Archive for category テーマ

Date: 11月 24th, 2012
Cate: iPod

「ラジカセのデザイン!」(続々続々・余談)

いまでこそ変っているけれど、
以前のJBLのレベルコントロールは連続可変で、巻線型を使っていた。
レベルコントロールのツマミをまわすと、巻線の上を擦っている感触が指先に伝わってくる。

JBLのユニットには能率の誤差がわずかとはいえあることは、以前別項で書いた通りだ。
それに実際のリスニングルームに設置されれば、左右の条件がまったく同一であることはあまりないから、
レベルコントロールを微調整することが聴き手に要求される。

はじめは少し大きくレベルコントロールを動かし、少しずつその範囲を狭めていく──、
そうやって微調整の範囲にまでくると、ほんのわずかの差で音のピントが合いもするし、ズレもする。

正直、もう少し精度の高い信頼性も高いアッテネーターを使ってほしい、と思う。
けれどそんなことをいってもしかたない。ついているのは、そんな,いわばヤクザな巻線型のモノだから。

そんなレベルコントロールだから、微妙な調整をしていくのも、
JBLのスピーカーシステムを鳴らしていく面白さでもあり、
そうやってベストと思える位置をさぐり出せたら、もう動かしたくはない。

4411も4311も、巻線型のレベルコントロールだった(はず)。
だから、その意味では微調整を加えたら、動かしたくはない──、
そういう使い方もある。

でも、ここでの組合せで私が求めているのは、ラジカセ的な使い方ができる組合せであり、
ラジカセで音楽を聴いていたときのような聴き方で楽しみたいから、なので、
細かく微調整をしていき、あるポジションをさぐり出すのではなく、
積極的に、最適ポジションなどまったく気にせずにレベルコントロールを動かす、
そういう楽しみ方をしたい。

それにはサランネットをつけてしまうとレベルコントロールが隠れてしまうスピーカーよりも、
4411、4311のようにレベルコントロールはつねに表に出ているスピーカーが,使い良い。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その3)

ガラードの401でプレーヤーシステムを組んだとしても、それほど高価になるわけではない。
当時10数万円で購入できるプレーヤーシステムよりも、音については満足のいくものになったといえる。

でも、私は不満があった。
価格や音のことではなく、プレーヤーシステムとしてのデザインのことで不満があった。

当時国内メーカーから出ていたプレーヤーシステムのデザインがどれも優れていたとはいわない。
でも、まだまとまりは感じられた。
ガラードの401を、当時はプレーヤーキャビネットも数社から発売されていたから、
それらを組み合わせればプレーヤーキャビネットを自作する必要はなく、
401をプレーヤーシステムとまとめられた。

けれど、でもプレーヤーシステムとしてのまとまりがよくない。
プレーヤーキャビネットほぼ中心に401があります、その右側にトーンアームがあります、
そんなただ指定された位置にそれぞれのパーツが配置されているだけ、
といった印象を拭えない、バラバラ感があった。

その点、ターンテーブル単体を発売していたテクニクス、ビクター、デンオンなどは、
専用キャビネットを用意していて、それが音質的にもっとも優れていたかはおいておくとしても、
専用キャビネットに取り付けた状態でのおさまりの良さは、まだあった。

ガラードの401のデザインは、どうしても旧型の301と比較して語られることが多く、
301の評価のほうが高い、といえる。

401は301とくらべると、造りが安っぽく感じられるところがある。
それが気になるといえば気になってしまうのだが、401のデザインは悪くないどころか、
いいデザインだと思うし、301と401、どちらが欲しいかとなると、401を私はとる。

でも、それでどういうプレーヤーシステムとしてまとめるかとなると、難しい。
401でも、301でも難しい。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: iPod

「ラジカセのデザイン!」(続々続・余談)

本棚にブックシェルフ型スピーカーをおさめてしまうと、
スピーカーの細かな調整はほとんど行えなくなる。

スタンドに乗せ、縦置き型のブックシェルフ型であれば、置き場所、スピーカーの角度など、
調整できる要素はそれこそいくつもある。
それらが、本棚にいれれば、ほとんどなくなってしまう。

