Archive for category テーマ

Date: 7月 27th, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その38)

黄金の組合せということでは、この文章も忘れられない。
     *
 ……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
 だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
     *
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」からの引用だ。

エリカ・ケートのモーツァルトの歌曲、
マッキントッシュのC22とMC275、アルテックの604E。

時代をふくめて、黄金の組合せが奏でた音。

Date: 7月 27th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その6)

「オーディオの殿堂」で、
オーディオテクニカの製品は、AT-ART1000のみがノミネートされている。
殿堂入りはしていない。

AT-ART1000の殿堂入りしていないことについては、何も書かない。
意欲的な製品だとは捉えているが、音を聴いていないので。
それよりも、なぜオーディオテクニカのVM型カートリッジが殿堂入りしていないのか、
ノミネートすらされていない。

VM型カートリッジは、オーディオテクニカの特許である。
オーディオテクニカの最初の製品は、MM型カートリッジのAT1、その上級機のAT3、
どちらも1962年に登場している。

その後、オーディオテクニカはトーンアーム、MC型カートリッジなどを出してきて、
1967年にVM型のAT35Xを誕生させている。

MM型に関しては、よく知られるようにエラックとシュアーが特許を取得していた。
世界各国で、両社は特許を取れたにもかかわらず、
日本では無理だったのには理由がある。

瀬川先生から、どうしてだったのかを聞いている。
ちょっとここでは書けないことがあっての、日本での特許不成立である。
このときばかりは、日本のオーディオメーカーが一致団結した、といわれていた。

なので日本では各社がMM型カートリッジを製造販売できたが、
それはあくまでも日本国内に限られる。
MM型カートリッジを海外に輸出しようとすれば、特許料を支払うことになる。

オーディオテクニカは、海外に打って出るためにもVM型を開発した、と聞いている。
VM型ならば、この方式自身が特許を取れたわけだから、
MM型の特許に関係なく海外でも販売ができる。

Date: 7月 26th, 2022
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(iPhoneとミニマルなシステム・その4)

HiByのFC3やLotooのPAW S1のような小型D/Aコンバーターを、
なんというのか。
スティック型DACなのか、ポータブルDACなのか。

オーディオと関係のない海外のニュースサイトを見ていたら、
Tiny USB DACという表記があった。

tinyは小さな、という意味だから、文字通りの名称である。
タイニーUSB DACとカタカナまじりにすると、なんだかしまらない感じなので、
Tiny USB DACと表記する。

Tiny USB DACは、実にたくさんの機種がある。
日本に入ってきていない機種も少なくない。
安価なものは一万円を切る。
それでいてMQAにレンダラーとして対応している機種もあったりする。

MQA対応を謳ったTiny USB DACは増えてきているが、
フルデコードではなく、レンダラーとしての対応が大半なので、
その点は注意して、その製品の仕様を読んでほしい。

FC3ではコアデコード対応のアプリとの組合せが、MQA再生では求められるが、
PAW S1はフルデコード対応なので、アプリの選択肢が増える。

オンキヨーのHF Playerはコアデコード未対応なので、
FC3との組合せではMQA再生はできないが、
PAW S1とでは問題なくMQA再生が可能。

ただしHF PlayerではTIDALが聴けない。
TIDALが聴けるiPhone用のアプリとなると、mconnect Playerがある。

mconnect Playerはコアデコード未対応なので、これまで使ってこなかったが、
PAW S1があるので、まずは無料のmconnect Player Liteを使ってみた。
TIDALに問題なく接続できるし、PAW S1でMQA再生ができる。

mconnect Player Liteのままで機能的に不満はなかったけれど、
広告が表示されるので、有料版(730円)のmconnect Playerにした。

mconnect Playerを使ってみて、
これまで使ってきたAmarra PlayのMQA対応のしかたに不満がはっきりとしてきた。

Date: 7月 26th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、グレン・グールドのこと(その6)

TIDALでMQAで、グレン・グールドを聴いていると、
以前書いていることなのだが、ハミング(鼻唄)が自然な感じで聴こえてくる。

ずいぶんと聴いてすみずみまで知っているつもりだったのに、
MQAで聴いて、ここでのハミングはこんな感じだったのか、と気づくことがある。

一ヵ月ほど前、モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330を聴いていた。
第十一番 K.331はすでにMQAで何度も聴いてたけれど、
K.330をMQAで聴いたのは、一ヵ月前が初めてだった。

