Archive for category テーマ

Date: 6月 30th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その1)

友人からのメールに、
「2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドが伸びているぞ」とあった。

ステレオサウンドのスレッドがあるのは知っているけれど、
あまり書き込みがなされていないから一ヵ月に一度くらいのアクセスで十分だった。

それが今日は、友人のメールにあるように書き込みが多い。
ステレオサウンドの最新号は約一ヵ月前に出ているから、
そのことが話題になっているのではなく、ブラインドフォールドテストが話題になって伸びていた。

2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドでは、ブラインドテストとあるが、
正確にはブラインドフォールドテストと書くべきである。

一般的な試聴、つまり目の前に試聴機種を置くやり方は先入観がはいるため信用できない。
信用できる試聴はブラインドフォールドテストだけである、というのは、かなり以前からいわれていることだ。

今日、2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドを読んでいて気づいたことがある。
ステレオサウンドは2009年9月発売の172号で、ひさしぶりにアンプのブラインドフォールドテストを行っている。
これについての書き込みもいくつかあった。

このブラインドフォールドテストに参加したのは柳沢功力氏と和田博巳氏。
ブラインドフォールドテストのみを信用できると信じきっている人は、
だから、ステレオサウンドの筆者でこのふたりだけが信用でき、
ブラインドフォールドテストから逃げた小野寺弘滋氏は信用できない、とある。

それにしても……、と思ってしまう。
172号の編集長は小野寺弘滋氏である。
小野寺氏がオーディオ評論の活動を始めたのは2011年からである。

小野寺氏は逃げたわけではない。
編集者だったのだから。

こんな簡単なことを確認すらしない人が、
ブラインドフォールドテストこそが……、と主張することのおかしさを感じてしまう。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その5)

オーディオの想像力の欠如が硬直化を生むのは、
それぞれの役割を正しく認識していないせいで、化学変化がおこらないからだろう。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その4)

CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を取り外すのは可逆的ではあるが、
これも誰がやっても必ず可逆的であるかというと、決してそうとはいえない。

ヘッドフォン端子への配線を取り外すことで音が変化するのは、
CDプレーヤーの筐体内には、さまざまな高周波ノイズが飛び交っている。

井上先生はデジタル機器では、ひとつひとつのIC(LSI)が小さな放送局だといわれていた。
消費電力の大きいLSIは、出力の大きな放送局ともいえるわけで、
それだけ不要輻射も大きくなると考えていい。

つまりCDプレーヤーは自家中毒を起しているとも考えられる。
自分が輻射しているノイズに影響を受けているわけだから。

そんな不要輻射を、ヘッドフォン端子への配線がアンテナとなって拾ってしまう。
ヘッドフォン端子への配線を取り外すことは、CDプレーヤー内部のアンテナ、
それももっとも長いアンテナをなくすことにつながる。

ヘッドフォン端子への配線が最少限の長さであれば、
取り外した後無造作に元に戻したとしても、
元の状態と配線の引き回しの仕方が大きく変化することはない。

けれどある程度余裕のある長さであれば、
元と同じ引き回しの状態に戻さなければ(戻せなければ)、可逆的とはいえなくなる。

可逆的な非可逆的かは、既製品に手を加える人によって、その境界が変動するものであり、
絶対的な可逆的な、既製品への手の加えるという行為はそう多くはない。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その4)

オーディオの想像力の欠如も、
タキトゥスの言葉がいまも通用する理由のひとつになっている。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(タキトゥスの時代から……)

《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》

タキトゥスの言葉だ。
タキトゥスが生きていた時代からずっとそうだったのか、と思ってしまう。

《新たな情報を得たときには、確認という聖なる儀式が済むまで鵜呑みにしてはならない。》
ヴォルテールも同じことを言っている。

いつの時代も、どの国でも変っていない。

タキトゥスの時代よりもヴォルテールの時代の方が情報の伝達は速かった。
ヴォルテールの時代よりも現代はもっともっと速くなっている。

速くなればなるほど比例して量も増えていく。

現代はヴォルテールの時代よりも、タキトゥスの時代よりも、
鵜呑みにしてしまう時代ともいえる。

オーディオ雑誌、つまり出版物は、
どんなにがんばってもインターネットのレスポンスには到底かなわない。
だからこそ、時間をかけ正しさを確認していくことが、その役目といえるのだが……。

Date: 6月 24th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(マクソニックの同軸型ユニット)

同軸型ユニットは古くから存在している。
けれどウーファーとトゥイーターのボイスコイルの位置を揃えたユニットとなると、
KEFのUni-Qの登場を待たなければならなかった──、
そうだとずっと思っていた。

同軸型ユニットにはメリットもあればデメリットもある。
トゥイーターにホーン型を採用した場合、メリットとデメリットが表裏一体となる。
構造上、どうしてもトゥイーターのダイアフラムは、ウーファーのコーン紙よりも奥まった位置にくる。