とはいえ、いい音で聴くことを放棄してしまうのではない。
非常に限られた条件のもとで、気楽に、いい音を聴きたい、と思う気持があるから、
こんなことを妄想して、飽きもせず書いているわけだ。

本棚におさめ、4411のまわりに本を収めていくことで、
スタンドに乗せてフリースタンディングに近い状態で鳴らすのとくらべて低域のレスポンスには大きな違いが生じる。
それにスピーカーの調整としてできる大きなことといえば、トゥイーター、スコーカーを内側に配置するか、
それとも外側に配置するか、ぐらいしかない。

本棚の大きさ(幅)によるけれど、
おそらく私はトゥイーター、スコーカーを外側に配置する方を選ぶような気がする。

この状態で4411の音を鳴らすとき、レベルコントロールを軸上周波数特性フラットのポジションか、
エネルギーレスポンス・フラットのポジションにするかは、あえてどちらかに決めてしまうのではなく、
聴く曲、そのときの気分によって、大胆にいじっていきたい。

4411のサランネットが覆うのはスピーカーユニットだけであり、
レベルコントロールパネルはつねにいじれるようになっている。
これはJBLが、好きにいじっていい、といっているものと受けとめたい。

JBLからはこれまでに多くのスピーカーシステムが発売されてきているが、
サランネットをつけた状態でレベルコントロールをいじれるモノはわずかである。

この4411の他は、4311ぐらいではなかろうか。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その2)

人は生れてくる時代を選べないから、生れてきた時代をいい時代と思うようになっているのかもしれない。
そう思い込みたいのかもしれない。

たとえそうであってもアナログディスク再生ということに関していえば、
私が生れた時代(1963年)は、まだよかった、といえる。

いくつもの製品、いくつもの試みを実際にみて触れて、聴くことができたからだ。
じつにいろんなアナログプレーヤーがあった、と振り返って思う。

私がオーディオに関心をもちはじめて、ステレオサウンドを読みはじめたころ(1976年)は、
アナログプレーヤーはダイレクトドライヴ型が全盛の時だった。
それでも、ベルトドライヴ型のトーレンスのTD125、リンのLP12、デュアルの124、エンパイア698があったし、
アイドラー型も、EMT・930st、927Dstがまだ現役だったし、ガラードの401もまだ残っていた。

数は少なかったけれど、これらのプレーヤーが現役だったのは、
性能面ではダイレクトドライヴ型には及ばないものの、音質面ではそうでなかったからである。

ガラードの401については、瀬川先生がステレオサウンド 43号で、こんなことを書かれている。
     *
ワフ・フラッターなど、最近の国産DDと比較すると極めて悪いかに(数値上は)みえる。キャビネットの質量をできるだけ増して、取付けに工夫しないとゴロも出る。
     *
ダイレクトドライヴ型ならばゴロなんて発生する製品は皆無である。
なのにガラード401はターンテーブル単体で49800円(これだけ出せば国産のプレーヤーシステムが購入できた)。
これをキャビネットに取付けて、しかも専用キャビネットは販売されていなかったから、
自分で設計し作るか、市販のプレーヤーキャビネットを買ってこなければならない。
それにトーンアームも当然必要で、そうすると100000円は軽くこえてしまう。

それでもゴロの発生を完璧に抑えられるかどうかは保証されないのだ。
そんなターンテーブルである401が、ベストバイとして選ばれている。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その16)

なぜ、そう確信できるのか。
もうひとつ五味先生の文章を引用しておく。
     *
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
     *
できれば、もっともっとながく引用しておきたい。
すべてを引用しておかなければ、読む人に誤解を与えるのはわかっている。
だからといって、これ以上ながく引用すると、よけいに誤解をあたえそうな気がしてしまうのと、
結局、どこかで切るということが無理なことがわかってしまうから、
あえて、これだけの引用にしてしまった。