グールドのK.330は、とにかく速い。
グールドのK.331は、評価が高いけれど、K.330はそれほどではない。

ひさしぶりにグールドのK.330を聴いて、こんなにも速かったっけ? と感じたほど。
でも聴いているうちに、ほんとうに速いのだろうか、と思うようになってきたのは、
グールドの鼻唄が、じつにゆったりした感じで聴こえてくる。

以前聴いた時には、そのことに気づいていなかった。
演奏が速ければ鼻唄も速い、とつい思いがちになるのだが、そうではない。
意外だっただけでなく、
グールドにとってのテンポとはなんなのだろうか、とも思っている。

Date: 7月 25th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その5)

SMEのSeries Vも、殿堂入りしている。
当然の結果だと思っている。

1985年に登場したSeries Vは、トーンアームとして飛び抜けて高価だった。
その後、Series Vよりも高価なトーンアームがいくつも登場している。
Series Vも値上げしているが、それでもいちばん高価なトーンアームではなくなっている。

それでも私は、Series Vが最高の音を聴かせてくれるトーンアームだと、いまでも思っている。
もっともSeries Vよりも高価なトーンアームのすべてを聴いているわけではないが、
部分的にはSeries Vを上廻る良さを持っている製品もあるだろうが、
トータルとしてのパフォーマンスはいまでもSeries Vが一番のはずだ。

そのSeries Vは、黛 健司氏が担当されている。
     *
 この製品にいちばん興奮したのは長島達夫先生で、1985年発行の74号に記事を執筆されたが、取材に際して、日本に1本しか入荷していなかったシリーズVをバラバラに分解してしまい、編集担当のわたしを慌てさせた。
     *
Series Vの試聴には私も立ち会っている。
長島先生の昂奮ぶりは、いまもはっきりとおもい出せるのだが、
この時からおもっていることがひとつある。

Series Vの前に、SMEからは管球式フォノイコライザーアンプSPA1HLが登場していた。
SPA1HLは、最初オルトフォン・ブランドでのプリプロモデルがあった。

SMEのSPA1HLは長島先生といっしょに聴いた。
SPA1HLについて長島先生の詳しいこと詳しいこと。

思わず「長島先生が設計されたのですか」と口にしそうになるくらいだった。
そうなんだということはすぐにわかった。
パーツ選びの大変さも聞いている。

それに長島先生自身、SMEのアンプは、マランツのModel 7への恩返し、といわれていた。
そういうことがあったから、Series Vも長島先生の設計なのかもしれない──、
ずっとそうおもっている。

完全な設計ではないにしても、
そうとうに長島先生のアイディアが取り入れられている──、
これはもう確信といってもいいくらいに、そうおもっている。

そうでなければ、最初に日本に入ってきた一本なのに、
あそこまで詳しいわけがない。
それに手馴れた感じで分解されてもいた。

SPA1HLのときと同じだと感じていた。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(コメントを読んで)

その7)へのコメントが、facebookであった。
オーディオ評論家がメインでデモをやるオーディオにイベントによく行くけれど、
この人は本当にやる気を出しての選曲なのか、と思うことがある、とあった。

続けて、そのオーディオ評論家による音量設定も、
《やる気のなさそうな音量》とも書いてあった。

《やる気のなさそうな音量》。
まさにそんな感じの音量設定は、オーディオショウでもけっこう多い。
なぜ、こんな低い音量設定なの? と感じることが多いだけでなく、
増えてきているようにも感じている。

音量設定は難しい。
それに加えてオーディオショウの空間の広さ、
入場者の数、最前列と最後列との距離など、難しさがあるのはわかる。

それでも大きな音量だとバカにされるとでも思っているのだろうか。
控えめな音量だと、音楽を理解していると思われるとでも思っているのか。

音楽によって音量を変えることもあまりしないところ(人)がけっこういる。
そういうブースの音は、まさに《やる気のなさそうな音量》がぴったりくる。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その4)

ステレオサウンド 223号「オーディオの殿堂」で、
黛 健司氏がLNP2Lのところで、こんなことを書かれている。
     *
 数年前、ひょんなことから、井上卓也先生がLNP2をお持ちだったことを知った(井上先生のことだから、ひと声聴いただけで「コレクション」になっていたのかもしれない。マランツ・モデル7がお好きで何台も所有されていたが、LNP2も手に入れられていたとは意外だった。
     *
井上先生はLNP2も数台お持ちだった。
LNP2だけでなくJC2も所有されていた。
記憶違いでなければ、LNP2はマークレビンソン製モジュールだけでなく、
バウエン製モジュールのLNP2も、である。