タンノイもアルテックもジェンセンもRCAも、
ホーン型とコーン型の同軸型ユニットいずれもそうだった。

この構造上のデメリットを排除するためにUREIは内蔵ネットワークに工夫をこらしている。
これも解決方法のひとつであるが、
スピーカーユニットを開発するエンジニアであれば、構造そのもので解決する方法を選ぶだろう。

いまごろ気づいたのか、遅すぎるという指摘を受けそうだが、
マクソニックの同軸型ユニット、DS405は、
トゥイーターがホーン型であるにもかかわらず、
ウーファーとトゥイーターのボイスコイル位置が揃っている。

DS405は1978年5月に登場している。KEFのUni-Qよりも約10年も早い。
なぜ、このことにいままで気づかなかったのだろうか、と自分でも不思議に思う。

DS405の広告はステレオサウンド 46号に載っている。
そこに《同位相を実現した同軸型超デュアルスピーカ。》とある。
構造図もある。

確かにウーファーとトゥイーターのボイスコイルの位置は揃っている。
この広告は見た記憶はある。
けれど、当時はよく理解していなかったわけだ。

DS405は割と長く販売されていたように記憶している。
いまは製造中止になっているが、マクソニックには同軸型ユニットがふたつラインナップされている。
そのうちのひとつ、DS701はDS405を受け継ぐモノで、同位相同軸型ユニットであることを謳っている。

それにしても……、と反省している。
見ていたにも関わらず気づいていなかった。
おそらく他にも気づいていなかったことはあるだろう。

それでも、まだ気づいているだけ、いいのかもしれない。
そして気づくことで、日本のオーディオが過小評価されていたことをあらためて感じている。

いまこそ、日本のオーディオを再検証すべきだと思う。

Date: 6月 23rd, 2015
Cate:

音を生み育てるもの(その1)

別項「BBCモニター、復権か(音の品位)」の中で、
ステレオサウンド 60号での瀬川先生の発言を書き写しながら、
そういえばオルトフォンのSPUとEMTのTSD15の音の違いにも、同じことがあてはまる、と思っていた。

EMTのプレーヤーにはずっと以前はオルトフォンのトーンアームがついていた。
カートリッジはオルトフォンだった。
EMTのカートリッジの初期はオルトフォンが製造していた。

そんなこともあってEMTのカートリッジはSPUと共通しているところが多い。
もちろん細部を比較していくと違う点もいくつもある。

音も共通しているところもあるし、そうでないところもある。
EMTのカートリッジとのつきあいが長い私には、
SPUの音は、特にSPU-Goldが登場する以前のSPUの音は、
地味ともいえるし渋いともいえる。

SPUにはEMTのカートリッジで同じレコードをかけた時に感じとれる艶が、あまりないように感じてしまう。
私はEMTのカートリッジの音になじんでいるからそう感じるのであって、
SPUを選びSPUの音になじんでいる人からすれば、EMTのカートリッジは派手とか過剰気味ということになる。

瀬川先生が語られていた
《そのシャープさから生まれてくる一種の輝き、それがJBLをキラッと魅力的に鳴らす部分》、
これと近い性質がEMTのカートリッジにある。

なぜこんなことを書いているからというと、
今日twitterでデンマークの風土について書かれたものを読んだからだ。

北緯55度、そういうところにあるデンマークでは真昼でも太陽は地を這うようだ、とあった。
年によって快晴の日が一日もないこともある、とデンマークに住んだ経験のある人が書いていた。

これを読んで私はSPUの音のことを思い出していた。
デンマークはそういう風土の国だからこそ、SPUの音が生れてきたのだ、とひとり合点した。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その2)

UREIの813の音を、瀬川先生は《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と表現されているが、
これが岡先生となるとどうなるのか。

瀬川先生と岡先生の音の聴き方はずいぶん違っているところがあるのは、
ステレオサウンドを熱心に読んできた読み手であれば承知のこと。

UREI 813が登場したステレオサウンド 46号の特集記事に岡先生も参加されている。
解説と試聴記を担当されている。

その試聴記には音の色合いに関しては、特に書かれていなかった。
46号は1978年3月に出ている。この年暮に出た「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、
岡先生は813を使った組合せをつくられている。

そこでは、こう述べられている。
     *
UREIモデル813というスピーカーは、かなりコントラストのついた音をもっています。たとえていえば、カラー写真のコントラストというよりも、黒と白のシャープなコントラストをもった写真のような、そんな感じの再生音を出してくるんです。
     *
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と《黒と白のシャープなコントラスト》、
瀬川先生の評価と岡先生の評価、
それぞれをどう受けとめるか。