この文章は「西方の音」におさめられている。
「死と音楽」からの引用である。

このときなぜ五味先生はモーツァルトのレクィエムをくりかえしくりかえし聴かれたのかは、
「死と音楽」をお読みいただくしかない。

「何度、何十度私は聴いたろう」と書かれている。
それでもモーツァルトのレクィエムは、「何も答えてはくれない」。

五味先生がモーツァルトのレクィエムを「何度、何十度」聴かれたのは、
S氏邸で大晦日にトスカニーニのベートーヴェンの第九を聴かれたときから、10年近く経っている。

「何も答えてはくれない」は、だからそういうことだ。
これ以上書く必要はないだろう。読めばわかることなのだから。

誰も何も、答えてはくれない。
そのことに気づかぬ者が、誰かに何かに答を要求し、
そのことに気づかぬ者が、(気づかぬ者だけが答と思っているだけでしかない)答を語っている──、
それがなんになろう。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その15)

〝第九〟も同様だろう、あの優婉きわまりない、祈りの心をこめた、至福の恍惚境をさえしのばせるきわめて美しい緩徐楽章のあとに、ベートーヴェンは歓喜についての頌歌を加えるが、
 O Freunde, nicht diese Töne! ……
「おお、このような音ではなく、もっと心地よい、もっとよろこびに満ちたものを友よ、私たちは歌い出そうではないか」
 冒頭バリトン独唱によるこの歌詞をベートーヴェン自身で作っていることを、ここが歌われ出すたびに身のひきしまるおもいで私は想起する。音楽を聴いていて、居ずまいを正さずにはいられぬ作品はそう多くない。「襟を正す」という言葉を私はこの歓喜の章を聴くたびにおもうのだ。
 妻と別れようと考えた時期があった。〝二羽の鳩〟で結ばれた京都の人を失ったあと、〝ダフニスとクローエ〟に想いを托した女子大生へ、しだいに私がのめりこんでいた時だ。一度、佐藤春夫先生宅へ彼女を伴った。佐藤先生は素敵な乙女だと彼女を褒められた。そこへ佐藤夫人が外出先から帰ってこられた。夫人は、私の妻をよくご存じで、烈しい口調で私を叱られた。妻以外のそんな女性を佐藤邸につれてくるとは何事か、というわけだ。私はむっとした。叱るなら何故彼女のいない時に私を呼びつけて、叱られないのか。彼女の傷つくのが私には耐えられなかった。私はそういう人間だ。いつも自分のことは棚にあげて人さまを詰ろうとする。彼女の前で叱られればこちらは意地にでも彼女をかばう。つまり彼女サイドへかたむいてしまう。
 ところが、夫人が叱られると佐藤先生までが、口うらを合わせ、そうだ五味、きみはけしからん、とっとと帰れ。以後出入りはゆるさんぞ、と言われたときにはアッ気にとられ、一ぺんに肚がすわってしまった。私は彼女を見捨てるわけにはゆかぬ立場に自分がおかれたのをこの時感じた。あとからおもえば、彼女は傷ついて私の妻は傷つかないのか? そんな怒りをこめた夫人の叱声だったとわかる。だがいつも「あとから想えば」だ。この時は妻と別れねばなるまいと決めていた。といって彼女と結婚しようというのではない。とにかく、独りになって考えようと考えたのだ。私は妻を関西の実家へかえした。
 その年の暮、例によって大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴いた。トスカニーニ盤だったとおもう。第四楽章合唱の部にはいったときだ、一斉に歌っている人々の姿が眼前に泛んできた。合唱のメンバーはすべて私の知っている人たちだった。当時神様のようにおもっていた高城重躬氏も、S氏も、私の老母も、佐藤夫妻も、知るかぎりの編集者、知人、心やすい映画スター……みな口をそろえ声を張りあげて歌っている。まさに歓喜の合唱である。その中に妻の顔もまじっていた。ところがどうしたことか、妻だけは、声が出ない。うなだれ涙ぐんでいる。どうしたのだ? 私は妻の名を呼びかけて励ました。妻が涙ぐんでいるのは私と別れるためなのはわかっていた。しかし、貴女はまだ若い、これからいい人が現われるにちがいない、元気を出すんだ、ぼくのような男でなく貴女にふさわしい人間がこの世にはいくらもいる、今にそんな一人が貴女を仕合わせにしてくれる……へこたれないで元気を出してくれ。……私は精いっぱい声をはりあげ、妻を激励した。だがついに、最後まで、妻は歌をうたえなかった。うなだれて泣いていた。それを見た時、彼女のためにハラハラと私は涙をこぼした。妻に同情した涙だ。どんなに私との別離で妻は苦しんでいるかを、その幻覚に私は見たのだ。
 おそらく、誰に意見されても人間の言うことなら私は肯かなかったろう。だがベートーヴェンの〝第九〟がまざまざみせてくれたこの場面は、私にはこたえた。おのれの非を私はさとった。
 私は妻を東京へ呼びもどすことにして、女子大生と別れた。彼女がのちに入水自殺をしたのは、私とは関係のない別の理由によることだと聞いている。真実はもう知りようがない。私たち夫婦には、その後、はじめて娘が生まれ、娘は今年十七歳になった。
     *
長い引用になってしまった。
五味先生の「ベートーヴェン《第九交響曲》」(オーディオ巡礼所収)からの引用である。