試聴のあいまで雑談で、ぽろっと話されることがけっこうあった。

井上先生はジェンセンのG610Bに関しても、
別項「ワイドレンジ考(その38)」で書いているとおりである。

その他にも、いくつか知っているけれど、
とにかく、意外なモノも持っておられた。

井上先生が所有されていたオーディオ機器の全貌を知っている人は、おそらくいないだろう。
私が知っているのも、全体の何割かなのかすらわからない。

けれど、この項を書いていると、
223号で殿堂入りしているモノよりも、
井上先生が所有されていたオーディオ機器のほうが、
私にとっては「殿堂入り」にふさわしいモノのように感じられる。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(とビートサウンド・その2)

「岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門」、
どんな仕上がりになっているのか、
面白ければ買おうかな、と思いながら書店に手にしたけれど、結局は買わなかった。

この記事が面白ければ──、と思っていた「ココがヘンだよ!? オーディオ評論」。
音楽之友社のウェブサイトでは、このタイトルだったけれど、
実際の誌面ではタイトルが変更になっていた。

岩田由記夫氏と土方久明氏の対談なのだが、
朝沼予史宏氏の名前が出ていた。

ただし朝沼予史宏氏ではなく、浅沼予史宏氏だった。
何度か出てくるけれど、すべて浅沼予史宏氏だった。

なんなんだろうなぁ……、とおもうしかなかった。

Date: 7月 23rd, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その7)

オーディオメーカーに以前在籍されていた人からきいた話がある。
その人によると、ステレオサウンドが創刊されて十年目のことだった(そうだ)。

五味先生の「オーディオ巡礼」のメーカー篇、番外編というべき企画があった、とのこと。
五味先生がオーディオメーカーの試聴室を訪問する、というものだ。

私に話をしてくれた人によると、一刀両断だったそうだ。
ばっさりと切られた、と。

その人の話によると、
そのメーカーだけではなく、他のメーカーも同様だったらしい。
つまり、どこもひどい音──。
結局、創刊十周年企画は流れてしまった……。

ステレオサウンド創刊十年だから、1976年ごろの話である。

そのころの、そのメーカーの製品の音は聴いている。
良かった製品も少なくなかったし、
オーディオ雑誌での評価は高いものだった。

矛盾しているのではないか、と思う人がいるかもしれないが、
試聴室でいい音を出すことと、細かな音の違いを聴き分けることは、
必ずしも同じではない、ということだ。

このことを一緒くたにして捉えてしまう人が少なくないことを、
ソーシャルメディアを眺めていて実感したばかりである。

その6)で書いたことをここでくり返しはしないが、
メーカーの技術者が、たとえばスピーカーの開発者が、
その人が開発したスピーカーをもっともうまく鳴らせる人ではない、ということ。

(その6)でカメラ、車の例を出した。
なぜ、オーディオだけごっちゃにして捉えてしまう人が少なくないのだろうか。

Date: 7月 23rd, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その35)

どれほど音がリアルであったとしても、
細部の音にいたるまでリアルであったとしても、
それだけで、マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と感じられるわけではない。

リアリティがあってこそ、
マリア・カラスの自画像と感じられるし、
マリア・カラスの自画像と感じられる音こそが、リアリティのある音だ。

Date: 7月 22nd, 2022
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その14)

一週間後の7月29日に、「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」が公開になる。
1993年公開の「ジュラシック・パーク」を観た時の驚きは、いまも憶えている。

その後、1997年に「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」、
2001年に「ジュラシック・パークIII」、
2015年に「ジュラシック・ワールド」、
2018年に「ジュラシック・ワールド/炎の王国」と続いた。

「ジュラシック・パークIII」を映画館で観た時に、
もう続編を映画館で観ることはないだろうなぁ、と思ったにもかかわらず、
ジュラシック・ワールドとタイトルが変ってからも、映画館で観ている。

「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」も映画館で観るつもりだが、
一作目の「ジュラシック・パーク」で感じた驚きは、もうないだろう。

「ジュラシック・パーク」と「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」。
三十年ほどの開きがあるわけだから、その分CGの技術は進歩している。
けれど、どちらが映画としてのリアリティがあったか、高かったのか、といえば、
まだ観ていない「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」だが、
たぶん「ジュラシック・パーク」を超えることはできないだろう。

CGで描かれる恐竜のリアルさは、
「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」が上のはずだ。
そうでなければおかしい。

けれど、「ジュラシック・パーク」で恐竜が近付いてくることを、
グラスの中の水に波紋ができることで表現したシーンを思い出してほしい。

こういうところにスピルバーグ監督の非凡さがある。
ここに「ジュラシック・パーク」のリアリティがある。

Date: 7月 21st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その9)

