといえる位置、
それよりもやや離れた位置、さらに離れた位置、そしてかなり離れた位置、というふうにである。

これら4組のマイクロフォンが拾う音と響きをそれぞれ録音し、
マスタリングの段階で曲の旋律によって、オンマイクに近い位置の録音を使ったり、
やや離れた位置の録音であったり、さらにもっとも離れた位置の録音にしたりしている。

ピアノの音量自体はマスタリング時に調整されているため、
マイクロフォンの位置による音量の違いは生じないけれど、
ピアノにもっとも近いマイクロフォンが拾う直接音と響き、
離れていくマイクロフォンが拾う直接音と響きは違ってくるし、その比率も違ってくる。

だからピアノにもっとも近い位置のマイクロフォンが捉えた音でスピーカーから鳴ってくるピアノの印象と、
もっとも遠くの位置のマイクロフォンが捉えた音で鳴るピアノの印象は異ってくる。

同じ音大きさで鳴るように調整してあっても、
響きの比率が多くなる、ピアノのマイクロフォンの距離が開くほどに、
ピアノは遠くで鳴っている、という印象につながっていく──、
これをグールドは、音のズームと言っていた。