このとき、トスカニーニによるベートーヴェンの第九の第四楽章が、
五味先生にみせた幻覚は、答ではない。
五味先生も、ベートーヴェンの第九が与えてくれた答とは思われなかった、と思っている。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その14)

ステレオサウンドへの批判で比較的多く目にするのは、
測定をやっていないから、そこでの評価は信用できない、というものがある。

こういうものを目にするたび、いつの時代も、こういう人がいるのか……、と気持になってしまう。
勝手に想像するに、こういう人は、ステレオサウンドに答を要求しているのではないだろうか。

スピーカーシステムにアンプにしろ、CDプレーヤーにしろ、
何がイチバンいいのか、それを示せ、と。
ここまで極端でなくても、この価格帯でイチバンいいのはどれか、という答を、
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に要求している、としか思えない。

ステレオサウンドは一時期測定をよくやっていた。
やっていたから、答を誌面で提示していたわけではないし、
そのための測定ではなかった。

ステレオサウンドは、そんな答を提示するオーディオ雑誌ではない。
これはステレオサウンドを否定しているのではなく、だからこそステレオサウンドを昔私は熱心に読んでいた。

そのことは、おそらく当時ステレオサウンドに執筆されていた方たちの暗黙の了解でもあったのではないだろうか。

オーディオ評論家は、読者に答を提示する存在ではない。
私は、オーディオ評論家は、読者に問いかけをする存在だとする。
読者に、音楽をオーディオを介して聴くということについて、
もっと深く考えてほしい、感じてほしい、という気持からの問いかけであるからこそ、
評論なのだと思う。「論」がそこにはついていくる。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: audio wednesday

第23回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、12月5日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その13)

私の同じ世代、私より上の世代は、しっかりとした橋が架けられていた。
だから、その橋がかけられているところまで行き、その橋を渡ろうとおもった。
そして渡ってきた。

そのころの橋からすれば、いまの橋は……、とどうしても感じてしまう。
私や私より上の世代が知っていた、しっかりした橋を知らない世代にとっては、
いまどきの橋でも渡ろう、という気になるのだろうか。

そして、そのころは本というものがあいだにはいらなければ、
書き手と読み手のあいだに橋を架けることは、まず無理だった。

いまは違う。インターネットという環境がここまで整っているから、
書き手から読み手への直接の橋を架けようとおもえば、その手段はいくつも用意されていて、
書き手さえその気になれば、そのときから橋を架け始められる。

こんなことを書くと、
われわれはプロの書き手だから、無料で読めるところ(原稿料が発生しないところ)には書かない、
こんなふうな意見が返ってきそうである。

書くことで糧を得ているのだから、いちおうは理解できる。
それでも、あえて言いたい。

あなたには書きたいことがないのか、と。
書きたいことが、書き手にはきっとあるはず。
そうでなければ、ただ雑誌に文章を書いて原稿料をもらっていたとしても、それは「書き手」といえるのだろうか。

書きたいことを、つねに書かせてもらえるわけではない。
世の中はそういうものである。

だけど、いまは書く場所を自分でつくれば、書きたいことを書いていける。
書きたいことをもたない人にとっては、
わざわざそういう場をつくってまで書く必要性は感じないだろう。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちの何人かは、
Twitter、facebookのアカウントをもち、書いている人がいるのは知っている。
でも、それは書きたいことを求めての行動とは感じられない。