ケント・ナガノとモントリオール交響楽団によるベートーヴェン。
交響曲とピアノ協奏曲(ピアニストは児玉麻里)がある。

ピアノ協奏曲の一番と二番は、ここでくり返し書いているように、
ほんとうに素晴らしい演奏である。
しかも録音も素晴らしい。

菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」いわれていた。
けれど残念なことに、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」というレベルで鳴っている音に、
いまだ聴けずにいる。

菅野先生の音だけがそうだった。

その8)で触れたように、
ケント・ナガノのベートーヴェンの交響曲には、
児玉麻里とのピアノ協奏曲で聴けた何かが欠けている気がする。

今年初めだったか、
内田光子がベートーヴェンの音楽について語っている動画を見た。

そこで内田光子は、ベートーヴェンの音楽は苦闘だと語っていた。
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘である、と。

だからベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りは難しい。
自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないからだ、と。

指揮者が、オーケストラとピアニストの両者を対立させる必要があるのが、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲であり、
その点、モーツァルトの場合は、対話が重要になる。

たしかに、こんなふうに語っていたはずなのだが、
男の子が「ねえ、ちょっと」と言い、それに対して女の子が「嫌よ」という感じで応える。

だからピアノ協奏曲の弾き振りはできる。

そんな趣旨のことを語っていた。

ケント・ナガノと児玉麻里は、ご存知のように夫婦である。
その二人だからこその、信頼が基盤にあっての対立が、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲にあるのだろう。

Date: 7月 21st, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その24)

ラジカセで聴きたいなんて、まったく思わない──、
そういうオーディオマニアもいるだろう。

それはそれでいい。
他人の私があれこれいうことではない。
それでも、古くからのステレオサウンドの読者ならば、
47号掲載の黒田先生の「ぼくのベストバイ これまでとはひとあじちがう濃密なきき方ができる」を、
もう一度読みなおしてほしい。

黒田先生は、ここでテクニクスのコンサイス・コンポについて書かれている。
キャスターのついた白い台に、コンサイス・コンポだけでなく、
B&Oのアナログプレーヤー、ビクターの小型スピーカー、S-M3をのせてのシステム。

これでレコードをあれこれきいた五時間について書かれていたのを、
当時、高校生の私は読みながら、いいなぁ、こういうシステム、
大人になったら実現したいなぁ、と思っていた。
     *
 いかなる再生装置できく場合でも、誰もが、そのとききくレコードできける音楽の性格にあわせて、音量を調整する。もしブロックフレーテの音楽を、マーラーのシンフォニーをきくような音量できくような人がいたとすれば、その人の音楽的センスは疑われてもやむをえないだろう。音楽が求める音量がかならずある。それを無視して音楽をきくのはむずかしい。
 ただ、多くの場合、リスニング・ポジションは、一定だ。ということは、スピーカーからききてまでの距離は、常にかわらないということだ。ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。すくなくともぼくは、かえないできいている。それはそれでいい。
 ところが、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、そのときかけるレコードによって、耳からスピーカーまでの距離をさまざまにかえた。もっとも、それは、かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたらそれぞれのレコードによって、台を、手前にひきつけたり、むこうにおしやったりしてきいていたのがわかった。むろん、そういうきき方は、普段のきき方と、少なからずちがっている。そのちがいを、言葉にするとすれば、スライドを、スクリーンにうつしてみるのと、ビューアーでみるのとのちがいといえるかもしれない。
 それが可能だったことを、ここで重く考えたいと思う。若い世代の方はご存じないことかもしれぬが、ぼくは、子供のころ、ラジオに耳をこすりつけるようにして、きいた経験がある。そんなに近づかないとしても、ともかくラジオで可能な音量にはおのずと限度があったから、たとえば今のように、スピーカーからかなりはなれたところできくというようなことは、当時はしなかった。いや、したくとも、できなかった。そこで、せいいっぱい耳をそばだてて、その上に、耳を、ラジオの、ごく小さなスピーカーに近づけて、きいた。
 当然、中波だったし、ラジオの性能とてしれたものだったから、いかに耳をすまそうと、ろくでもない音しかきけなかった。にもかかわらず、そこには、というのはラジオとききての間にはということだが、いとも緊密な関係があった──と、思う。そのためにきき方がぎごちなくなるというマイナス面もなきにしもあらずだったが、あの緊密な関係は、それなりに今もあるとしても、性格的に変質したといえなくもない。リスニング・ポジションを一定にして、音量をかえながら、レコードをきく──というのが、今の、一般的なきき方だとすれば、あのラジオのきき方は、もう少しちがっていた。
 そういう、昔のラジオをきいていたときの、ラジオとききてとの間にあった緊密な関係を、キャスターのついた白い台の上にのった再生装置一式のきかせる音は、思いださせた。それは、気持の上で、レコードをきいているというより、本を読んでいるときのものに近かった。
     *
《ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。》
確かにそうである。