私は、というと、実のところ813は聴く機会がなかった。
ステレオサウンドの試聴室で聴いた813は813Bになっていた。
輸入元も河村電気研究所からオタリテックに変っていた。

メインとなるユニットもアルテックの604-8Gから、
PAS社製ウーファーとJBLの2425Hを組み合わせた同軸型に変っていた。

オリジナルの813の音は聴けなかった。
いまも、ぜひとも聴いてみたいスピーカーのひとつである。

おそらく私の耳には、《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と聴こえるだろう。
だからといって、《黒と白のシャープなコントラスト》と聴こえる人の耳を疑ったりはしない。

ここに音の色の、人によっての感じ方の違いがあるからだ。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 十牛図

十牛図(その3)

オーディオマニアである以上、十牛図の牛を「音」として、
それが無理なことであっても、そうとらえてみる。

「音」であるとすれば、
その音は、それまでの人生で得たものによる「音」なのか、
失ってきたものによる「音」なのか、
得たものと失ってきたものとが均衡している「音」なのか。

どれがしあわせなことなのか、どれがいい音なのかはわからない。
ふりかえり、自分の音が、どの「音」なのかがわかる日はくればいい、と思う。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その1)

ずっと以前は、ハイエンドという言葉の使われ方は違っていた。

ハイエンドまで素直に伸びた音といった使われ方だった。
つまり高域の上限という意味だった。
だからローエンドも使われていた。

いまハイエンドといえば、そういう意味ではなく、
非常に高額な、という意味である。
辞書にも、同種の製品の中で最高の品質や価格のもの、とある。
大辞林には例として「ハイエンドのオーディオ製品」とあるくらいだ。

英語のhigh-endをひくと、高級な、高級顧客向けの〈商品·商店〉とあるから、
いまの使われ方が正しいわけだが、
私は、このハイエンドオーディオという表現がイヤである。

このハイエンドオーディオを頻繁に使う人も嫌いになってしまうほど、
ハイエンドオーディオの使われ方には、この時代のいやらしさを感じとれるからなのだろうか。

ハイエンドオーディオとは、いったいどのくらい高級(高額)であれば、そう呼べるのか。
まだハイエンドが高域の上限として使われていたころは、
スピーカーならば一本100万円をこえるモノであれば、誰もがハイエンドオーディオだと認めていた。

いまは一本100万円の価格が付けられたスピーカーシステムを、
どのくらいの人がハイエンドと認めるのだろうか。

100万円のスピーカーはミドルレンジだよ、という人も少なくないと思う。
そう言う人たちがもっと高価なスピーカーを使っていなくとも、
いまの、一部のオーディオ機器の価格は高くなりすぎている、とはっきりといえる。

以前(ステレオサウンド 56号)で、
トーレンスのリファレンスの記事の最後に、瀬川先生はこう書かれていた。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
考え込むか、唸るか、へらへらと笑うか……。
おそろしいことになったものだ、というしかない。

こんなふうに書いていくと、ハイエンドオーディオそのものを否定するのか、と受けとめられるかもしれない。
けれど、ここで書いていこうと考えているのは、そんなことではない。

おそろしいことになっているオーディオ機器の価格の上昇、
そのことによって失われていったものがあると考えているし、
その失われていったものは、オーディオ雑誌からも見出せなくなっているし、
オーディオ評論家からも感じられなっている──、
そんなふうにおもえてくる。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その10)

つきあいの長い音は、同時に聴き手の感覚を調整していく音でもある。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その9)

つきあいの長い音には、聴き手の感覚に合せることのできる柔軟性がある。

Date: 6月 21st, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その1)

オーディオの世界で原音といえば、
その定義は生の音、もしくはマイクロフォンがとらえた音、マスターテープに記録された音、
さらにはアナログディスクやCDとなって聴き手に提供されるメディアにおさめられた音、
こんなふうになる。

色の世界で原色といえば、辞書には三つの意味が書かれている。
①混合することによって最も広い範囲の色をつくり出せるように選んだ基本的な色。絵の具では赤紫(マゼンダ)・青緑(シアン)・黄,光では赤・緑・青。
②色合いのはっきりした強い色。まじり気のない色。刺激的な,派手な色。
③絵画や写真の複製で,もとの色。

つまりオーディオの世界での原音は、三番目の意味の原色にあたる。
ならば一番目、二番目の意味の原音はあるのだろうか。
あるとしたら、それはどういう音なのだろうか。

例えばUREIの813というモニタースピーカーがある。
ステレオサウンド 46号で、その存在を知った。

UREI 813のスタイルは、少なくとも私には初めて見るスタイルであった。
ウーファーが上に、中高域のユニットが下にあるのはJBLの4311もそうなのだが、
UREI 813は迫力が違った。