書かない人は書かない。
書きたいことをもっていない人なんだろうから。

それよりも哀しいのは、書きたいことをもたないもそうだけれど、
書くべきことをもたないということである。

その人でなければ書けない、書くべきことをもっている人であれば、
きっと書く場をなんとかしてでも書いていくはず。

書くべきことをもたない書けない人は、橋を架けない人──。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その12)

自分の言葉を、自分が渡る橋だと思いなさい。しっかりとした橋でなければ、あなたは渡らないでしょうから。

ユダヤの格言、ということで、今朝、Twitterを眺めていたら、フォローしている方がリツイートされているのが、
目に留った。

この項の(その7)、別項の「オーディオにおけるジャーナリズム」の(その2)で、
編集という仕事を、橋を架けることだ、と書いた。

やっぱり、「橋」なんだ、と実感した。
編集という仕事に限らない。

不特定多数の人が読むメディア(本、インターネットを含めて)に、なにかを書いていくということは、
橋を架けていくことであり、
ユダヤの格言にあるとおり、しっかりした橋でなければ、自分自身が渡らないし、
書いた本人が渡らない橋を読んだ人が渡ってくれようはずがない。

Date: 11月 20th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その1)

音がなによりも最優先──,という時期があった。
音が良ければ、それもそうとうに良ければ、少しばかりデザインに不満を感じても、
音を優先していた。

たどかばボンジョルノのつくるアンプのパネルデザインは、
おそらくボンジョルノ自身の手によるものだろう。
GAS時代のアンプにしても、SUMoになってからのThe Power、The Goldにしても、
ユニークなデザインだと思うけれど、優れたデザインかと問われれば、答に困るところもある。
でも、ボンジョルノのつくるアンプの音に惚れているということもあるけれど、
なんとも愛矯のあるデザインといえるし、愛着が湧いてくるデザインでもある。

また古い例でもうしわけないが、DBシステムズのコントロールアンプ。
リアパネルはプリント基板にRCAジャックを直接とりつけたてそのまま使うなど、
音質とともにローコストであることも実現しようとしている、このアンプはフロントパネルは、
ひじょうに素っ気ないものである。高級感というものはどこにもない。

でもDBシステムズのDB1 + DB2は、嫌いではない。
どちらかといえば好きなアンプの範疇にはいってくる。
このアンプが19インチの横幅のコントロールアンプだったら、また違ってくるのだが、
なにしろDB1はのサイズは小さい。ここまで割り切ってつくられたアンプだと、これもまた愛着が湧く。

コントロールアンプは、アナログプレーヤーとともに、もっとも直接手でふれることの多いオーディオ機器。
パワーアンプのように目の付かないところに設置することは、まずできない。
アナログプレーヤーとともに目のつくところに置く。

それだけにほんとうに気に入ったものを使いたい。
そう思っていても、意外に許容範囲があって、
これだったら、まぁ許せるかな、というコントロールアンプもいくつか(というよりいくつも)ある。

これは許せない、というコントロールアンプもあることにはあるのだが、
それはアナログプレーヤーにおける「これは許せない」よりも、ずっとゆるいものでもある。

Date: 11月 19th, 2012
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その1)

クラシックのコンサートホール、ジャズのライヴハウスに足をはこんで聴くものと、
自分の部屋、オーディオ仲間の部屋などでスピーカーから鳴ってくるものは、
どちらも音である、にもかかわらず、このふたつの音は音として同じととらえていいものだろうか、
そして音楽を構成する音として考えたときに、生の音と再生音の違いがあるのかないのか、
私はあると考えているし、そうだとしたら、どんな違いが、このふたつの音にはあるのたろうか。

このブログを書き始めたころ、「再生音は……」というタイトルで、3行だけの短い文を書いた。

「生の音は(原音)は存在、再生音は現象」
そう書いている。

じつはこのときは、ほとんど直感だけで、これを書いていた。
書いてしまったあとに、これまでにあれこれと書き連ねていくうちに、
「生の音(原音)存在、再生音は現象」を思い返すことが幾度となくあり、
次第に重みが増してきて、考えるようになってきている。