しかもきちんとしたオーディオで聴く場合には、
そのオーディオが置かれている部屋(リスニングルーム)に行く必要もともなう。

ラジオ、ラジカセはそうではない。
簡単に持ち運びできるモノだ。

47号の黒田先生の文章を読んで、そのことに気づかされたし、
いまこうやってラジカセについて書いていると、やはり、そのことがすぐに浮んでくる。

Date: 7月 20th, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その23)

友人のAさんから、ソニーのラジカセ(一万円を切る価格)を買った、という連絡があった。
朝とか深夜、オーディオのシステムの電源を入れるのも億劫と感じるときに、
ラジカセがあると満足だ、ということだった。

Aさんもオーディオマニアだから、ラジカセの音をいいとは思ってはいないけれど、
十分満足している、というのはよくわかる。

私も同じような感じだからだ。
ラジカセはいまは持っていないけれど、
昨晩書いた「シンプルであるために(iPhoneとミニマルなシステム・その3)」、
そこでのiPhone+PAW S1、それにヘッドフォンのシステムは、
私にとってラジカセといえるものだ。

カセットテープこそ聴けないが、
iPhoneにインターネット・ラジオのアプリをインストールすればラジオが聴けるし、
TIDALやその他のストリーミングを使えば、好きな時間に好きな音楽を聴ける。
もちろんCDをリッピングしてiPhoneにコピーしておくことで、CDも聴ける。
しかもMQAで聴ける。

とにかくなにがいちばんいいかというと、電源を入れるというか、
iPhoneをスリープを解除するだけで、すぐに聴きたい音楽を聴ける。

本格的なオーディオのシステムでも、電源を入れれば、音はすぐに出てくる。
けれどそれだけで本領発揮とはいえない。
電源を入れ、音楽を鳴らしているウォームアップの時間をある程度要してからが、
そのシステムの音といえる。

その過程における音の変化を確かめるのもオーディオマニアだから、
関心もあるし、そういうものだと割り切っている面もある。
とはいえ、そういうことにまったくわずらわされることなく、
すっと音楽を聴きたい時がある。

そのための、なんらかのシステムが常にあってほしい。

Date: 7月 19th, 2022
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(iPhoneとミニマルなシステム・その3)

その2)は、一年ちょっと前。
(その2)の時点では、iPhone 12 Pro、HiByのFC3にヘッドフォンという構成だった。

特別な音がするわけではないが、これはこれで満足していた。
Amarra PlayというアプリでTIDALで、あれこれ聴いていく、
それも夜遅くなって聴いていくには十分事足りていた。

けれど別項で触れているようにAmarra Playのヴァージョンアップにともない、
きちんとしたMQA再生ができなくなってしまった。

FC3はMQAのレンダラーだから、iPhone側でコアデコードをする必要がある。
Amarra Playがそれを担っていたのだが、
ヴァージョンアップによって、よけいな信号処理をやっているようで、
FC3がレンダラーとして機能しなくなった。

送り出し側で信号処理がされると、MQAはMQAとして再生できなくなる。
素直にコアデコード処理だけを行ってくれればいいのに、アップサンプリングを行っている。
そのためレンダラーがレンダラーとして機能しなくなる。

TIDALのアプリもコアデコードが可能なのだが、
残念なことに日本でのサービスがまだ始まっていないため、
TIDALのアプリは日本からはダウンロードできない。

なので昨秋、ChordのMojoを手に入れた。
MQAのフルデコード再生を、iPhoneでポータブルな機器を使って無理であれば、
コアデコードだけでもいいや、と割り切ろう──、
そう思っての購入だった。

iPhone+Mojoも良かったのだが、
やっぱりiPhoneとポータブル型D/Aコンバーターによるミニマルなシステムで、
MQAフルデコードの音を聴けるようにしておきたい。

HiByのFC3と同タイプのD/Aコンバーターでも、フルデコード可能な製品はある。
LotooのPAW S1である。いまはPAW S2になっている。
最近ではiFi Audioからも登場している。

それらのどれかを購入しようかと考えてはじめていたところに、
ヤフオク!にPAW S1が、「お探しの商品からのおすすめ」として表示された。
検索していたわけではないのに、不思議とタイミングよく表示してくれる。

ならばコレ(PAW S1)にしようと決めた。