音はどうだったのか。
瀬川先生は46号の試聴記の冒頭に、《永いこと忘れかけていた音、実にユニークな音》と書かれている。
そしてこうも書かれている。
     *
たとえばブラームスのP協のスケールの雄大な独特な人工的な響き。アメリカのスピーカーでしか鳴らすことのできない豪華で華麗な音の饗宴。そしてラヴェル。「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」とでも言いたい、まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ。だがそれを不自然と言いきってしまうには、たとえばバッハのV協のフランチェスカッティのヴァイオリンで、自分でヴァイオリンを弾くときのようなあの耳もとで鳴る胴鳴りの生々しさ。このスピーカーにはそうしたリアルな部分がある。アルゲリチのピアノのタッチなど、箱の共鳴音が皆無とはいえず、ユニット自体も中域がかなり張り出していながらも、しかしグランドピアノの打鍵音のビインと伸びきる響きの生々しさに、一種の快感をさえおぼえて思わず口もとがほころんだりする。だが何といっても、クラシックのオーケストラや室内楽を、ことに弦の繊細な美しさを、しみじみ聴こうという気持にはとうていなれない。何しろ音がいかにも楽天的で享楽的であっけらかんとしている。スペンドールの枯淡の境地とはまるで正反対だ。
     *
《「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」》、
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》、
こういう音は、二番目の意味の原色的原音といえるのではないのか。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: audio wednesday

第54回audio sharing例会のお知らせ(日本のオーディオと平面振動板スピーカー)

7月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

テーマを何にしようかと迷っていた。
いくつか候補はあった。
その中で選んだのは、1970年代の終りごろから流行となっていった平面振動板スピーカーである。

いまモニタースピーカーについて書いている中で、エスプリ(ソニー)のAPM6を取り上げている。
いま改めてAPM6を見直していると、当時は気づかなかったことがいくつも出てくる。
当然といえば当然である。

APM6が登場したころ、私は18だった。いまは52。
あのころと同じ見方しかできなかったら、バカである。

平面振動板が流行りだしたころ、
日本のメーカーはすぐに流行に飛びつく、といった批判があった。
たしかにいくつものメーカーが平面振動板スピーカーを出してきた。

だが改めて、これらの平面振動板スピーカーを見直すと、
むしろ通常のコーン型、ドーム型を使ったスピーカーよりも、
ずっとメーカーならではの特色が出ている、といえる。

コーン型ユニットならば、
振動板の材質や頂角、カーヴドコーンかストレートコーンか、エッジの種類はなにか、
そういった細かな違いはある。

それでもコーン型ユニットの基本的構造はどのメーカーも同じである。
けれど平面振動板のスピーカーは違っていた。
表から見ているだけでは、どれも平面振動板であっても、
ユニットの裏側を見れば、コーン型ユニットよりも、構造の違いがはっきりとしている。

残念なことに日本のオーディオメーカーは平面振動板をやめてしまったといえる。
もしあと10年続いていたら……、といまごろおもっている。
遅すぎるのはわかっていても、
それでもあの時代の平面振動板スピーカーと日本のオーディオについては、
きちんと捉えなおし考え直す必要がある。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その5)

オーディオは音楽を聴く道具である──、
このことについてもきっちりと書いていこうと考えているが、
ここでは一応、オーディオは道具である、ということにしておく。

録音された音楽を聴くには、なんらかの再生装置(オーディオ)が最少限必要であり、
そこでのオーディオは道具ということになる。

道具を辞書でひくと、いくつかの意味があり、
ここでの道具とは、他の目的のための手段・方法として利用される物や人、ということになる。

別項「background…」でも書いているが、
音楽も場合によっては、道具となってしまう。

たとえばヒーリングミュージック。
音楽(ミュージック)の前に、何かをつけてしまうことで、
音楽は音楽そのものではなくなってしまうおそれが生じてくる。

モーツァルトの音楽が、バックグラウンドミュージックとして使われる。
ヒーリングミュージックとして使われる。

ここでのモーツァルトの音楽は、道具としての音楽となってしまう。

10年くらい前からか、もっと前からだったか、
日本酒の製造過程でモーツァルトの音楽を流していると、より美味しくなるとか、
牛にモーツァルトの音楽を聴かせると、肉が美味しくなるとか、
そういったことが騒がれたことがある。

ここでのモーツァルトの音楽もまた、道具としての音楽になっている。

モーツァルトの音楽が、ヒーリングミュージック、バックグラウンドミュージック、
何かを美味しくするために使われる場合には、
実演のモーツァルトが鳴らされることはまずない。
ほぼすべて何らかの再生装置になって、モーツァルトの音楽が流され、
バックグラウンドミュージックとして使われたり、ヒーリングミュージックとして使われたりする。

となると、この場合の再生装置、つまりオーディオは、
モーツァルトの音楽を道具としての音楽にするための道具ということになってしまう。