だから、ここから、タイトルを少しだけ変えて、「続・再生音は……」とした。

こうやってタイトルを改めて書き始めることにしたのは、もうひとつわけがある。

先日、「使いこなしのこと(まぜ迷うのか)」を書いた。
これに対して、facebookでコメントをいただいた。
「よい音は一つでない。だから迷うのです。」と。

経験を多く摘んだ人ほど、このコメントに首肯かれることだろう。
志向(嗜好)する音とは違えども、いい音だな、とおもえる音はたしかに世の中にはある。

「よい音は一つでない」に反論したり、否定しようという気はまったくない。

けれど、それでもあえていえば(そして、先に結論を書いてしまうことになるが)、
現象としては、いい音はひとつではない、ことになっても、
思想的にはいい音はひとつである。

いまそうおもうようになった、おそらくそうおもいつづけることだろう。

Date: 11月 17th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(なぜ迷うのか・その1)

なぜ迷うのか。

いくつか理由は考えられるなかで、もっとも大きいのは聴き手に感情があり、
その感情が知覚(オーディオにおいては聴覚)に影響を与えるから、ではないだろうか。

この感情が聴覚を曖昧なものにするから、
オーディオ雑誌の試聴テストは信用できない、
試聴テストはすべてブラインドテストにすべき、と主張する人がいるわけだが、
私にいわせれば感情がいっさい影響しない試聴テストは、たとえブラインドテストであっても無理なことであり、
それよりも、なぜ、知覚は感情の影響を受けるのであろうか、ということを考えると、
結局、それは迷うため、である。

つまり迷うことが求められているからなのではないだろうか。

オーディオマニアであるわれわれが対峙するものは、ひじょうに大きい。
どれだけ大きいのかも、ときにはわからなくなることすらある。

感情によって知覚(聴覚)が影響を受けるということは、
対峙している、この大きなものをひとつのところからではなく、
いくつものところからみて(聴いて)、その全体像を把握する、ということなのかもしれない。

だから冷静に迷うことが、じつはオーディオには大切なこととして必要なのだと、そうおもえるようになってきた。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(寒くなる季節をむかえて)

なかなか涼しくならないと秋だなと思っていたら、
11月にはいり、いきなり晩秋になった感じさえ受ける。

Twitterを眺めていると、寒くなってきたから、夏の間しまっていた真空管アンプをひっぱり出してきた、
という書込みがいくつかあった。

真空管アンプは暖房のかわりにもなることがある。
出力管がなんなのか、出力段の構成はどうなのかによって、
暖房の補助的にとどまるアンプ、積極的に暖房と呼びたくなるようなアンプなどがある。

出力管のヒーター(フィラメント)が仄かに灯るのは、寒くなる季節にむいている。
実際に暖かい(熱い)し、見た目もそうである。

でも大型送信管の211や845のトリウムタングステンフィラメントは、
個人的にどうも苦手である。
仄かに灯る、ではなく、煌々とまぶしい。

仄かに灯るのが暖炉の火を思わせるのだとしたら、
トリウムタングステンフィラメントは、夏のまぶしい太陽という感じさえするからだ。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 価値か意味か, 快感か幸福か

快感か幸福か(価値か意味か)

オーディオという趣味には、価値と意味がある。
価値に傾く風潮が最近では強いように感じることがある。

価値といっても、オーディオにおける価値をどう定義するかは、
またどこかで書いていきたいと思えることだけれど、ここではあえて「価値」とだけしておく。

オーディオにおける価値は、大事なことである。
若いころは、その価値だけをただひたすら目指そうとしていた。

いまはというと、意味に重きをおきたい。
意味といっても、価値と同じようにオーディオにおける意味をどう定義するかは、
これについてもまたどこかで書いていきたいことであるけれど、ここではあえて「意味」とだけしておく。

快感か幸福か、が、価値か意味か、にそのままいいかえられるわけでないことはわかっていても、
快感か幸福か(価値か意味か)、にしておくことにした。